ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第57号、小さいことはいいことだ

2006年01月31日 | 教育関係
教育の広場、第57号、小さいことはいいことだ

(2001年10月05日発行)

 国立大学を独立行政法人にする制度を検討している調査検討会議
が(2001年)09月27日、中間報告を提出したそうです。

 これを機に、国立大学だけでなく大学のあり方一般を考える際に
見落とされている一つの観点を提起したいと思います。

 それは大学の適正規模という観点です。私の考えを言いますと、
大学の大きさに上限を設けるべきだ、ということです。分かりやす
く、学生数について言いますと、1学年の学生数の総数と大学全体
の在籍学生の総数の両方で、上限を設けるべきだと思うのです。

 というのは、大学について言うならば、余りにも少人数でも困る
のですが、今のマンモス大学のように大きい大学では本当の教育は
出来ないと思うからです。

 リクルートが1999年の末に「学生たちが今の大学教育をどう見て
いるか」の調査を実施したそうです。その結果を、昨年2000年の05
月29日付けの朝日新聞が簡単に報じています。その主要点は次の通
りです。

 1、インターネットなどの情報網は整ってきているが、日常の授
業はお粗末で、学生主体の授業や最先端の研究に触れる授業は少な
い。

 2、外国語教育も一部の語学系の単科大学を除いて総じて評価は
低い。

 3、国公立大学より私立大学の方が自校の学生に高く評価されて
いる。その中でも私立女子大の少人数制授業、学習相談などのきめ
細かな態勢が学生から高く評価されている。

 4、国公立大学は留学生受け入れ、実験・実習講座、産学提携の
共同研究などで私立より評価されている。

 私の注目したのはこの第3点です。私自身の学生としての経験及
び教師としての経験からみても、やはり「小さいことはいいこと」
だと思います。

 ではなぜ大学はかくも大きくなってしまったのでしょうか。よく
は知りません。多分、経済的な理由でしょう。

 いつだったか、上智大学の学長が誰かとの対談で「大学の学長に
とって、大学を大きくしたいという欲望に打ち勝つのは大変な事だ
」と言っていたのを覚えています。

 上智大学は近年、とても評判がいいようですが、それには訳があ
ったのです。

 しかし、金儲けに大学を経営するならともかく、本当の研究と教
育のための大学ということを考えた場合、やはり適正規模というも
のがあるでしょうし、それでやっていけるはずです。やってけいけ
るように援助するのが、行政の仕事だと思います。

 昨今の大学の改革論議にぜひとも大学の適正規模という観点を取
り入れてほしいと思います。

教育、第58号、教養教育(高知大学の日本語技法の授業)

2006年01月30日 | 教育関係
     高知大学の日本語技法の授業

 高知大学では1年生全員に日本語技法という科目が必修として課されているそうです。この科目について国立S大学のM教授が関心を持ち、調査した結果をそのS大学の学内広報誌に書いています。

 私もとても興味をそそられましたので、そのM教授の報告の要旨をまとめてみました。

 高知大学では共通教育のあり方を見直す中で、知的生活を営む上で必要不可欠な知識と技能の涵養・習得を目的とする全学必修の「基軸教育科目」を導入したそうです。これは平成9年頃のことらしいです。

 それには大学学、日本語技法、情報処理1と2、大学英語入門、英会話、健康などが含まれているそうです。

 これを見ると、何となく慶応大学の湘南藤沢校舎のあり方を連想します。情報処理と英語の重視という点です。現下の日本の大学で共通教育を考えるとやはりこの2点は外せないのでしょう。

 それはともかく高知大学にはここに日本語技法というのが制度化されました。こういうものの必要性については高知大学の考えは紹介されていませんが、M教授自身の問題意識が3点にまとめられています。

 1、学生のリポートや卒業論文の作成指導をしていて、理科系においても日本語の運用能力(分かりやすく論理的な文章を書く、要点を簡潔かつ過不足なく話す、書かれた文章を正確に読む、相手の言い分を正確に聞き取る)が必要不可欠であるのに、学生たちの多くはその基本的な訓練がまったくなされていないのではないか。

 2、学生に聞いた話では、高校までの国語の授業では、日本語を知的活動あるいは意思・情報伝達の手段としてとらえ、それを生徒に身につけさせる訓練を施すという活動は皆無のようだ。

 3、大学でもそうした活動は教員個々の努力以外にはなかった。

 さて、多分高知大学でも同じ問題意識からこれを導入したのでしょうが、それの導入には、「学長の強いリーダーシップの下で各学部から若手教員を集めて検討会を組織した」そうです。

 私が以前から言っていますように、ここでもやはりトップのリーダーシップが一番大切だったのです。慶応大学の湘南藤沢校舎で新しい語学教育をまとめるために担当者を決めた時、塾長が「結果には私が責任を取るから自由にやってくれ」と全権を委任したそうです。この話は関口一郎氏がその著書『慶応大学湘南藤沢キャンパス、外国語教育への挑戦』(三修社)に書いています。

 高知大学での「学長の強いリーダーシップ」がどういうものだったか、具体的に書かれていないのは残念です。M教授の問題意識がこの点になかったのでしょう。

 この検討会は約3ヵ月で「素案」をまとめたそうですが、それは、毎回の会議の後(多分、座長を勤めていた)某教授が会議の「まとめ」と「提案」を作り次の会ではそれを基に具体的な議論をするようにしたこと、「各学部へ持ちかえって意見を聞く」方式をとらなかったこと、アイデアはそれだけで貢献とみなして「言い出しっぺが損をしない」方式をとったことなどが、その理由として報告されています。

 私のように大学の専任教員になったことのない者には分かりませんが、多くの会議は極めて非効率なのでしょう。そういう大学教員の習性を熟知したリーダーがその悪い習性の出てくるのを防いだのでしょう。

 しかし、これは本当に大切な事で、授業運営においても、学生は決して善意の固まりではないということを意識して、学生の中にある遅れた傾向が表に出てこないようにすることは教師の大切な仕事だと思います。宿題を出すことが一番大切ですが、そのほかにも例えば席を決めるとか、アンケートを記名にする、とかがそうです。私もかつては自由放任でしたが、自由放任は教師のさぼり行為だと思います。

 さて、その「素案」は全学で検討されて半年後には改革案がまとまったそうです。そして、実行に移されたわけです。その内容はほぼ次のようです。

 1、半年で15回の授業。1クラス10人前後のゼミ。そういうこともあって、お茶やコーヒーを片手に授業が進むのが多いそうで、お茶当番もあるようです。

 2、学生も教員も学部横断的ではなくて、各学部毎に行う。つまり所属の教員が担当する。専門課程で役立つことを意識しているからだそうです。そのために授業内容は多彩になったそうですが、専門のタコツボに陥る傾向が出ているそうです。

 3、M教授の参観した授業では次のようなものがあったそうです。

  power point を使っての魅力ある発表資料作り
  討論会(新聞記事からトピックスを取り上げる)
  ディベート
  書く技術に集中した授業。

 高知大学での日本語技法の授業を理解する上で大切な点は2つあるようです。

第1は、日本語の運用能力を「技術」として捕らえるということです。つまり、それを普遍的・組織的・再現可能なものとすることであり、文才に頼るのではなく、(練習によって)誰でもが一定水準の明確さ、正確さ、簡潔さを備えた文章が書けるようにするということです。

 第2は、単なる日本語能力ではなく、テーマの選択や展開の仕方といった「構想力」を伸ばし、着想や発想を豊かにすることに重点を置いているということです。

 では、このような目的を持った授業を実現するためにはどのような準備がなされているのでしょうか。

 第1に、学生には学生向けのテキストがあります。

 第2に、教員には、教員向けの資料が配られます。それは「15週をのりきる工夫」というのと、17の「シラバス集」だそうです。

 そして、これらを1回配って終わりにするのではなく、授業を相互に参観しあい、日頃から授業方法や教材の情報を交換し、担当者の会議やワークショップ(合宿?)を開いて授業経験の共有化を図っているそうです。

 これだけやれば成果は上がるでしょう。「授業は先生の実力と情熱で8割決まる」のですから、当然です。

 高知大学の教員はもちろん大変だったようですが、こういった準備と真面目な議論の中で「大学教育の意味を再考する」ことになったそうです。

 課題としては、高知大学自身では「教員の教育に関する業績評価が制度化されないないこと」を挙げているそうです。やはり努力の報いられる制度がないと、精神的なものだけでは続かないと思います。

 私が唯一「どうなっているのかな」と思った点は、教員全員がこれを担当しているのではないらしいということです。国立大学は教員が多いからそうなるのかもしれませんが、それならば、担当者をローテーションにして、全員が担当するようにしたらいいと思います。

 これを担当することで、担当教員自身の日本語運用能力が高まるはずだからです。そして、これが一番大切な点だからです。

(2001年10月20日発行)

教育の広場、第59号、教壇の意味

2006年01月29日 | 教育関係
教育の広場、第59号、教壇の意味

(2001年11月10日発行)

 教師は教室では教壇という少し高い所に立って授業をすることに
なっています。この事の意味を今回は考えてみたいと思います。

 まず、多くの教師は「立って」授業をするようですが、私はなる
べく「座って」するようにしています。「立って」授業をしなけれ
ばならない理由はどこにもないと思います。立っているととても疲
れます。そのために授業自身への集中力が少なくなります。これが
最も悪い点です。

 立っていると説教口調になりがちだと思います。座って生徒に話
しかけるように話すべきだと思います。教師のための椅子を置いて
いない教室があるようですが、これは改善してほしいと思います。

 教壇のない教室もあります。例えば20人とか、あるいはそれより
少ない人数で生徒がコの字型に座って授業をすることがあります。
この場合は教師も生徒と同じ位置(平面)に座っています。たしか
にこういう例外はありますが、授業の原型は教師が教壇に立つ形式
だと思います。

 又、階段教室では後ろの方の席の生徒は教師より高い所にいると
いう意見もあるようです。しかし、床からの距離ということを考え
ると、やはり教師は一段高い所にいるわけです。

 まあこういう例外や理屈はともかくとして、教師が教壇という少
し高い所にいて授業をするのを原型としてその意味を考えてみまし
ょう。

 すぐにも考えつくのは、そうすると「後ろの方の席の生徒がよく
見えるから」という理由です。実際、教壇にいますと生徒がよく見
えます。内職とか居眠りとか、うまくやれば教師に分からないと思
っている生徒もいるようですが、間違いです。そもそも生徒の様子
に無頓着な教師は別として、注意して生徒を見ながら授業をしてい
る教師にはたいていの事はわかります。

 しかし、やはりこれは教壇の本当の意味ではないと私は思います
。私の考えでは、教壇に立つということは、教師と生徒の立場は対
等ではなく上下なのだということを象徴しているのだと思います。
上下といっても人格的上下関係ではなくて、立場と権限の上下関係
です。つまり会社などの組織における上司と部下の関係と同じだと
思います。

 最近は特に小学校の先生などでは「私のことをお兄さん(お姉さ
ん)と思ってね」とか言う教師もいるそうですが、やはり教師は生
徒とは対等でないということをしっかりと確認する必要があると思
います。

 ではこの「上下関係」ということが何を意味するかというと、教
師と生徒とは議論をする関係ではない、ということだと思います。
ここで「議論」とは「真偽正邪を明らかにしようとして争うような
議論」のことです。

 なぜ教師と生徒とは議論をする関係ではないかというと、議論は
対等の立場でやらなければ真理のためにならないからです。教壇を
高くすることの意味はこういう事だと思います。

 戦後は民主教育とやらが唱えられました。そして、それが実に
「議論で正邪を決める」ことと理解されているようです。私は教師
と生徒を人格的な上下関係で捉えるような封建的な教育には反対
で、民主教育には賛成ですが、その「民主」ということを「教師と
生徒が議論で正邪を決める」という意味に理解するのは間違ってい
ると思います。

 そもそも議論で正邪は決まらないのです。議論で勝った方が正し
いとは限りません。正邪を判定するのは歴史だけです。ですから、
そもそも教師と生徒の間だけでなく、一般に議論で正邪を争うのは
無意味です。(ついでに言っておきますと、最近は母親も学歴の高
い方が多く、子供と口論して言い負かす人がいるようです。これも
間違っていると思います。)

 生徒が教師と異なる意見をもった場合どうしたらいいのでしょう
か。前にも少し書きましたが、これは2つに分けて考えるべきだと
思います。授業内容(学問の内容)に関する意見の相違と授業の形
式(授業運営)についての意見の相違の場合とです。

 前者は、それぞれの意見を十分に展開して互いの意見がどう違う
かを明らかにすることを目的として話し合えばいいと思います。そ
して、意見の違いの全貌が分かったらそれで止めるべきだと思いま
す。どちらかに決めるのは間違いです。決める必要がある場合は先
生の意見で続ければいいと思います。ただしその場合も「先生の意
見が正しいからではなく、それが先生の意見だから」ということを
明確にしておくべきです。

 授業のあり方についての意見の違いは、アンケートを取るなりし
て全員の意見を聞いた上で、先生がよく考えて決定するべきです。
それが指導者の権利であり義務だからです。これも先生の判断が正
しいからではありません。

 しかし世の中にはこういう事の分からない人が多くて困ります。
私もかつて生徒だったとき、間違った態度を採ったことが何回かあ
ります。これは今では反省しています。教師にも間違っている人は
多いです。思うに、ほとんどの教師の一番悪い点は、自分の教えて
いる事が8割は間違いだということを自覚せず、自分の教えている
事が真理だと思い込んでいるということです。

 教師の教える事は8割間違いだとはこういう事です。今学界なり
教育界なりで真理とされ従って教師が教えていることが50年後にそ
のまま真理として教えられているかと考えてみて下さい。あるいは
逆に、50年前に真理として教えられていた事で今そのまま真理とし
て教えられている事がどれだけあるでしょうか。たいていは一層高
く一層正しい真理の要素とされて改変されて包摂されています。完
全に間違いだったとして否定されていることもあります。

 これがヘーゲルの言う「アウフヘーベン」(止揚)であり、学問
の発展です。ですから、自分が習ってきた事や自分で発見した事も
そのうち止揚されるだろうと自覚しておくことが大切だと思いま
す。

 議論で正邪を決めようとする人はたいていろくでもない人です。
私のかつての指導教官もろくでもない人で、博士課程の入学試験の
面接で「この○○はどういう意味で使ってんの?!」と大声を出し
喧嘩を売りつけてきました。そして、私が答えているのに、「答え
られないのは当然で」などと決めつけました。この人は既に故人で
すが、ろくな業績もなく、既に忘れ去られたも同然となっていま
す。これが歴史の審判です。

教育の広場、第60号、Jリーグを応援します

2006年01月28日 | その他
教育の広場、第60号、Jリーグを応援します

(2001年11月25日発行)

 Jリーグは出来てから今年で9年くらいだと思います。ちょうど
私がS大学の講師になった年に始まったので、よく覚えています。

 最初の頃は本当にブームと言ってよい程でしたが、徐々に熱気も
薄れ、今では観客の数もかなり減ってきているようで、経営難の球
団もあるようです。

 しかしW杯の日韓共同開催も来年に迫り、トルシエ監督に率いら
れて日本代表チームも強くなり、サッカーへの理解も少しずつ本物
になってきているようです。

TOTOなどというサッカーくじも始まりましたが、これはいいこと
なのかよく分かりません。

 私は出身校の校技がサッカーだったこともあり、昔から好きでし
た。しかし、今こうしてJリーグを応援し、その発展に特別の関心
を持っているのは、これが日本社会を良い方向に変えていくのでは
ないかと思っているからです。

 それは第1にプロ野球以上に地域密着を指向していることです。
複数の特定の企業とスポンサー契約を結んではいるようですが、名
前からしてプロ野球のように企業名が表に出ておらず、地域の名と
愛称で呼ばれています。

 第2に、その地域の広がりがプロ野球ほどかたよっておらず、全
国に広がっていることです。私はこの点を評価します。東京と関西
に偏っているプロ野球と違って、Jリーグのチームは地方に散らば
っています。札幌にもJ1チームがありますし、今度はベガルタ仙
台がJ1昇格を果たしました。(J2は除くと)東北地方に始めて
のプロ球団が生まれたわけです。

 モンテディオ山形が最後の1戦でJ1昇格を逃しましたが、来年
もし山形がJ1に昇格すれば、日本海側にプロ球団が生まれるわけ
です。国土の均衡ある発展にとってとてもよい事だと思います。

 昨年はアルビレクス新潟がJ2でシーズン当初は首位を独走して
いたのに途中から後退して、日本海側のJ1チームという夢はお預
けとなりました。来年は新潟と山形がそろってJ1に昇格するとい
いと思います。

 実際、ドイツに行ってみて何がいいかというと、地方分権がいい
と思います。日本は東京1極集中がひどすぎると思います。ですか
らそれを是正する動きを応援したいと思います。

 第3にユース(高校に当たる)やジュニアユース(中学に当たる
)を擁することで、学校に任されてきた部活を地域が担う方向に向
かっていることです。今では学校の部活をしないで、Jリーグのユ
ースで部活をする高校生や中学生も出てきているようです。

 しかも第4に、その部活はサッカーだけでなく他のスポーツにつ
いてもしている所があるようです。アルビレクス新潟などはサッカ
ーだけでなく、バスケットボールのチームも持っているようです。
その他の所にもいろいろとあるのでしょう。こういう傾向が広がっ
てヨーロッパのクラブに近づいていってほしいと思います。学校は
勉強に専念するべきだと思います。

 今後の発展としては、やはり観客が増えて1試合平均2万人を越
えるようになってほしいと思います。そうすれば入場料で経費の相
当部分をまかなえるようになると思います。

 そのためにも観客席が3万人くらいのサッカー専用の球場を作っ
てほしいと思います。実際、陸上競技用のトラックで隔てられたの
とそうでないのとでは全然違います。

 又、市民が出場選手の働きを採点するような習慣も根づいてほし
いと思います。消費者としてはもっとも厳しいと言われる日本人も
こういう点ではまだまだ主権者意識が弱すぎます。公の生活につい
ては市民が成績を付けていいのです。

 日本の教育の低下の根本原因は大学教育の低下だと思いますが、
それを許している一因に「市民が大学教員の研究と教育活動につい
て成績を付けない」ということがあると思っています。

 もっとも世界的なスポーツであるサッカーを通して日本の姿を反
省し改革していきたいと思います。

 という訳で私はJリーグを応援しています。

教育の広場、第61号、政権交代こそ民主主義の基本

2006年01月26日 | サ行
 政権交代のあるのが民主政治の基本だと思います。それなのに、戦後実質的な政権交代のない国は、先進国の中では日本だけだと言れています。つまり日本は本当には民主主義国ではないのです。

 自民党政権で安定していたことが日本の経済発展を可能にしたのだという議論もあるようです。

 実際、多くの日本人はやはり自民党政権で、その不適当な所を野党の力で是正すればいいと思っているのではないでしょうか。

 しかし、なぜ政権交代が必要なのでしょうか。それは、同一政権が長く続くと、経済界や行政(役人)との腐れ縁が出来てしまって、政治が停滞するからだと思います。その腐れ縁を断ち切って新風を吹き込むには、同じ政権の下での改革では不可能で、政権を変えなければならないからだと思います。

 今の日本の政治を改革するには何が必要かと考えてみますと、いろいろな事があるでしょうが、行政改革は絶対に必要な事の1つだと思います。

 今年(2001年)の1月から省庁改編とかいって2つか3つの省庁を合わせて巨大な省庁にして数だけ少なくしたようです。しかし、これが本当の行政改革だと思っている人はいないでしょう。

 本当の行政改革とは、役人の数を半分くらいに減らして1人1人がしっかり働くようにし、不正をなくすことだと思います。

 日本の行政の腐敗とは公務員が「全体の奉仕者」(憲法第15条)になっていない点にあるのだと思います。

 そしてこの本当の行政改革をするには、政権を交代させるしかないのです。たしかに政権が交代したからといって、行政が完全によくなるわけではありません。しかし、同一の長期政権よりはきれいな掃除が出来ると思います。

 では今の日本に政権交代の可能性があるでしょうか。ないと思います。民主党は政権を取ると言っていますが、実現の可能性があると思っている人は少ないでしょう。

 どこに問題があるのでしょうか。政権担当能力を作っていこうという計画性が見られないことだと思います。

 私見では、野党は政府の政策の1つ1つに対して対案を出していかなければならないと思います。そのためには第1に、「影の内閣」を作り、影の大臣を作ることが必要だと思います。

 今の野党を見ると、民主党には「ネクスト・キャビネット」がありますが、1つ1つの問題で「ネクスト大臣」が実際の大臣に対抗するといった話は聞いたことがありません。党首討論があるだけです。

 第2に、政府の「審議会」に対しては、協力者を募って自分たちの審議会を作って対抗しなければならないと思います。この点は気づかれてもいないようです。教育改革国民会議に対して「教育改革市民会議」を作れと私が提案しても、何の返事もないくらいです。

 第3に、このようにして各部門のスペシャリストを養成して役人に対抗するくらいの行政知識を持たなければならないと思います。実際、日本の政治の多くの部分は事実上役人が担っているのです。役人は選挙で選ばれていません。これではおかしいと思います。細川内閣が自民党政権にとって代わっても、行政の能力が乏しかったので、やはり事実上の役人支配は変わらなかったと言われています。

 というわけで、私は野党が影の内閣を作り、影の大臣を作って、1つ1つの問題に対して政府に対抗していくことを希望します。

 その手始めに政府のメルマガに対抗して各野党はメルマガを発行するべきです。政府のタウンミーティングに対抗して、各地で国民と対話する車座集会(この言葉は田中長野県知事の特許かな?)を開くべきだと思います。

(2001年12月05日発行)

     追伸

 台湾と韓国は日本より遅れて民主化しましたが、その後日本より先に「本格的な政権交代」を経験しました。その意味で、日本は台湾と韓国より遅れてしまったわけです。

 2009年08月の今、遂に、ようやく、日本でも政権交代が実現しそうな情勢です。
日本の民主主義もようやく独り立ちできそうです。

 この次は一人一人の国民の政治的自立力を強めることが課題となるでしょう。そのためには、一人一人が政治について学んだこと、考えたことを、このようにブログにまとめていくことでしょう。

 日々の努力だけが人間を成長させるのです。(2009年08月24日)

教育の広場、第62号、9月11日以降の世界

2006年01月25日 | 政治関係
教育の広場、第62号、9月11日以降の世界

(2001年122月20日発行)

 政治についての発言が2回つづくことになりますが、今年の最後
に当たってやはり(2001年)09月11日のいわゆる「同時多発テロ」
とそれ以降の事について一言しなければならないでしょう。

 9月11日を境にして世界が変わったことは事実でしょうが、根本
的に変わったとは思えません。それまでに進行していた流れが表に
出たという方が正しいのではないでしょうか。

 その後のスクラップを見てみます。もちろん関連記事をすべて集
めたわけではありません。そのような事は不可能です。私に賛成で
きること、あるいはなるほどと学んだことが集まっています。それ
を整理してみようと思います。

 第1の観点は私の持論ですが、「組織はトップで8割決まる」と
いうことです。これを世界の人類という組織(極めて緩い組織です
が)にあてはめて考えますと、世界のトップはアメリカであり、ア
メリカの大統領ですから、今日の事態の責任の8割はアメリカとそ
の大統領にあるということになります。

 実際、多くの人が、テロは絶対に悪いがその原因についてはアメ
リカに大きな責任がある、という趣旨の発言をしています。特に、
ブッシュ大統領になってからの自国主義には批判が強いようです。

又、今回のテロの根本原因の1つと考えられる中東問題について
、アメリカがイスラエルをひいきし、ダブルスタンダードを採って
いることには識者が批判しています。

 中東問題の「発端は第1次世界大戦の際、英国がアラブ人に国家
建設を約束する一方、イスラエルの建国を認めた二枚舌外交」(12
月17日付け朝日新聞の塩野七生氏)ですが、第2次大戦後のことと
しては、1967年以来、国連の決議に反してイスラエルがヨルダン川
西岸の占領を続けていることです。

 アメリカはイスラエルにこの決議の実行を迫るべきなのにそれを
しないどころか、この20年間一貫して、全軍事・経済援助の3割を
人口わずか 600万のイスラエルに向けてきた(『中央公論』11月号
の寺島実郎氏)のです。

 そのほか、イラン・イラク戦争の際にイラクに肩入れしてフセイ
ンを増長させたとか、ソ連のアフガニスタン侵略に反対するイスラ
ム戦士に肩入れしてタリバーン支配の基礎を作ったとか、アメリカ
の利己的で近視眼的な考えは多くの人によって批判されています。

 しかし、今度の事件をきっかけにしてアメリカにも少しは新しい
動きが出ているようです。反テロ包囲網を作る必要からとはいえ、
ブッシュ大統領は世界中の指導者の意見を聞くようになりました。

 アメリカ社会には他の国との関わり方を考えようという機運が生
じているそうです(11月28日付け朝日社説)。

 こういう傾向が強まることを願っています。

 第2に、中東問題は今日の世界の大問題ですが、それに解決のき
ざしが見えないことです。今回の事件をきっかけにして、アメリカ
も少しは反省し、パレスチナを「国家」と呼ぶようになったとか、
イスラエルの戦争行為を批判するようになったとか、少しは報じら
れていますが、本気で反省したとは思えません。

 それに、イスラエルと戦う側(パレスチナとかアラブ諸国)もし
っかりしていないと思います。これらの国々には民主主義がなく、
政権の交代もなく、貧富の差が大きすぎます。特にだらしのないの
がアラブ世界のリーダーと言われるエジプトです。

 マグドゥーブ氏(エジプト国立社会犯罪研究所顧問)は「アラブ
諸国の政府がパレスチナ問題に責任を転嫁して、失政をごまかして
いるのは確かだ」と言っています(12月11日付け朝日)。パレスチ
ナ暫定自治政府の高官たちも私腹を肥やしていると伝えられていま
す。そしてこれを放置し、政権交代もなく40年以上も議長をしてい
るのがアラファト氏なのです。

 私はかつては、中東問題の責任は9対1でイスラエルが悪いと思
っていましたが、今では6対4で、アラファト議長にも4割くらい
の責任があると思うようになりました。

 第3に、これと関連しますが、イスラムは自己改革する必要があ
ると思います。貧しさを分かち合う精神は立派だとは思いますが、
豊かさを追求することが根本だと思います。「イスラムが普遍性を
持つためには、近代化に直面しないとだめだ」(12月16日付け朝日
新聞の池田明史氏)。

 この点でギ・ソルマン氏の説は興味深いものでした。「事件の根
っこに発展を欠くイスラム経済があるのは確か」、「イスラム的経
済発展の理論が見つからない」、「コーランの閉鎖性とバイブルの
開放性が、イスラムの貧困とキリスト教世界の繁栄を分かった」、
「コーランと経済発展を両立させうる指導者を何としてもイスラム
世界に見つなくてはなるまい」(10月21日付け朝日新聞)。

 第4に、そしてつくづく思うことは、人間の業の深さです。偉そ
うな事を言っている人達の誰もが、権力を握ると個人的な奢侈に走
り、堕落するということです。

 先日もタリバーンの指導者のオマール師の邸宅がテーマパークみ
たいだったと報じられていました。あの中国革命の指導者の毛沢東
もハーレムみたいなものを作っていました(『毛沢東の私生活』に
よる)。北朝鮮の指導者についてもいろいろと報じられています。

やはり「修身斉家治国平天下」ということは真理だったようで
す。

 日本政府に見識がないなどということは改めて言う必要もないで
しょう。小泉首相の発言など誰も本気で聞いていないと思います。
靖国神社に参拝するような総理大臣の見識を評価するほど世界の指
導者は愚かではないのです。

 最後に、我々はどうしたらよいのでしょうか。今まで通り、人に
よって考えが違うのは当たり前だという事実を認めて、それを理性
的に処理する方法を追求していきたいと思います。

 先に引用しましたマグドゥーブ氏は「異なる意見の間の対話の可
能性を開くこと」を提案していますが、これこそ我々が研究し、提
案し、追求してきたことです。このメルマガのように「自分の意見
を自分にはっきりさせ、更に発展させること」を目的として明記し
ているメディアがほかにあるでしょうか。

 そして我々は意見が異なった場合にどう処理するのが理性的かも
研究し、提案しているのです。

 時には暴力的な攻撃に出会うこともありますが、それに対しても
しっかり警戒しつつ、希望をもって戦っていきたいと思います。

「小泉ビジョン」について

2006年01月24日 | サ行
 01、「小泉ビジョン」について

 3回連続して政治を論ずることになりますが、お許し下さい。

 (2002年)元旦の朝日新聞の一面に「『小泉ビジョン』策定へ」という見出しが踊っていました。内容の要点は次の2つです。

 第1点。小泉首相は、経済構造改革や政治システム、外交・安全保障など7分野での包括的な国家戦略を示す「小泉ビジョン」を策定する方針を固めた。

 第2点。策定にあたっては自民党の若手議員から政策を吸い上げ、議論の過程をインターネットで公開、有権者との直接対話を通じて練り上げる。

 つまり第2点にあるようなきわめて民主主義的な方法を使って、今後の日本のあり方を自分の思う方向へ持っていこうということだと思います。

 では、小泉首相の持っていこうとしている方向とはどのような方向でしょうか。自衛隊の影響力と認知を強めることであり、首相公選制を突破口として憲法を改定することです。経済の構造改革については、「議論すらなされず、日本の経済政策論議は、目先の危機回避だけに目を奪われている」(野口悠紀雄、1月5日付け朝日夕刊)という状態です。

 しかし小泉首相の大衆に直接訴えるという、これまでの首相になかった民主的に見える手法は多くの国民の支持を集めています。

 首相はこのやり方で更に先へ進もうというのでしょう。ワイマールの民主主義体制を使って独裁体制を作ったヒトラーを思い出します。

 そして、野党にこれに対抗する戦略と人物がいないために、小泉首相の独走態勢は一層強まりそうな気配です。私はこれを恐れています。

 次の通常国会に提出すると首相の言っている「有事法制の整備」については少しずつ反対する動きも出ていますが、このような目先の対応だけでは不十分です。61号に提唱しましたように、「影の内閣を機能させて、それを中心にして広く国民の意見を聞いて、政府のやり方に常に全面的に対決していく」という「本当の野党のあり方」は認識すらされてなく、その芽すら見られません。

 民主党は昨年(2001年)の05月08日以来、つまり小泉内閣のメルマガ以前から「党のメルマガ」DP-MAIL を発刊しているようですが、ほとんど知られていません。購読者数は何人なのでしょうか。「ネクストキャビネット」はほとんど機能していません。政府のタウン・ミーティングに対抗するような大衆的な対話集会も開いていません。鳩山代表は「責任野党であることは政府に対して是々非々であることである」と誤解しています。

 社民党は個人のHPやメルマガはいくつかありますが、影の内閣すらなく、メルマガもありません。土井たか子氏や福島瑞穂氏や辻元清美氏は個人としては立派な人なのでしょうが、組織運営についての見識とアイデアが無さ過ぎるのではないでしょうか。

 小泉首相は次の文化庁の長官に心理学者の河合隼雄氏を起用するようです。政府の審議会の委員に頼まれたり、役に就くことを求められたりすると、自分が偉くなったかのように錯覚してノコノコと出ていく学者も困ったものですが(すべての学者がそうだというの
ではないし、河合氏の見識はまだ分からないが)、こうして支持層を拡げていく首相のやり方のしたたかさを野党は学ぶ必要があるでしょう。

 しかし、インターネットを見ると少しは国民の自主的な活動も出てきているようです。新聞にも新しい方向を模索する活動が紹介されています。私たちも自分の出来る範囲でそうした動きに加担して活動したいものです。

(メルマガ「教育の広場」2002年01月08日発行)

 02、投書

 こんにちは。いつも「教育の広場」を送っていただきありがとうございます。

 第63号「『小泉ビジョン』について」の号について、いくつか感想を記させていただきます。

 この記事で、小泉氏をヒトラーになぞらえているところがありました。私は、小泉氏の言動に報道で接するとき、よく毛沢東を連想します。小泉氏も毛沢東も名言が得意です。毛沢東の中国語のニュアンスは分かりませんが、翻訳の限りでは、何となく似ているものがあります。

 小泉:構造改革なくして景気回復なし
 毛:調査なくして発言権なし
 小泉:恐れず、怯まず、捉われず(論語に出典あり)
 毛:革命は、客をよんで宴会をひらくことではない。文章をつくることではない、──文質彬彬で「温、良、恭、倹、譲」ではありえない。(論語に出典あり)

 これは、偶然や先入観、コジツケによるものだと思いますが、このようなコジツケを考えてしまうのも、一般党員に訴えかけて自民党総裁選に勝利したときの戦術や直接国民に訴えかけ直接国民の支持を得ようとする政治手法が、毛沢東の「都市で農村を包囲する」によるゲリラ戦や文化大革命の「私の大字報」を連想させるからだと思います。

 牧野さんは、小泉氏が「民主主義的な方法を使って、今後の日本のあり方を自分の思う方向へ持っていこう」としていると指摘されています。

 小泉氏が内閣での論議や国会での審議を活性化することにより、自分の主張を実現しようとしているのであれば、民主主義的な方法を利用していると言えると思います。こうした面からは、小泉氏の政治手法が民主主義的な方法を利用しているとは思えません。

 小泉政権になって、大臣を含め、私的諮問機関や懇談会の設置がさらに増え、国会の形骸化が進んだと伝えられています。インターネットにより大衆的に小泉ビジョンを作成することも、それを大規模にしたものではないかと思います。

 少数の仲間内で相談して物事を決め、マスコミを通じ国民に直接訴えることで国民の情緒的な支持を得た上で、実行に移す、というのが小泉流だと思います。毛沢東の大衆路線と似ています。

 私が現在携わっている仕事(役所の社会福祉)の関係でも、住民参加による計画づくりが強調されています。地域福祉計画、健康づくり計画、高齢者保健福祉計画、障害者福祉計画、母子保健計画と目白押しです。いずれも、策定にあたっては、国は住民参加を進めるよう指導しています。その指導に基づき、自治体では、意見の公募が行われたり、公募市民を交えた検討委員会が開催されたりしています。

 しかし、国民参加にしても、住民参加にしてもその国民や住民はとてもあいまいです。それが多数意見かも正確には検証できませんし、意見が割れたときの処理方法など、民主主義に必要なルールはありません。有力者や声の強い人ほど意見を反映させやすいという問題もあります。インターネットもすべての国民が利用できる訳でもありません。国民参加や住民参加を強調すればするほど、民主主義が形骸化していくような面があるように思います。

 この矛盾を解決するには、国民投票制度や住民投票制度も検討されてしかるべきだと思いますが、国レベルでは、例えば、内閣や国会の構成員全員がインターーネットを通じ意見交換を行い、その状況を国民に逐次公開する場(電子閣議や電子国会)をつくることにより、今ある間接民主主義制度により選出された構成員による討論を深めるようにしていったらどうでしょう。

 現在の難局にあっても、その対策を検討するため、1日でも半日でも時間をとって閣議が開催されたという話は聞いたことがありません。野党はシャドウキャビネットを作って政権交代に備えよ、とよく言われます。しかし、与党にはシャドウではないホンモノの内閣があるのでしょうか。実情は、個々の大臣がいるだけのように思われます。(年末に見たテレビによると、小泉政権になって、形式的な閣議終了後、若干のフリーディスカッションの時間ができたそうですが。)

 国会論議の貧困もよく指摘されるところです。

 小泉氏が本気で国民に小泉ビジョンの策定を問いかけたいのなら、自民党内外を問わず、法的にはもっとも正統な国民の代表者たる国会議員全員による電子国会に諮ったらどうでしょう。

 また、小泉氏がこの内閣で現在の難局を乗り切りたいのなら、電子閣議で徹底的に解決策を話しあったらどうでしょう。

 それでは、また、よろしくお願いします。

 03、お返事

 面白い視点で、参考になりました。ありがとうございます。U氏の意見を整理してみますと、次の2点になると思います。

 A・内閣と国会の議論を活性化するのが(間接)民主主義である。その活性化された内閣と国会の議論に国民がコミットするのが正道である。

 B・内閣と国会の議論の活性化を抜きにして、私的諮問機関や懇談会を増やしたり、住民参加を進めたり、直接国民に訴えたりするのは(法的に正当な)民主主義ではない。これは毛沢東の大衆路線と似ている。

 なぜなら、国民参加や住民参加という時の国民や住民はあいまいで、その時には何が多数意見かの検証はできないし、意見が割れた時の処理方法が確立していないし、インターネットも皆が使えるわけではないからである。

 長野県で田中康夫知事が登場してから、車座集会とかで県民と直接話し合うことが多くなったのに対して、多くの県会議員から出されている疑念と似ているように思いました。

 最近多くなってきました住民投票の請求に反対する意見の論拠も
これだと思います。

 たしかに直接民主主義がいつでもどこでも好いとは言えないと思います。それに、日本は憲法上、間接民主主義を採用しています。しかし、トップが一般の大衆と直接話し合うことは憲法上も否定されていないし、間接民主主義とも矛盾しないと思います。

 田中知事にしても小泉首相にしても、国民の政治に対する関心を高めた功績はあると思います。そして、まずこれが民主主義の根本だと思います。これを更にどう生かしていくか、これが問題なのだと思います。

 内閣の議論も国会の議論もインターネットでの討論も、全部活性化させたらいいのではないでしょうか。

 お返事になったかなと思いつつ、今回はこれで終わりにします。ほかの皆さんも自分の意見を出して下さい。


教育の広場、第 222号、ニセのアンケート

2006年01月23日 | 政治関係
教育の広場、第 222号、ニセのアンケート

  (2006年01月23日発行)

 アンケートは多くの所で行われています。しかし、ニセのアンケ
ートも多いのではないでしょうか。本当のアンケートとニセのアン
ケートを考える手掛かりにと思い、浜松市のアンケートについて市
長に送ったメールと、それに対する市長の返事を載せます。

   1、市長へのメール

北脇市長殿

まもなく終わりますが、11月は「市民への約束」評価月間でした
。この評価のアンケート用紙にはその趣旨が次のように書いてあり
ます。

・・浜松市役所では、皆様の声をサービスの向上につなげたいと考
え、今月〔11月〕1ヵ月間を「市民への約束」評価月間としてアン
ケートを実施しております。/ 今日、訪問された課(施設)の職
員の対応について「市民への約束」が実施されているか、下記の項
目にお答え下さい。・・

 つまり、これは「課(施設)の職員の対応」についてだけ、即ち
現場の職員についてだけ、「市民への約束」が実行されているか否
かを聞くものです。しかるに、「市民への約束」(平成12年4月1
日発表)には次のように書いてあります。

・・私〔北脇市長〕は、市長就任にあたって、「公平公正で開かれ
た市政」、「市民に対するサービスとしての市政」を基本方針とし
て掲げました。

これを実行するためには、市職員の意識改革に取り組み、いわゆ
る「お役所仕事」をなくして行かなくてはなりません。市職員一人
ひとりに、市民の声に耳を傾け、市民とともに考える姿勢を徹底す
る必要があります。

また、コスト意識、時間意識を徹底し民間と同じベースに立って
仕事をしなければなりません。「官尊民卑」の発想から抜けきれな
かったり、法律・制度を機械的に当てはめてそれでよしとするよう
なことではいけないと考えます。

たとえ小さなことでも市民の皆さんからの要望や苦情の中に、市
政を良くする大きな鍵があります。私は、皆さんの声にこたえて市
政の改善を積み重ねることにより、皆さんと市役所の間に強い信頼
関係を築いていきたいと思います。

以上述べた市職員の意識改革の方針を明確にするために、このた
び市では次のとおり市民の皆さんへの「約束」を決めました。今後
、庁舎内の見やすいところに掲示し、常に皆さんのチェックを受け
ながら改革に取り組んでいく決意ですのでよろしくお願いいたしま
す。・・

 つまり、この「約束」は市の職員全員のものなのです。そうする
と、現在行われている「現場の職員だけ」を問題にするアンケート
は間違いだと分かります。
 そもそも市政は市長をトップとする市職員全員が集団として行う
ものです。しかし、その集団の中には役割分担があり、指導性に関
する権限の違いがあります(それは端的に給与に反映されています
)。下の者は上の者の定めた枠組みの中で仕事をするのです。です
から、上の者の定める枠組みが不適当だった場合には、下の者はや
る気が起きないし、どんなに努力しても市政を少ししか改善できな
いわけです。つまり「組織はトップで8割決まる」のです。

ですから、「約束」の評価においてもトップたる市長から順に教
育長、助役、収入役、校長、総合事務所長、部長、等々と下りてき
て、最後に現場の職員を問題にするのでなければならないと思いま
す。

北脇市長は「理論志向が強い」そうで、「体系的、理論的な市政
運営を目指している」そうですが(9月30日付けの市のメルマガに
よる)、これこそが体系的で理論的な市政運営なのではありません
か。ということは、市長の今回の(これまでの)アンケートは全く
その「体系的で理論的な市政運営」の逆で、「現場の職員を隠れ蓑
にして幹部が高給と安逸を貪(むさぼ)る」間違ったアンケートだ
ということになります。

以上。市長の反省と真のリーダーシップを求めます。

 具体的な提案をします。
 次の項目についてアンケートを取り直して下さい。

 1、北脇市長は、市民からの意見に対して、自分では答えずに担
当課に丸無げしていますが、このようなやり方は「さわやかな説明
の約束」と一致していると思いますか。

又、11月5日付けの広報に発表されました「市職員の給与のあら
まし」で、市職員の給与の本当の姿が分かりましたか。それが適当
か否かが判断できましたか。市職員の平均年俸は約 700万円らしい
ですが、これは適当だと思いますか。

又、市職員の互助会への補助金が1億 550万円でペルー人学校へ
の補助金が 145万円なのは、「柔軟性の約束」を守ったことになる
と思いますか。

又、市の本庁の部長15人の内、女性部長はたった1人ですが、こ
れは「男女共同参画社会」と一致すると思いますか。

 2、土屋教育長は、平成12年1月に就任して以来今年(平成17年
)の8月までホームページに「教育長のページ」を作らず、8月に
ようやく作って3つの「話」を載せましたが、その後は全然更新し
ていません。これは「説明の約束」と一致すると思いますか。

愛知県小牧市の教育長が頻繁に種々の考えを発表して教育界を導
いているのと比べて評価して下さい。その際には、小牧市の教育長
の文章と比較して浜松市の教育長の「話」の文章が「最少経費・最
大満足」の約束になるかも評価して下さい。教育長の年俸は本給と
ボーナスだけでも約1330万円です。

 3、2人の助役(宮本武彦、木本陽三)と収入役(豊田哲男)は
、その仕事が「市役所内部での調整事務」だからという理由で、ホ
ームページの中に自分のコーナーを作っておらず、何も発言してい
ない「物言わぬ助役(収入役)」ですが、これは「説明の約束」を
果たしていると思いますか。

長野県庁のホームページを見ますと、各段階の幹部が顔写真入り
で経歴を載せ、自分の考えを「コメント」として載せているのと比
べて評価して下さい。
 ちなみに、助役の年俸は本給とボーナスだけでも約1560万円です
。収入役の年俸は本給とボーナスだけでも約1330万円です。

 4、浜松市立の学校の校長で自分の考えを積極的に発表している
人はほとんどいないと思いますが、これは「さわやかな説明の約束
」を果たしたことになると思いますか。

愛知県小牧市の光が丘中学の校長と比較して、これで安心して子
供を学校に預けられるかどうか、評価して下さい。

 5、各総合事務所は独自のホームページを持っておらず、事務所
長の顔写真も考えも発表されていませんが、これでクラスター型と
言えると思いますか。先の長野県庁の各級幹部のあり方と比較して
評価してみて下さい。

 6、部長についても助役や収入役と同様、その仕事が「市役所内
部での調整事務」だからという理由で、ホームページ上に何の発言
もありません。これで「説明の約束」を果たしていると思いますか
。長野県庁のホームページでは課長クラスでも顔写真入りでコメン
トを発表しているのと比較して評価して下さい。

 このアンケートでやり直して下さい。 2005年11月30日


   2、市長からの回答

 先日拝見しましたメールにつきまして,市としては以下のとおり
考えております。今後ともよろしくお願いいたします。
                    浜松市長 北脇 保之


 市長へのご意見箱のメールにお答えします。

 市民への約束評価アンケートは、ご承知のとおり11月1か月間
を「市民への約束評価月間」として位置付け、この間に市役所庁舎
や施設などにお見えの市民の方に、実際に対応した職員の応対を「
市民への約束」の5つの観点から評価をいただいております。

 そして、それを集計することによって、この「市民への約束」が
浜松市役所においてどの程度浸透しているかを見るための資料とす
るものです。

 そして、この結果を踏まえ、各職場ごとに市民に対する姿勢の見
直しを行い、個々の意識を高めながら市役所全体で「市民への約束
」の実現に向けて取組んでいくものです。

 このたびは、この評価月間アンケートで市の個々の事業等に対し
ての評価やまた各職員一人ひとりの個別評価をとのご提案をいただ
きました。

 ご指摘いただきましたように、市政は市長をトップとする、市職
員全員が集団として行うものであることから、個々の評価の積み重
ねによる各職員の評価は、所属長の、また全体の評価結果は市長の
評価であるとの認識のもと、評価アンケートを実施しておりますこ
とをご理解いただきたいと存じます。

    2005年12月14日、浜松市 総務部 人事課  

ベスト・ティーチャー賞について

2006年01月22日 | サ行
 01、ベスト・ティーチャー賞について

 (2002年)01月05日付けの朝日新聞は、国立大学工学部で「ベスト・ティーチャー賞」設立の動きが目立つとして、次のように報じています。

 北見工業大学は近く、学生による授業アンケートで評価の高い教員に「教育優秀者賞」を贈る。各学科・講座から1人ずつ計7人で、それぞれに 100万円を授与する。

 東京農工大学工学部では1999年度からスタートした。学生アンケートなどで候補約5人を選び、教員十数人による面接で最優秀講義(研究費など約 100万円)1人を決める。最優秀者は1年間、新任教員のコーチ役をつとめる。

 福井大学の工学部は2000年度から始め、学生の投票で8学科各1人の優秀教員を選び、その中から最優秀者を決定する。特典は特別昇給と30万円の旅費。

 千葉大学は全学対象の「ベスト・ティーチャー賞」を新設し、山口大学工学部などでも同賞が検討されている。

 そして、結論として、「講義に力を入れても評価されない」と言われた大学を変えると期待されている、と結んでいます。

 私はこの事自体は大変結構な事だと思います。遅すぎたくらいだと思います。大学(学校)は教育というサービスを提供する1つの店か会社にすぎません。自社の提供するサービスについて客の意見を聞いて改善するのは当然です。こんな当然の事が今までなされなかった事の方が驚くべきことです。

 しかし、このまま手放しで賛成できるものでもないと思います。

 まず第1に、千葉大学を除くと他は工学部だけのようですが、他の学部ではなぜしないのでしょうか。全学で取り入れるべきだと思います。

 第2に、非常勤講師の問題はどうなるのでしょうか。大学では非常勤講師が多くの部分をになっています。学生から見れば、専任教員だろうが非常勤講師だろうが同じ「先生」です。非常勤講師でも専任教員以上に好い授業をしている人もいれば、お粗末授業をしている人もいます。

 第3の、そして一番大きな問題はワースト・ティーチャーの問題です。ここに報じられている事は「優秀者を表彰する」ということですが、ワースト・ティーチャーを改善ないし追放するという事はないのでしょうか。こちらの方が本当は先なのではないでしょうか。つまらない授業で学生の貴重な時間をむだにしていることを大学は犯罪と考えないのでしょうか。

 ベスト・ティーチャーを表彰してもワースト・ティーチャーは痛くもかゆくもないと思います。そして、今まで通りのお粗末授業を続けるだろうと思います。又、アルバイトに狂奔している教師は、多分、 100万円くらいの褒美なら、手抜き授業をして他大学でアルバイトをした方が毎年確実に収入がある、と考えるだろうと思います。大学はこれをどうしてくれるのでしょうか。

 以上のように考えると、この「ベスト・ティーチャー賞」は大学の授業をよくする確実な方法とはいえないと思います。むしろ全体としての悪いサービスをそのままにしておくことを隠すためのイチヂクの葉になる可能性もあると思います。

 では、大学の授業をよくする確実な方法は何でしょうか。私は次の3つを提案します。

1、学長以下の全教員(非常勤講師、集中講義の講師を含む)の研究と授業とアルバイトの徹底した情報公開。

2、各教員に対する学生や他の人々の意見や質問に対してインターネット上で答えることを義務づけること。

3、学外者によるオンブズを制度化し、オンブズによる評価を教員の待遇に反映させること。

 私はこの3点を提案します。

(メルマガ「教育の広場」2002年01月18日発行)

 02、投書

 U・T氏から2通の投書をいただきました。第1の投書をここに掲載します。

 近頃のマガジンには読者の投稿が載っていません。これは投稿が無いのか、多過ぎて載せられないのか、意図的に載せないのか、どのような状況なのでしょうか。少し気になります。

 それと、牧野さんは非常勤講師の授業についても、教員と同様の評価を当てるべきと考えておられるようですが、私もそれは当然と思います。ですが、現実は全く違います。大学に限らず、ほとんどの教員の頭の中は、正教員だけが教師であると思っているでしょう。彼らは区別しなくてはいられない連中のようですね。

 それと、いいかげんな教師の評価を下げることを提案されていますが、これは非常に重要なポイントであると思います。この発想が無いため、日本の社会はいつまでたっても改善されないのです。分かりきっているはずのこの事が、実行される事が、今の社会には最も重要であると私は考えます。

 03、牧野からのお返事

 最近、投書が載らないのはただ投書がないからです。ではどうして投書がなくなってしまったのでしょうか。それはいろいろと考えていますが、一番大きな原因は、「自分の考えを自分にはっきりさせる」ために話し合うということを家庭でも学校でも練習しておらず、そういう事に慣れていないからではないかと思います。

 最初の頃、投書を下さった方は、どこか、「牧野の間違いを論破しよう」という感じがあったと思います。そこで、それは本メルマガの目的ではないとして、目的をキャッチコピーとして掲げました。それ以降、投書が少なくなったように感じます。

 民主主義の成熟を待ちたいと思います。

 04、投書(愚考、K・S)

牧野先生

 以前(といっても15年ほど前に)東京のご自宅に、小論理学を求めに伺ったことがございます。そこで先生とほんの立ち話をいたしましたことを昨日のように思い出されます。

 先生がメールマガジンをお出しになっていると知り、第55号ぐらいから拝読しております。先生は、教育の復興をお考えになっていらっしゃるようなので、参考にもならない愚考を開陳いたしたいと思い、メールをさしあげることにいたしました。

 さて確かに現在の大学教育において、教員の「研究第1、教育2の次」がもたらした、禍根は大きいものがあると思います。何よりも大学教員の資質を高めることが、大学教育の復興につながると思います。

 第1に、大学教員は、学生の授業料で生活させてもらっていることを十分に再認識すべきではないでしょうか。12世紀のイタリアの草創期の大学では、学生の方が、教員を雇っている意識が強かったので、満足がいく教育を受けられなかった場合に、その教員を解雇
したそうです。大学教員は、授業料+時間に対する対価関係以上の教育を実践することを第一に考えるべきであろうと思います。

 第2に、授業に対する学生アンケートについては、やり方が非常に難しいように思われます。何よりも、学生が評価するに値する、判断能力を持っているか、が問題です。私は大学受験予備校で、アンケートによって解雇された経験がございます。そこでは古代ローマよろしく、パンと剣闘士を求める生徒も多く、授業はパフォーマンス、授業外で生徒に饗応(といっても昼・夕食をご馳走する程度であるが)し、同僚教員の人格を含めて悪口を言うと、アンケートの満足度があがりました。

 わたしはこのようなことをしなかったので、解雇されましたが。また大学では、知識を体系的に教授するよりも、新聞記事等を解説するような、刹那的講義が一般に受けがいいようです。意外だったのは、あるとき大学で予備校卒業生に会ったとき、「今考えると先
生のお陰です」(お世辞なかばでしょうが)というのに、アンケートでは「満足」に印をつけず、「普通」にしたということです。いろいろと聞いてみると、確かに予備校時代、面白い講師がいて、その時「満足した」が、合格してから考えると、受験とは無関係のオアシスの時間であって、入試には役立たなかった、ということを彼は言っていました。

 学生に阿る教員の方が、厳しくても学生の将来等を考えて教育する教員よりも、低く評価されてはならないと思います。そのためには、学生アンケートも一つの相対的な評価として、第三者(たとえば、法学部だったら、弁護士等、経済学部だったら企業の取締クラス等)による評価も加味すべきでしょう。えてして「親の心子知らず」的な結果になるのではないかと考えます。

 第三に、各種資格予備校の登場は、大学教育の失敗の結果だと思います。潮木守一『京都帝国大学の挑戦』で京大が学術大学をめざしたのに、高等文官試験に合格者を出せなくなって、没落したことが指摘されております。法学部・経済学部等の学部では、卒業後就職する学生が殆どであるのに、学部の講義は、学者養成的であります。その結果、各種予備校が繁盛するにいたっていると思います。もっと学生が求めていることを明確にし、学部又は学科全体で学生の進路についての目標を設定して、教育にあたるべきでしょう。

 先生の御著書は非常に明快で面白いのですが、ご翻訳はもとのヘーゲル先生のせいか、または私の能力不足のせいか、なかなか読み進めません。しかし『現象学』は今年中に読破しようと思っております。

 勝手なことばかり申し上げ、先生の逆鱗に触れたかもしれませんが、U・T氏の投書に触発されて、メールを差し上げました。

 今後の「教育の広場」のさらなるご発展を祈念しております。

 05、牧野からのお返事

 大学の教員が「研究第1、教育第2」だから、教育に熱心でない、という「定説」には賛成できません。「アルバイト第1」が根本問題だと思います。これは本メルマガ第10号に書きました。

 「学生が教員を雇っている」かどうかはともかく、教育はサービス業であり、生徒や保護者はお客さんであるという考えは必要だと思います。

 教員の側がそう考える必要があると共に、生徒や保護者の側もそう自覚して、正当な監視を行い、評価をし、要望や意見を出すべきだと思います。

 学生アンケートの含む問題点については同感です。かつて私の生徒もこう書いていました。

──前期の最後の授業の中で授業に対する評価を提出するのがありました。選択式・匿名のものです。アンケートの内容が授業に反映されるのは嬉しいことですが、これは対話ではなく、先生の意見の聞けない一方的なものでした。

 昨年、浪人して予備校に通いました。そのとき講師に対する評価をアンケートとして提出しました。予備校の講師というのは評価が待遇に影響するそうで、講師は生徒の反応には敏感でしたが、人気取りに気をつかわなければならないのか、授業態度を注意するのも
大変そうでした。

 一方的な評価を第三者が見て更に評価する制度というのは、このようにご機嫌取りを必要としてしまうのではないかと思います。牧野先生のアンケートのように、対話であることが本当の意味でより良い授業のためになるのだと分かりました。昨年は「アンケートによる授業評価」自体を疑問に思いましたが、それが「一方的なアンケート」に対する疑問に変わりました。──

 ★(牧野の返事)アンケートの種類にはそのほかにもいろいろな分け方があって、先生が自分で取るものと経営者とか学校とかが取るものと生徒が作成するものとの違い、講師の待遇と直結するか否かの違いもあると思います。生徒の授業態度を注意しにくくなるようなのは、やはりどこかおかしいと思います。


教育の広場、第65号、投書とお返事

2006年01月21日 | ご意見の広場
教育の広場、第65号、投書とお返事

(2002年01月24日発行)

 U・T氏から2通の投書をいただきました。それを掲載します。

 第1の投書

 近頃のマガジンには読者の投稿が載っていません。これは投稿が
無いのか、多過ぎて載せられないのか、意図的に載せないのか、ど
のような状況なのでしょうか。少し気になります。

 それと、牧野さんは非常勤講師の授業についても、教員と同様の
評価を当てるべきと考えておられるようですが、私もそれは当然と
思います。ですが、現実は全く違います。大学に限らず、ほとんど
の教員の頭の中は、正教員だけが教師であると思っているでしょう。
彼らは区別しなくてはいられない連中のようですね。

 それと、いいかげんな教師の評価を下げることを提案されていま
すが、これは非常に重要なポイントであると思います。この発想が
無いため、日本の社会はいつまでたっても改善されないのです。分
かりきっているはずのこの事が、実行される事が、今の社会には最
も重要であると私は考えます。


 牧野からのお返事

 最近、投書が載らないのはただ投書がないからです。ではどうし
て投書がなくなってしまったのでしょうか。それはいろいろと考え
ていますが、一番大きな原因は、「自分の考えを自分にはっきりさ
せる」ために話し合うということを家庭でも学校でも練習しておら
ず、そういう事に慣れていないからではないかと思います。

 最初の頃、投書を下さった方は、どこか、「牧野の間違いを論破
しよう」という感じがあったと思います。そこで、それは本メルマ
ガの目的ではないとして、目的をキャッチコピーとして掲げました
。それ以降、投書が少なくなったように感じます。

 民主主義の成熟を待ちたいと思います。


 第2の投書

 こんにちは。
 いつも「教育の広場」を送っていただきありがとうございます。

 第63号「『小泉ビジョン』について」の号について、いくつか
感想を記させていただきます。

 この記事で、小泉氏をヒトラーになぞらえているところがありま
した。私は、小泉氏の言動に報道で接するとき、よく毛沢東を連想
します。小泉氏も毛沢東も名言が得意です。毛沢東の中国語のニュ
アンスは分かりませんが、翻訳の限りでは、何となく似ているもの
があります。

 小泉:構造改革なくして景気回復なし
 毛:調査なくして発言権なし
 小泉:恐れず、怯まず、捉われず(論語に出典あり)
 毛:革命は、客をよんで宴会をひらくことではない。文章をつく
ることではない、──文質彬彬で「温、良、恭、倹、譲」ではあり
えない。(論語に出典あり)

 これは、偶然や先入観、コジツケによるものだと思いますが、こ
のようなコジツケを考えてしまうのも、一般党員に訴えかけて自民
党総裁選に勝利したときの戦術や直接国民に訴えかけ直接国民の支
持を得ようとする政治手法が、毛沢東の「都市で農村を包囲する」
によるゲリラ戦や文化大革命の「私の大字報」を連想させるからだ
と思います。

 牧野さんは、小泉氏が「民主主義的な方法を使って、今後の日本
のあり方を自分の思う方向へ持っていこう」としていると指摘され
ています。

 小泉氏が内閣での論議や国会での審議を活性化することにより、
自分の主張を実現しようとしているのであれば、民主主義的な方法
を利用していると言えると思います。こうした面からは、小泉氏の
政治手法が民主主義的な方法を利用しているとは思えません。

 小泉政権になって、大臣を含め、私的諮問機関や懇談会の設置が
さらに増え、国会の形骸化が進んだと伝えられています。インター
ネットにより大衆的に小泉ビジョンを作成することも、それを大規
模にしたものではないかと思います。

 少数の仲間内で相談して物事を決め、マスコミを通じ国民に直接
訴えることで国民の情緒的な支持を得た上で、実行に移す、という
のが小泉流だと思います。毛沢東の大衆路線と似ています。

 私が現在携わっている仕事(役所の社会福祉)の関係でも、住民
参加による計画づくりが強調されています。地域福祉計画、健康づ
くり計画、高齢者保健福祉計画、障害者福祉計画、母子保健計画と
目白押しです。いずれも、策定にあたっては、国は住民参加を進め
るよう指導しています。その指導に基づき、自治体では、意見の公
募が行われたり、公募市民を交えた検討委員会が開催されたりして
います。

 しかし、国民参加にしても、住民参加にしてもその国民や住民は
とてもあいまいです。それが多数意見かも正確には検証できません
し、意見が割れたときの処理方法など、民主主義に必要なルールは
ありません。有力者や声の強い人ほど意見を反映させやすいという
問題もあります。インターネットもすべての国民が利用できる訳で
もありません。国民参加や住民参加を強調すればするほど、民主主
義が形骸化していくような面があるように思います。

 この矛盾を解決するには、国民投票制度や住民投票制度も検討さ
れてしかるべきだと思いますが、国レベルでは、例えば、内閣や国
会の構成員全員がインターーネットを通じ意見交換を行い、その状
況を国民に逐次公開する場(電子閣議や電子国会)をつくることに
より、今ある間接民主主義制度により選出された構成員による討論
を深めるようにしていったらどうでしょう。

 現在の難局にあっても、その対策を検討するため、1日でも半日
でも時間をとって閣議が開催されたという話は聞いたことがありま
せん。野党はシャドウキャビネットを作って政権交代に備えよ、と
よく言われます。しかし、与党にはシャドウではないホンモノの内
閣があるのでしょうか。実情は、個々の大臣がいるだけのように思
われます。
(年末に見たテレビによると、小泉政権になって、形式的な閣議終
了後、若干のフリーディスカッションの時間ができたそうですが。)
 国会論議の貧困もよく指摘されるところです。

 小泉氏が本気で国民に小泉ビジョンの策定を問いかけたいのなら、
自民党内外を問わず、法的にはもっとも正統な国民の代表者たる国
会議員全員による電子国会に諮ったらどうでしょう。

 また、小泉氏がこの内閣で現在の難局を乗り切りたいのなら、電
子閣議で徹底的に解決策を話しあったらどうでしょう。

 それでは、また、よろしくお願いします。


 第2の投書

 面白い視点で、参考になりました。ありがとうございます。

 U氏の意見を整理してみますと、次の2点になると思います。

 A・内閣と国会の議論を活性化するのが(間接)民主主義である
。その活性化された内閣と国会の議論に国民がコミットするのが正
道である。

 B・内閣と国会の議論の活性化を抜きにして、私的諮問機関や懇
談会を増やしたり、住民参加を進めたり、直接国民に訴えたりする
のは(法的に正当な)民主主義ではない。これは毛沢東の大衆路線
と似ている。

 なぜなら、国民参加や住民参加という時の国民や住民はあいまい
で、その時には何が多数意見かの検証はできないし、意見が割れた
時の処理方法が確立していないし、インターネットも皆が使えるわ
けではないからである。

 長野県で田中康夫知事が登場してから、車座集会とかで県民と直
接話し合うことが多くなったのに対して、多くの県会議員から出さ
れている疑念と似ているように思いました。

 最近多くなってきました住民投票の請求に反対する意見の論拠も
これだと思います。

 たしかに直接民主主義がいつでもどこでも好いとは言えないと思
います。それに、日本は憲法上、間接民主主義を採用しています。
しかし、トップが一般の大衆と直接話し合うことは憲法上も否定さ
れていないし、間接民主主義とも矛盾しないと思います。

 田中知事にしても小泉首相にしても、国民の政治に対する関心を
高めた功績はあると思います。そして、まずこれが民主主義の根本
だと思います。これを更にどう生かしていくか、これが問題なのだ
と思います。

 内閣の議論も国会の議論もインターネットでの討論も、全部活性
化させたらいいのではないでしょうか。

 お返事になったかなと思いつつ、今回はこれで終わりにします。

 ほかの皆さんも自分の意見を出して下さい。