ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 232号、こんな女に誰がした

2006年06月26日 | 教育関係
第 232号、こんな女に誰がした

 高校1年生の男の子が自分の家に放火して、母と2人の兄弟(弟
と妹)を殺したそうです。父が医者で、その長男たる子を自分と同
じ大学の医学部に進学させて医者にしようとして、スパルタ的家庭
教育をしたことが背景にあると報じられています。

 この子の場合、そのような事件を起こしたことについて、本人に
どの程度の責任があるのでしょうか。

 一般的に言って、個人の現状について、本人の責任(ないし功績
)は何パーセントでしょうか。先日、大学でも話をしました。

 このように問題を出すと、年配の人なら、リンカーンの言葉だと
か言われている「40歳の人は自分の顔に責任がある」という言葉を
思い出す人も少なくないでしょう。

 ということは、年少の人は自分の顔に(あまり)責任がないとい
うことを意味していると思います。つまり、年齢によって、自分に
対する自分自身の責任の割合が変化するということが考えられます


 小学校1年生の性格や能力について考えると、その子がそうなっ
たのには父母の影響が大きいだろうなと推測するのが普通だと思い
ます。

 しかし、リンカーンの言う通り、40歳にもなったら自分がどうい
う顔をしているか、つまり自分の性格や能力に本人の責任が大きい
と考えられます。

 そこで、元に帰って、個人に影響を与える主たる要素に何がある
かを考えてみましょう。すると、第1に挙げるべきはやはり時代背
景だと思います。「誰々とその時代」という書名は多いですが、そ
の根拠はここにあると思います。

 私自身も自分の人生を振り返ると、6歳までは戦争中でしたが、
昭和21年の4月(つまり終戦の翌年)に小学校に入って以来、一応
ですが、平和な日本に暮らしてきたということは、大前提であると
思います。これを抜きに自分のこれまでの人生は考えられません。


 次に影響のあるのは当然、家族でしょうが、特に親だと思います
。これには素質という面と、生まれてからの家庭教育(広義)の2
面があると思います。

 第3に影響のあるのはもちろん学校であり、先生でしょう。この
際は、直接習った先生の影響だけを考えがちですが、「学校教育は
校長を中心とする教師集団が行うものである」とする現在の私の考
えから言いますと、当然校長の影響も考える必要があると思います


 そして最後に、これらの外からの影響をどう受け止めてどう対処
するかという本人の条件が来ます。弁証法で言う通り、「外的要因
は内部の条件を介して作用する」のです。

 そこで問題は、その時の「内部の条件の比重」でした。つまり、
外的要因と内部の条件との力関係です。その力関係で、年齢と共に
内部の条件の比重が高まるのではないかということです。

 まあ、いつまでもずっと高まりつづけるかは疑問で、高齢者にな
ると体力や気力の衰えと共に、今度はその比重も下がってくるとも
考えられます。

 このように全体を見渡した上で、それぞれの年齢で本人の責任は
何パーセントかということを考えてみたいのです。

 先日、大学で話した考えは、幼稚園卒までは本人の責任はゼロ、
小学生で1%、中学生で3%、高校生で5%くらいだと思う、とい
うものでした。

 私は大学1年生に教えていますから、続いて、大学1年生の今の
君達は、自分の現状に対して10%の責任があると思う、と言いまし
た。更に語を継いで、しかし、4年後か6年後に大学を出る時は、
君達自身の自分への責任は30%くらいになっていると思う、と言い
ました。

 なぜなら、大学生になったということは、基本的に大人になった
ということであり、これまでに比べて大きな自由を手にしたからで
す。

 だから、この大学時代をどう過ごすかが大切なのだというのが結
論でした。

 今年は、大学が「学問の府」と言われる時の学問とは何かについ
て、かなり系統的に話をしようと考えています。その前置きと言う
か、前提として、この話をした次第です。

教育の広場、第 231号 「マオ」を読む

2006年06月22日 | マ行
第 231号 「マオ」を読む

 ユン・チアンさんとその連れ合いらしいジョン・ハリディさんの共著『マオ』(土屋京子訳、講談社、上下)が出て、大きな反響を呼び起こしているようです。

 私もかつて毛沢東を信奉していた時期のある者として、これについて何も言わないわけにはいかないと思います。

 もちろん、毛沢東の宣伝のうまさとそれによる神話の虚偽性を指摘するならば、逆に本書の信憑性についても少しは疑ってかかる必要はあるでしょう。実際、たんなるプロハガンダだと言っている人もいるようです。しかし、私にはそうは思えません。

 本書を読んでの第1の感想は、一体何を信じたらいいのか、という絶望に近い気持ちです。「実践によって証明された」などという言い方も考え方も正しくないことは、既に私も指摘していることです。

 最近も『99パーセントは仮説』と言った本も出ているようです。

 しかし、生きている以上、何らかの情報を真として何らかの考えに基づいて行動していかなければならないのです。どうしたらいいのか、それが問題です。

 そこで第2に考えた事は、やはり、説明責任を果たしていない人なり事柄は、している事自体がどんなに正しいように見えても、まず信用してはならない、ということです。公生活では「有言実行」しか認められないと思います。

 日本では伝統的に「不言実行」の徳が認められてきましたが、政治家でも大学教員でも、その他のいかなる公人でも、今後はそのような態度は「徳」とは認められないと思います。まして何でも発表できるインターネット時代です。

 漱石の『三四郎』には「偉大な暗闇」とあだなされる広田先生が出てきます。これにはモデルがいるという説もありますし、高橋秀夫さんは『偉大な暗闇』(講談社文芸文庫)という立派な評論を書いています。

 そこで「偉大な暗闇」とは、何も著作を著(あらわ)していないから頭の中に何が詰まっているか分からない(暗闇)が、素晴らしい学問が詰まっているはず(偉大な暗闇)だという意味のようです。

 しかし、これはカントの物自体に対するヘーゲルの批判を知っていれば間違いだと分かります。カントは「現象していない物自体とはどんな物か分からない」としましたが、ヘーゲルは「現象の総体の中に物自体が出ているのだ」としました。出てこなかったものは無かったのです。つまり、暗闇は偉大ではありえないのです。

 分かりやすい譬えを挙げるならば、試合で負けたスポーツ選手について、「彼は本当は実力があるのだ」と言ってみても、何の意味もないのと同じです。

 私もこの歳まで生きてきて、自分についても知人についても人生の総決算というものを考えます。そして、実績が全てということを考えます。「本当は~だったんだ」といった言い訳は成り立たないのです。

 随分長く論じましたが、最近、大学教員の発言を検討する際、大学のホームページでのその人の頁を確かめるようにしています。研究業績、授業実績、社会活動等についてどれだけ十分な説明をしているかを見るのです。すると、ほとんどの方が説明責任を十分には果たしていないことが分かります。

 第2に、それは又、反対意見を認めず弾圧する人や運動は認められないということでもあると思います。私はかつてキューバに期待する気持ちを表明しましたが、そしてその気持ちは今でも変わりませんが、キューバなりカストロのやり方でどうしても理解できない点、納得できない点は、政治犯がいるということであり、キューバには言論の自由がない(らしい)ということです。

 自分のしている事が正しいと思っているならば、どうして自由な批判を認めないのでしょうか。

 第3に、これと関連して、批判に対して答えないのも「原則として」間違っていると思います。批判には答えるに値しないものもありますが、学問的な批判には答えるべきだと思います。それが本人の成長につながりもします。

 最近というよりは少し前からですか、立花隆さんに対しては多くのしっかりした批判があるのに、立花さんは全然答えていないようです。これで支持者を失った面もあるようですが、全体としては、ジャーナリズムで今でも生きています。こういう人を生かしておくジャーナリズムも問題だと思います。

 長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳は私も批判していますが、他の多くの研究者も批判しています。それなのに、長谷川さんは答えていません。その訳書のまえがきの中で「注解を書きたい誘惑に駆られたが、訳文そのものだけで説明するのが本当の翻訳だと考えて注解を付けなかった」という趣旨のことを述べています。批判に答えないのは、翻訳そのものが反批判になっているとでも言うのでしょうか。

 NHKのラジオドイツ語講座の講師たちも批判に対して答えない人が多いです。こういうのを見ていると、小泉首相や私の所属する静岡県や浜松市の知事や市長のように、はぐらかし回答でも回答するだけましかな、とさえ思えてきます。

 最後にもう一点。「諸君」の6月号では「マオ」などを題材として座談会をしています。その中で中西輝政京都大学教授の次の言葉が気になりました。

 「理想が論理として間違っていなくても、現実に適用したところでとんでもないことになったら、その理想は間違いだったと烙印を押さなくてはいけない」

 氏にはかつてスノーの「中国の赤い星」にいかれたり、石坂洋次郎の「青い山脈」に共感したりした1時期があったそうですが(私も同じ)、こういった「現実」を知って、その「理想」自身をも疑うようになったのでしょう。

 「理想はそうだが現実はそうはいかない」という「理論」はよく聞きます。私は以前から「この考えは間違っている」と思ってきました。現実と合わない理想がどうして「論理として間違っていない」と言えるのでしょうか。

 私は、現実と合わない理想や理論は「理論として間違っているはずだ」と思います。逆に言うならば、自己を実現する力を持っている理論だけが本当に「正しい理論」なのだと思います。

 中西さんたちは、共産主義憎しの感情ばかりで、それを「理論的に」検討してそれの間違いを明らかにしようとしていないようです。これでは学者失格だと思います。ひどい現実を引き起こした理論の「理論的な間違い」を明らかにすることは学者の大切な仕事だと思います。

 この座談会を読んでいて賛成できない点は、共産主義に不賛成は自由ですが、ではこの人達はどういう社会を目指しているのか、それが分からないことでした。

 対案を示さない主張も、自分はどういう社会のために戦っているかを言わない主張もやはり無意味だと思います。


教育の広場、第230号、経験主義的政治と哲学主義的政治

2006年06月10日 | 政治関係
第230号、経験主義的政治と哲学主義的政治

 6月2日の読売新聞に次の記事が載っていました。

        記

 1・2回生対象に国会質問勉強会。 民主、「偽メール」受け

 民主党は、偽メール問題を踏まえた若手議員の再教育の一環とし
て、国会質問の勉強会を近くスタートさせる。対象は衆院当選1、
2回の衆院議員48人。1回目は、菅代表代行が講師となる方向で調整
している。

 勉強会では、主にベテラン議員が講師となって、国会質問で注意
する点や情報収集の方法を指導する。

 偽メール問題では、当選3回の永田寿康・前衆院議員が情報の信
ぴょう性を十分に確認せずに質問し、前原誠司・前代表の辞任に発
展した。これを受け同党では、若手議員の再教育について検討を進
めてきた。(引用終わり)

 ついで、6月9日の朝日新聞には次の記事が載っていました。

        記

 繰り返すまい「メール問題」。民主、国会質問講座

 国会質問に端を発した「送金メール問題」の反省から、民主党は
8日、若手議員を対象に質疑の勉強会を開いた。この日の講師は、舌
鋒鋭い「追及型」で知られる管直人代表代行。自らの経験をもとに
「スキャンダルの追及には、事実関係を直接的関係者から聞いたり、
資料を手に入れたりしないといけない」と忠告した。

 小泉首相から公約違反について「たいしたことない」との答弁を
引き出したこともある菅氏は、「首相や官房長官や幹事長の政治生
命にかかわる問題を取りあげる時は、当然相手も最大限の反撃をし
てくることが予想される」と指摘。そのうえで「軽くジャブで流す
場合と、本当にこの問題はこうじゃないのかと詰める場合と、緩急
自在な質問の仕方がありうる」と力説した。(引用終わり)

 民主党のホームページを見てみましたら、次の記事がありました。

        記

  菅代表代行、国対勉強会で国会質問の心得を伝授

 8日午後、国会内の控室において民主党国会対策委員会の勉強会
が開かれ、菅直人代表代行が若手国会議員を主な対象に、国会質問
の心得を伝授した。

 菅代表代行は、民主党の国会質問のあり方について若干の問題点
を指摘した後、自らの豊富な国会質疑の経験を踏まえて、国会質問
の方法を語った。

 菅代表代行は国会質問の心得の第一として、小渕首相のNTTド
コモ株式疑惑に関する質問を例にとり、実際に関係当事者に会って
話を聴き、それをもとに質問することが大事だとした。

 菅代表代行は心得の第二として、ポーカーを例に取り、質問をす
るにあたっては自らが持っているカードの内容を自覚して質問を進
める必要があるとした。

 菅代表代行はここで、昭和56年、自らが34歳のときに行った、
医薬品の治験を行う学者と、それを審査する中央薬事審議会の委員
が同一人物である可能性を追及した質問を例にとり、鋭い質問であ
ったがついに真相は分からず、自らが厚生大臣になって初めて真相
に触れることができたと述べた。しかし、この質問の後に多くの薬
事審の委員が入れ替わるなど、大きな影響を与えたと語った。

 菅代表代行は、心得の第三として、特定の政策テーマを生涯の課
題とし、それに徹底的に取り組むことで、問題に対する認識が深ま
るとともに、人脈もでき、より掘り下げた質問が可能になるとした。
そして菅代表代行は、自らがライフワークとしている土地問題につ
いては、すでに30回以上の質問を行っていると述べた。

 また、菅代表代行は参加議員の質問に答えて、質問をする相手の
官庁に対する事前説明については、徹底的にやり取りを行うことに
よって大臣の答弁が予測でき、自らの質問の構成を考えるのに役立
つと語った。 (引用終わり)

 実は私は4月30日、このような「勉強会」について民主党の3人
の幹部にメールを送ってあります。それは次の通りです。

        記

 小沢代表、菅代表代行、鳩山幹事長殿

 先日、民主党の広報、特にインターネット上のそれについて提言
をした者です。

 前回の私見については小沢代表から直接、肯定的なお返事をいた
だきありがとうございます。政権交代を心から願う者として、今後
に期待しています。

 千葉7区の補欠選挙での勝利は本当によかったと思います。展望
が開けました。

 これを機に、小沢代表のままで参院選やその後の総選挙を戦おう
という議論が出ているそうですが、そしてそれはそれで結構ですが、
そのような人事だけに関心が集まっているとしたら危険だと思いま
す。

 自民党はこのままでは引き下がらないということ、従って民主党
は自分の欠点を更に見つめて是正していかなければならないという
ことを、忘れてはならないと思います。

 そこで、第2回の意見をさせていただきます。

 それは、民主党の議員(国会議員、県会議員、市会議員)に対し
ては、それぞれの段階に応じた研修制度が作られていて、実行され
ているのですか、ということです。

 小沢代表はNHKの「クローズアップ現代」で「昔は雑巾掛けか
ら始めたものだ」と述べていましたが、「現代版雑巾掛け」を民主
党は制度化しているのですか、それを企画し実行する担当者が決ま
っているのですか、ということです。

 私の見るところでは、党内にきちんとした研修制度が無いのでは
ないかと思います。民主党の議員の方々と接していますと、例えば
集会での挨拶1つを取っても、「自分のやり方を確立しているな」
と思える人と、「何も考えていないな」と思われる人とがいます。
その差が大きすぎますし、後者の方が圧倒的に多いのです。

 換言するならば、現在の民主党の活動は「個人プレーが9割でチ
ームプレーが1割」ということになっていると思います。その欠点
のよく出たのが先日のメール問題だったと思います。

 県会議員は次にしても、まず、国会議員について、新人議員はも
ちろんのこと、中堅議員も年配議員も、時代はどんどん進んでいっ
ているのですから、定期的に研修を受けて、自分の議員としての能
力を向上させていかなければならないと思います。

 私の考えているのは、調査の仕方とか質問の仕方、いろいろな場
面に応じた挨拶や演説の仕方、ホームページなどの作り方、敵の謀
略から身を守る方法などです。

 もちろん最後は議員個人の考えでやっていいと思いますが、研修
を受け、互いに批評しあいながら、研鑽した上での個人プレーであ
るべきだと思います。そうでなければ民主党という組織を作ってい
る意味がないと思います。

 先日の勝利の後、羽田最高顧問が言っていましたように、「今回
のように皆が1つになれば自民党に勝てる」のですが、その「1つ
になる」というのは、単なる心構えの問題にとどまらず、具体的な
行動のあり方について「相互研鑽と個人の決定権」とを正しく結合
することを意味していると思います。

 「チームプレーと個人プレーとが半々の党」を目指すべきだと思
います。

 以上、衷心より私見を申し述べました。(引用終わり)

 残念ながらこのメールには秘書からも小沢代表からも何の返事も
いただいておりませんが、上の新聞記事を読めば分かりますように
事実上、一歩を踏み出したのです。

 これは評価したいと思います。

 同時に、全体像を描いてから行動する哲学主義的なやり方と、全
体像はともかくできる部分からやる経験主義的なやり方との違いも
よく分かる例だと思います。