ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

鬼追明夫

2009年06月04日 | ア行
                無職 Y(兵庫県三木市 62)

 日本漢字能力検定協会の新理事長に鬼追明夫氏が就任した。

 〔かつて〕勤めていた信金が破綻した際、私は整理回収機構に拾われ、5年間ほど勤務した。入社した2002年当時の社長が鬼追氏だった。

 当時、上司から「整理回収機構社員という地位を利用して債務者から便宜を図ってもらうようなことはするな」と注意された。法令順守はどの会社でも当たり前である。

 ところが鬼追氏は社長だった当時、債務者企業から月10万円の顧問料を受領していたことが、昨年(2008年)01月に明らかになり、09月には大阪弁護士会から懲戒処分を受けた。部下に「便宜を受けるな」と指示する立場にいた当人が便宜提供を受けていたのである。

 鬼追氏は理事長就任後の会見で、大久保昇前理事長が退職の事実がないのに退職金を受領していたことなどについて、「あきれてものが言えない」と批判した。前理事長を批判する資格が鬼追氏にあるのかどうか、私は問いたい。

  (朝日、2009年05月16日。声欄)

教育の広場、第203号、学校にオンブズ講座を

2009年05月29日 | ア行
 (2005年)06月11日付けの朝日新聞夕刊に「架空の街でやりくり体験」と題する記事が載っていました。

 「架空の街で住宅ローンを組んだり食べ物を買ったりし、生活設計について体験学習する『ファイナンス・パーク』が、品川区の或る中学校に『開店』した」というものです。

 アメリカに本部を置く経済教育団体「ジュニア・アチーブメント」が学習プログラムを提供しているそうです。

 これから分かりますように、実生活と密着した経済生活についての体験学習講座はアメリカを先頭にしてかなり出てきていると思います。

 一番良く知られているのは株取引の体験学習で、今はインターネットのバーチャル取引に取って代わられたのでしょうけれど、しばらく前までは日本の証券取引所の外郭団体でも扱っていたと思います(今でもまだやっているかもしれません)。

 しかし、社会全体を見てみますと、公正な社会を目指す我々の観点から見て一番必要で、多分最も欠けているのは、政治と行政の制度を点検し、公務員のあり方を監視する知識と技術の学習だと思います。つまり、市民オンブズのやり方を学ぶ講座こそが一番必要だと思うのです。

 オンブズは北欧で始まったとか言われていますが、そして日本でもかなり前から市民オンブズが出来て、バラツキはありますが、がっばっていると思います(北欧では公的なオンブズが多いようです。日本にも公的なオンブズも少しはありますが、公的オンブズの活躍はあまり聞いたことがありません)。

 しかし、少しでもそれに協力したいという人がそれを学ぶ講座があるのでしょうか。私は知りません。正直に申して、私は遠州オンブズパーソンの一員ですが、情報公開制度を少し利用したことがあるだけです。

 ですから、目標としてはオンブズの知識を学ぶ講座を中学校以上の学校に義務づけることが必要だと思います。政治から逃げている日本の学校でこれを実現するのは大変でしょうが、それを追求することは、経済の体験学習以上に大切だと思います。

 他方、民間で自由に出来る事としては、それぞれの役所のホームページに対するカウンター・ホームページを作ることだと思います。そこでやるべき事は、第1に、行政の仕組みを明確にし(これが複雑なのがまず問題)、検討することです。

 第2に、公務員の1つ1つの活動を解明し(公務員は上に行けば行くほど自分の活動や考えを発表したがらない)、検討していくことだと思います。

 こういう活動のやり方を学べる講座を(なるべくインターネット上に)作ってほしいと思っています。もし既にどこかにあるのなら、教えてください。

 昨年度1年間自治会長をして、町長や教育長の無為無策ぶりを目の当たりにしましたが、それに対して有効な手を打てない1町民の無力感を覚えもしました。

 今、ブログ「ポランの広場」(役人天国の実態を解明し、公正な社会を目指すブログ)を「シンクタンク『ポランの広場』の設立を目指す仲間たち」の名目で立ち上げようと思っています。

(2005年06月12日)



岩手県(01、実力)

2008年11月19日 | ア行
 一ノ関から岩手県に入った東北新幹線は、北上川沿いの沃野を進む。田んぼの黄緑と、人家を囲む林の深緑との対比が美しい。北海道に次いで広い県だけに、県北の二戸駅はまだ6つも先だ(フル規格新幹線駅7駅は都道府県最多)。

 小京都のような風情のある県都・盛岡の冬の冷え込みは有名だが、北上高地を越えて2時間の太平洋岸・三陸地方では、常緑樹が茂る岬と群青色の海の対比が四季を通じて鮮やかだ。

 名山、高原、海岸景観、鍾乳洞、山海の食材、地酒に地ビール、いずれも日本最高水準のものがある。

 時流に先駆け己を貫く人物を輩出する。平安後期の平泉に100年の平和を築いた奥州藤原氏3代。維新の先駆者・高野長英。藩閥政治を打倒した原敬。時代を超越する作品を残した宮沢賢治や石川啄木。彼らの伝統は、今も有名無名の県民に受け継がれている。

 質朴な土地柄を反映し、人口当たりの交通事故死傷者数や刑法犯認知件数は都道府県46位。県立病院網の充実で人口当たり通院者率は全国1位だが、予防医療の成果で、受給対象者当たりの老人医療費は44位。

 食料自給率も100%を超えて全国5位。安心・安全を求めるなら、当地への移住はお薦めかもしれない。

 記憶をひっくり返してみても、あれ以上の紅葉を見たことがない。一面の黄色と橙色の中に深紅を交えた優美な山体が、真っ青な湖面に映える。県南端、一関市の須川高原温泉から歩き出し、昭和湖から栗駒山を見上げたときの眺めだ。

 先般の地震の復旧も進み、温泉の営業も再開。県内の他の観光地に被害はなかった。秋の黄金のひととき、豊潤な北の山と海に行かれては。

  (朝日、2008年08月30日。
 (地域経済アナリスト藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

岡山県(01、実力)

2008年11月16日 | ア行
 キャッチフレーズは「晴れの国」。県都岡山の年間快晴日数37日は47都道府県で5位(2006年)、降水量773㍉で最下位(2007年)と、雨の少ない瀬戸内地方の中でも際立つ。とはいえ県北の豊かな森林に涵養された吉井川、旭川、高梁(たかはし)川の恵みで、水不足にも強い。

 桃、ブドウなど、日照に育まれ甘みの強い高級果物の産地でもある。

 広島や山口に比べ平野も広く、吉備の国と呼ばれた古代から生産力は際立っていた。巨大な前方後円墳のベスト3は大阪府内にあるが、4番目は関西ではなく当県にある。

 新幹線に加え山陰や四国など9方面からの列車が集まる岡山駅は、3大都市圏以外では随一の鉄道結節点だ。経済的に一体性の強い岡山市・倉敷市の広域都市圏人口は146万人(2005年)と広島都市圏に見劣りなく、政令指定都市以外では最大規模。水島の大工業地帯もあれば、ベネッセ、林原など、個性的な地場大企業も多い。

 にもかかわらず、岡山市街地のにぎわいは広島に比べればぐっと地味だ。広島のようにプロ野球やプロサッカーの応援で盛り上がる伝統もない。当県の実力はむしろ、上品な家具調度の集められた私的な空間におじゃますると実感できる。

 たとえば昔ながらの蔵が日本有数の集積密度で残る倉敷市の旧市街。美観地区が有名だが、その東の町屋地区では店や蔵の再利用が進み、旅人でも当地の居住文化の一端を味わえる。蔵を快適なサロンやギャラリー、カフェなどに造り替え市民に開放している方々、それを支える建築家集団の方々と思わぬ出会いもあるかもしれない。数字に出ない地域の奥深い魅力を知る機会が、ここにはある。

  (朝日、2008年09月06日。
(地域経済アナリスト藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

教育の広場、第 308号、議員の通信簿

2008年02月09日 | ア行
 地方議会を市民が傍聴して議員の仕事ぶりをチェックする動きが全国に広がっているそうです。2008年01月11日の朝日新聞が小さな特集記事を載せました。

 そこに載っていた一覧表には、仙台市、多摩市、小平市、国立市、東大和市、相模原市、藤沢市、蓑面市、尼崎市のそれぞれのグループのほかに、数市にまたがった連絡会議というのもありました。

 こういう市民の動きの先駆けは、今年で10年目を迎える「相模原市議会をよくする会」だそうです。この会については昨夏、その一員の方が朝日新聞の声欄に投稿していました。

 今回の報道によりますと、その会では、本会議だけでなく、5つの常任委員会も手分けして漏らさず傍聴し、結果は年4回発行する会報に載せるそうです。そのほか、市議選直前には「議員通信簿」としてまとめて、4000部配付するそうです。

 この会は1999年06月、3人の主婦の呼びかけで集まった23人で発足したそうです。

 まず、直面したのは議会の閉鎖性で、審議資料は傍聴者には配付されず、やりとりを聞いても意味が分からない。議会運営委員会も非公開だったそうです。

 資料は3年がかりの交渉で傍聴者にも配付されるようになったそうです。議運も公開されるようになりました。そして、2003年に初めて通信簿を発表した時の議員からの反発は予想以上だったそうです。

 8年あまりの活動で、ヤジや居眠りはめっきり減ったそうです。行政を厳しくチェックする議員も増えたそうです。

 さて、こういう動きを知っての感想をまとめます。

 1、これは立派な活動だと思います。と言うより、当然の活動だと思います。「当然の」と言うのは「当然あっていい」という意味です。

 一般的に言うならば、裁判員制度も始まるという時代です。市民が公人の活動を監視し評価するという活動一般として考えるならば、なくてはならない事であり、これ位の事をする人が出ない方がおかしいと思います。

 それなのに、こういう団体がたった10個くらいしかないのです。あまりにも少なすぎると思います。

 2、行政の不適切な支出を監視するオンブズパーソンといった活動が大きく報道されたのはいつの頃でしたでしょうか。多分、十数年前の事だったと思います。裏金や預け金が暴露され、世間に衝撃を与えました。それはその後も続いており、かなりの成果を挙げたと思います。

 しかし、その活動はどれほど大きくなっているでしょうか。私も一部かかわってきましたが、必要性に比して十分に大きくなっているとは言えないと思います。

 3、ここ十数年の間の大きな変化はインターネットの普及です。そして、ここ数年のブログの普及です。これは何を意味するかと言いますと、我々市民に無限に近い発言の手段を与えてくれたということです。

 ホームページでもそうでしたが、ブログは一層簡便な手段を与えてくれました。しかも、ブログは目次か索引を付けてリンクを張れば辞書にすることも出来るのです。これはものすごくありがたいことです。

 しかし、市民はこの手段を十分に使っているでしょうか。残念ながら、否です。

 ホームページとブログによって、市民は役所や学校など公的な機関のカウンター・ホームページを自由に作れるようになったのです。しかし、そういうものはほとんど作られていないと思います。

 個々の不正などを暴露することはありますし、意見の表明もあります。しかし、公的機関の本当の姿は個々の事実の暴露では分かりません。全体像を明らかにしければならないのです。ですから、そのためにはカウンター・ホームページが必要なのです。しかし、それを作ろうという人が出てこないのです。どうしてなのでしょうか。理解できません。

 たしかに本格的なカウンター・ホームページを作るのはものすごく大変だと言う反論はあるでしょう。しかし、例えば公的機関の「ホームページの批評」だけでもいいと思うのです。公的機関はどこも「全体的真実を隠すために個々の事実を発表する」ホームページを作っています。それを批評するのです。そして、欠けている点は相手にメールで質問して補い、本当の姿を明らかにしてゆくのです。

 これなら議会の傍聴に行くより簡単です。居ながらにして出来るからです。1人でやってもいいと思います。そういう人たちがネット上で連携するという手もあると思います。

 もちろん始めから仲間でやる手もあります。その場合は、仲間とのメールでの連絡のほかに時には会合も必要でしょう。しかし、いずれにせよ、大した問題ではありません。

 こういうカウンター・ホームページに多くの人が係わるようになったら、行政に影響力を与えることができると思います。いわゆる行政だけでなく、腐敗しきった学校や大学にも影響を与えることが出来ると思います。

 しかし、現実にはそこまで行っていません。あるのはおかしな「裏サイト」だけのようです。あまりにも情けない現実だと思います。


英語教育の改革案を評す(現状を調査してから発言すべし)

2006年11月16日 | ア行
 (2001年)01月20日の朝日新聞に次のような記事がありました。

 文部科学相の私的諮問機関である「英語指導方法等改善の推進に関する懇談会」はコミュニケーション能力の向上を重視して英語教育を見直す、との報告書をまとめた。学ぶ楽しさや意義を理解させ、教師が教え込むだけではなく、生徒が表現することを多く採り入れ、評価や入試でも話し聞く能力を重視する必要があると提言している。
(中略)

 報告書は、従来の学校の英語教育が英文和訳や文法などに偏り、過度に細部にこだわりがちだったと指摘。英語で積極的にコミュニケーションをはかる意欲を育てることを重視した。

 その上で、少人数指導や習熟度指導を行い、会話能力も評価すべきだとした。リスニングテストを高校入試で増やし、大学入試センター試験でも早急に実現させるように求めた。──

 これを内容によって分けて箇条書きにしますと、次のようになるでしょう。

1、英語教育の重点を、英文和訳や文法から会話に移す。

2、授業形式としては、少人数指導と習熟度指導を取り入れる。

3、リスニングテストを高校入試では増やし、大学入試では取り入れる。

 たしかにこの結論なり方向なりには余り反対する人はいないだろうと思います。しかし、私はこういう提言を聞くといつも思うのですが、自分たちの意見をもっともらしく見せかけるために、相手の意見というか現状をあまりに極端に描き出す癖があると思います。

 例えば、大分前から問題になっています「ゆとり教育」とか「生きる力」とかの主張の場合でも、すぐに「今までの教育は詰め込みだったから」と簡単に決めつけて、それに対して自分の主張を出すというやり方です。

 今回の場合も、教師が教え込むとか、英文和訳と文法などに偏りとか、過度に細部にこだわるとか、現状を非常に単純化して批判しています。

 しかし、現状を全体として見た場合、本当はどうなっているのでしょうか。高校卒業時に英検2級に合格している人の割合はどのくらいなのでしょうか。そして、そういう人はどういう勉強をして2級に合格したのでしょうか。学校の授業の力はどの程度だったのでしょうか。

 私は大学の1年生にドイツ語を教えていますが、最初のアンケートで「これまでの英語の授業についての感想」を聞きます。その回答を読むと、全体としては、中学の英語の時間はいろいろな工夫があって楽しかったという人が多く、高校の英語の授業は翻訳と文法ばかりで詰まらなかったという人が多いようです。もちろん、中には、英語でディベートをしたとかいった報告もあります。

 こういう事を考える場合の問題は「割合」だと思うのです。それを調べるのは難しいことですが、例えば、英語「で」授業をしている授業の割合、ディクテーションを取り入れている授業の割合、英検2級合格者の割合、などです。

 そして、その原因を調べて、その割合を増やすにはどうしたらいいかと考えるべきだと思うのです。現在の公立中学でさえ、英語でのディベート授業を取り入れているような先生もいるのです。そういう工夫をしている先生を探して紹介することも大切だと思います。

 民間の英会話学校の校長の中には、学校の英語が会話に傾いてきているのを嘆いて、しっかり文法を学ぶことが会話の基礎だという人もいます。そういう意見もしっかり聞いてみる必要もあると思います。

 私は、語学の授業は原則として総合的であることが一番大切だと思います。つまり、文法と読解と作文と聴解の4つを満遍なく勉強し、その仕上げとして会話をするような授業であるべきだと思います。そして、1回1回の授業の中で以上の4つないし5つの要素のどれか1つをするのではなく、最低でも3つはするようにするべきだと思います。つまり1回の授業の中にいろいろな要素があって、生徒を飽きさせないようにすることが大切だと思います。

 この提言のようになるととても浅薄な「会話能力」とやらが出来て、いずれ、どこかおかしいのではないかと後悔することになるのではないかと危惧します。

 注・これはメルマガ「教育の広場」第21号(2001年01月24日発行)に調査なくして発言権なし」という題名で発表したものです。

親の仕事

2005年10月29日 | ア行
 私は「家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強だけを教えるのが教師の仕事」と考えています。これはこれまでにも繰り返し述べたと思います。これはここでは論じません。もちろん異論のある方はどうぞ発表して下さい。

 そういう考え方に立ちますと、「学ぶ姿勢」の出来ていない生徒とか、親に相談するべき事を持ちかけてきた生徒には、「親に相談してほしい」と言うことになります。これまでにも何人もの学生にそういう事を言ったことがあります。

 その結果として分かった事をまとめたいと思います。私の個人的経験ではなく、見たり聞いたりしたことも含めてまとめます。

 第1に、そのように言っても実際に親と話し合う生徒は極めて少ないということです。これが問題だと思います。子供の成長にとっての親との対話の重要性については、本メルマガでも第71号の「会話と成績」(2002年03月09日発行)で考えました。

第2に、親と相談する人もいるわけで、その場合、親がどういう態度を取るかです。問題の事例をきちんと聞いて、親としての意見をきちんと言うのが理想ではあると思います。そういう親もいます。その場合には問題はたいてい解決します。

第3に、しかし、一応は子供の話を聞きますが、問題の内容に立ち入って考えないで、ただ自分の子供が面倒な事を起こさないようにという考えから、「意地を張らないで、単位を落とさないようにしろ」などと言う親もいます。これは子供に現実迎合か事大主義か事無かれ主義を教えているわけで、賛成できません。問題は解決せず、生徒も成長しないようです。

第4に、これとほとんど同じだと思いますが、「自分で言えばいいじゃない」と子供だけで解決するように言う親もいるようです。

 これは、親が保護者であることを忘れている点で、従って問題の内容によっては親が出ていって子供を守らなければならない場合もあることを忘れている点で、まず間違っていると思います。

それに、子供に言わせるとしても、「相手に直接言う」ということがいつでも正しいかのように言っている点でも間違っていると思います。

世の中の問題は相手に直接言うのが一番好いとは限りません。むしろ、間に誰かを入れて交渉した方が好い場合の方が多いくらいだと思います。従って、大人になるということは、どういう問題の場合はどういう風に持っていくのが適当かという判断力を身につけることでもあると思います。

ですから、子供が何かの問題を親に訴えた時は、そういう事を考える練習にこそするべきで、「自分で直接言え」と突っぱねるのは最低だと思います。親の責任放棄になる場合も多いと思います。

第5に、逆に、親が出て行きすぎるとか、間違った出方をする場合もあるようです。

先日の報道でこんな事がありました。沖縄の小学校でのことですが、いじめられた子供の親が学校に無断で入っていって、いじめた子供たちを廊下に呼び出して平手でなぐったそうです。

これに対して、学校は親の構内立ち入りとなぐったことだけを問題にしているようですが、いじめを防げなかったことこそまず学校は反省するべきではないでしょうか。

その親は、いじめられた自分の子供には「やられたらやり返せ」と言ったそうです。こういう事を言う親も多いようですが、間違っていると思います。まず、いじめる側はたいてい数人でグルになって、1人の相手をいじめるのです。やり返しても更にやられるだけです。

根本的には、子供自身がやり返すにしても、親が代わってやり返すにしても、気持ちとしては分からないでもありませんが、間違いだと思います。日本は法治国家であって、暴力で個人的に報復することは認められていないと思います。

ついでに少し関連したことを述べます。

昨年(2002年)の大阪の池田小学校での8人の児童殺害事件以来、学校の防犯対策が問題になっているようです。

(2003年)06月15日付けの朝日新聞には、或る大学の教授が防犯対策について親や教師や大学生の意識を調査した結果が載っていました。

それをみて私が注目したことは、「(小学校の)低学年では、教師は休み時間も教室にいて、常に子どもを視野に入れておく」という項目への賛成が5割だったという点です。朝日紙はそれを「それへの賛成も5割あった」と、あたかも予想より多かったので驚いたと言わんばかりの書き方をしていました。

私の驚きは、「たった5割しかないのか」です。これは本メルマガの第5号「隠しカメラのどこが悪いのだろうか」と関係します。

 私の意見は「ドイツの学校がそうであるように、生徒は校門を入った時から出る時まで、誰かの教師が見ていなければならない」が原則で、それが出来ない場合には、「隠しカメラ」ではなく「公然カメラ」を設置するのは止むを得ない、というものです。

何人かの人から感情的な反発を受けましたが、その反対した方々はその後どう考えているのでしょうか。今回の防犯対策の問題を含めて、ぜひ冷静な意見を発表してほしいものです。

「ここでは外部からの犯罪が問題になっているのだ」と言うかも知れませんが、それは違います。外部からの犯罪と内部での犯罪(生徒の間でのいじめや万引きなど、教職員によるいじめやセクハラなどの犯罪等)を一緒に考えられない所がそもそも根本的に間違いなのだと思います。

元に返って、自分の発言した事についてはその問題が終わるまで、ずっと考えつづけて責任を取るのが大人の態度だと思います。考えが変わったら、理由を付けてそれを言うべきだと思います。

これは大学教員の任期制反対の理由についても言えます。その時、任期制に反対する理由として持ち出されたものの1つは「任期制では長期的な視野に立った研究が出来なくなる」というものでした。

今、国立大学の独立行政法人化の問題の中で、反対する人達の挙げる主な理由の1つがそれです。しかし、それを聞いていて思うことは、その時、「その後、部分的に実行れている任期制で長期的な視野に立った研究ができなくなったのか」の検討が全然ないことです。

自称研究者である大学教授がこのように関連する出来事を関連させて考えることが出来ないのです。こういう教授たち自身は「長期的な視野に立って研究していない」のでしょう。

独立行政法人化の問題は回を改めて考えるつもりです。

(メルマガ「教育の広場」2003年06月16日発行)

教育の広場、第 135号、英会話教育の方法

2005年10月13日 | ア行
 先日、NHKラジオで「最近の」英会話ブームを取り上げていました。ゲストには立教大学教授の鳥飼久美子さん(多分、同時通訳者)とスポーツキャスターの荻原次晴さんを迎えていました。

 荻原さんはかつてスキーの複合競技の選手として外国での試合などで英語の必要性を感じたと話していました。鳥飼さんは、「戦後ずっと英会話ブームだったのではないか」とか言って、その口調からして日本の英語の勉強のあり方に批判的のようでした。

 高校で英語を特別重視する学校が認められているとか。どこかの高校の様子が紹介されていました。聞くと、高校1年で数学と化学の授業をそれぞれ週1回英語でするそうです。しかし、その内容は事前に日本語で教えてあるそうです。

 スクラップブックを見てみますと、2002年04月28日に「スーパーハイスクール」の指定がなされたとの記事がありました。理数か英語を特別重視した授業をしていいそうです。全国で44の高校がこれに指定されたそうです。

しかし、こんな週1~2回の英語での授業で「使える英語」が身につくのでしょうか。更に、その記事には教育評論家の尾木直樹さんの話も引用されていましたが、そこには「才能豊かな子どもの力を伸ばすのはいいとしても、そうでない子どもへの支援がなおざりにされるとしたら問題だ」とありました。

私の知っている範囲ではドイツなどでは大学生はほとんど皆英語が話せます。いや、大学生でなくても英語の使える人はたくさんいます。なぜでしょうか。中学高校で「ダイレクトメソッド」で英語の授業がなされているからです。そして、その前提として少人数学級が実行されているからです。

私の考えは以下の通りです。

「使える英語」などというものは大したものではないが、必要ではあります。それを教えるには中学と高校の英語の授業(だけでも)を少人数学級(1クラス10~15人)にして、「ダイレクトメソッド」で教えればよいのです。文法などを日本語で説明する時間は中学2年頃からせいぜい週1時間やれば十分だと思います。

私の見学したドイツの高校1年にあたるクラスの英語の授業は、辞書など誰も持っていませんでした。英語のテキストのプリントでやっていました。新しい単語の説明はプリントの最後についていました。もちろん英語での説明です。

授業は完全に英語でした。先生が英語で説明し、質問し、生徒は英語で答えていました。私語への注意も英語でした。なお、この高校は特別の高校ではありません。ただし、人数は15人くらいでした。

「スーパーハイスクール」などと名前だけおおげさな事をしないでも、すべての英語の授業をこのように改革すれば、「使える英語」は簡単に身につくはずです。

こう考えると日本に欠けているのは、少人数学級という前提であり、英語で授業の出来る先生だということが分かります。

英語の先生の実力アップについては動きだしているようでもあります。2002年07月12日の朝日新聞は「英語教員6万人に研修」という見出しの記事を載せました。

その記事によりますと、文部科学省は2003年から5年間かけて現職教員6万人に研修をほどこすそうです。これで高校卒業時に皆が英検準2級以上、通常の会話ができるようにするそうです。

この教員の能力アップは大切です。先のラジオ番組でも韓国や中国で英語をどう捕らえているか、またどのような対策を立てているかも紹介されていましたが、中国では教員の研修がすごいそうです。

教員のレベルアップには賛成ですが、方法には必ずしも賛成できません。こんな事は英語の資格試験の点数を決めて、「いつまでに自分で勉強してくるように」と言うのが正しいと思います。それに合格しない人は「不適格教員」として別の仕事についてもらえばいいことです。こんな研修に大金を使う必要はないと思います。

それ以上に、この案には先に述べました少人数学級という大前提が欠けています。この案は「有識者懇談会」を設けてまとめたそうですが、大した有識者たちだなと感心しました。

最後に、大学でも「使える英語」とやらが求められていますが、情けない話です。「使える英語」は大学に入るための前提条件です。大学でやることではありません。

大学は学問の府です。そこでは言葉の本質を考え、英語(個別言語)を科学的に理解するとはどういうことかを研究し教えるべきだと思います。

(2003年08月15日発行)