ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

生活のなかの哲学

2006年11月29日 | 業績一覧
   牧野紀之著、鶏鳴出版、1972年10月初版発行 (絶版)
 B6版並製、254頁、定価1470円(本体1400円+税70円)

 ヘーゲル哲学を生活の中の事柄と結び付けてかみくだいた、あるいは逆に生活の中の問題をヘーゲル哲学と結び付けて考えた哲学的随想集です。

       (第3版の)目次

   ヘーゲル哲学と生活の知恵

 1、絶対的とは何か
 2、真理とは何か
 3、個別とは何か
 4、哲学と生活

 説明・「同じ言葉でもヘーゲルの用語法は日常的な使い方と違う」という説に反論しています。

   かわいい子には旅をさせろ

 1、発達の最近接領域説
 2、唯物論と観念論
 3、かわいい子には旅をさせ

 説明・唯物論と観念論との本当の違いを説明しています。

   子供は正直

 1、アダムとイヴ
 2、恥を知る
 3、労働
 4、子供は正直

 説明・アダムとイヴの神話の現実的な意味を考えることを通して、人間にとっての思考能力の意味を考えています。

   恋人の会話

 1、みにくいアヒルの子
 2、精神現象学
 3、なぜ?
 4、恋人の会話

 説明・個人の意識と考え方の発展を説明しています。

   価値判断は主観的か

 1、サルトルの実存主義
 2、ヘーゲルの弁証法
 3、マルクスの唯物史観

 説明・価値判断は主観的で客観性がないという考えを批判し、唯物史観を説明しています。

   ダンス哲学

 1、変化とは何か
 2、発展とは何か
 3、自然と芸術

 説明・本当の自然を実現することが芸術であるという考えを説明しています。

   昭和元禄と哲学

 1、昭和元禄
 2、子供は人間自体である
 3、40歳の人は顔に責任がある
 4、かけがいのない人

 説明・ヘーゲルの普遍・特殊・個別概念は我々の考えと同じだと説明しています。

   素質・能力・実績

 1、素質
 2、能力
 3、実績

 説明・可能性と現実性と必然性とは何かを説明しています。

   英雄やーい

 1、時代の子
 2、英雄と民衆
 3、君が英雄だ

 説明・体制内指導者と革命的指導者との違いを考えています。

   人を見る眼

 1、人間社会は集合社会である
 2、このバラは赤い
 3、この草は薬草である
 4、人を見る眼

 説明・判断力の高低を認識論的に分析しています。

   「パンテオンの人人」の論理

 1、思考の出発点と叙述の方法
 2、過去への主体的反省
 3、歴史の論理的考察
 4、未来を指し示す現在

 説明・ヘーゲルとマルクスの言う「概念的理解」とはどういう考え方かを説明しています。

   辞書の辞書

 1、言語とは何か
 2、意味とは何か
 3、分かるとはどういうことか
 4、辞書とは何か

 説明・辞書とは何かを考えています。

   美しい論理的な日本語のために

 1、言語の無限の可能性
 2、十を知って一を書く
 3、結論が全てを支配する文章
 4、朗読に耐える文章
 おわりに

 説明・論理的な文章の書き方を説明しています。

 付録1・「生活の中の哲学」とは何か

 付録2・パンテオンの人人(牧野英一)


労働と社会

2006年11月28日 | 業績一覧
 牧野紀之著、鶏鳴出版、1971年10月初版発行
 B6版並製、245頁、定価1418円(本体1350円+税)

      内容説明

 弁証法をその発生の根拠から内在的に理解した「弁証法の弁証法的理解」を序論として収める。

 マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」の体系的理解を試みた論文「『フォイエルバッハ・テーゼ』の一研究」。

 人間が労働し社会を作ることで動物から別れたことの内容と意味を解明して、史的唯物論を論理的に再構成して捉えなおそうとした
「労働と社会」。

 ヘーゲル生誕200年にその現代的意義を論じた「現代に生きるヘーゲル」。

 許萬元の画期的な労作『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を解説しつつその意義を解明した「許萬元著『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を論ず。

       目   次

 序論・弁証法の弁証法的理解

『フォイエルバッハ・テーゼ』の一研究

労働と社会

 第1章 労働の論理的性格
  第1節 ヘーゲルの目的論
  第2節 パヴロフの第1信号理論
  第3節 労働の論理的性格

 第2章 社会の論理的性格
  第1節 エスピナの集合社会論
  第2節 社会の論理的性格

 第3章 労働と社会
  第1節 マルクスにおける生産力と生産関係
  第2節 労働と社会

現代に生きるヘーゲル

 第1節 自然と精神
 第2節 人間の有限性
 第3節 人間の無限性

『パンテオンの人人』の論理

許萬元著『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を論ず


「業績」の目次

2006年11月27日 | 業績一覧
     「業績」の目次

囲炉裏端(2006年12月16日

初版資本論第一章及び付録(2006年12月23日

辞書で読むドイツ語

小論理学(2006年12月21日

生活のなかの哲学(2006年11月29日

精神現象学(2006年12月24日

西洋哲学史要(2007年05月04日

関口ドイツ語学の研究(2006年12月08日

先生を選べ(2006年12月02日

哲学の演習(2005年06月15日

哲学の授業(2005年06月14日

哲学夜話(2006年12月10日

ヘーゲルからレーニンへ(2006年12月11日

ヘーゲル研究入門(2006年12月09日

ヘーゲル的社会主義(2006年12月17日

ヘーゲルと自然生活運動(2006年12月15日

ヘーゲルと共に(2006年12月14日

ヘーゲルの修業(2006年12月12日

ヘーゲルの目的論(2006年12月03日

マルクスの空想的社会主義(2005年06月12日

理論と実践の統一(2006年12月22日

労働と社会(2006年11月28日


論文一覧(2006年12月04日




号外、お知らせ

2006年11月26日 | 挨拶
号外、お知らせ

 ブログを使ってホームページを作る事がかなりの程度まで出来る
のではないかと思うようになりました。

 ブログは日記を前提していますので、その日付を本の頁として使
うのです。

 自分としては「大発見」のつもりで、この考えに基づいてこれま
で出してきましたブログ(「教育の広場」、「浜松・静岡・日本」
)を整理しました。と言っても、目次を作り、1つ1つの項目に(
頁の代わりに)掲載日を付しただけです。

 しかし、これだけでもブログ全体が1つにまとまり、使いやすく
なったと思います。情報は整理されていなければ何の価値もないと
いうのは本当だと思います。

 「国語辞書・マクシコン」と「浜松市役所の真ホームページ」は
初めから日付を頁数として使っています。

 なお、「国語辞書・マクシコン」に「関口存男」の項をアップし
ました。氏の著作と関口研究を紹介し、寸評を書きました。

 これらのブログにはすべて、ホームページ「哲学の広場」から入
ることが出来ます。

 http://page.freett.com/philoplatz/

 2006年11月26日
              牧野 紀之

教育の広場、第184号 再び、梅原猛さんの評論について

2006年11月24日 | 教育関係
教育の広場、第184号 再び、梅原猛さんの評論について

   (2004年09月21日発行)

梅原猛さんはこの4月から(だと思う)朝日新聞に月一回
「反時代的密語」というかなり大きなコラムを連載していま
す。夕刊の加藤周一さんの「夕陽妄語」と対になるものかもし
れません。

 内容は最近の氏の発言を繰り返したものですが、教育勅語は
本当の神道から離れているとか、環境保護の問題とかで、支持
できる内容です。

 今日09月21日のそれは諫早湾の干潟の埋め立ての問題を取り
上げ、自分が「ムツゴロウ」というスーパー狂言を書いたこと
を踏まえて、最近の佐賀地裁の決定に触れています。

 氏の主張の内容はおおむね支持できるのですが、相変わらず
自分の特に行政的実績について語っていないのが残念です。教
師としてどういう事をしたのか、学長としてこういう日本の動
きに対してどういう事をしたのか、これが述べられていないの
です。

私は本メルマガの第 103号で梅原猛さんの「中教審の中間報
告批判」を取り上げて、主張している事は立派だけれど、自分
の公生活での実績が報告されていないのが残念、と書きまし
た。今回も同じです。

敢えて私自身の事を言いますが、私は梅原さんと違って大し
た地位に着いていませんが、それでも大学の教員は授業に関し
てはかなりの権限を持っていますし、今やっている自治会長も
法律上の権限はほとんどないようですが、地域での事実上の権
限なら少しはあります。

教師としてその権限をどう使ったかは報告しています。自治
会長として私が何をしてどういう成果を挙げたか、あるいは挙
げなかったかはいずれ報告するつもりですが、私はこれらの小
さな権限を 120パーセント活用して、自分の考えを実行し、行
政の間違いと戦っているつもりです。

私よりはるかに大きな権限のある地位に着いている(あるい
は、着いてきた)梅原さんなら、もっと大きな事をしていても
いいはずです。私はそれを「していない」と決めつけるのでは
ありません。報告してほしいと言っているのです。

これはとても大切な事だと思います。なぜなら、これまでの
革命も改革もそれが本当に正当なものだったか否かは、結局、
新たに権限を握った人(たち)がそれ以前の人(たち)より「
総合的にみて」どれだけ好い行政を行ったか「だけで」判断さ
れるからです。

ソ連の社会主義時代の民主主義は帝政ロシア時代のそれより
悪かったくらいです。中国の革命の前と後の比較でも似たよう
なものです。一般にも、発言の持つ力というのは発言者の実績
によって左右される、というのは常識ではないでしょうか。

もう1つあります。

今日のコラムでは佐賀地裁の決定(干拓工事差し止め)につ
いて亀井農林水産大臣が意義申し立てをしたことを非難して、
梅原さんは「自民党はこの意義申し立てによって、これからの
時代に適応できない政党であることを示したが、当初この問題
に熱心であった民主党も今はほとんど関心を失ってしまったよ
うに思われる。このようなありさまでは、民主党に新しい時代
の政党としての期待をかけることは困難であろう」と述べてい
ます。

これにはがっかりしました。このように「与党もダメだが野
党もダメだ」と言うのが日本の無責任評論家の通弊だと思いま
す。しかも、「では自分はどうするのか」、選挙では何党に入
れるのか、といった積極的な発言はないのです。これでは思想
家とかオピニオンリーダーとは言えないでしょう。

政治とはどちらがベターかの世界なのです。これが分かって
いないようではどうしようもない。学生に政治に対する関心の
持ち方について何も話した事がないのでしょうか。情けない学
長です。

「民主党も今はほとんど関心を失ってしまった」と梅原さん
は言いますが、昨年秋の総選挙で民主党の菅代表(当時)は「
私が総理になったら1ヵ月以内に水門を開けてみせます」と言
っていたのを知らないのでしょうか。

こういう人が日本の知識人のトップとは困ったものだと思い
ます。


       日  本  語  疑  典

 09月20日の朝日新聞は、旭鷲山(きょくしゅうざん)関が大
相撲秋場所の中日を全勝で折り返したということを詳しく報じ
ていました。その中に次の句がありました。

──寄り切りはこの日で早5番。新入幕から3場所、一度も寄
り切りで勝たなくて有名になった力士と同一人物とは思えな
い。ましてや最近の引いて逃げ回る旭鷲山はどこへいったのか


「心を入れ替えてね。前に出るけいこをしているんだ。~」
──

私の気になったのは「最近の引いて逃げ回る旭鷲山はどこへ
いったのか」という「どこへいったのか」の使い方です。これ
は「好い点」が消えてしまった時に言う言葉ではないのだろう
か、という疑問です。こういう風に「悪い点」が無くなった時
に使っても好いのだろうかという疑問です。

代案としては、「最近の引いて逃げ回る旭鷲山は陰も形もな
い」とか「最近の引いて逃げ回る旭鷲山の姿はどこにもない」
とか「最近の引いて逃げ回る旭鷲山の跡はどこにもない」など
です。(この項は2004年09月21日執筆)

お断り・再編集のためここに移します。

教育の広場、第183号 お知らせを2つ

2006年11月23日 | 教育関係
教育の広場、第183号 お知らせを2つ

   (2004年09月10日)

 長らくメルマガの発行が出来ませんでした。夏休みはまず、毛沢
東の「実践論」をドイツ語から重訳しました。これが8月いっぱい
かかりました。

 今は、私が再話をしました波多野精一著『西洋哲学史要』(未知
谷)の増補版の準備をしています。お蔭様でこの本は好評ですが、
増刷を機に誤植などを訂正するだけでなく、要望の多い「索引」を
付けたり、いくつかの論文を加えることにしました。

 それと平行してHP「哲学の広場」を作っています。


       お  知  ら  せ(その1)

 私のホームページ「哲学の広場」、いわば第2期「哲学の広場」
ですが、それを公開しました。

 やはり私の技術で一番使いやすい「フリーシアター」を使うこと
にしました。前回のお知らせは撤回します。

 「ヘーゲル哲学辞典」も「メルマガの内容目次」もこれにまとめ
ました。従って、私のWEB上の仕事はこのHPと本メルマガの2
つになったわけです。

まだ至る所工事中で足の踏み場もないという感じですが、ともか
く公開しました。これから少しずつ充実させていくつもりです。よ
ろしくお願いします。

 URL・ http://page.freett.com/philoplatz/


       お  知  ら  せ(その2)

 友人の中井浩一さんの本が中央公論新社から新書ラクレの1冊と
して公刊されました。「徹底検証・大学法人化」(840円+税)
です。

 中井さんのルポもこれで6冊となりました。これまでの経験で培
ったものを全部出したと思えます。中井さんのルポもこれで頂点に
行き着いたと思います。

   目次

1章 法人化の見取り図
2章 行政改革の波とグローバル化の波
3章 新構想大学・筑波の挑戦と挫折
4章 東大医学部・97年の反乱
5章 文科省と国立大学の関係を問う

6章 国立大学協会の無為無策
7章 東大だけが生き残るのか
8章 「経産省VS文科省」という底流

お断り・これは掲載し忘れていましたので、ここに掲載します。


教育の広場、第187号 授業の善し悪しを論ずる難しさの一因

2006年11月22日 | 教育関係
教育の広場、第187号 授業の善し悪しを論ずる難しさの一因

   (2004年11月13日発行)

 第186号に対してNさんからコメントをいただきました。ありが
とうございます。まずそれを全文掲載します。

──1 次のように書いておられます。

## そうそう、言うのを忘れました。何人かの外国人に聞いてみ
た範囲では、外国で学級通信を出す習慣(みたいなもの)のある所
は1つもないようです。どうもこれは日本の学校の特徴のようです。

 外国のことを良くしっていないのですが。10何年か前にnyに駐
在していましたが、現地の学校と日本の学校を比べると生徒と先生
さらに、先生と父兄のコミュニケーションが非常に活発です。

 ↑の通信は書いたもの、を言っているようですが、バーバルなコ
ミュニケが非常に盛んであれば、こういう通信は不要と思います。

 また、私の息子の通った、現地の公立小学校(1年と3年)では、
作文を非常に重視していました。昔に比べても現在の小中学校は作
文が少なすぎる、とおもっています。小学校2年の担任(現地校)
の先生に会ったとき、作文を重視している、とおっしゃっていた。
とくに「観察力」が重要である、と。

 また、「ではこういう「議論のある通信」を出すにあたって最大
の推進力は何でしょうか。それは教師だと思います」

↑のように述べていらっしゃいます。小学校ならそう、ともいえま
すが、中学校では↑では困るのでは? 生徒が主体であるべきであ
り、その能力はあります。

2 日本語疑典 その1

「ある日思い切って、幼い頃通った教会に、母に付き添われ、車椅
子とタクシーで行ってみた」で十分だと思います。

 私も同感です。原文、グロテスクな響き、がありますね。「足」
のように「」をつければ、ユーモア感覚の文章にもなりえましょう
が。

  日本語疑典 その2

##「笑顔は絶やさない」ものではないでしょうか。「絶えない」
のは「笑い声が絶えない」とか「生傷が絶えない」とか「人の行き
来が絶えない」とかではないのでしょうか。やはり「いつも笑顔を
絶やさない」だと思うのですが。

 これは議論のあるところです。わたしは原文を取ります。理由は、
笑顔というものは、当人たちが、意識せずとも自然に出るもの、と
考えていますから。意識的に出す、のは、作り笑い、といいません
か?

 笑顔が絶えない教室、というのは十分ありえます。笑顔を絶やさ
ない、というのは、「苦しいときでも(踏ん張って、努力して、意
識的に)」という形容が付く場合に「も」妥当する表現になりま
す。──(引用終わり)

 少し考えた事を書きます。

 1、「バーバルなコミュニケーションが非常に盛んであれば、こ
ういう通信は不要だと思います」について。

 「こういう通信」を1つでも、出来れば私の挙げた3つをともか
く読んでから発言してほしいと思います。そうでなければ「こうい
う通信」が「どういう通信」か分からないと思います。

 つまり、授業の善し悪しについて発言する場合、自分の経験だけ
を基準にしている人が多いと思います。よほどの人でない限り、広
く調べることはしないでしょうから。

 しかるに、個人の経験はあまりにも狭いと思います。そして、残
念ながら、大多数の授業は内容も乏しく、授業方法の工夫も少ない
ものです。ですから、そういう経験を基準にすると、せいぜい自分
の受けた授業の中での善し悪しになると思います。

 それに、人間の心理として、自分の受けた授業を振り返る時は、
それを実際以上に美化しがちだと思います。

 私の授業について、「今までの授業と全然違う」とか「こんなメ
リハリのある授業は初めて受ける」と書いている生徒が何人もいま
すが、この生徒がもし私の授業を受けなかったら、多分、一生、こ
ういう授業があることを知らないで終わってしまうでしょう。

 ですから、私が前回提案したのは、自分の家の近くの図書館に次
の3冊の本を備えるように注文して、自分でも読んでみてほしいと
いうことです。

 (1) 田中正史著『?(なぜ)と!(びっくり)を見つけよう』
(KKベストセラーズ、本体1800円)

(2) 妹尾和弘編『私の目は死んでない』(評論社、本体1800円)

 (3) 牧野紀之著『哲学の授業』(未知谷、本体2200円)

 ちょうど中学と高校と大学の3つになっています。

 2、Nさんは、こういう授業の推進力として中学生以上では生徒
たち自身だと主張していますが、賛成出来ません。

この点については本メルマガ第14号(大学は自分で勉強する所か
)を見てください。多分、Nさんは本メルマガの読者になってから
まだ日が浅いのだと思います。又、上の3冊を見ていないから、生
徒たち自身でもこういう通信が出せると思うのだと思います。

3、「笑顔が絶えない」か「笑顔を絶やさない」かについては、
用例を集めた上で、それを踏まえて発言して下さい。

4、「父兄」という言葉は差別用語ですから使わない方が好いと
思います。

5、又、矢印などの記号はなるべく使わないで、読みくだして分
かりやすい書き方をしてほしいと思います。

6、率直な感想をお寄せくださったことについては感謝していま
す。又、同時に、別便でいただいた「日本文法管見」の中の「主語
の混乱?」についてのご意見は、近いうちに、HPの方に掲載する
つもりです。

お断り・これは掲載し忘れていたようですので、ここに掲載します。


教育の広場、第194号 ジャズ翻訳

2006年11月21日 | 教育関係
教育の広場、第194号 ジャズ翻訳

   (2005年02月21日発行)

 NHKのラジオ深夜便でジャズバイオリンというものがある
ことを知り、その演奏者である寺井尚子さんという人を知った
のは、昨年の春頃のことだったと思います。

 寺井さんはその番組の中でジャズバイオリンとクラシックバ
ァイオリンの違いを実演してくれました。「星に願いを」とい
う曲で、まず「私がもし今クラシックの演奏家だったら、こう
弾くでしょう」というのを演奏してくれました。次いで、「ジ
ャズバイオリニストとしての今の私はこう弾く」というのを演
奏してくれました。

 その説明の中でたしか「ジャズ演奏だからといってメロディ
ーを変える訳ではない」というような事を言っていたと記憶し
ています。私にはこの言葉がヒントになりました。

 私のような音痴が聴いても、寺井さんの2種の演奏ははっき
りと違っていましたが、メロディーは同じでした。

 ではどこが違うのでしょうか。ジャズには解釈が入っている
という説明もあるかと思いますが、そうではないと思います。
同じ曲を別々の人がクラシック演奏してもそこには解釈の違い
があり、演奏は違ってくると思います。

 ではジャズ演奏とクラシック演奏とどこが違うのでしょう
か。私には分かりません。ひょっとすると境界線はないのかも
しれません。

 さて、私がこの放送を聞いていて突然ひらめいたことは、
「(ヘーゲルやマルクスを訳した)私の翻訳はジャズ翻訳では
ないか」ということです。ジャズとクラシックの違いも定義で
きないのですから、説明はできないのですが、これまでの方々
の翻訳と私の翻訳の違いを表現するにはこの言い方が適当では
ないかと思ったのです。

 例を挙げましょう。ヘーゲルの哲学体系である「哲学の百科
辞典」(エンチクロペディー)の冒頭(序論)の第1節を松村
一人さんは次のように訳しています(岩波文庫)。これがクラ
シック翻訳だと思います。

・・哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によ
って承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識
を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりす
るという便宜をもっていない。

 なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者
ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神の
みが真理であるという最高の意味における真理を対象としてい
る。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および
人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての
神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われ
われがその対象を識っていることを前提しうるのみならず、そ
れを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならな
い、とさえ言える。

 このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表
象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作
用を通じまた表象作用に頼ってのみ、思惟的な認識および把握
へ進むものであることを考えただけでも明かである。・・

 これに対して、私のジャズ翻訳は次の通りです。

・・〔『哲学の百科辞典』ヘの序論においては、やはり、哲学
とは何かという問題から始めるのが妥当であろう。しかるに、
およそ科学というものを定義するには、その科学の対象を示す
のとその認識方法の特殊性を示すのとの2つの方法が考えられ
る。そこで、哲学とは何かに答えるのにこれら2つの方法は使
えないかと考えてみると〕哲学以外の科学は自己の対象を表象
によって直接承認されたものとして前提したり、〔その対象
を〕認識する方法を(その認識の始元についても〔その始元か
らの〕進展についても)すでに容認されたものとして前提した
りすることができるという長所を持っているが、哲学〔だけ〕
はそういう長所を持っていない。

 たしかに哲学は、まず第1に、その対象を宗教と共有しては
いる。哲学も宗教もその対象は真理であり、しかも最も高い意
味での真理である。すなわち神が真理であり、そして神だけが
真理であるという意味での真理である。

 更に進んで〔第2に〕哲学も宗教も〔単に有限物から切り離
された神だけを扱うのではなく〕有限物の領域も、すなわち自
然と人間精神も扱っている。両者共に、自然と人間精神とは互
いにどういう関係を持ち、またたそれらの真理である神に対し
てどういう関係を持っているかということを論じているのであ
る。・・

 言うまでもなく、角括弧の部分は私が補ったものです。特に
そこを中心にして両者を比較してみて下さい。私の訳には冒頭
に長い文が補ってあります。私はどうしてもこれが必要だと思
ったのです。というより、これがないと、哲学体系の始まりと
しては余りにもおかしいと思うのです。

 「哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によ
って承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識
を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりす
るという便宜をもっていない」なんて、いくらなんでもこんな
始まり方はないと思います。

 ではヘーゲルはなぜこういう書き出し方をしたのでしょう
か。ヘーゲルの頭の中では私が補ったような事が事実上あった
のです。ただ、それを書き忘れたか、余りにも当たり前だから
書く必要がないと思ったか、文章の書き方を知らないのか、そ
ういう事だと思います。ヘーゲルが悪文家と言われる所以で
す。

 しかし、これは絶対に書いてくれなくては困ります。普通の
人々はこういう「当然の事」に気づかないからです。いや、文
章としては当然の事も書かなければならない箇所だからです。

 私の翻訳には角括弧での補いが沢山あります。なぜそれを入
れるのか、どうしてそれが分かるのか、という質問をしてくだ
さる人がいます。恰好が良すぎますが、正直に言いますと、翻
訳をしているとヘーゲルの声が聞こえてくるような感じがする
のです。私はその聞こえた声を書いているだけなのです。

 という事は、聞こえなかった所には補いがなかったり少なか
ったりするということです。ヘーゲルは難解で知られています
が、難解な所は、ヘーゲル自身に分かっていなかったのに体系
にする必要上ごまかした所と、私(一般的に言って、読者)の
理解能力に原因のある所とがあります。後者も多いですが、前
者も結構あると思います。

 「精神現象学」は全訳が4つも出ています。それを比較する
のも面白いでしょう。

 金子武蔵さんの訳がクラシック翻訳の典型です。

 樫山欽四郎さんの訳は西研さんは「直訳に近い素直な訳文」
と評していますが、私見ではオソマツ翻訳の見本です。訳語を
無理に金子訳と違えようとしたこととドイツ語の力が足りない
ためでしょう。根本的には哲学の力がないのでしょう。

 長谷川宏さんの訳は広告の文によると「哲学書の概念を覆す
感動の新訳」だそうですし、木田元さんは「目からうろこの落
ちる思いがした」そうですし、ドイツ連邦政府は第1回レッシ
ング翻訳賞まで贈っていますが、今では間違いが沢山指摘され
ていますし、「長谷川さんの訳では分からない」というのが定
説と成っています。私見によればハッタリ翻訳です。

 私の訳はジャズ翻訳のつもりです。

お断り・再編集のためここに移しました。

教育の広場、第192号 顔のある教育長と顔のある校長

2006年11月20日 | 教育関係
教育の広場、第192号 顔のある教育長と顔のある校長

  (2005年01月16日発行)

 愛知県小牧市の教育長の副島孝さんがその「教育委員だより
」の第 103号(平成16年11月08日発行)で拙著『哲学の授業』
を論じて下さいました。まず、以下にその全文を掲げます。

 教育委員だより No.103   平成16年11月08日
 教育長 副島孝

     『哲学の授業』

 「哲学の授業」と聞いて、どんなことを連想するでしょう
か。普通は大学でしか、そんな授業は行われないでしょう。そ
ういえば、哲学の歴史のようなことを学んだ覚えのある人もい
るでしょう。しかし、『哲学の授業』(牧野紀之・未知谷)に
書かれている授業は、ずいぶんイメージの違うものです。著者
が浜松市立看護専門学校で行った哲学の授業を、教科通信「天
タマ」(看護師をめざす人たちの学校ですから「白衣の天使の
タマゴ」を略したもののようです)を基にまとめた記録です。

 読み進むと、著者の一言ひとことが胸に突き刺さる感じがし
ます。一節を引用してみましょう。

 「実際、世の中はでたらめなのです。しかし、皆さん自身が
このでたらめな大人の仲間入りをするのです。看護師になっ
て、最初は学校で習ったとおり『お世話させていただく』とい
う気持ちで一所懸命やるでしょう。しかし、そのうち仕事にも
慣れ、2年たち3年たつと、給料や休暇のことの方に関心が移
っていくのです。そして、知らぬ間に、今皆さんが軽蔑してい
る怠惰な教師や実習で疑問を感ずる看護師と同じような人間に
なっているのです。人間が分かれるのはこの後のことだと思い
ます。がんばっている人は、かつてそういう反省をして、出来
るだけの努力をしようと考えを改めて再出発してきた人なので
す。」

 著者は、60年安保世代の人です。当時の学生運動の失敗を、
「本質論を前提にしてしまって、議論を戦術論に絞る」という
やり方が間違っていたのだと考え、本質論主義(1、本質論を
議論の中心に据える。2、議論はじっくりやり、行動を強制し
ない)を追求したと言います。「授業は教師の実力と情熱で8
割決まる」とか、「組織はトップで8割決まる」、「人間には
各自が自分の出来る範囲で努力する以上のことは出来ない。一
人一人の小さな努力が集まれば大きな変化を引き起こすことも
できる」など、耳に痛い言葉も少なくありません。

 しかし、それ以上に『哲学の授業』に記述された、毎時間の
授業の進め方の背後にある考え方が参考になります。カンファ
レンスと著者が呼ぶ3~4人で行う「話し合い」、きちんと位
置づけられた書く時間(これが「教科通信」の材料になる)な
ど、非常に適切な授業方法を採用していて参考になります。こ
れが60歳近くになってから始めた実践であることも特筆されま
す。また、多くの授業論に通じていることも、主として大学で
教えてきた人とは思えないほどです。

 もちろん「哲学の授業」の中身も参考になります。「先生と
生徒は対等か」、「成績を付ける基準は何か」、「寝ている生
徒を先生は起こすべきか」、「『不満があるなら、直接言えば
いい』という考えは正しいか」、「私生活では相手の全てを受
け入れるべきか」など、テーマのほとんどは人間関係の調整の
仕方に関係しています。一見考えるまでもなく自明のことと思
われるテーマも、馴れ合いでも感情的対立でもない話し合いの
経過を読むと、これまでの価値観を揺さぶられるものとなりま
す。

 哲学で課題が解決すると考えるのは、もちろん早計です。
「なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実
際そのとおりに作動した例はない。それに引き換え、農夫の鎌
は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちな
く切れるものだ」(『薔薇の名前』)などの指摘は、頭に入れ
ておく必要があります。

しかし、この「哲学の授業」や先日拝見した応時中学校3年
生の授業での全員の集中ぶりは、最近各中学校でよく語られる
ようになった、日常の充実した授業を通じた生徒指導や不登校
対策という言葉が、その具体的な姿を見せ始めたことを実感さ
せてくれます。──

小牧市の光が丘中学の校長の玉置崇さんはこれを読んで興味
を持って下さったようです。自分のホームページで読後感想を
書いています。以下にその部分を引用します。

──途中読みだった「哲学の授業」(牧野紀之著)を読了。い
わば授業通信集だが、常に真摯な態度できっちりと学生と対話
し、ものごとの在り方について説いていく。まさに授業を通じ
て人を育てている記録集。感服。──

 以上の事は例によって知人のSさん(名古屋市立中学の理科
教師)から教えられて知りました。

 さて、私はこの2人のHPを見てみました。つまり小牧市の
教育委員会のHPと同光が丘中学のHPを見てみました。そう
したら、この2人の方は組織のトップとしては珍しいくらい積
極的に自分の意見を発表していました。

 その実例としてつい最近の副島教育長の「教育委員だより」
No.109を読んでみましょう。「教職員表彰に想う」と題して次
の文章が載っています。

──毎年1月の仕事始め式の席上、小牧市の職員と教職員の表
彰が行なわれます。今年度も25人の職員と20人の教職員が表彰
されました。これは小牧市表彰条例に則り市長が表彰するもの
です。市の表彰には市職員や教職員だけでなく、各種の委員や
保護司や補導員などボランティア的な仕事を永年務めていただ
いた方も含まれています。

実は昨年度から教職員については、表彰を受ける条件を変更
してもらいました。それまでは市職員と同じく、25年以上市内
の学校に勤務している者となっていました。これを年数の規定
をはずし、他の模範になるとか、教育効果の向上に功績のある
などの条件にしてもらったのです。

 理由はいくつかあります。まず25年勤続が条件では、一定年
限を過ぎて市外から転勤してきた人が除外されてしまうことで
す。次に、特に専門職である教員が勤続年数だけで表彰を受け
ることが合理的なのか、疑問があることです。

腰をすえて教育に取り組んでもらうために、現在は教員とし
ての身分と給与体系が保証されています。そのうえに自動的に
年数だけで表彰されるのは変ではないでしょうか。こんな考え
から、年数にかかわらず学校から推薦された教職員を表彰する
形にしたのです。

 あの先生のクラスは掃除をしっかりやるとか、授業に熱心に
取り組むとか、そんな理由で十分なのですよ、とお願いしたの
ですが、昨年度は制度が変わったばかりということもあって、
25年経験つまり26年目の教職員の推薦が圧倒的でした。しかし
本年度は、26年目の人はごく少数です。校長先生方には、選考
でご迷惑をかけているかもしれませんが、選考方法も含めこの
制度を積極的に活用していただきたいと思っています。

 ところで優秀な教員の処遇については、全国的な課題となっ
ています。表彰して特別な称号を与えることや、給与や手当な
どの優遇措置も各地で検討されているようです。これはある意
味では当然のことかもしれません。努力して成果を上げている
教員も、そうでない教員も、処遇が横並びでは悪平等と言われ
ても仕方ないでしょう。しかし、問題もあります。それは学校
での教育は、すべての教職員の協力に依っている要素が大きい
ということです。給与などにまで影響する方法は、同僚性の面
への影響も懸念されます。

 予備校では講師間で10倍以上の給与の差は当たり前だ、公務
員は甘い、という批判は甘んじて受けなければなりませんが、
現状では給与や手当まで優遇するのは問題が多いと考えます。
表彰程度が適当ではないでしょうか。すべての教員が処遇に値
する教育活動を続けていると信じていますが、毎年特に各校で
表彰に値する1,2名の教職員を表彰することは、それなりに
意味があると思います。永年勤続の表彰のときは何も言わず、
この程度の表彰になると批判するのでは、教育活動の質を疑わ
れる結果になる、と逆に心配してしまいます。──

 たしかにこの結論には異論のある方もあるでしょう。先の拙
著の感想にしても私には少し説明したい点があります。しか
し、いずれの場合にしても、これほど丁寧に考えて、あるいは
丁寧に読んで、率直に自分の意見を詳しく述べているトップは
少ないと思います。

 こういう発言に対して批判をするのは考えものです。そうい
う批判は大きな観点から見るとたいてい間違っています。なぜ
なら、もっとも悪い事をしている人達を放任しておいて、「言
いやすい」という理由で大切な仲間を攻撃することになるから
です。「言いやすい人にだけ言って、言うべき人に対しては言
わない」というのは最も卑劣な態度で、こういう態度こそが世
の中を好くするのを妨げているのだと思います。

 指導者には大統領型と天皇型とがあると言われます。日本は
国全体が天皇制だったためか、中小の団体でも、特に公の組織
では天皇型のトップが多いようです。その特徴は、実際の仕事
は部下に任せて、自分は何もせず祝典などの晴れがましい時に
だけ出ていく、というものです。

 副島さんも玉置さんも日本には少ない大統領型のトップのよ
うです。しかも言論で指導していく民主的なリーダーのようで
す。もちろん大統領型でも東京都の教育長のように内容的に大
問題をはらんでいる場合もあるでしょう。しかし、トップを
「生きた屍」と大統領型(内容的にも肯定できるものと内容的
には疑問のあるもの)とに分けるとするならば、私は生きた屍
よりは問題のある大統領でもこっちの方がいいと思います。と
言いますのは、組織を腐らせる点で「屍トップ」ほどひどいも
のはないと考えるからです。

 私の住んでいます引佐町の教育長は、「町内の全小中学校に
HPを作らせろ」という私の意見に対して次の回答を寄越しま
した。

──東久留女木新田自冶会長 牧野紀之様

毎日厳しい暑さが続いておりますが、御健勝にてお過ごしで
ございますか。日頃、自治会として御尽力いただいております
ことを厚くお礼申し上げます。

 さて、自冶会長会で御指摘の「ホームページの作成」につい
て下記のように回答させていただきます。

       記

1、小中学校のホームページの作成について

 「開かれた学校」を目指して各種の方法で学校の情報の公開
を本町の小中学校でも目指しております。学級・学年・学校・
PTAだより、参観会、部活動公開、説明会、教育研究発表会
、ホームページ等の各種の方法で各学校の重点の置き方によっ
て取り組んでいるのが現状であります。各学校ではそれぞれの
学校の実態と教育方針により重点の掛け方が違っており、それ
が学校の特色となっております。

 ホームページの近隣の市町村の状況を当たって見ましたが、
浜松市が先年指定事業として全校で取り組んだり、浜北市が先
進的に取り組んでいる状況がありますが、他の市町村は本町の
割合に近いかと思います。

 本町では、急速にコンピュータが普及している状況の中で、
御指摘の対応を図るべく、校長会で状況を聴取し次のような見
解を出しております。

 ・現在開設している学校は更新に努める。
 ・ホームページの開設についてのガイドライン殊に子供のプ
ライバシー、更新等について担当教師と協議して全校の開設に
向けて9月の校長会で決定する。掲示板に子供や教師に対する
誹誇や中傷があったことからそれへの対応が特に大切であると
思われる。1、2校は開設に向けて準備している。
 ・合併する浜松市教育委員会と協議する中で、平成17年8
月末を全校開設の目途する予定(浜松市で全校開設した際も1
年有余置いていた。)
 ・町教育委員会のホームページについては町行政全般の調和
の中で開設しており、諸行事等の予定の更新にも遅れが無いよ
うに努力している。

2、姉妹都市シェヘリス市親善訪問
 姉妹都市シェヘリス市親善訪問は合併を前に、今後の在り方
についての協議を深める意味で、国際交流協会からの依頼でし
たので、国際交流上の観点からお受けしました。幅広い教育行
政面から御理解いただければ幸いです。
                        以上

平成16年08月12日
       引佐町教育委員会教育長    柴田宏祐

 これは、要するに、さぼることも「各学校の特色」として容
認するということです。周りを見て、遅れた所を見て自己満足
するということです。平成17年8月末までに作るというのは
「自分の任期中にはやらない」ということです(平成17年6月
末に浜松市に合併しますから。もっともその後、期限を3月末
までに切り上げたようですが)。

これがさぼり教育長の見本です。これが生きた屍というもの
です。こういう人を「適材適所」として教育長に選んだ町長も
また「生きた屍」なのだと思います。

 私たちは、公務員全体はさておき、少なくとも教員はすべて
もっとしっかりやってほしいと願っています。しかし、大部分
の教員は生きた屍です。法律で守られているこの人たちに、も
っと熱心に仕事をするように、研究も授業も日頃から精一杯取
り組むようにさせるのは不可能かもしれません。

 しかし、その努力をしないわけにもいきません。その方法の
一つが、副島さんや玉置さんのような「顔のあるトップ」を教
えて、「君もこの人たちを見習え」と要求することではないで
しょうか。インターネットの発達した今では、その手段もある
と思うのですが。

お断り・再編集のためここに移しました。


教育の広場、第169号、議論のない教育

2006年11月19日 | カ行
 「ハダカの学校」というメルマガがあります。題名から推察できますように、学校と教師を批判することを主目的にしているメルマガです。このメルマガの非民主的性格(自分に対する
批判的意見は載せない)については本メルマガの第8号(まぐまぐでの配信日は2001年03月21日)に書きました。

 投稿がないと長い休んでいるようですが、最近は又々教師批判で盛り上がっているようです。次に2人の意見を引用します。

 第1の意見(女子中学生の意見です)

- 私は、今まで学校の校則を守ってきましたが、破ることに決意しました!「ハダカの学校」(241 ~ 243号)のおかあさんからのメールを見て、すごく感動しました。

私の学校は、靴下の色・形・長さから、カサの色も決まっていて、個性の出せる場所がひとつもありません。

このまえの掃除の時の話です。私は廊下の拭き掃除をやっていますが、長い制服のスカートがジャマで、スカートが汚れるし、拭きにくいし、つまずいて転ぶから、スカートを膝上程度に上げました。当たり前の行動だと思います。

でも、それをみた担任の先生は「なにやってんだ! そのスカートは! 」と後ろからいきなり怒鳴ってきました。周りにいた友達は一斉に振り向いて、一瞬シーンとしました。

 びっくりして、足が震えたけど、ゆっくり「掃除のときにジャマだったので~」と説明しました。先生にはわかってもらえなかった。「でもここは学校だから、この校舎に入っている以上は制服をだらしなくすることは許しません」といわれた!もう、友達が見てるもおかまいなしに言い返した!

 「じゃー、スカートが汚れても、転んでも、膝下丈でしっかり掃除やれって言う意味ですね?」って言いました。
 「そんなこと言ってないじゃない。それに、掃除は膝丈でもできるでしょ。言い訳しないの!」
 「言い訳じゃないです。」

 こんな会話の後、先生は怒って帰っちゃいました(逃げた?)。

 何回か抗議はしたんですけどね - 。必ず逃げちゃうんです。「話にならん」って感じで。(←こっちのセりフだって!)

 校則を守ると、自分がダメになっちゃう気がするし、指示持ち族にもリモコンロボットにもなりたくない。よく友達が「校則は破るためにあるもんなんだ!」ってふざけて言うけど、その通りですね。

 学校は、「服装を自由にするとオシャレにエスカレートする」とか言ってるけど、掃除の時まで~っていうのは逆の意味での先生のエスカレートですよねえ。って後で思いました。 -

 第2の意見(元不登校で今は母親のようです)

 全国の大学、高校、専門、または予備校の先生方ヘ。

 言いたいことが山の様にあります。覚悟してくださいよ。ねえ。たまに良く耳にする言葉があるんですけど。あれは一体どういう了見なんですかっ。

 たとえば、「自分の説明がいいからだ」、「こんな問題も分からんのか」とか。「やな生徒(学生)」とか。まるで生徒、学生を馬鹿にしてません? それを聞いて呆れて物も言えませんですよ。情けないと思いませんかっ、大の大人がっ。

 はっきし言って、要りませんよ。そんなことばを言う先生なんか。だいたいな、あなた方は何の為に教飾をやってるんですか。「給料が良いから?」。ふざけるなっ。たいがいにしなさいよ!

 学生の親は高すぎる学校の学費を必死に働いて出してるんですからね。その代償として給料を貰ってるんですから。持ち逃げは、許しませんよっ。ちゃんと教師としての責任を果してください。只じゃないんですから。

 学生ときっちり向かい合ってください。逃げないことに挑戦して下さい。とくに、苦手な人は。お金でかたずけないでください。学生を褒めてあげてください。教師だということを自覚してください。

 皆、奇跡を持って生まれてきた人間ですから。学生にも可能性がある訳です。それを打ち切るような言い方で、馬鹿にしないで下さい。いいですね! 学生の将来も、勝手に能力差別で決めないで下さい。皆、同じじゃないんですから。

 まだ四の五の言うのなら、私は教飾を必要としません。時間の無駄ですから。教えてもらわなくても結構。自分でやります。元不登校者。 -

     感想

 このメルマガ(「ハダカの学校」)はこれをただ載せているだけですが、その後第1の意見を肯定するような別の母親の意見も載りました。これらの2つの意見を読んだ感想を箇条書きにします。

 第1に、これらの(元)生徒たちは未成年者であり、間違った教育(家庭教育と学校教育)の犠牲者ではあると思いました。ここで大切な点は、これらの2人のお粗末な考えは学校と教師のお粗末な教育の結果であるだけでなく、親のお粗末さの結果でもあるということです。

 これらの2人の生徒たちは自分の親の事に言及していませんが、親たちは「保護者」なのです。学校に子供をやる時、学校での事を、特に学校や教師に疑問をもったら親に相談するように、と言わなかったのでしょうか。多分、言わなかったのでしょう。ここには親と相談した形跡が全然ありません。そして、「ハダカの学校」の主催者もその点に注意していません。これでは困ります。

 第2に、それと関係していますが、この2人の方は自分が「直接」接した教師たちだけを批判していますが、その教師たちの言動が間違っていたとして、その間違いの本当の原因(校長、教育委員会、文部行政など)を考える姿勢がありません。その結果、こういう現実を是正するにはどうしたら好いのかも分からず、メルマガに投書して自己満足し、結果的には現状維持に貢献しているという訳です。

 私はよく学生にも言うのですが、目に見える事だけでいいなら学校に来て勉強する必要はない、目に見えないで頭で考えなければ分からない本当の事を考えられるようになるために学校にきて勉強しているのだ、ということです。

 そして第3に、これらと結びついているのですが、生活の中での個々の問題を教師(校長を含む)と親と生徒全員とでじっくり考えていく場も方法もないということです。しかるにこの話し合い(討論)こそ本当の教育の場であり方法なのです。

 日本の教育は1から9まで間違っているという私の持論を再確認する投書でした。

(2004年05月20日発行)