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ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

番茶

2011年02月24日 | タ行
 お茶というと5月初めの八十八夜に摘まれる新茶(一番茶)を思いがちだが、今は、三番茶や秋冬番茶など「番茶」を楽しむまたとない季節だ。夏の強い日差しを受けて育った茶葉だけにカテキン量も豊富で、渋みも深みもしっかりした存在感を楽しめる。また最近では、地方の特色が色濃く出た「番茶」を見直し、食文化として残していこうとい与動きもみられる。

 鹿児島県知覧町の折田信男さんは今、秋冬番茶の収穫を終えたばかりだ。25haの広大な「おりた園」はひっそりと静まりかえり、春まで小休止だ。

 日照条件のよい鹿児島では、春の一番茶から始まって秋冬番茶まで5回の摘採(てきさい)期がある。折田さんは、日差しがより強い季節に育つ葉には新茶にはない力強さがあると考え、「カテキン番茶」を製造している。

 7月に摘む三番茶、7月末~8月中旬の四番茶、10月中旬~11月上旬の秋冬番茶をブレンドしたもので、100g500円。農薬を使っていないので、「粉末茶にして飲んでも安心」というのが自慢だ。殺菌力や悪玉コレステロールの抑制など、カテキンの効能が話題となったここ数年で人気商品に成長した。

 2代目の折田さんは、20代後半で農薬中毒にかかっていることが分かった。肝臓障害や言語障害、意識障害などに悩まされ、農薬の使用中止を決断する。10年余りは収穫がほとんどなく、多少の収穫があってもなかなか買い手がつかなかった。それでも土の養生方法など試行錯誤を続け、今や生茶で500トン仕上げ加工前の荒茶で100トンの生産量を誇る。化学肥料も使わず、4haはJAS認定も取った。

 もう一つの特徴は5年ほど前からやめた被覆だ。多くの茶畑では黒い布をかぶせて日差しを遮り、柔らかな葉を作ろうとするが、折田さんは被覆すると茶木が病害虫に弱くなることに気づいた。思い切って被覆をやめると茶木はみるみる強くなり、多少の病害虫は寄せ付けなくなった。

 「番茶の渋みを知っているからこそ、新茶の甘さをより味わえる」というのが折田さんの持論だ。

 日本茶インストラクターで東京都北区でお茶屋を営む高宇政光さんは、番茶の見直しを訴え、研究者などでつくる「番茶学の会」の立ち上げ準備中だ。

 製造技術が上がり、一年中、煎茶を飲めるようになってから、番茶を買うお客はめっきり減った。一方で、阿波番茶(徳島県)や京番茶(京都府)、美作番茶(岡山県)や碁石茶(高知県)など、各地で独自の製法で作られてきた「番茶」の中には、後継難で存続が危ぶまれるものもある。

 だが、各地にどんな「番茶」があって、どんなふうに飲まれているのか、農林水産省もお茶の業界団体も把握していないのが実情だ。実態調査から始め、ゆくゆくは、各地でお茶がどう作られ、どう飲まれてきたのか、生活に根ざしたお茶の歴史を明らかにしたいという。

 大妻女子大の大森正司教授(食品化学)は「秋はお茶にとっても実りの秋」と話す。夏の間、たくさんの紫外線を浴びしっかり光合成をした茶葉はカテキンを多く生成する。特に、折田さんのように覆いをせずに茶木を育てた場合は、それがより顕著に出るという。

 大森教授の実験によると、2003年産では、一番茶の葉に含まれるカテキン量は100g当たり12.5g、三番茶では14.0g、秋冬番茶はぐっと増えて18.0g。2004年産はそれぞれ12.7g、19.1g、11.0gで、秋冬番茶は台風の影響を受けたとみられる。大森教授は「今年は例外的」とみる。

 ただし、普通にお茶を入れた場合では、茶葉が軟らかい新茶の方がカテキンが出やすい。2003年産の実験結果では、100CCの熱湯に2.5gの茶葉を1分間つけた場合、一番茶から出るカテキン量は、83.1mg、三番茶では154.3mgだった。

 大森教授は、番茶からしっかりカテキンを取るために、①粉末茶にして食材として使う②沸騰した湯で3~5分煮出す③たっぷりの熱湯でじっくり5分ほどおく、などの方法を推奨。「甘みのあるアミノ酸の多い新茶とは違った、さわやかだけれどパンチのある味を楽しんでほしい」と話す。 

番茶の定義

 もとは「晩茶」と書き、遅摘みの葉で作る茶のことを指した。ただし近年、製茶技術や保存技術が向上し、市場も高級志向となったことなどから、上級品と区別し、アミノ酸の含有量が低い廉価なものを「番茶」と呼ぶようになってきた。さらに、地方独特の製法で作られているお茶をその地方では「番茶」と呼ぶことが多く、定義は一定ではない。

 (朝日、2004年11月20日。豊 吹雪)

 感想

 この記事も「多くの人はお茶の正しい淹れ方を知らない」という問題には気付いていません。

  関連項目

浜松茶の未来

大学教員(03、ニセ学位)

2009年07月02日 | タ行
 出所が疑わしい「ニセ学位」をもとに04~06年度に採用されたり昇進したりしていた教員が、全国の4大学に4人いたことが(2007年)12月27日、文部科学省の初めての調査でわかった。

 同省は全大学・短大に厳正な対応を求める通知を送ったが、関係者は「判明したのは氷山の一角」として、追加調査の必要性を指摘している。

 欧米や中国などには、ニセ学位を発行する「ディグリー・ミル」(学位工場)と呼ばれる組織がある。国内でも、インターネットなどで入手したニセ学位を示して大学の教員に採用されたり、教員採用後に経歴の箔付けで入手したりするケースも出ている。

 このため文科省は07月、すべての大学・短大1195校を対象に初の調査を開始。その結果、2004~06年度にニセ学位を重要な判断要素として採用または昇進させたケースが、国立の大分大と私大3校で見つかった。大分大は工学部の准教授の採用を取り消した。

 また、大学案内などの教員紹介欄にニセ学位を表示していたケースも、熊本大など国立大10校、公立大4校、私立大28校、私立短大4校の計46校(計48人分)あった。

 文科省は「非公表の前提で調べた」として、大学名や、学長や教授などの職名を公表していないが、大分、熊本両大は自主的に公表した。

 教員らが「本物」と信じているケースもあり、「偽物」と承知したうえで記入した者は特定できないとしている。

 二セ学位に詳しい静岡県立大の小島茂教授(国際社会論)の話

 文科省が調査したこと自体が、大学に緊張感を持たせたので貴重な第一歩だ。しかし、関係者の間ではニセ学位で採用された教員は数十人はいるとされており、今回の判明分は氷山の一角。文科省は今後、米韓のように大学や教員の名前を公表し、社会的制裁を加えることを検討すべきだ。

  (朝日、2007年12月28日)

     感想

 学位が本当であることは大前提。それ以外に、准教授は自著が1冊以上、教授は3冊以上必要だと思います。これを満たしていない教授は沢山います。

「たった一人の山」

2009年03月12日 | タ行
 「たった一人の山」という数奇な過去のある本が、平凡社から出版された。1941年に文芸春秋が単行本にして以来、新装版、文庫版など、出版社や体裁を変えて何度も出され、今度が6回目となる。

 著者は浦松佐美太郎。1901年の生まれ。東京商科大(現一橋大)を出てロンドンに留学したのを機会に、四夏三冬をアルプスで過ごした。帰国後、その体験を次々と雑誌に発表。これらに、国内の登山にまつわるエッセーを加えて本にした。

 時あたかも太平洋戦争の前夜。日本中が戦争の熱気に包まれている時代に、登山という個人的な冒険に命をかけた行動が共感を呼んだのか。山に寄せる、感受性豊かな青年のみずみずしい文章が読む者の心を捕らえたのか。発売後1年で、4刷を記録する人気を得た。

 しかし、間もなく本は事実上の発禁処分にあう。

 平凡社版の解説で、日本勤労者山岳連盟理事長の西本武志さんが、当時を知る人から聞いた話や資料を基に、その間の事情を説明している。

 西本さんによると、主役は当時、文化、芸術、言論などの統制と検閲を担当していた内閣の情報局文芸課長であった。彼は当局と出版各社との懇談会の席で「一億一心、滅私奉公を要求される聖戦下に、たった一人の山とはなにごとか。欧米的個人主義に毒されたこんな本は、抹殺すべきだ」とまくしたてたそうだ。

 こんな本を出す所に貴重な用紙をまわす必要はない、という言葉に恐れをなして、自主的に絶版にしたらしい。

 これは昔話だろうか。裁量権を背に勝手に振る舞う役人の生態は、半世紀が過ぎたいま、何も変わっていないように見える。連日伝えられる、官僚をめぐる苦々しいニュースに、そんな思いを強くする。

 (朝日、19998年05月22日。石)

特定郵便局

2008年10月20日 | タ行
1、普通郵便局は全国で約1300局、
  特定郵便局は全国に約1万9000局。

2、明治の初期、政府は金がなかったので、各地の名士に局舎を提供してもらって全国に郵便局網を作りました。局長は準公務員という名誉を受け取りました。それが特定郵便局の始まりです。

3、戦後、特定郵便局長は公務員になりましたが、一般の公務員より恵まれています。

 試験はあるが事実上の世襲、
 局舎は局長や関係者が所有し公社から賃料をもらう、
 定年が65歳、
 転勤無し、などです。

4、今後どうなるかは今のところ不明ですが、維持される可能性が強いと見られています。

  (朝日、2007年04月26日による)

     感想

 2007年10月01日からの民営化でどうなったのでしょうか。

大学(05、オーストラリアの卒業税)

2008年10月19日 | タ行
 私たちは3人の子供の授業料を一度も払ったことがない。高校までは公立校だったから実質タダだった。それにオーストラリアでば、大学の学費は学生本人が卒業後に支払うのが原則だ。就職後、給料から天引きされる。一種の「大学卒業税」で ある。

 導入されて12年になる。大学教育の費用の大半は国家負担で、授業料の一部を学生が負担するのだが、在学中に支払う必要がない。卒業後、つけを返しきるまで、税金の形で支払いを続けるという仕組みだ。

 収入が一定額以下だと無税、それ以上だと額によって3ないし6%を源泉徴収文される。在学中や早めに支払うと割引がある。卒業税方式でば、学生は自分が学費を支払うので、怠けていると損をする。親から経済的に独立する時期が早まり、自立を促すという副次効果もある。

 大学教育と階層間の格差との関係ば複雑だが、卒業税そのものは平等化を進める。本人払いだから、親の経済力不足で子供が進学をあきらめなければならない確率は低い。大学卒は高校卒より平均して給料が高いので、本人がなにがしかを社会に還元するという意味もある。

 ドイツやフランスでは大学授業料は無料、日本とアメリカは在学中負担だが、豪州方式はその中間である。この国の大学はほぼ全部が国立だという事情を考慮に入れても、学費後払い方式は他の社会でも検討の余地がないか。教育費の心配をせずにすんだ親として、そう思う。

  (朝日、2001年09月03日。杉本良夫)

大学ホームページの必要条件

2008年03月23日 | タ行
大学ホームページの必要条件

 一応、現在考えている基準をまとめてみました。今後、変更することもあろうかと思います。その時は又、明示します。

1、全体的真実を示すことを根本方針とする

 学問とは個別的事実にとらわれるのではなく、全体的真実を追求するものです。従って、大学のホームページも鳥瞰図を、しかもいろいろなレベルの鳥瞰図を任意に見られるように作るべきだと思います。ネットならそれは可能だと思います。

2、ホームページの作り方の基本構想

 「面的に」ではなく「線的に」作るべきだと思います。
 パソコンの画面を見る人は、「上から下へ」一方向的に見ていくと思います。ですから、上から下へと見てゆけば自然に全てが漏れなく目に入るように、作るべきだと思います。線的とはこういう事です。

 それは「索引的に作る」ということでもあります。サイト内検索(サイトマップ)は必要ですが、索引ないし目次も別に必要だと思います。ネットの本屋や図書館のネット検索があっても、本屋や図書館に実際に行って棚を見ることの意義は変わらないのと同じだとと思います。

3、ほとんどの大学ホームページでは、ニュースがトップページで大きな面積を占領していますが、それはブログにして、ホームページにリンクを張る方が好いと思います(なお、ニュースには「目次の頁」を作ること)。

4、在校生、卒業生、入学希望者、一般の人、企業の人、等で分けていることが多いと思いますが、その根拠が分かりません。探したいことが探せるように作ってあれば好いのだと思います。

5、従って、トップページの項目は次のものくらいで十分だと思います。
 組織、教職員、財政、ニュース、更新の記録、サイトマップ、学生の作ったホームページ、その他、です。

6、組織

 組織は、本部、学部、研究所、等とかに更に分けられ、その中も更に細分されるでしょう。
 それぞれの内部の項目はアイウエオ順に並べることが大切です(そうなっていないがほとんどです)。
 もちろんそれぞれの名前をクリックすれば、その頁にジャンプするようになっていなければ意味がありません。

7、教職員

 教職員は、幹部、教員、研究員、職員、です。教員には非常勤講師や客員教授も含める必要があります。
 組織別にではなく、すべての該当者名をアイウエオ順に並べ、クリック1つでその人の頁にジャンプするようにする必要があります(名前を入れて検索する形式はサイトマップに任せればいいでしょう)。

 学長とか学部長とか図書館長といった「長」の付く地位にいる人は、週間活動報告または月間活動報告をブログで発表するべきでしょう。

 各教員、研究員の頁には、研究業績、授業報告、社会的活動を載せるべきでしょう。
 研究業績については、その内容の梗概を付け加えるべきでしょう。
 外国語の題名で発表した研究業績については、邦訳名を付けるべきでしょう。

 どういう授業をしているかを報告していない人がほとんどですが、これは改善しなくてはなりません。シラバスは今では多くの大学で出しているようですが、実際の授業の仕方が分かるようなものを発表するべきでしょう。

 他大学での授業等のアルバイトもきちんと全部、載せるべきでしょう。

 社会的活動も載せるべきでしょう。政府の委員等をしているならもちろん、個人的に作っているホームページやブログも社会的なものはリンクを張るべきでしょう。

 アイウエオ順に並べられた講義名一覧(担当者名付き)もあると好いと思います。

 職員の頁を作るのは、ある程度以上の幹部だけで十分でしょう。

8、財政
 これも分かりやすく工夫して発表するべきです。
 過去のものも5年分くらいは保存しておくべきでしょう。

9、ニュース
 これはブログにして別建てにし、リンクを張るといいと思います。

10、更新の記録

 ニュースと言えばこの「更新の記録」もぜひ必要です。そうでないと、どこが更新されたのか、そこへ行ってみないと分からないからです。行ってみて、更新されていないとなると、無駄にもなります。

 もちろん更新した頁にそこからジャンプできるようにするべきでしょう。

 これは役所のホームページについても言えることですが、それは又然るべき所で発言し
ましょう。

11、サイトマップ

12、学生の作ったホームページ

 大学新聞の出ている大学は少ないでしょうし、出ていたとしても、そのほかにこういうものも必要でしょう。
 東大のホームページにあったので、これを入れました。

13、その他

 以上に漏れている事はここにまとめればいいと思います。

   終わりに

大学のホームページはどのように作るべきかを研究するべきだと思います。道具が発展しても、それを使いこなす方法を研究しなければ、役に立つものはできないでしょう。

 本部の中にホームページの情報公開を監査する部門を設けて、各人に任せた部分を随時監査して、又訪問者からの質問やクレームを聞いて調べ、不適当なもの、不十分なものには注意をして改善するようにする体制を作るべきでしょう。

 大学への質問や批判とそれへの回答を発表する頁を作ったら、「学問の府」に相応しいものになると思います。現状はそのような理想から余りにも遠く、自由放任で、無責任だと思います。

 2008年03月23日、牧野 紀之


「天タマ」を読んだ学生の感想と意見

2006年09月10日 | タ行

「天タマ」を読んだ学生の感想と意見

 大学で初級ドイツ語を担当していますが、私は夏休みにも沢山の宿題を出します。この点については、本ブログ第47号(夏休みの宿題について)に書きました。

 この所宿題の量は減り気味ですが、それでも夏休みを3回に分けて、途中の2回は郵送してもらいます。最後の宿題は後期の最初の授業で提出してもらいます。

 量はともかく、毎年いろいろと考えて、内容は少しずつ変えています。今年は、新聞記事の感想文に代えて、「天タマ」を3号以上読んで考えた事をまとめる、という宿題を出しました。期限は8月22日でした。

というのも、夏休み前の最後のアンケートをまとめた教科通信「ユーゲント」にこう書いたからです。

──これまで「ユーゲント」を見てきて、これほど内容の濃い学級通信は無いと思いました。それほどまでにこれは面白かったし、先生や他の学生達と多くの意見交換が出来、すごく良かったです。一番最初の「講師の自己紹介」が一番印象に残っています。

 ★ 「天タマ」はもっと充実しています。夏休みの宿題にしますので、良く読み良く考えて、更に上を目指して下さい。(引用終わり)

 集まってきた意見なり感想なりを読んでいますと、とても効果があったようです。やはり信頼するにたる学生たちだと思いました。それは後期の最初の「ユーゲント」の材料となるのですが、そこではほんの一部しか載せられませんので、「教育の広場」の場を借りて多くの文章を紹介しようと思いました。全文紹介するものと部分的紹介とがあります。

(「天タマ」と「ユーゲント」の1部はブログ「マキペディア」に載っています)

──「天タマ」を何号か読んで私が思い出したのは高校の学年通信のことだ。私のクラスには学級通信というものはなかったが、代わりに学年通信というものがあった。

 私の学校は3年間、転任などが無い限りは殆ど同じ先生達が同じ生徒達を教えるという方法をとっている。そのせいか、担任が3年間同じだった人もいるし、中には先生が嫌で登校拒否になった人もいる。だけど大概の人は先生達が好きであったと思う。

 その中でも絶大の信頼を置かれていた学年主任が不定期に発行していたのが学年通信である。内容は進学校なだけあってまず第一に勉強の内容が来るが、その他にもコラムを書いていた。「今(高校3年時に)勉強することがこれからの将来どのように活きるのか」が全体を通してのテーマであったと思う。また、生徒の意見を載せることもあった。特にアンケート形式で対話したりということはなかったが、先生に意見を言うと、ちゃんと聞いてくれた。

 また、学年主任と話していて私が一番驚いたのが、主任は学年の全生徒約 360人の顔と名前を全て覚えているということだ。

 私の親友が元々病弱なほうで、病気のせいで休みが続いたときがあった。その時に主任は私とその子のもう一人の親友のところにやって来て、「あいつは大丈夫か、根が生真面目すぎるくらい生真面目なやつだからたまには休まないといけないとは思うが流石にこうも続くと心配だ」と言われました。その後数十分ほど話をしたが、主任は本当にその子のことをよく知っていて、本当に驚いた。担任でもなく、週数回の授業でしか交流がないのに。

 更に私は主任の授業は補習以外で受けたことがなかったのに本当に担任のようによく知っていてくれて、全員を見ているんだなあと凄く感心した。他にも主任自身の人生経験が普通に教育大学出身の「先生」と違うことなどから生徒の尊敬を集めていたと思う。

 決して甘い先生ではなく、どちらかというと怒鳴り声のほうがよく思い出せるが、とてもいい先生だった。主任のいる学年で学べてよかったと思う。

 ★ 好い先生に恵まれて良かったと思いますが、敢えて問題点を指摘すると、担任と合わない生徒を救済する「制度的」保障はどうしたらいいか、学年主任の本当の仕事は「1人で」学年通信を出すことではなくて、学年の全教員をまとめて「全員で」学年通信を出すことではないか、という問題意識がないことです。しかし、ここまで要求するのは無理でしょう。

──「天タマ」を読んですぐに、普段の授業の教科通信「ユーゲント」ととても違うと思った。見た瞬間違いに気づいた。

 まず、1人1人の意見の量が違うと思った。「ユーゲント」では1人当たり約3行であるのに対し、「天タマ」では1人当たり約6行である。「天タマ」の意見の量は「ユーゲント」に比べて2倍である。私が見た瞬間気づいたのはこれである。

 しかし、違いは量だけではない。それは、1人1人の意見の内容の濃さである。「天タマ」は量だけではなく、読んだ人を納得させるような内容があると私は考える。初めて見たときに、本当に生徒の意見なのかと不思議に思うくらい内容の濃いものであった。そのため、「天タマ」の中で意見の出し合いが活発に行われていて、現在の「ユーゲント」よりはるかに意義のあるものであると思った。

 このような「天タマ」の優れているところに気づき、「ユーゲント」のためのアンケートに対する考え方が変わった。今までは、とりあえず書けば良いという考えでアンケートに取り組んでいた。そのうえ、提出日間近になって書いていたため、早く書かなければという考えが強くアンケートに出てしまい、思った事や考えた事などの整理をつけずに書き始めるという事をしていた。

 「天タマ」を読んだ今では、アンケートを大切に考え、「ユーゲント」を意見交流の場としていきたいと思う。また、テーマに対して考えたことを整理して書き、「天タマ」に載っているような読んだ人を納得させる意見を出したいと思う。

 全員がアンケートに手を抜かずに取り組めば、「ユーゲント」はいずれ「天タマ」にも劣らない教科通信となると私は考える。

 ★ ドイツ語の授業のアンケートに取り組む自分の姿勢を反省してくれた人はかなりいました。これは特に良く書けた文章だと思います。今後の実行に期待しています。

 しかし、根本的には、「天タマ」は哲学の授業の教科通信で、哲学の授業では、問題提起と説明、3~4人での話し合い、休憩、レポート執筆(30分)となっていて、考えて話し合って書く時間も確保されていますから、条件が違うと思います。

 それに生徒が看護学校の2年生で、病院での実習などで、コンビニでのアルバイトなどとは比べものにならない経験をしていることもあります。

 でも、学生諸君の今後のがんばりに期待します。

──医療事故の問題を考えた時、医療事故の問題を学校の問題として捉えることを先生は求めていた。確かに、見方としては患者と病院との関係と生徒と先生との関係が、同じように見えるだろう。これによって、医療事故をまた新しい視点から見るということができるようになる。

 こう考えると、アンケートの答え方にもっと工夫を加えることか必要だと感じた。今までアンケートに対しては、単にストレートに考えて、答えることができれば良いと考えていた。しかし、これからは、なるべくストレートに考えるばかりではなく、もう少し見方を変えるようにして、アンケートに答えていきたいと感じた。様々な視点から見ることによって、他の生徒へいろいろな考えを伝えることができるので、積極的に行っていきたいと思う。

 また、「天タマ」の31号から45号までを全体的に見ると、一つの話題についての議論が深く行われ、先生についてもいろいろなことを話すといったことが行われ、とても生徒と先生の関係が良いものであると思える。今はまだ話をすること、アンケートを上手く活用するといったことを行えていないと思うので、先生とのいろいろな話を行っていきたいと思う。

 ★ この「与えられた問題を他の観点から、自分に引きつけて考える」ことにも多くの人が注目してくれました。ぜひ実行してみて下さい。

──私はこれまで数え切れないほどたくさんの授業を受けてきたが、授業のあり方を反省し互いに話し合った経験は一度もないです。まず、授業のあり方に疑問を持ち話し合う、という発想すら持ったことがありませんでした。何百人といる生徒のうちの一人に過ぎない自分が何を言っても状況は変わらないと無意織に思っていたのかもしれません。

 しかし、「この先生の授業はいい加減だなあ」と思う先生は何人もいました。そう思っていたのは私一人ではなかったらしく、その先生の授業は何度も校長をはじめ、何人もの先生方に観察され、評価されていました。でも結局何も状況は変わらなかったので、なんのために評価していたのか今でもわかりません。

 だから、実際に意見がしっかりと反映されるのであれば教師と生徒が話し合ったり、授業アンケートを取ることはとてもいいことであると思います。とくに授業アンケートはいいと思います。なぜなら教師に面と向かって意見(特に批判的な)を言える生徒は少ないと思います。もちろん直接言ったほうが気持ちは伝わるだろうが実際はなかなかできないと思います。それをアンケートという形で書き言葉にすることで自分の思っていることを伝えることができるよ
うになる生徒は多いと思います。

 ここでアンケートを記名にするか匿名にするかという問題が出てきます。私は書いた本人が決めるべきであって、「必ず記名」などはやめたほうがいいと思います。本人がよいのであれば記名するに越したことはないが、匿名希望なのに無理に記名させるべきではない。

 記名してしまえば、多少インパクトは弱まるが直接先生に言っているのと同じようなものだと思います。誰だって「批判的なことを書くと先生との人間関係が悪化するのではないか」など、少しは考えてしまうのではないだろうか。少なくとも私はそう考えてしまいます。だから記入者本人が決めるべきであると思います。

 次に「不満があるなら、直接言えばいい」という考え方については、確かにその通りだと思います。私たちももう子供ではないのだからいつまでも親に頼るべきではないと思います。しかし、先程も述べた通り直接不満を言うことは難しいことであるから、やはり紙面にするのがよいと思います。そしてその提出場所をしっかりと決めておくべきであると思います。

 「天タマ」を読んで今まであまり考えることのなかったことを考えることができてよかったです。ぜひ、私が中学生や高校生のときに「天タマ」に出会いたかったと思います。

 ★ 私の授業を受けるまで、授業のあり方についてきちんと考えたことはなかったという意見も多く寄せられました。

 裁判官になる人は、その前に、たいてい、「人が人を裁くとはどういうことか」と考え、悩むと聞きますが、教師になる人が、その前に、「人が人に教えるとはどういうことか」と考え、悩むという話はあまり聞きません。

 認識論的にも、教師の教えていることは8割は間違いだと証明できるのですが、ほとんどの教師は、自分の教えている事は正しいと思い込んでいます。

 校長が入学式の挨拶で、「私の学校運営については適宜、皆さんの意見を聞きますから、疑問点はそこで出して下さい」と、自己批判を制度化している人は、多分、一人もいないでしょう。

──先生に不満があるのなら先生に直接言えという考えですが、親というものは得てして小学生、中学生くらいの子供のいうことは話半分程度にしか聞いていないと思います。自分も小学校の時、先生に逆ひいきされ、すごく嫌な思い出があります。

 その時に親に相談して、先生に言ってほしいと頼んだことがありますが、「先生にも先生の考えがある」とか「あんたが悪いことしたんだろ」とか言われ、本当に悔しかったことがありました。この様に子供だからという理由で中々話を受け入れてもらえない場合が多いです。

 特に私のような場合だと、先生に嫌われているので直接訴えても効果が見られません。この様な場合の対策はどれも難しいと思います。私の場合は校長先生に訴えるという手段で解決しましたが、ど
の生徒も校長と仲がいいというわけではないのですから。

 ★ 親は保護者なのです。子供の訴えについては良く聞いて、夫婦で相談して、親が出るべきか子供に任せるべきか、考えて行動しなければなりません。しかし、世間的な圧力もあり、「逃げ」で、「自分で言えばいいじゃない」となるのです。これが問題です。

──私は勘違いをして全ての号を読んでしまったのですが、そのうちの何号かに「大学と専門学校」について意見が載っていました。私の高校では、大学の看護科を受ける人は市看か、他の医療専門学校を滑り止めにするように言われます。そのせいもあって、私は専門学校よりも大学の方が優れていると思い込んでいました。

 しかし、「天タマ」を読み続けるとその考えは違うことに気が付きました。一人ひとりの意見がとてもしっかりしているのです。特に、専門分野である「医療事故」についての意見は、さすがだなあと思いました。恥ずかしい話ですが、私が「情報学」について語るには2、3年早い気がします。

 ★ 看護大学が出来てから市看も少しレベルが落ちたようです。しかし、授業料が安いし、32人くらいのクラス単位で、ほとんどが必修授業だし、まだまだいい学校だと思います。

──「ひざまずいてスカート丈をみる」というのは私の通っていた高校でもやっていました。また、朝先生が校門に立ち、服装に問題のある生徒は違反切符のようなものをきられ、ひどい場合には親に連絡がいっていました。

 学校は社会へ出るための準備として、集団での規律を学ぶところでもあると思います。個性は確かに大事なものですが、なにもスカートを短くしたり髪の毛を染めたりして個性をアピールする必要はないと思います。

 集団でのルールを守らなければ社会では生活できません。「校則などの程度であったらみんなに迷惑をかけることなく気持ち良く生活できるかということをしっかり考えた上で決められている」という意見がありましたが、その通りだと思いました。

──ルールというものは、学校ひいては社会というものが価値観や考え方の異なる他人同士の集団であるということを考えると、必要なものであると思います。なぜルールというものが必要なのか、それはおそらくなかった場合にとんでもないことをしでかしてしまう人がいるからだと思います。

 校則はないから自由にしていいですよとなったときに、その下にはまだ常識という名の守らねばならない基本的なルールがあり、自分のやりたいよう好き放題に行動して良いわけではないことを理解していない人がいるからだと思います。

 そしてそのために校則というルールは存在し、違反すれば相応のペナルティーが科されるべきだと思います。

 もちろん、だからといって全員をひざまずかせてスカートの丈をチェックするといった個人の意思をないがしろにしたことや持ち物検査のようなプライバシーの侵害にかかわることはやってはいけないことだと思いますし、校門を閉めて遅刻者を入れないようにするといった強行策は実際に兵庫県で事件も起こっているので賛成できません。

 ★ 民主的規則(規律)の最低条件は、公開されていること、改正の手続きが定められていること、人権の保障、校長と教師への批判の自由の保障、異議申し立ての手続き等が定められていることだと思います。これを守っていないのが問題だと思います。

──「天タマ」を読んではじめに思ったことは、ここまで生徒と教師の対話として成立したアンケートは初めてだと思いました。〔ドイツ語の〕授業アンケートの時でもそうでしたが、あちらは生徒が書いた内容が薄く抽象的な感じがしていたので気づきませんでしたが、内容が濃いとまるでその場で意見交換したり議論したりしている会話内容をメモしたように思えました。

 それにしても、「天タマ」に記載されている生徒一人一人の文章は長くて、思っていること、感じたことをよく表現して伝えているなと思いました。自分の考えをまとめて人に伝えるために文章にすることはすごくたいへんなことだと思います。

 「天タマ」33号で書かれていた和敬塾のビデオが良かったと言う感想について興味を持ちました。内容は、充実した学生生活だとか青春だとかいうもののようですが、一度どんなものか見てみたいと思います。

 先生は学生生活の意義をサークルに求めるしかないといって問題視しているようですが、今の学生生活が有意義だと思わせてくれるようなサークルはすばらしいサークルではないでしょうか。そんなサークルがあれば是非とも一度活動に参加させていただきたいと思います。

 また、専門学校の生徒の「楽しい授業だった」という感想に対して、「先生はもし自分が大学で哲学の授業を受け持ったとして、本校でしているような授業ができるかと考えると、答えは否定的です」というところが気になりました。少しだけ書かれていた理由はもっともだと思いますが、教師が生徒にものを教え共に学ぶための場という存在の大学で、教師が 100%の力を出し切れない環境にあるという現状はおかしな話で、どうしてそのような状況になってしま
ったのか不思議でなりません。

 「天タマ」を読んでみて、全体的にアンケートに対する生徒の積極性が感じられました。一言でいうと、「先生~聞いてよ~」と生徒が言うのを「よしよし、どうしたんだ?」と先生が話を聞いてあげているような~、そんなよく分からないけど暖かいような感じがしました。

 45号など別れを惜しむ生徒のアンケートの多さを見て、「まだまだ自分が知らない先生の魅力があるんだなと思いました。

 個人的にはドイツ語よりも哲学の授業の方を受講したかったと思っています。

 ★ 大学で「牧野先生の哲学の授業が受けたかった」と言う人はこれまでにもいましたが、署名を集めて、その授業を作ってくれと大学に要求した人はこれまでにいません。東大の平和学の授業は学生の希望で出来たと聞いています。

 後期のテーマは「社会への働きかけの第1歩を踏み出す」としませんか。大人になった今、発言権は行動と実績によって決まってくると思います。何もしないで、「こうなったらいいな」という発言は認められないと思います。

 今回のレポートはとてもがんばってくれたと思いますが、一番残念な事は、親や友人にも「天タマ」を読んでもらって話し合ったという報告が1つもなかったことです。後期はこの点を努力しましょう。


教育の広場、第10号、大学教員のアルバイトこそ堕落の元

2006年03月23日 | タ行
 (2000年)10月06日付けの朝日新聞は、新潟大学医学部の教授の「兼業隠し」が発覚したと報じています。それによると、W教授が税務調査をうけて、外部の医療機関の依頼で行った仕事に対して受け取った診断料など合計7000万円以上を税務申告していなかったと認定されたといいます。

 同紙は説明のなかで、「国立大学付属病院の医師らは、許可を申請して本業に支障のない範囲ならば、アルバイト的な診断も認められているが、W教授は大学の兼業許可を得ていない期間があった」と述べています。

 国公立大学教員の兼業、つまりアルバイトは教育公務員特例法第21条によって「本務に支障がないと学長が判断した場合のみ」認められています。つまり、申請することと任命権者が「本務に支障がない」と認めて許可することとが条件です。

 今回はこの申請がなかったというものです。ですから当然許可もなかったわけです。つまり「隠れてした」ことが悪いというのです。そして、税務申告していなかったのが悪いというのです。後者は当然ですからここでは論じません。

 では、申請し許可を得てすれば「大学教員のアルバイト」は良いことなのでしょうか。いや、そもそも「本務に支障のないアルバイト」というのはあるのでしょうか。

 私はS県の情報公開条例を使って、S県立大学教員(教授、助教授、専任講師)のアルバイトの実態を調べました。そこでは全教員 180名の内、83名がアルバイト(この場合は他大学・専門学校・高校での授業)をしています。実にアルバイト率は46%です。

 特にアルバイト率の高いのが経営情報学部の教員で21名中16人、76%の教員がアルバイトをしています。率の低いのは薬学部です。これは、薬学部の教員は、今回の新潟大学医学部の例から推測できますように、医療機関や製薬会社でのアルバイトがあって、それの方が割りがよいという事情があるからだと思います。

 1人の教員が複数の学校でアルバイトをしている例も沢山あります。1人で2ヵ所でアルバイトをしている教員は沢山います。実に5ヵ所でアルバイトをしている教員が3人もいます。3ヵ所は4人です。

 では、これらのアルバイトは本当に「本務に支障がない」のでしょうか。私も大学や専門学校で授業をしていますが、私の場合は週に2日合計4コマ(1コマとは90分の授業のこと)です。しかし、学生参加型の授業をし、頻繁にアンケートをとったりして学生の意見を聞き、また学生のレポートに感想を書き、それをまとめた教科通信を発行すると、週2日が限度です。

 これ以上になると、学生のレポートの1つ1つに対する感想が書けなくなります。つまり、授業の質を落とさざるをえなくなります。私は年寄りで体力がないということを考慮したとしても、自分の担当している授業をすべてこのような「本当の授業」にするとしたら、そして本来そうしなければならない義務を教員は負っているのですが、週3日が限度だと思います。

 しかるに、専任教員はたいてい週3日の授業を義務付けられていますし、授業のほかに教授会もあり、大学の委員会などの仕事もあるのです。もちろん自分の研究もしなければなりません。

 ですから、アルバイトをするならば必ず「本務に支障をきたし」ます。つまり、研究をさぼり授業は手抜きすることになります。学生参加型の授業や学生との対話はできなくなります。現に或る語学教師は「小テストをすると採点が面倒だから小テストはしない」と言いながら、他大学でのアルバイトは面倒でないらしく、2つもしています。

 たしかにどうしてもその先生でなければならないという場合も稀にはあると思います。ですから、私は一切の兼業を否定しようとは思いません。しかし、そういうのは極めて稀です。大多数の兼業は小遣い稼ぎのためのアルバイトなのです。

 どのくらいの稼ぎになるかと言いますと、毎週1コマの授業を1年間担当すると、だいたい30万円前後の小遣いになります。多くの教員は4コマのアルバイトをしていますから、 120~ 140万くらいの小遣い稼ぎをしていることになります。そういう小遣い稼ぎを、1千万前後の年収があり、十分な年金と退職金が保証されている人がしているのです。皆さんはこれをどう思いますか。

 一番重大な事は、そういうアルバイトに精を出すことで教員本人が堕落し、授業が無気力でお粗末になって、折角勉強したいと思って大学に入ってきた学生の勉学意欲を奪っているということです。

 昨今、学生の学力低下が問題とされています。これについてはいずれ詳しく論じたいと思いますが、結論だけを言えば、大学教員の学力低下と熱意の低下が学生の学力低下の第1の本当の原因だということです。

 そして、この大学教員の堕落は大学教員のアルバイトに集約的に現れているのです。それは、許可を得てやれば良いというようなものではないと思います。
(2000年11月07日発行)




教育の広場、第14号、大学は自分で勉強する所か

2006年03月19日 | タ行
 学校が小学校から中学校、さらに高校から大学へと進むにつれて、よく、「中学校は(小学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「高校は(中学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「大学は(高校と違って)自分で勉強する所だ」といった言い方がなされると思います。

 「中学校は~」という言い方は余りないかも知れませんが、「高校は~」という言い方と「大学は~」という言い方はたいていの人が聞いているのではないでしょうか。

 今回はこれらの言い方を「大学は自分で勉強する所だ」という言葉で代表させて考えてみたいと思います。最近読んだ立花隆氏の『脳を鍛える』(東大講義)(新潮社刊)の中でも氏はそのような事を言っていました。

 私も半分無意識的にではありますが、生徒であった時にも教師になってからも、事実上そのような考え方をしていました。しかし、大学で教師をしていたある時、これは決定的に間違っているのではないかと思うようになりました。

 たしかに勉強における主体的契機、つまりいわゆる「やる気」とか努力というものを強調するだけならこの言葉も正しいと思います。しかし、実際にはこの言葉はそれ以上に、教師の指導の決定的重要性を見逃させる役割を果たしていると思います。これが問題なのです。

 もし本当に「大学は自分で勉強する所だ」とするならば、教師は何のためにいるのでしょうか。それなら教師は必要がないのではないでしょうか。こう考えただけでもこの考えの間違いは自明だと思います。ではどこが間違っているのでしょうか。

 人間を勉強への取り組みに関して分類すると次の3種類に分けられると思います。

 A・自分でどんどん勉強する人(変人)
 B・宿題(先生の適切な指導)があれば勉強する人(凡人)
 C・宿題(先生の適切な指導)があっても勉強しない人(ろくでなし)

 次にこのABCの割合はどうかと考えてみますと、ほとんどの人はBだと思います。つまり、一部の変人とろくでなし(もっとも気の毒な事情のある場合もある)を除くと、大部分の人間は「先生の指導がある限りで勉強する」という種類の人間なのです。

 人間の心の中には誰の心の中にも「勉強したい」「成長したい」という気持ちがあるのです。しかし、人間はそれだけでは勉強しないのです。勉強したいという気持ちに先生の指導という「外からの強制」があって初めて勉強するのです。

 人間は神様でもなければ獣(けだもの)でもないのです。その中間なのです。だからこそ、「先生に引っ張ってもらおう」「宿題を出してもらおう」と思って学校に来ているのです。だから、勉強では先生の指導力が決定的なのです。

 ここまで言うと聞こえてくるのが、「我々の頃は自分で勉強したものだ」という教授たちの声です。立花氏の本からもそのような声が聞こえてきます。

 「今の若い者は~」といった言葉は老人の口癖ですから聞き流しておけば好いのかもしれませんが、私がこの「大学は自分で勉強する所だ」という考えを決定的に否定する気持ちになったのは、この教授たちの考えの間違いに気づいたからです。

 ドイツ流に言うと私の主専攻は哲学で副専攻はドイツ語ですが、私はこの2つの学問で見てみますと、その「自分で勉強した方々」の「学問」がとてもお粗末だと思うのです。そして、その最大の原因が、先生から正しい指導が受けられなくて「自分で勉強した」結果だと思うのです。

 哲学については説明が大変ですからドイツ語学について言いますと、40年以上前に出版された橋本文夫氏の『詳解ドイツ大文法』(三修社)はお世辞にも「詳しい」と言える代物ではありませんが、それにも拘らずそれ以上の文法書が出ないのはどうした事でしょうか。

 初等文法が終わると読本の読解に進みますが、その読本には巻末に注解が付いています。これは英語の読本の場合と同じです。しかるに、その注解はあまりにもお粗末ではないでしょうか。間違いも散見されますし、必要な説明の落ちている事も多いです。それ以上にひどいのは、「ここは説明しなければならない」と気づきながら説明が出来ないために素通りしている所のあることです。

 そして、決定的に困ることは、注解全体を通して「言葉を科学するとはどういうことか」を教える姿勢が感じられないことです。例えば、ドイツ語の話法の助動詞の説明では、形と一般的な用法とその箇所の意味の3つを書かなければならないのに、その内のどれかを恣意的に書いているのが普通です。

 私の調べたのは学界で「大家」として名を馳せている方々のものですが、それがこの通りなのです。これが「自分で勉強された方」の学問です。

 ではどうしてこのようなお粗末なことになっているのでしょうか。私は、それは、「自分で勉強した」ために、先人の成果を十分に受け継がなかったからであり、そのために学問が蓄積されていかず、発展していないからだと思います。

 高校も大学も「自分で勉強する所」ではありません。先生の指導を受けて勉強する所です。それによって過去の成果を速やかに吸収して、学問を更に発展させる所です。
(2000年12月06日発行)


「哲学の授業」をすべての図書館に

2005年12月27日 | タ行
投書(「哲学の授業」をすべての図書館に)       S・H

牧野先生、
 
 小生は地方弱小私大の教師をしているものですが、メルマガ「教育のひろ
ば」はいつも読んでいます。毎回とても考えさせられます。今回は先生の近
著『哲学の授業』(未知谷刊)を早速講読してその感想を述べたいと思いま
して、メールを差し上げています。

 小生の大学など昔風に考えたら大学といえるでしょうか?大学再編の荒波
の中、果たして生き残ることができるでしょうか?お隣の大学は今年定員
200名にたいしなんと60名しか学生が集まらず、閉鎖を検討中と聞いてい
ます。

 いったい何が問題なのでしょうか?確かに少子化によって就学者人口は大
幅に減少しました。でも大学はそれに備えて努力してきたでしょうか。少子
化は早くから分かっていたはずです。小生の大学には「教育のひろば」の基
準でいったらニセ物教授が90%以上いるでしょう。大学に入学してくる新
入生の気質は明らかに変化しているのに十年一日の如くマンネリ授業をして
大学は倒産しないと信じて疑わない「大学の癌」のような教授、研究・研究
とタコツボに入り込んで黒板と話をして学生と目をあわせられない教授。

 学生は本当にやる気がないのでしょうか?学生は若者らしい期待を抱いて、
その到達レベルはどうであれ潜在的に「やる気を」を「好奇心」をもってい
るはずです。

「本当の授業はかくあるべきか」大学といわず、およそ教育に携わるもの
が、父や母になるものまでも考えねばならないときに来ているのではないで
しょうか。そんな折、『哲学の授業』を読んで、本当の授業を追い求めた
牧野先生の姿勢に触れたような気がしたのです。

 先生には直接お会いしたこともなく、無論授業も受けたことはありません。
しかし、本書にある問題意識は真剣に本当の授業を考える教師なら共通した
ものです。その教育実践も相当の見識をうかがわせるものでした。早速、教
員志望の学生達の授業の教科書に指定しました。若い学生にこそ本書読んで
自分の教師としての将来像を描くべきだと考えてからです。しかし、売店に
入荷するのは7月5日だそうです。

 日本の出版物の流通事情は最悪だと考えています。地方ですと書籍を注文
しても2ないし3週間もかかってしまいます。パソコンの普及で「流通革
命」が起こったようですが、それは俗な書籍の話しで正当な本は田舎の書店
の店頭には並びません。そこで本書がまず教師が読むという観点から各級の
学校図書館に常備されるべきだと思いました。

 率直にいって、全ての現役教師、教員志望の学生は本書を読んで、自分の
授業のあり方を今一度、問い直すべきだと考えています。

 家庭での教育を考えると、父となり母となる人たちにも子供の成長の過程
と教育のあり方を考えてもらいたいものです。「父(母)になることはやさ
しいが、父(母)であることはむずかしい」と考えれば、近所の公立の図書
館にあって問題意識の確認のために本書が読めれば良いと思います。

 人間にできることは自らの人生を反省し今後の人生を生きる、つまり「自
分の考えを自分にはっきりさせる」というこでしょう。ご存知のとうり、こ
れは「教育のひろば」の標語です。小生は大変気に入っています。できれば
教員・教員志望のみなさんがこのメルマガをメルともにでも紹介して読者を
増やして真摯な議論ができれば良いと思います。

 教育を良くしたいと思う人々が牧野先生を中心に集まってもっともっと活
発な議論・運動が展開されますように期待いたします。

 何か、感想だか何かわからないことをだらだらと書いてすいません。牧野
先生と「教育のひろば」の今後のご発展をきたいします。

(2002年07月08日発行)