長崎県佐世保市の大久保小学校で6年生の女子生徒が同級生
の女子生徒に殺害されるという痛ましい事件が起きました。
例によって「いのちの大切さをもっと教えなければならな
い」などという決まり文句が繰り返され、深刻ぶった教育委員
会関係者や校長たちの顔がTVに繰り返し映し出されていま
す。
これが茶番劇であることは、いつも同じ事が繰り返され、そ
れにもかかわらず未成年者による殺人事件は全然なくならず、
形を変えて繰り返されていることから判ります。
いや、もっとはっきりした証拠は、教育委員長も校長も自分
の給与の返上という事を全然していないことです。もし本当に
責任を感じているならば給与を、一部でいいから、返すべきで
す。これが世の中の常識であり、民間の常識です。
昨年2003年の03月に2件、05月に1件、処分の発表されまし
た静岡大学でのセクハラ事件でも、本当の責任者である佐藤前
学長の給与ないし退職金は全然減りませんでした。これでは責
任をとった事にならないと思います。
責任者の給与が減らない限り、その責任者は真剣には取り組
まないものです。これが人間です。人間はこのように出来てい
るのです。しかし、国公立の学校や大学では、トップの減給と
いう話はほとんど聞いたことがありません。これでは事態は改
善されないのも当然です。
「いのちの大切さを教える」というのも間違いです。なぜな
ら、第1に、それの分かっていないのは生徒であるよりも前に
教師だからです。
この点については教科通信「天タマ」の第15号に書きまし
た。要点は、「いのちを大切にする」とは具体的には約80年の
この人生を充実して過ごすということですから、お粗末授業で
生徒の人生の何分間かを無駄にするのは、「生徒のいのちを大
切に」したことにはならず、それは一種の部分殺人だ、という
ことです。詳しくは拙著「哲学の授業」(未知谷)を見てくだ
さい。
第2に、生徒には「いのちを大切にしなければならない」な
どという事は分かっているのです。それにもかかわらず殺人事
件が起きているのです。この事の原因を考えてみなければなら
ないのだと思います。
それなのに、エライ方々は相も変わらず「いのちの大切さ」
などとうそぶいています。鈍感もいい加減にしてほしいもので
す。いや、本当は鈍感ではなく、事件が繰り返されて自分たち
の仕事がなくならない方がいいのかもしれません。
今回の事件でもそうですが、「自分が正当に理解されていな
い」という不満が最大の原因のようです。これは多くの人の持
つ不満だと思います。これをどう考え、解決したらいいか、こ
れこそ考えるべき問題だと思います。
私見を箇条書き的にまとめます。
第1に、人間の完全な相互理解は不可能だということです。
ですから、他人に百パーセント理解されたいと願うのを止めた
方が好いと思います。
第2に、人間関係は相互的だということです。ですから、他
人に理解されないと不満に思った時には、「では、自分は相手
をどれだけ理解しているか」、「自分は相手を理解するために
どれだけの努力をしているか」、「自分を理解してもらうため
にどれだけの努力をしているか」と反省してみると好いと思い
ます。
第3に、第1と第2の事から出てくる結論として、人間は互
いに60パーセント理解しあえば十分だと思うことだと思います
。従って、自分も相手を60パーセント理解しようと努力し、60
パーセント理解してもらおうと努力するといいと思います。
その際の留意点としては、「相互理解」とは「互いに一致す
ること」とは限らないということです。ですから、相互理解の
目的を互いに「自分の考えを自分に明らかにすること」とする
といいと思います。つまり、本メルマガの目的と同じです。
こういう事を、教師が一方的に「教える」のではなくて、互
いの体験を話し合うという態度で話し合えたら一番いいと思い
ます。これが「議論のある教育」だと思います。
第4に、特に、学校や会社のように沢山の人が一緒にいる場
合にはトップ(担任や校長や社長や課長)の責任が重要だと思
います。私の提案としては、書き言葉によるコミュニケーショ
ンを重視するといいと思います。
昨年、NHKの「21世紀ビジネス塾」で放映されました北
海道の六花亭という製菓会社は1300人もの従業員がいるそうで
すが、毎日社員は「1日1情報」という小片を書いて出しま
す。社長室でそれを整理して、翌日、30人くらいのものを印刷
して皆に配付します。
その会社では、外部からのお客さんはいつきても印刷機が動
いているので不思議に思うのだそうです。「こんなにいつも、
一体、何を印刷しているのですか?」と。
私はその会社の「通信」(六輪、と言います)をもらいまし
たが、面白いと思いました。少なくとも、学校よりは熱心だ
な、と思いました。
私の住んでいる地区の中学校の後援会総会で先日、「全12ク
ラスの内、学級通信を出しているのは何クラスですか?」と質
問したところ、答えは「2」でした。やれやれ、これで「本校
の先生はみな熱心だ」(入学式での校長の言葉)と言えるので
しょうか。
結論として、以上の事を理解して対策をとったとしても殺人
事件はなくならないでしょうが、減りはするでしょう。人間に
出来る事はこれくらいだと思います。
日 本 語 疑 典
06月09日の朝日新聞の社説で皇太子の発言問題を取り上げて
いました。その中に次の言葉がありました。
・・皇太子さまがどのように真意を説明するのか、大きな注目
を集めていた。-
問題はもちろん「大きな注目を集める」という言い回しで
す。「注目を集める」という表現は本当は間違いだと思います
が、今では誰もおかしいと思わないくらいに一般化してしまっ
たと思います。
既に書いたと思いますが、「注目を集める」は多分、「耳目
を集める」と混同して使われるようになったのでしょう。「注
目」と言うなら、ただ「注目する」「注目される」で好いはず
です。
さて、その「注目を集める」を強調する場合、「大きな」を
つけて「大きな注目を集める」と言ってよいのでしょうか。
どこかおかしく感じるのは、そもそも「注目を集める」とい
う表現自体が強調的な表現だからだと思います。
「注目を集める」を使わないで、「国民は強い関心を持って
いた」くらいでよかったと思います。
(2004年06月09日発行)
の女子生徒に殺害されるという痛ましい事件が起きました。
例によって「いのちの大切さをもっと教えなければならな
い」などという決まり文句が繰り返され、深刻ぶった教育委員
会関係者や校長たちの顔がTVに繰り返し映し出されていま
す。
これが茶番劇であることは、いつも同じ事が繰り返され、そ
れにもかかわらず未成年者による殺人事件は全然なくならず、
形を変えて繰り返されていることから判ります。
いや、もっとはっきりした証拠は、教育委員長も校長も自分
の給与の返上という事を全然していないことです。もし本当に
責任を感じているならば給与を、一部でいいから、返すべきで
す。これが世の中の常識であり、民間の常識です。
昨年2003年の03月に2件、05月に1件、処分の発表されまし
た静岡大学でのセクハラ事件でも、本当の責任者である佐藤前
学長の給与ないし退職金は全然減りませんでした。これでは責
任をとった事にならないと思います。
責任者の給与が減らない限り、その責任者は真剣には取り組
まないものです。これが人間です。人間はこのように出来てい
るのです。しかし、国公立の学校や大学では、トップの減給と
いう話はほとんど聞いたことがありません。これでは事態は改
善されないのも当然です。
「いのちの大切さを教える」というのも間違いです。なぜな
ら、第1に、それの分かっていないのは生徒であるよりも前に
教師だからです。
この点については教科通信「天タマ」の第15号に書きまし
た。要点は、「いのちを大切にする」とは具体的には約80年の
この人生を充実して過ごすということですから、お粗末授業で
生徒の人生の何分間かを無駄にするのは、「生徒のいのちを大
切に」したことにはならず、それは一種の部分殺人だ、という
ことです。詳しくは拙著「哲学の授業」(未知谷)を見てくだ
さい。
第2に、生徒には「いのちを大切にしなければならない」な
どという事は分かっているのです。それにもかかわらず殺人事
件が起きているのです。この事の原因を考えてみなければなら
ないのだと思います。
それなのに、エライ方々は相も変わらず「いのちの大切さ」
などとうそぶいています。鈍感もいい加減にしてほしいもので
す。いや、本当は鈍感ではなく、事件が繰り返されて自分たち
の仕事がなくならない方がいいのかもしれません。
今回の事件でもそうですが、「自分が正当に理解されていな
い」という不満が最大の原因のようです。これは多くの人の持
つ不満だと思います。これをどう考え、解決したらいいか、こ
れこそ考えるべき問題だと思います。
私見を箇条書き的にまとめます。
第1に、人間の完全な相互理解は不可能だということです。
ですから、他人に百パーセント理解されたいと願うのを止めた
方が好いと思います。
第2に、人間関係は相互的だということです。ですから、他
人に理解されないと不満に思った時には、「では、自分は相手
をどれだけ理解しているか」、「自分は相手を理解するために
どれだけの努力をしているか」、「自分を理解してもらうため
にどれだけの努力をしているか」と反省してみると好いと思い
ます。
第3に、第1と第2の事から出てくる結論として、人間は互
いに60パーセント理解しあえば十分だと思うことだと思います
。従って、自分も相手を60パーセント理解しようと努力し、60
パーセント理解してもらおうと努力するといいと思います。
その際の留意点としては、「相互理解」とは「互いに一致す
ること」とは限らないということです。ですから、相互理解の
目的を互いに「自分の考えを自分に明らかにすること」とする
といいと思います。つまり、本メルマガの目的と同じです。
こういう事を、教師が一方的に「教える」のではなくて、互
いの体験を話し合うという態度で話し合えたら一番いいと思い
ます。これが「議論のある教育」だと思います。
第4に、特に、学校や会社のように沢山の人が一緒にいる場
合にはトップ(担任や校長や社長や課長)の責任が重要だと思
います。私の提案としては、書き言葉によるコミュニケーショ
ンを重視するといいと思います。
昨年、NHKの「21世紀ビジネス塾」で放映されました北
海道の六花亭という製菓会社は1300人もの従業員がいるそうで
すが、毎日社員は「1日1情報」という小片を書いて出しま
す。社長室でそれを整理して、翌日、30人くらいのものを印刷
して皆に配付します。
その会社では、外部からのお客さんはいつきても印刷機が動
いているので不思議に思うのだそうです。「こんなにいつも、
一体、何を印刷しているのですか?」と。
私はその会社の「通信」(六輪、と言います)をもらいまし
たが、面白いと思いました。少なくとも、学校よりは熱心だ
な、と思いました。
私の住んでいる地区の中学校の後援会総会で先日、「全12ク
ラスの内、学級通信を出しているのは何クラスですか?」と質
問したところ、答えは「2」でした。やれやれ、これで「本校
の先生はみな熱心だ」(入学式での校長の言葉)と言えるので
しょうか。
結論として、以上の事を理解して対策をとったとしても殺人
事件はなくならないでしょうが、減りはするでしょう。人間に
出来る事はこれくらいだと思います。
日 本 語 疑 典
06月09日の朝日新聞の社説で皇太子の発言問題を取り上げて
いました。その中に次の言葉がありました。
・・皇太子さまがどのように真意を説明するのか、大きな注目
を集めていた。-
問題はもちろん「大きな注目を集める」という言い回しで
す。「注目を集める」という表現は本当は間違いだと思います
が、今では誰もおかしいと思わないくらいに一般化してしまっ
たと思います。
既に書いたと思いますが、「注目を集める」は多分、「耳目
を集める」と混同して使われるようになったのでしょう。「注
目」と言うなら、ただ「注目する」「注目される」で好いはず
です。
さて、その「注目を集める」を強調する場合、「大きな」を
つけて「大きな注目を集める」と言ってよいのでしょうか。
どこかおかしく感じるのは、そもそも「注目を集める」とい
う表現自体が強調的な表現だからだと思います。
「注目を集める」を使わないで、「国民は強い関心を持って
いた」くらいでよかったと思います。
(2004年06月09日発行)