ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 172号、小6女子生徒死亡事件

2005年08月31日 | 教育関係
 長崎県佐世保市の大久保小学校で6年生の女子生徒が同級生
の女子生徒に殺害されるという痛ましい事件が起きました。

 例によって「いのちの大切さをもっと教えなければならな
い」などという決まり文句が繰り返され、深刻ぶった教育委員
会関係者や校長たちの顔がTVに繰り返し映し出されていま
す。

 これが茶番劇であることは、いつも同じ事が繰り返され、そ
れにもかかわらず未成年者による殺人事件は全然なくならず、
形を変えて繰り返されていることから判ります。

 いや、もっとはっきりした証拠は、教育委員長も校長も自分
の給与の返上という事を全然していないことです。もし本当に
責任を感じているならば給与を、一部でいいから、返すべきで
す。これが世の中の常識であり、民間の常識です。

 昨年2003年の03月に2件、05月に1件、処分の発表されまし
た静岡大学でのセクハラ事件でも、本当の責任者である佐藤前
学長の給与ないし退職金は全然減りませんでした。これでは責
任をとった事にならないと思います。

 責任者の給与が減らない限り、その責任者は真剣には取り組
まないものです。これが人間です。人間はこのように出来てい
るのです。しかし、国公立の学校や大学では、トップの減給と
いう話はほとんど聞いたことがありません。これでは事態は改
善されないのも当然です。

 「いのちの大切さを教える」というのも間違いです。なぜな
ら、第1に、それの分かっていないのは生徒であるよりも前に
教師だからです。

 この点については教科通信「天タマ」の第15号に書きまし
た。要点は、「いのちを大切にする」とは具体的には約80年の
この人生を充実して過ごすということですから、お粗末授業で
生徒の人生の何分間かを無駄にするのは、「生徒のいのちを大
切に」したことにはならず、それは一種の部分殺人だ、という
ことです。詳しくは拙著「哲学の授業」(未知谷)を見てくだ
さい。

第2に、生徒には「いのちを大切にしなければならない」な
どという事は分かっているのです。それにもかかわらず殺人事
件が起きているのです。この事の原因を考えてみなければなら
ないのだと思います。

それなのに、エライ方々は相も変わらず「いのちの大切さ」
などとうそぶいています。鈍感もいい加減にしてほしいもので
す。いや、本当は鈍感ではなく、事件が繰り返されて自分たち
の仕事がなくならない方がいいのかもしれません。

今回の事件でもそうですが、「自分が正当に理解されていな
い」という不満が最大の原因のようです。これは多くの人の持
つ不満だと思います。これをどう考え、解決したらいいか、こ
れこそ考えるべき問題だと思います。

私見を箇条書き的にまとめます。

第1に、人間の完全な相互理解は不可能だということです。
ですから、他人に百パーセント理解されたいと願うのを止めた
方が好いと思います。

第2に、人間関係は相互的だということです。ですから、他
人に理解されないと不満に思った時には、「では、自分は相手
をどれだけ理解しているか」、「自分は相手を理解するために
どれだけの努力をしているか」、「自分を理解してもらうため
にどれだけの努力をしているか」と反省してみると好いと思い
ます。

第3に、第1と第2の事から出てくる結論として、人間は互
いに60パーセント理解しあえば十分だと思うことだと思います
。従って、自分も相手を60パーセント理解しようと努力し、60
パーセント理解してもらおうと努力するといいと思います。

その際の留意点としては、「相互理解」とは「互いに一致す
ること」とは限らないということです。ですから、相互理解の
目的を互いに「自分の考えを自分に明らかにすること」とする
といいと思います。つまり、本メルマガの目的と同じです。

こういう事を、教師が一方的に「教える」のではなくて、互
いの体験を話し合うという態度で話し合えたら一番いいと思い
ます。これが「議論のある教育」だと思います。

第4に、特に、学校や会社のように沢山の人が一緒にいる場
合にはトップ(担任や校長や社長や課長)の責任が重要だと思
います。私の提案としては、書き言葉によるコミュニケーショ
ンを重視するといいと思います。

昨年、NHKの「21世紀ビジネス塾」で放映されました北
海道の六花亭という製菓会社は1300人もの従業員がいるそうで
すが、毎日社員は「1日1情報」という小片を書いて出しま
す。社長室でそれを整理して、翌日、30人くらいのものを印刷
して皆に配付します。

その会社では、外部からのお客さんはいつきても印刷機が動
いているので不思議に思うのだそうです。「こんなにいつも、
一体、何を印刷しているのですか?」と。

私はその会社の「通信」(六輪、と言います)をもらいまし
たが、面白いと思いました。少なくとも、学校よりは熱心だ
な、と思いました。

私の住んでいる地区の中学校の後援会総会で先日、「全12ク
ラスの内、学級通信を出しているのは何クラスですか?」と質
問したところ、答えは「2」でした。やれやれ、これで「本校
の先生はみな熱心だ」(入学式での校長の言葉)と言えるので
しょうか。

結論として、以上の事を理解して対策をとったとしても殺人
事件はなくならないでしょうが、減りはするでしょう。人間に
出来る事はこれくらいだと思います。

       日  本  語  疑  典
 06月09日の朝日新聞の社説で皇太子の発言問題を取り上げて
いました。その中に次の言葉がありました。

・・皇太子さまがどのように真意を説明するのか、大きな注目
を集めていた。-

問題はもちろん「大きな注目を集める」という言い回しで
す。「注目を集める」という表現は本当は間違いだと思います
が、今では誰もおかしいと思わないくらいに一般化してしまっ
たと思います。

既に書いたと思いますが、「注目を集める」は多分、「耳目
を集める」と混同して使われるようになったのでしょう。「注
目」と言うなら、ただ「注目する」「注目される」で好いはず
です。

さて、その「注目を集める」を強調する場合、「大きな」を
つけて「大きな注目を集める」と言ってよいのでしょうか。

どこかおかしく感じるのは、そもそも「注目を集める」とい
う表現自体が強調的な表現だからだと思います。

「注目を集める」を使わないで、「国民は強い関心を持って
いた」くらいでよかったと思います。

(2004年06月09日発行)

教育の広場、第 173号、モハマド君の手術

2005年08月30日 | その他
        
 昨年(2003年)末、イラクのファルージャでの戦闘に巻き込
まれて左目に重傷を負った10歳の少年モハマド君(サレハ君、
と言う新聞もあります)の目の手術を日本でしてあげようとい
う努力が、大きな運動になりました。

その基金には1週間で1000万円以上の寄付が集まりました。
幸い日本に呼ぶことに成功し、手術も成功したそうです。

 これを始めた橋田信介さんがイラクで銃撃されて、甥の小川
功太郎さんと共に亡くなったという悲劇が加わって、一時はモ
ハマド君の居場所も分からなくなったりしたので、一層国民の
関心を引いたのだと思います。

 一段落した所で感想をまとめます。

 第1に、今回の特徴として確認するべきことは、橋田さんた
ちの銃撃・死亡事件に関して、その家族への悪罵がなかった(
らしい)ことです。これは、前回の3人のイラク支援ボランテ
ィアの人達の拘束事件の時や、先日の小泉首相の再度の訪朝の
時の拉致被害者家族への(少なくない国民の心ない)態度と比
較して大きな違いです。

これは、多分、橋田さんや小川さんの家族が政府批判をしな
かったからだと思います。逆に言うと、日本では政府批判は勇
気がいるということでしょう。民主主義国家の現状として大問
題だと思います。

第2に、モハマド君以外にも「日本に呼んで治療をしてあげ
ても好い人(子供に限っても好い)」がイラクには沢山いるの
ではないか、ということを考えたいと思います。それなのに、
そういう事はあまり意識されないように報道されていたと思い
ます。これも問題だと思います。

第3に、それどころか、そもそもなぜそういう罪なき人々が
沢山傷つくのか、という更に根本的な問題は全然論じられなか
ったと思います。それは分かっていた事なのかもしれません。
しかし、或る事柄を論じる時には絶対に結び付けて考えなけれ
ばならない事柄というものがあると思います。これを避けてい
ては、本当に考えた事にならないと思います。

第4に、全然論じられなかった事として、更に、日本政府の
「イラク復興人道支援」との関係をどう考えるのか、という問
題があります。イラクに派遣されている自衛隊員は通常の給与
のほかに「危険地勤務手当て」として1日3万円支給されてい
るとか聞いています。 300人以上派遣されているのですから、
それだけで1日1000万円以上、国庫から支出していることにな
ります。

このお金を自衛隊の派遣という形ではなく、別の形で使った
ら、一層大きく「イラク人道復興支援」の実をあげることがで
きるのではないでしょうか。こういう事は考えなくて好いので
しょうか。

第5に、以上の事を考えますと、モハマド君への国民の熱い
思いは、その反面に、こういう根本問題を避けて、何か好い事
をしていると思い込みたいという願望があるのではないか、と
いう推測を生みます。少なくとも、嫌な事の続く日々の中に一
服の清涼剤がほしいという願望があるのではないでしょうか。

こういう気持ちも分からないではありません。しかし、清涼
剤は清涼剤であって、本当に涼しくするものではないと思いま
す。

イラクへの米軍の侵攻についてアメリカを強く支持してきた
国々の中でも、スペインでは昨年の秋の列車爆破テロをきっか
けにして政権が交代しました。イギリスでも先日の地方選挙で
与党が歴史的な大敗を喫しました。来年の総選挙では政権交代
があるのではないかと言われる事態になっています。

それなのに我が日本では相変わらず小泉「はぐらかし」内閣
の支持率が50%を越えているのです。年金制度の改革では支持
を失っていますが、「イラク人道復興支援」とやらへの支持は
変わっていません。

第6に、モハマド君のための基金はその後も増えつづけたこ
とでしょうから、多分、1000万円を遙に越える寄付が集まった
ことと思います。その内のいくらをモハマド君のために使った
のでしょうか。残りはどう使うつもりなのでしょうか。

あと何人かのイラク人少年少女を日本に呼んで治療してあげ
ることに使ってもいいと思います。あるいは、イラク国内に適
当な治療施設を作ってあげるのもいい案だと思います。あるい
は、アフガニスタン援助を続けているアフガニスタン人の医師
(たしか磐田市近郊で開業している)を応援しても好いと思い
ます。

こういう基金については報告をした方が好いと思います(ど
こかでしているのかもしれません)。

 (2004年06月16日発行)

教育の広場、第 210号 私の自治会長(付録)

2005年08月29日 | サ行
210、私の自治会長(06、ポスターで掲示板を美しく)

 私の地域(自治会の区域)にも公民館があります。数年前に建てた立派なものです。

 その玄関の横に掲示板があります。しかし、その掲示板に張ってあるのは防災とか防犯とかの薄汚いポスターでした。そこで私は、掲示板をきれいにしようと考えました。

 美術展のポスターをもらって張ろうと考え、まず浜松市立美術館に電話をしました。くれるなら、自分で取りにいくつもりでした。しかし、「自治会なら、登録しておけば、新しいのが出る毎に送る」との返事でした。

 自治会長という名前の持つ神通力に気づいた私は、元々「タダでもらうのが好き」でしたので、対象を広げました。静岡県立美術館(ここにはロダン館というのもあります。が、あまり好いポスターではなかった)、静岡市立美術館(これは芹沢圭介美術館です)その他に電話をして約束を取り付けました。

 もらうようになってみて分かった事は、これは美術館側からすると、「ポスターを掲示してもらう」ということになるようで、「掲示のお願い」という手紙が一緒に入って送られてきます。その「お礼」ということなのでしょうか、たいてい、2人分の「招待券」が同封されてきます。

 常会の席で皆に紹介し、招待券のほしい人は申し出てほしいと伝えました。しかし、希望者は出ませんでした。たいてい無駄にするか、我が家で使うことになりました。

 これらの美術館は必ずしも大衆的(素人向け)ではないのかなと思い、更に対象を広げました。出向く可能性のほとんどないものでも面白そうなものとして、原田泰治美術館(諏訪市)、安曇野ちひろ美術館、富弘美術館(群馬県)、安野光雅美術館(島根県)などとも連絡を取りました。

 どこでもたいてい、大小2種のポスターを作るらしく、大きいポスターは1枚、小さい方は数枚から30枚も送ってきます。サイズはそれぞれ大して違わないのですが、安野美術館のだけは大きい方はばかでかくで掲示板に張れませんでした。

 ここのような山の中では、新聞は各戸に配達されません。前日の夕刊と今日の朝刊が同時に、1ヵ所に配達されます。それをその日の新聞配達当番が3ヵ所にまとまっている状差しみたいなものに入れて回るのです。各自は自分でそこまで取りに行きます( 100メートルくらい離れた新聞置き場に、毎朝、歩いていくのも健康にいいものです)。

 小さい方のポスターも無駄にするのはもったいないと思い、適当な額縁を買って、バス停に飾ることにしました。ここはバスを待つ間に見てもらえますし、何より、大勢の新聞置き場になっているのです。しかし、安野美術館のものは小さい方も大きくて、額縁に入りませんでした。

 私の一番気に入っているのは原田泰治美術館のポスターです。原田さんの素朴画自体が日本のふるさとを描いた懐かしいものですが、外国の同種の絵とも協力しているようです。又、原田さんの絵を元にしたキルトの作品を募って、その展覧会も開いているようです。

 ちひろ美術館では、昨年は、「わたしが選んだちひろ(作品)」の投票をして、展覧会を開いたようです。元横綱貴の花とか野球の松井秀樹選手も投票したとか、伝えられました。

 私は既に自治会長ではないのですが、この仕事だけは続けてよいとの許可を得ましたので、今後も「自治会長」という名を使って、少しずつ対象を増やしていこうかと考えています。

 (2005年08月29日に発表)

教育の広場、第 174号、党首討論会を聞いて

2005年08月21日 | 政治関係
         
 〔2004年〕06月21日、参議院議員選挙のための党首討論会
(日本記者クラブ主催)が行われました。折からの台風のため
に、生放送はされなかったようです。その代わりにラジオでは
当日の深夜に放送されました。ということは、私でも全部聞く
ことが出来たということです。

 それを聞いて考えたことを2つ書きます。

 第1は、民主党の岡田代表が「国民の皆様は投票に行くとい
うその義務を果していただきたい。投票に行かなければ変わら
ないのです」と、国民に「お願い」するのではなく、「要求」
していたことです。

 これは立派な事だと思います。私はかねがね、立候補者、つ
まり国民を指導する立場に立つことになる人々が平身低頭して
「お願い」するのをどうかと思っていました。今でもそう思っ
ています。

 指導者たる者、時には国民に対して「要求」をするくらいの
勇気と見識を持っていなければならないと思います。これは威
張って好いということとは違うと思いますが、ともかく、おも
ねたり、お願いしたりすることは本当の指導者ではないと思い
ます。

 ここで思い出したことは、たしかマカレンコの教育論の中で
読んだのだと思いますが、「本当の教師は生徒を信頼するが故
に生徒に要求する」という言葉です。

 その意味で、今回、岡田代表からそういう言葉を聞いたのに
は感心しました。そして、民主党を応援しようかという気持ち
になりました。私は民主党にもかなり不満で、今回はみどりの
会議を応援しようかと思っていたのですが、今回も又民主党に
入れようかと思います。

 第2は、共産党の志位委員長が、これまでもそうですが、ヨ
ーロッパの資本主義のあり方を基準にして、ヨーロッパでは現
にこうやっているから、出来るはずだ、という論法を使うこと
です。

 今回も、年金の財源として軍事費削減のほかに大企業や大金
持ちに応分の負担をしてもらう、という主張の根拠としてそれ
を持ち出していました。

 それはそれで結構で、私も賛成なのですが、共産党はでは一
体、ヨーロッパ型資本主義を生み出したのは、共産党がやれ修
正主義だとか、やれ労働者階級の裏切り者だとか言って、悪罵
の限りを尽くして罵ってきた社会民主主義政党だということを
どう考えているのでしょうか。

 それに反して、最近仲直りをした中国共産党を始めとして、
自称共産主義政党はヨーロッパ型資本主義以上の社会をつくり
出せないでいるということをどう考えるのでしょうか。

 ここまで言ってくれなければ、政党としての誠実さを信用出
来ないと思います。

        そ の 後 の 話

 前回、第 173号(モハマド君の手術)の最後に、こう書きま
した。

・・第6に、モハマド君のための基金はその後も増えつづけ
たことでしょうから、多分、1000万円を遙に越える寄付が集ま
ったことと思います。その内のいくらをモハマド君のために使
ったのでしょうか。残りはどう使うつもりなのでしょうか。
(略)

こういう基金については報告をした方が好いと思います(ど
こかでしているのかもしれません)。・・

06月18日の朝日新聞にこれに関連した記事がありました。

それは、06月17日までに2000万円を越えたこと、それは渡航
費や滞在費などには十分なこと、従って募金は6月末で締め切
ること、今後の治療方針が決まり次第募金の使途を提示するこ
と、などでした。

余計な事ですが、最後の「募金の使途」という用語法にあり
ますように、「募金」という言葉は今やこのように「集められ
た寄付金そのもの」という意味でも使われるようになっていま
す。本当は「寄付金の使途」だと思います。

(2004年06月23日発行)

教育の広場、第 209号、第2外国語教育の衰退の原因

2005年08月20日 | 教育関係
 朝日新聞(2005年05月10日)の「天声人語」に次の文章があ
りました。

 ─ゴールデンウイークが終わって、きょうから大学のキャ
ンパスも活気を取り戻す。講義もそろそろ本格化する頃であ
る。

 かつては、英語以外にフランス語やドイツ語を学ぶことは、
知的な背伸びをしているようで、大学生になったという実感を
持ったものだった。最近は、第2外国語を必修から外す所も出
てきて、語学学習の風景もだいぶ変わった。

 都内の私大で第2外国語のスペイン語を教えている知り合い
によると、年々辞書を持たない学生が増えているという。毎
年、最初の授業で何冊かの辞書を推薦するのだが、今年3回目
の授業で尋ねたところ、クラス30人のうち購入したのは3人だ
った。かなり前なら、外国語を学ぶのに辞書を買うのは常識だ
った。いまの学生が辞書を買わない理由は「高い」「重い」
「引くのが面倒くさい」の3つだという。

 別の私大のベテラン教員は、一昔前のこんな話を教えてくれ
た。辞書の持ち込み可でフランス語を訳す試験を行ったところ
、ある学生は仏和辞典だけでなく、国語辞典も持ち込んだ。訳
文に正確さを期するためだった。これまた失われた風景だとい
う。

 いま書店の外国語コーナーをのぞくと、「超やさしい○○語
の入門」「10日でマスター」といったようなタイトルの薄っぺ
らい本であふれている。詳しい文法は省略だ。辞書を買わない
学生もこういう本は購入する。

 辞書を片手に難解な原書に挑戦するなんてことは今時、はや
らないかもしれない。だが、外国語は地道な努力が習得の基本
である。それはいつの時代でも変わらない。─

 これを読んだ第1印象は、なんだかどこかで読んだような文
だな、というものでした。こういうのも一種の「既視感」と言
うのでしょうか。第2外国語についてのこのような意見は聞き
飽きました。

 しかし、一度はきちんと批判しておこうかなとも思いまし
た。だからこうして今日まで取っておいたのです。先に、本メ
ルマガの第80号「全ての事をお金と結び付けて理解する」(20
02年06月02日発行)でも同じような事をしました。

 こういう天人さん(天声人語の筆者)や大学教員の考えはど
こに欠陥があるのでしょうか。それはすぐに分かります。この
現状に問題があるとたら当然考えるべき原因を考えていないと
いうことです。そして、ただちに学生側に全部の責任を押しつ
けて事足れりとしている、ということです。これでは学者とは
言えないでしょう。教養のある人とも言えないでしょう。

 天人さんたちが考えてくれないので、こちらで代わって考え
ますと、これまたすぐにも思いつくことは、第1に、大学進学
率の上昇と大学の大衆化で、学生全体のレベル及び学生の平均
レベルが下がったということです。従って、ここからの結論と
しては、こうなるのは当然という考えもありえますし、実際に
そう言っている人もいます。

 第2の原因は、授業のマスプロ化です。1クラスの人数が増
えて、大教室で授業がなされるということです。これは大学の
側の責任です。学生の責任ではありません。

 第3は、教授の数も増えて、教授の実力も下がっているとい
うことです。

 又、第4に、授業のやり方が学生の現状に合っていないとい
うこともあります。これも学生の責任ではありません。

 原因の検討はこれくらいにしてその他の感想を書きます。

 私の少し知っている事を書きますと、ドイツでも昔は映画
「嘆きの天使」の冒頭に出てくるような愚劣な授業が行われて
いたようですが、30年くらい前から会話中心の授業に変わった
そうです。

 天人さんや上の教授は辞書を買うのは当たり前と思っている
ようですが、私の見学したドイツの高校1年生の英語の授業で
は誰も辞書を持っていませんでした。テキストも先生がプリン
トしたもので、新しい単語はそのプリントの最後に英英辞典の
ような説明を付けていました。

 授業は全部英語で進めていました。先生が英語で説明し、質
問し、生徒が英語で答えていました。授業の後、先生に聞いた
所、ダイレクト・メソッドは最初の4週間くらいが大変だが、
そこを乗り切れば後は同じ、との事でした。

 もちろん教師のための研修は相当行われているようです。研
修の日程のための小冊子もあるくらいです。

 私の知っている範囲では、昔の授業も大した事はなかったと
思います。昔の教養主義は戦争を阻止することができなかった
ではないか、という主張もあります。そこまで言わないにして
も、昔の大学生は一種の特権階級でしたから、外国語学習はそ
ういう人達の教養とは趣味か飾りでしかなかったと思います。

 現に、そういう教育を受けてきた現在の教授が新しい事態に
対して何も出来ない教授になっているのではないでしょうか。

 最近は留学が簡単に出来るようになりましたので、語学教師
は留学して外国人の友達を作って満足している傾向もあると思
います。NHKのラジオドイツ語講座を聞いているとそう思い
ます。

 そこに出てくる講師も会話が出来るだけで、文法はほとんど
研究していないと推定されます。そもそも質問に答えるという
「教養」の基本がありません。

 英語教育や第2外国語の教育はどうしたらよいか。私案は既
に本メルマガでもいくつかの所で書いたと思いますので、今回
は書きません。

 最後に、天人さんの揚げ足取りを1つ。

 上の文章の中に「正確さを期する」という表現が出てきま
す。これは「正確を期する」が本当ではないでしょうか。ぜひ
「国語辞典」を見て調べてみて下さい。そして、国語辞典で分
からなかったら、こういう国語辞典しか作れない「かつての
語学教育を受けた人々」の教養とは何なのか、考えてみて下さ
い。

 この文章も天人さんに送ってみます。果して返事がくるでし
ょうか。

(2005年08月20日発行)

教育の広場、第 175号 要注意高校リスト

2005年08月06日 | その他
写真週刊誌「フライデー」の2004年06月18日発行の号が「要
注意高校リスト」として高校の実名を掲載したそうです。これ
に対して東京都が発行元の講談社に抗議したそうです。

このリストは、大型量販店が社員の採用にあたっての資料と
して作成したものだとされています。そして、偏差値が49以下
とされた東京都内と神奈川県内の高校名を挙げたそうです。

06月22日付けの朝日新聞に小さな記事として載っていまし
た。

これを読んで考えた事を書きます。

第1に、このような表は事実上、ほかの会社にもあるのでは
なかろうか、と考えました。表になっていなくても、人事担当
者の頭の中にはあるのではないでしょうか。これ自体悪い事な
のでしょうか。たとえ悪いとしても、頭の中まで禁止はできな
いでしょう。

私は某市の看護学校で哲学を教えていた時期がありました
が、出身高校によって生徒にある程度の特色があると思いまし
た。もちろんだからといって、出身高校で個人を評価してよい
ということにはならないと思います。しかし、高校の評価を考
える時には役立つのではないでしょうか。

第2に、根本的にはこういう評価なり判断をしたり発表した
りする場合は、学校(校長)や教員に向上してほしいという気
持ちをもって、その目的にとって適当な仕方で言ったり発表し
たりするべきだと思います。

人間はとかく「他人(ひと)を裁く」気持ちになりがちで
す。ですから聖書にも「人を裁くな、汝が裁かれざらんがため
に」と言っているのではないでしょうか。なかなか難しい事で
すが、相手に向上してほしいという気持ちで、相手と話し合う
ような態度で、「ここは違うのではないでしょうか」と、発言
できるようになりたいものです。

第3に、世間をみてみますと、このような評価は、病院とか
医師とかについてはかなりなされ、本や雑誌に発表されていま
すが、学校や教師については、ゼロではありませんが、あまり
にも少ないのではないでしょうか。

かなり前ですが、「学問の鉄人」とかいう本を見たことがあ
ります。同じ分野を専攻している教授たちにその分野での「鉄
人」を推薦してもらって、それをまとめたものだったと思いま
す。

私は次のような事をすると好いと思います。それは、1つ1
つの学校なり大学なりのホームページについて、必要な情報が
検索しやすく公開されているか、という観点で評価し、又発表
されている内容についての意見を相手に伝えるということで
す。独自のHPを作ってそれを載せるのです。

その中ではぜひ個々の教員の業績や授業についての評価や意
見も載せるべきだと思います。掲示板みたいにして、公の場で
本人も交えて議論できると好いと思います。

もちろん、悪い点については事前に本人に伝えて、改善を約
束した場合は載せないが、返事がないとか反論してきた場合は
載せるとかいった、いくつかのルールを決めておく必要がある
と思います。

そういう細かい点はともかく、要するに学校や大学について
は、市民による自由な評価・批評が公開の場でなされることが
少なすぎると思います。そして、これは日本の民主主義か未熟
なことの1つの現れだと思います。

私はこの4月から地域の自治会長をして、小学校と中学校の
後援会とかに出たり、校長と話したりしましたが、聞くだけで
実行する気はないのだなと思いました。住民の意見など全然力
になりません。ですから、やはりこういうHPでも作って、議
論をし、返事をしなかったり改善しない人や学校(校長)につ
いては実名を挙げて意見を言うのが好いと思います。

本当は、こういうHPは学校だけでなく、全ての役所とか特
殊法人とかについても必要だと思います。「特殊法人監視機
構」とかいうHPもあるようです。

オンブズ活動がもっと盛んになり、全ての公務についてこう
いうHPを作るところまで日本人は成長しなければならない、
と思います。

(2004年06月30発行)

教育の広場、第 176号 田川建三さんの近著を読んで

2005年08月02日 | 教育関係
        
 最近、田川建三さんの名前を聞かなかったので、どうしたの
かなと思っていました。ファンの1人として「何かあったのか
な」とすら思っていました。この春、勁草書房から「キリスト
教思想への招待」を出され、健在であったことが分かりまし
た。新聞の書評などでも好評で、売れているようです。

その「後書き」によりますと、68歳になって最期を視野に入
れて研究と執筆を続けているようですが、少なくとも後3冊、
「新約聖書概論」(題名は「事実としての新約聖書」)、「マ
ルコ福音書注解」の下巻、詳しい注解の付いた翻訳「新約聖
書」はどうしても自分の責任として出しておきたいとのことで
す。

この責任感には本当に頭が下がります。成果を期待したいと
思います。

田川さんほどの碩学の著作に対して私のような浅学非才が批
評をするなどというおこがましい事をするつもりはありませ
ん。今回も沢山の事を学ばせていただきました。

大きな観点としても、天地創造の神話と自然に対する謙虚さ
との関係とか、西洋人は自然を支配するが東洋人は自然と一体
となるという風に対比して理解するのは間違いだとか、日本だ
けが四季がはっきりしていて自然が豊かだなどというのは偏見
だとか、隣人を愛せといったうさんくさいモラルも長い間かか
って今日の福祉社会を築く力になってきたとか、キリスト教や
浄土真宗はその当時の諸宗教の負担から民衆を解放したのだと
か、黙示録のヨハネが非難した終末的現実はいまだに終わって
いないとか、感心して読みました。

アフリカの雨期とはどんなものか、人々がその雨期をどんな
に待ち望んでいるかといったことは、アフリカ中部の南緯5度
に住んでいたことのある田川さんならではの叙述で、びっくり
しました。

このように感謝する気持ちが大部分なのですが、ほんの少し
疑問に思った事を書きます。それは田川さんの授業のあり方に
ついてです。

この本の 151頁以下に次の文があります。材料となっている
のは「有名な」話(だそうです)で、「ぶどう畑の日雇労働者
の譬え話」(或る地主が1日働いた者にも、仕事がなくて畑の
前に立っていた者にも同じお金を払ったという話)です。田川
さんはここにある「隣人愛の精神」が長い歴史の中で今日のヨ
ーロッパの社会保障制度に繋がってきた、と言っています。

少し長くなりますが、所々略して引用します。

─私にとって非常にショックな事柄があった。長年にわたる
ヨーロッパ、アフリカでの生活を終えて、日本に帰って来てか
ら、私はある小さい女子大学の教師になった。学生にクリスチ
ャンはほぼまったくいない。その学生たちに、私は毎年つとめ
て授業でイエスや新約聖書の話をするようにしていた。この本
に記したことの多くは、その授業で語ったことでもある。特
に、この日雇労働者の譬え話は、必ず紹介した。

ある年、この譬え話を紹介し、上で述べた、また以下にも述
べるような解説も加えた。そこまでは毎年やっていることであ
る。しかし、一度学生たちの率直な感想を聞いてみたくて、あ
る学期の終りの試験の時に、最後に時間が余ったら、これは試
験とは関係なく、採点にも関係ありませんから、率直に、この
譬え話についての感想を書いて下さい、と頼んだ。この時に、
要望に応えて率直に意見を書いてくれた大部分の学生に私は感
謝している。普通は、そうは言われても、なかなか書く気には
なれないものだ。それを、ほとんどの学生が書いてくれた。

しかし、その点では感謝するけれども、その中身に私は非常
なショックを受けた。全体のおよそ三分の二(三分の一ではな
い!)の学生が、こういう意見は間違っている、と書いていた
のである。働かなかった労働者にも賃金を与えるなんて、間違
っている。それじゃ、働いた労働者が損をしてしまうではない
か。そんなのは不公平だ。働かなかった労働者は、自分が悪い
んだから、賃金をもらう資格なんぞない、等々、等々。

確かに、これは一年生の授業である。もしもこれが四年生相
手の授業であったら、すでに就職活動を通じて、嫌というほど
女性の就職が差別されるのを経験しているから、働く機会が得
られないのは御本人の責任とはいえない、ぐらいのことは、こ
っちが何も言わなくても、十分に肝に銘じている。

今の日本社会、政府は「男女共同参画社会」なんぞという看
板だけはかけてくれているが、この看板は、ほとんど何もしな
いことの言い訳のための看板であって、現実はなかなか変らな
い。世界中どこに行っても本質は似たようなものだが、しか
し、労働の場における女性差別は、日本では世界でも群を抜い
てはなはだしい。

等々、いろいろあるだろうけれども、しかし、いわばまだ素
直な若い人たちである。小さい大学の、数十人の授業だから、
それが日本全体の意識をどの程度代表しているかもわからな
い。しかし、彼女たちは、ほどほどにまずまずの知性もあり、
みなさん人柄はなかなか良い人たちである。しかも、今回この
本に書いていることの大部分は、これほど詳しくはないにせ
よ、その時の授業ですでに話した後である。この人たちの「素
直」な感性がこういうことであったとは。

これは、一つには日本のクリスチャンの怠慢である。(略)
もっとまわりの、キリスト教を知らない人たちに、キリスト教
の中にもこういう良いことがいろいろ伝えられているんです
よ、と語ってくれないかしらん。別に、キリスト教という宗教
はどうでもいいけれども、労働者の賃金について、こういう良
い話があるよ、ということぐらいは。

と、そうには違いないが、ともかく、仕事にあぶれた労働者
も、その日の食いぶちにあずかって、安心して生きられる、よ
かったよかった、と思うのと、仕事にあぶれた労働者なんて、
働かなかったのだから、食えなくても当り前だよ、と思う神経
とでは、あまりに開きがある。良識のあるはずの、素直な若い
人たちが、何となく、後者の神経しか持つことのできないでい
る社会。(略)

その学生たちには、この譬え話を語り継いできた伝統がある
おかげで、キリスト教西洋社会は失業保険やら健康保険やら、
その他さまざまな杜会保障制度を発達させてきたのですよ、そ
の制度を近代になって輸入することができたから、日本でも、
似たような制度が存在しているのですよ、(略)

しかしそれは降ってわいたものじやありませんよ。西洋世界
がイエスのこの譬え話を生かしながら、長年かかって徐々に作
り上げてきたものですよ。それが日本に輪入された。この譬え
話を聞いて、よかったよかった~、と思うことのできる人たち
の長い間の伝統が、それを生み出したんですよ。

と、こう申し上げると、学生たちは一応納得してくれたみた
いであるけれども・・。─

さて、田川さんは自分の生徒(4年制大学の1年生)に大分
ご不満のようですが、ここでの田川さんの特徴は他者への不満
ばかりで、自分の授業のやり方に問題はなかったのかという自
己反省がないことです。そこで、田川さんのこの授業のやり方
を具体的に検討してみましょう。

第1に、お断りしておきたいことは、何の授業なのかは分か
らないということです。語学の授業でないらしいことは分かり
ます。田川さんの『イエスという男』(三一書房、第1版第16
刷、1991年02月刊)の奥付きに書いてある「現職」によります
と、「1978年より大阪女子大学英文科教員」で「宗教学、西洋
古典学」が専門とありますから、その種の概論的な講義なのだ
ろうと推測します。

第2に、今「概論的な講義」だろうと書きましたが、講義と
いう言葉は大学では授業の代名詞としても使われるからそう言
っただけです。その「講義」つまり「授業」が実際に「一方的
な講義」つまり講師が話すことが大部分を占めている授業でな
ければならない理由はありません。

しかし、田川さんの授業はどうも実際にも講義中心の授業の
ようです。これがまず問題だと思います。講義という授業形態
は最低の授業形態だと思います。田川さんはヨーロッパやアフ
リカでの生活が長かったと言っていますが、その生活とは大学
教員としての生活だったはずです。外国でもこのような講義中
心の授業をしてきたのでしょうか。

私は外国の大学で授業を受けた経験がありませんが、ほんの
少し見学しただけでは、ドイツの大学でも講義中心のものが多
いようで、「高校以下はドイツの方が日本より好いが、大学は
どちらもお粗末だな」と思いました。

第3に、たしかにこの批判に対しては「数十人の学生がいる
のだから」という弁明が考えられますが、生徒が数十人いて
も、講義中心でない授業は可能ですし、そうすべきだと思いま
す。

生徒に毎回レポート(感想文でもよい)を書いてもらって、
それに対して講師が答えるとか、生徒を3~4人ずつのグルー
プに分けてその日のテーマについて話し合ってもらうとか、で
す。

まあ、授業中に「休憩」を入れるなどという事は、本当は必
要ですし、学生は喜ぶのですが、私のようなふざけた教師でな
いとできないでしょうから、そこまでは要求しません。

「教科通信」は田川さんが出したら立派なものができただろ
うと思いますが、田川さんの才能をこんな事に使うのはもった
いないかなとも思います。そういう事を言いだしたら、そもそ
も田川さんのような人が大学の1年生に授業をする事自体がミ
スマッチなのだと思います。

第4に、田川さんは4年生でなく1年生だから経験が乏しい
という点について触れていますが、これも賛成できません。経
験の乏しい生徒だからこそ、講師が新聞記事とかビデオとかで
間接経験(小説を読むのは間接経験であるという時の意味)を
与える義務があるのだと思います。生徒の体験を待っているの
なら教師は要らないと思います。

憚りながら、私も某女子短大の1年生に半年間、「女性労働
論」というテーマの授業をしたことがあります。田川さんの学
校よりレベルの低い学校です。しかし、毎回、適当な新聞記事
などをコピーして読んで考えてレポートを書いてもらったの
で、好評でした。当時は私はまだ「教科通信」というものを知
らず、少人数に分けて話し合ってもらうこともしませんでした
が、これだけでも好評でしたし、内容のあるレポートでした。

 第5に、「一度学生たちの率直な感想を聞いてみたくて、あ
る学期の終りの試験の時に、最後に時間が余ったら、これは試
験とは関係なく、採点にも関係ありませんから」として書いて
もらったと書いていますが、なぜ「一度だけ」なのでしょう
か。毎年、その他の事を含めて何回も感想を聞いて授業を進め
るべきだと思います。

なぜ「試験と関係なく、採点とも関係がない」のでしょう
か。これは思想的な内容のある授業では「思想の自由」と「真
理は1つ」との関係をどう解決するかの問題と関係してとても
難しい問題だと思います。

私も悩みましたが、今では次のように考え実行しています。
生徒の考えの「内容」が講師の考えに賛成か反対かは自由であ
る、しかし、どれだけ深く広く考え根拠をあげて論じたかを評
価する、その意味で内容も評価する(あるいはこれを私は「形
式」を評価すると考えている)。

つまり私の授業ではその目的を「自分の考えを自分にはっき
りさせ、更に発展させること」としています。田川さんはどう
も、講師の考えに賛成してほしいと思い、説得しようと思って
いるのではないでしょうか。

その意味で私はレポートの内容はもちろんアンケートすら成
績の対象としますし、そう生徒に最初に断ります。しかし、こ
れは「自由な発言」を全然阻害していないと確信しています。

 HP「哲学の広場」の「授業参観」に載っている「天タマ」
第43号を見て下さい。「先生の考えに反対です」という意見が
冒頭に載っています。そして、この生徒に私は「優」をつけま
した。別に「講師の考えに反対したから」ではありません。全
体としてそう評価しました。とてもしっかりした生徒です。忘
れえない生徒の一人です。

アンケートは匿名にしなければならないというのは「公理」
と思われているようですが、私の考えでは、「匿名でなければ
本当の話し合いの出来ないようなら、それは本当の師弟関係で
はない」。その事自体が失敗授業の証拠だと思います。

大体これで全部ですが、最後に、田川さんはかつての60年代
末の大学紛争の時、ICU(国際キリスト教大学)の若手教員
の一人で、いわゆる全共闘の立場に立ってこれに参加し、その
結果、大学を追われたか自分で辞めたかしたのではないでしょ
うか。この事とこの授業のあり方とはどう結びつくのでしょう
か。

それと関連して、田川さんは自分たちの行った「闘争」を歴
史家の一人としてどう理解しているのでしょうか。この事をど
こかに書いているのでしょうか。もし書いているならば、ぜひ
読みたいものだと思います。

本メルマガ第 161号で「山本義隆さんの労作」を書きまし
た。山本さんと田川さんは全共闘世代の生んだ二人の巨人(学
問の巨人)だと思います。年齢的には私よりも上ですから、本
当は安中派(60年安保世代)として知られてもおかしくないの
ですが、60年安保の時は研究に没頭していたかで余り中心的に
参加しなかったのでしょう。あるいは、60年安保はあくまでも
政治闘争だが、大学紛争は大学と学問のあり方についての闘争
だから彼らは全力をあげて参加したのだということかもしれま
せん。

期せずして、別々にではありますが、このお二人の方を論じ
ることになりましたが、二人とも、自分の全共闘時代の闘争と
の関係に沈黙しているようなのは残念です。

  (2004年07月07日発行)