ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

全ての事をお金と結び付けて理解する(教養の条件、その3)

2006年01月05日 | カ行
 (2002年)03月23日の朝日新聞に「思考柔軟な時期こそ読書を」と題する文章が載りました。副題は「活字文化を知らない若者たち」となっています。筆者は風媒社(名古屋にある出版社)の代表の稲垣喜代志氏となっています。

 この文章は、今年69歳になる氏が昨年の04月から1年間、とある大学で「活字メディア論」の授業を週に2コマもった経験の感想文のようです。

 何が書いてあるかは、題名を見ただけで予想できるでしょう。大学で教えてみて、今の学生がいかに本を読まないかを知って驚いた、というものに決まっています。

 このような「感想」は聞き飽きました。今更稲垣氏に書いてもらわなくても、このような「感想」は掃いて捨てるくらいあります。初めて大学講師になった時の感想の定番ですらあります。私もかつてそうでした。

 しかし、このような感想のどこがどう間違っているかを分析した文章は少ないのではないでしょうか。ここでそれを試みてみましょう。30年以上も大学講師をしてきた「講師の先輩として」(年齢的には私は稲垣氏の後輩ですが)、反省を含めてまとめてみましょう。

 こういう感想文の中心的主張はもちろん第1に、学生が本を読まないという事実に気づいたということです。あるいはその「読まない程度」のひどいのに気づいて驚いたというものです。

 第2に、ではそれはなぜ嘆かわしい事なのかというと、「10代から20代への思考の若々しく柔軟なこの時期に読書によって得るものが、人生にとって極めて大切なもの」だからだ、というのです。あるいは「新聞と他の映像メディアは全く違うもの」であり、「新聞を読むということは『大人』の世界への通行手形みたいなもの」だからだ、というのです。

 そして第3に、仮の結論として(というのは、後に真の結論がありますので)、「今の学生たちは『新人類』ですらない」。なぜなら「彼らは『人類』ではなくなりつつあり、思考力はゼロに近い人が多い」からだ、というのです。

 いかにも「新米大学講師」らしい感想です。大学講師になった人はたいていこういう感想を持つものです。人によって異なるのは、こういう感想を持った後どうするかです。

 多くの講師はそのままカネのために講師を続け、ごまかしだけうまくなっていきます。少数の講師だけが、いつの頃になるかはともかく、その後のいつかの時期に、この事態の原因を理解し、それに基づいて対策を立てて、充実した授業をするようになります。

 稲垣氏も第4点としてこういう趣旨の事を書いています。つまり、こういう学生をどうしたら好いかと考えて、講義のテーマを逸脱した話を多くした結果、「授業が終わるたびに学生が質問やら相談のために押しかけてくるようになりうれしかった」と。

 そして、「いつの日にかこの内の何人かが私の言葉(人類にとって大切なもの)に気づいてくれる時があるだろうと期待している」と。

 稲垣氏が今後もこの大学で講義を続けていくのか知りませんが、もし続けていかれるのであれば、更に多くの事が分かり、より良い授業をするようになっていくでしょう。

 氏の理解を先取りして私見を述べます。

 氏の感想を一語にまとめれば、要するに、今の学生は「偽装学生」だということでしょう。しかし、こう命名すると、前号で論じた「偽装教授」のことが直ちに連想されます。そして、偽装学生は偽装教授の結果ではないのかという問いが浮かびます。実際そうなのです。

 この事は何度も述べたと思いますが、特に第33号「生徒は先生の姿を映す鏡である」では主題的に取り上げました。学生が本を読むべきだと思うなら、教師が本を読む宿題を出せばよいのです。新聞を読むべきだと思うなら、新聞を読む宿題を出せばよいのです。それだけです。学生は、「先生に引っ張ってもらおう」「宿題を出してもらおう」と思って学校に来ているのです。

 今回は稲垣氏の次の言葉を考えてみましょう。「『いま自分にとってもっとも大切なものは?』という問いに対して、『カネ』と答えた人が圧倒的に多かった。あぜんとしてしまった。そして、『家族』『恋人』とつづく。恋人のことも開けっぴろげだ。ウソでもいい。自分たちの未来のことや現在の自分を内省的に考えた文章などを書いてほしかったが、それは望むべくもなかった。」

 カネが一番大切ということがなぜ「あぜんとする」ことなのでしょうか。恋人との関わりから学ぶことは人生で極めて大切な事ではないのでしょうか。

 「自分たちの未来を考えたり、現在を内省」しているからこそ、カネに最大の関心があるのであり恋人に興味があるのです。両者は対立しないと思います。

 教育費の高い日本で大学に子供をやるのは大変です。親の負担を少しでも減らそうとアルバイトを考えるのは「正しい」事だと思います。そもそも卒業して就職するために大学に来ているのです。就職するということはカネを得るということです。

 貨幣経済である以上、世の中にカネと結びつかない事はないのです。カネの事を考えるなとか、金儲けを考えるななどと言うのは偽善だと思います。問題はただ、どういう事をしていくら儲けるか、儲けたカネを何に使うか、の2つだと思います。

 学生がカネに最大の関心を示しているのは良い事です。これを手掛かりにして、この2つの問題を一緒に考えることが大切なのだと思います。

 それなのに、外国はいざ知らず、日本の学校では小学校から大学まで、カネの話はなるべく避けて、「未来を考え」「現在を内省」するように仕向けています。これだから本当の学問が出来ないのだと思います。

 実際、学校教師、とくに大学教員ほどカネに汚い人間は少ないと思います。これは大学教員のアルバイト問題とかその他でこれまでに繰り返し論じてきました。最近も、税務署から指摘されて修正申告したノーベル化学賞受賞者や学界の権威のことが新聞に載っていました。

 なぜなのでしょうか。思うに、カネの事を口にしないからでしょう。つまり、「むっつり助平」は正直な助平よりもたちが悪いのと同じです。大学教員は「むっつり守銭奴」なのです。

 堂々と金儲けを標榜している企業の経営者の方が大学教員よりも立派な見識を持っている場合が多いのも、これで説明できると思います。

 学生はカネと無関係な「人間にとって大切なもの」を聞きたいとは思っていないのです。そんなものはウソだからです。かつて、東大の卒業式で総長が「太った豚ではなく、痩せたソクラテスになれ」と説教したとか、新聞に載っていたと思います。

 東大の総長の年棒は正規のものだけでも2500万円を越えるはずです。そのほかのものを加えると更に多額になるはずです。こういう「太った豚」が「現在を内省」しないで「痩せたソクラテスになれ」と言っているのです。

 もちろん卒業生は誰もそんな話は聞いていません。卒業式という儀式を終えて、翌日からは皆、「太った豚」を目指して突っ走りました。その結果が今日の官僚の腐敗堕落となったのです。

 学長が卒業式で言うべき事は、自分や他の教授の年棒はいくらかということです。そして「皆さんの今後の仕事と比較して、私たちの仕事がこの年棒に相応しかったか、よく考えて下さい」ということです。更に又、「私たちの仕事が給与に相応しくないようでしたら、間違った大学のあり方を変える運動を起こして下さい」ということです。

 稲垣氏も自分はこの講義でいくらもらうのか、それを話して、それが正当か否か、なぜそうなっているか、といった事を話題にするとよかったと思います。そして、大学で授業に出る時は、「この教師はこの90分の授業でいくら取るのか。それに相応しい授業か」ということを常に考えるように忠告するとよかったと思います。

 又、稲垣氏の授業は1クラス 135名だそうです。なぜこうなっているのか。大学の金儲け主義の結果です。日本の貧しい教育政策の結果です。こういう事も学生と一緒に考えるとよかったと思います。

 私の勤務する大学でも3年前に「語学は1クラス40人にする」と宣言しました。過去2年間はこの言葉は守られましたが、今年は48人にされました。ドイツ語を選択する学生が増えたのだそうです。それならクラスを増やすべきです。なぜそうしないのでしょうか。専任教員が仕事の増えるのを嫌がるからです。他大学でのアルバイトなら喜び勇んで出掛けるのに。

 理想はカネと無関係な所にあるのではなく、真理とカネを一致させることだと思います。ですから、学生には「全ての事をお金と結び付けて理解する」ように指導しなければならないと思います。

 「声に出して読みたい日本語」が 110万部売れた、という広告を見たら、これで著者は約1億円もうけたな、と推定できるように授業で教えるべきです。非常勤講師の時給の6000円は高いか安いか、それを判断できる学生を育てるべきです。

 学生は実際、そういう授業を期待しています。随分古い話ですが、学生に「誰の話を聞きたいか」というアンケートを取ったら、松下幸之助氏が一番だった、という記事をどこかで読んだ記憶があります。

 世の中で何かを批判すると、「ウチも商売だから」とか、「霞を食って生きているわけではない」といった反論が返ってきます。こういう不毛な議論を克服するためにも、全てをお金と結び付けて理解すること、どういう事をしていくら稼ぐか、稼いだカネをどう使うか、これこそが本当の問題なのだということを確認したいと思います。これが本当の教養なのだと思います。

 最後に思い出しました。アニメ映画の監督(?)の宮崎駿(はやお)氏は次々と大ヒット作を飛ばしていますが、年収は6000万円くらいだそうです。仲間に分けたり、自然保護団体に寄付するとかしているそうです。

 そういえば、長者番付に氏の名前を見たことがありません。不思議なことですが、これで説明がつきます。或る週刊誌で読んだ話です。私は宮崎氏の作品を知りませんが、偉い人だなと思いました。 (2002年06月02日発行)

     教育の広場、第81号、投書(第80号への蛇足)(第80号への蛇足)
K・S
 牧野先生

 今回のメールマガジンもおもしろく拝読させていただきました。前回の先生の御説には、反論もあるのですが(教育者としての立場と研究者としての立場、または大学は教育機関か研究機関かの問題等)、それについては後日お便りをさせていただきたく存じます。先生の今回の御説に触発され、先生の御説に蛇足を加えたく、メールを差し上げました。ご寛恕のほどよろしく御願いを申し上げます。

 さて、「本を読まない」とお題目を唱える輩は自分が「読書人」であることを誇りにしている、変な人種だと思います。そこには「読書人」自らが読書を楽しんでいない、という独白があるように思えます。自分の楽しみを共有しようとする態度が見られず、高所から非「読書人」を見下す、高慢さが鼻について、このような「高踏派」に私は大きな嫌悪感を覚えます。

 若い人が本を読まない原因の第一は、興味のある本を読書指導する人が勧めないことにあるように思われます。無目的につまらないものを読まされるほど、つらいものもありません。かつて3行読むと後は読めない、という受験生の国語を教えたことがあります。その受験生は男子でしたので文庫本の「エロ本」を勧めたところ、1ヶ月で活字に対する恐怖感が抜け、その後早稲田大学志望であったことから五木寛之の『青春の門』(私自身寝食忘れて二日で読破
した経験があります)や、彼が在日朝鮮人であったこともあったので、李恢成等を読ませたりして、大いに成果があがったことがあります。活字に慣れていない女性にはハーレクインロマンスを入り口にして、面白い本を勧めることが必要でしょう。それとも「読書人」は面白い本を知らないのではないでしょうか。

 第二に好奇心を育てないことも原因であるように思われます。新聞の中にもいろいろと面白い記事があります。何も高尚な天下国家を論じない記事の中にも、好奇心の種は豊富にあるように思われます。これも私の経験で恐縮でございますが、新聞を読み出すきっかけは「ソ連のチェコ侵攻」でした。それまで戦車をTVドラマ「コンバット」のようなフィクションの世界だと思っておりましたのに、現実に存在することにショックを覚えました。そして新聞を読み出すと、ベトナム戦争、文化大革命等、さまざまなできことがあることを知り、それについての解説書等を買って読み始めたりしました。

 今の若い人たちは、何が面白いのかもわからなくなるほの「情報の洪水」の中に置かれているのは否定できません。しかしたとえば今行われているワールドカップで、参加国を通して、世界の国々を知ることは絶好の機会だと思います。学校教員・親がこの機を逃すようでは教員失格・親業廃業と言えましょう。セネガルが旧宗主国フランスに勝った試合の意味などを世界史・地理またスポーツ・国際交流を通して語ることできっと好奇心を持つ若い人は多くいるこ
とでしょう。

 第三に第一点と重なりますが、読書指導には「そつ啄の機」というものがあるように思われます。鳥が孵化するとき、内側から殻を破ろうとする雛に呼応して親鳥が外から殻をつつき破って誕生を促す、絶妙の機会のことです。その機を逃して親鳥が早々につつくと、雛鳥は生育不良で死亡するし、また遅すぎると雛鳥が殻を割りきれずに疲れ果てて死んでしまうことがあるそうです。いくら素晴らしい名著であっても、その名著に相応する精神的成長が伴わないと、読書嫌いを作り兼ねません。これも個人的経験で恐縮に存じますが、カントの3批判とツアラトストラを読んだのは、三十路をこえて大病して入院した病院のベッドの上でした。自分自身の健康・将来への不安から読み、非常に元気づけられました。それまで何度も挑戦して挫折していたのですが、高熱にうなされながらも、かなり熱中して読めました(高峯一愚先生の訳と概説書の導きによって)。

 「本を読む」ことは楽しみであって、なにも偉いことではありません。読まないことも恥ずかしくはありません。知性が育つ機会を失うことになり、勿体ないとは思いますが。大学教員が学生に本を「読ませる」ことができないことこそ、恥入るべきであり、そのような大学教員は教場から即刻退場すべきです。こんな輩の「お説教」を聞かされる学生もいい迷惑です。

 以上勝手なことばかり言って申しあけございません。また私の中にある自家撞着・牽強付会の点等、おかしな点がございましたら、よろしくご教示賜りますよう、御願いを申し上げます。引用は掲載・不掲載を含めお任せいたします。
(2002年05月05日)