ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「たった一人の山」

2009年03月12日 | タ行
 「たった一人の山」という数奇な過去のある本が、平凡社から出版された。1941年に文芸春秋が単行本にして以来、新装版、文庫版など、出版社や体裁を変えて何度も出され、今度が6回目となる。

 著者は浦松佐美太郎。1901年の生まれ。東京商科大(現一橋大)を出てロンドンに留学したのを機会に、四夏三冬をアルプスで過ごした。帰国後、その体験を次々と雑誌に発表。これらに、国内の登山にまつわるエッセーを加えて本にした。

 時あたかも太平洋戦争の前夜。日本中が戦争の熱気に包まれている時代に、登山という個人的な冒険に命をかけた行動が共感を呼んだのか。山に寄せる、感受性豊かな青年のみずみずしい文章が読む者の心を捕らえたのか。発売後1年で、4刷を記録する人気を得た。

 しかし、間もなく本は事実上の発禁処分にあう。

 平凡社版の解説で、日本勤労者山岳連盟理事長の西本武志さんが、当時を知る人から聞いた話や資料を基に、その間の事情を説明している。

 西本さんによると、主役は当時、文化、芸術、言論などの統制と検閲を担当していた内閣の情報局文芸課長であった。彼は当局と出版各社との懇談会の席で「一億一心、滅私奉公を要求される聖戦下に、たった一人の山とはなにごとか。欧米的個人主義に毒されたこんな本は、抹殺すべきだ」とまくしたてたそうだ。

 こんな本を出す所に貴重な用紙をまわす必要はない、という言葉に恐れをなして、自主的に絶版にしたらしい。

 これは昔話だろうか。裁量権を背に勝手に振る舞う役人の生態は、半世紀が過ぎたいま、何も変わっていないように見える。連日伝えられる、官僚をめぐる苦々しいニュースに、そんな思いを強くする。

 (朝日、19998年05月22日。石)