ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 125号、陰山メソッド

2005年10月31日 | 教育関係
教育の広場、第 125号、陰山メソッド

 昨年『学力をつける本』とかいう書名の本を出して評判になった
陰山英男さんは、今年(2003年)の4月からは公募でどこかの小学
校の校長になったようです。

それはともかく、陰山さんのやり方は「陰山メソッド」と言われ
、陰山さんは「母親たちのカリスマ教師」だそうです。その陰山さ
んがニュースステーションに生出演するというので、VTRにとっ
て見てみました。2週間くらい前のことだったと思います。

それを見た感想を2つ。

第1に、やる気のある人は結果をみて反省し工夫をするものだと
いうことです。

陰山さんも、その百マス計算のやり方で、同じ問題を2度やる今
の方法にたどり着くまでにはいくつかの前段階があったようです。
つまり、「結果を見て、微調整をしながら、完成させた」というこ
とです。

やる気のある人は皆こうして「自分のやり方」を作り上げていく
のだと思います。逆に、人に語るものがなく、「結果を見て改善し
ていかない人」はやる気がないのだと思います。

ただそれだけの事だと思います。

第2に、ニュースステーションの人達は陰山さんに「なぜ校長に
なったのですか」という質問をしませんでした。その質問は専ら陰
山メソッドに絞られていました。

なぜでしょうか。ニュースステーションの人達に「学校は校長で
8割決まる」ということがその重要性の割に理解されておらず知ら
れていないことについて、問題意識がないからだと思います。

陰山さんが4月から校長を勤める小学校には、今年は昨年の2倍
だったか3倍だったかの新入生が来たそうです。その地方で学校選
択制が取り入れられたからです。

やる気とは何か、ジャーナリストにとっての問題意識の重要性に
ついて考えた次第です。

(2003年06月02日発行)

教育の広場、第 126号、外務省のHP

2005年10月30日 | 政治関係
教育の広場、第 126号、外務省のHP

 本メルマガの第 121号「批判は易しく創造は難しい」の中で、新
聞は日本が復興支援などをしている国などについては、毎月特定の
日を「○○国の日」と定めて、その時点でのその国の様子をまとめ
た「終了図」を載せてほしい、と書きました。

その後いろいろと考えている内に、そういう事は本来は外務省の
仕事なのではないかな、と考えました。外務省はそのHP(ホーム
ページ)に一つ一つの国について、その国の現在の全体像を示して
いるべきではないか、と思うのです。

早速外務省のHPを見てみました。なかなかきれいに見やすく出
来ているではありませんか。興味を持ちました。

色々なコーナーが分かりやすく分類されています。目的の「各国
地域情報」をクリックします。すると世界地図が出てきて、アジア
、中東、アフリカとかに分類されています(国の名前がアイウエオ
順に整理されていますので直接国名でクリックすることもできま
す)。

アジアを選択し、東チモールをクリックしてみました。最近の様
子が書いてあります。しかし、あまり詳しいとは思いませんでし
た。

中東からアフガニスタンをクリックします。かなり色々な事が書
いてあります。当然の事ながら、公式的な事柄はよく載っています
。「アフガニスタン大使の日記」などというのまで載っています。
しかし、見ると、2002年07月までしか載っていません。

しかし、現在の様子のような欄を見ますと、「軍閥を武装解除し
、国家統一の達成が重要課題」などといったことまで書いてありま
す。

その他の国も見てみました。すると、書き方の規格がかなり出来
ていることが分かります。「基礎データ」の欄はどこにもあります
。その中に「略史」という欄があります。ドイツのそれなどはかな
り充実していて感心しました。

書き方を見ますと、左に年月を書いて右に出来事を書くという、
歴史年表的なものもありますが、年月を文章の中に入れてしまって
ひとつづきの文章にした見にくいものもありました。やはりデータ
の整理の仕方は統一するべきだと思います。

アフガニスタンの話に戻りますが、そのように少しは立ち入った
事も書いてあるのですが、アフガン復興は日本だけが支援している
のではありません。すると、他の国々がどのような意図でどのよう
な事をしているかといった事も大切です。しかし、これは、外務省
ですから、書くのは難しいのでしょう。書いてありませんでした。

 という訳で、外務省のHPには一層の充実を期待しますが、だか
らといって市民の側で独自のHPなどを開いて、例えばアフガン復
興について考えるための客観的データなどを提供しなくても好いと
いうことにはならないと思います。例えば、新聞に載っている記事
を国別にまとめるようなHPを作るのは、著作権の関係で無理なの
でしょうか。

思うに、成熟した市民社会というのは、市民の自立した活動と公
務員の活動とが批評し合い、補い合って、全体として前進していく
ような社会ではないでしょうか。

2~3年前に新聞で読んだのですが、東京のフランス料理の通の
人達が自主的に作っているHPがあるそうです。そのHPでは、都
内の高級フランス料理店の1つ1つについて、客としての経験に基
づいて、「照明が少し明るすぎる」とか「スープの味がどうだ」と
か「店員の接客態度がどうだ」とか、批評が書き込まれているそう
です。お店の方でもそのHPに気づいていて、その書き込みを見て
、改善したりするそうです。

私見では、役所とか公務員の仕事とかいった公の事柄の1つ1つ
について市民が自主的にこういうHPを作るようになるのが本当の
市民社会ではないかと思うのです。

しかも、今はインターネットという武器もあるのです。やっつけ
主義的な批評ではなく、話し合うという態度でいろいろな意見を自
由に交換して、それを通して事態が改善されていく、というのが私
の理想です。

これから考えると、我が日本ではまだまだそういう市民の側の努
力が足りないと思います。オンブズ組織もがっばってはいますが、
まだまだ力不足です。

例えば、個々の役所についてもそうですが、その1例として国立
大学を考えますと、個々の国立大学のHPについて論評したり、そ
の教員の研究業績や教育のあり方などについて意見を出して話し合
うHPはあるのでしょうか。

最近、民主党の若手議員で公務員のあり方を追及する人が何人か
いるようです。先日も、「公務員の平均年収は1000万円だが、失業
者の数を考えると、2割くらい下げるべきではないか」と質問した
人もいます。その質問が事前に漏れて、誰かが脅しのようなメール
を送りつけたといった問題が起きたそうです。

私は民主党議員のそういう努力を多とする者ですが、そういう事
も、その役所(例えば国土交通省)とかその問題(例えば天下りと
か給与とか)について、このHPを見れば基本的な事はみな書いて
ある、というHPにまとめるべきだと思うのです。

私の考え方かもしれませんが、やはり知識はまとめておかなけれ
ば利用しにくいと思います。私の尊敬する関口存男(つぎお)さん
の素晴らしいドイツ語学が後世の人に十分に受け継がれていない原
因の1つは、それが文法書と辞書にまとめられていないことにある
と思います。

(2003年06月14日発行)

親の仕事

2005年10月29日 | ア行
 私は「家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強だけを教えるのが教師の仕事」と考えています。これはこれまでにも繰り返し述べたと思います。これはここでは論じません。もちろん異論のある方はどうぞ発表して下さい。

 そういう考え方に立ちますと、「学ぶ姿勢」の出来ていない生徒とか、親に相談するべき事を持ちかけてきた生徒には、「親に相談してほしい」と言うことになります。これまでにも何人もの学生にそういう事を言ったことがあります。

 その結果として分かった事をまとめたいと思います。私の個人的経験ではなく、見たり聞いたりしたことも含めてまとめます。

 第1に、そのように言っても実際に親と話し合う生徒は極めて少ないということです。これが問題だと思います。子供の成長にとっての親との対話の重要性については、本メルマガでも第71号の「会話と成績」(2002年03月09日発行)で考えました。

第2に、親と相談する人もいるわけで、その場合、親がどういう態度を取るかです。問題の事例をきちんと聞いて、親としての意見をきちんと言うのが理想ではあると思います。そういう親もいます。その場合には問題はたいてい解決します。

第3に、しかし、一応は子供の話を聞きますが、問題の内容に立ち入って考えないで、ただ自分の子供が面倒な事を起こさないようにという考えから、「意地を張らないで、単位を落とさないようにしろ」などと言う親もいます。これは子供に現実迎合か事大主義か事無かれ主義を教えているわけで、賛成できません。問題は解決せず、生徒も成長しないようです。

第4に、これとほとんど同じだと思いますが、「自分で言えばいいじゃない」と子供だけで解決するように言う親もいるようです。

 これは、親が保護者であることを忘れている点で、従って問題の内容によっては親が出ていって子供を守らなければならない場合もあることを忘れている点で、まず間違っていると思います。

それに、子供に言わせるとしても、「相手に直接言う」ということがいつでも正しいかのように言っている点でも間違っていると思います。

世の中の問題は相手に直接言うのが一番好いとは限りません。むしろ、間に誰かを入れて交渉した方が好い場合の方が多いくらいだと思います。従って、大人になるということは、どういう問題の場合はどういう風に持っていくのが適当かという判断力を身につけることでもあると思います。

ですから、子供が何かの問題を親に訴えた時は、そういう事を考える練習にこそするべきで、「自分で直接言え」と突っぱねるのは最低だと思います。親の責任放棄になる場合も多いと思います。

第5に、逆に、親が出て行きすぎるとか、間違った出方をする場合もあるようです。

先日の報道でこんな事がありました。沖縄の小学校でのことですが、いじめられた子供の親が学校に無断で入っていって、いじめた子供たちを廊下に呼び出して平手でなぐったそうです。

これに対して、学校は親の構内立ち入りとなぐったことだけを問題にしているようですが、いじめを防げなかったことこそまず学校は反省するべきではないでしょうか。

その親は、いじめられた自分の子供には「やられたらやり返せ」と言ったそうです。こういう事を言う親も多いようですが、間違っていると思います。まず、いじめる側はたいてい数人でグルになって、1人の相手をいじめるのです。やり返しても更にやられるだけです。

根本的には、子供自身がやり返すにしても、親が代わってやり返すにしても、気持ちとしては分からないでもありませんが、間違いだと思います。日本は法治国家であって、暴力で個人的に報復することは認められていないと思います。

ついでに少し関連したことを述べます。

昨年(2002年)の大阪の池田小学校での8人の児童殺害事件以来、学校の防犯対策が問題になっているようです。

(2003年)06月15日付けの朝日新聞には、或る大学の教授が防犯対策について親や教師や大学生の意識を調査した結果が載っていました。

それをみて私が注目したことは、「(小学校の)低学年では、教師は休み時間も教室にいて、常に子どもを視野に入れておく」という項目への賛成が5割だったという点です。朝日紙はそれを「それへの賛成も5割あった」と、あたかも予想より多かったので驚いたと言わんばかりの書き方をしていました。

私の驚きは、「たった5割しかないのか」です。これは本メルマガの第5号「隠しカメラのどこが悪いのだろうか」と関係します。

 私の意見は「ドイツの学校がそうであるように、生徒は校門を入った時から出る時まで、誰かの教師が見ていなければならない」が原則で、それが出来ない場合には、「隠しカメラ」ではなく「公然カメラ」を設置するのは止むを得ない、というものです。

何人かの人から感情的な反発を受けましたが、その反対した方々はその後どう考えているのでしょうか。今回の防犯対策の問題を含めて、ぜひ冷静な意見を発表してほしいものです。

「ここでは外部からの犯罪が問題になっているのだ」と言うかも知れませんが、それは違います。外部からの犯罪と内部での犯罪(生徒の間でのいじめや万引きなど、教職員によるいじめやセクハラなどの犯罪等)を一緒に考えられない所がそもそも根本的に間違いなのだと思います。

元に返って、自分の発言した事についてはその問題が終わるまで、ずっと考えつづけて責任を取るのが大人の態度だと思います。考えが変わったら、理由を付けてそれを言うべきだと思います。

これは大学教員の任期制反対の理由についても言えます。その時、任期制に反対する理由として持ち出されたものの1つは「任期制では長期的な視野に立った研究が出来なくなる」というものでした。

今、国立大学の独立行政法人化の問題の中で、反対する人達の挙げる主な理由の1つがそれです。しかし、それを聞いていて思うことは、その時、「その後、部分的に実行れている任期制で長期的な視野に立った研究ができなくなったのか」の検討が全然ないことです。

自称研究者である大学教授がこのように関連する出来事を関連させて考えることが出来ないのです。こういう教授たち自身は「長期的な視野に立って研究していない」のでしょう。

独立行政法人化の問題は回を改めて考えるつもりです。

(メルマガ「教育の広場」2003年06月16日発行)

教育の広場、第 128号、新聞の仕事

2005年10月27日 | 教育関係
教育の広場、第 128号、新聞の仕事

 朝日新聞は(2003年)06月16日付けで「まず文部行政の総括を」
という社説を掲げ、06月25日には「辞める人、辞めない人」という
社説を掲げました。これについて考えたことを書きます。

前者は、文部科学相が中央教育審議会に文部行政のあり方につい
て包括的な諮問をしたことをテーマにして、次のように主張してい
ます。

「国の教育政策の根幹を決める、と位置づけられた中教審が重い
責任を負っていることは、誰も否定できまい。

ならばまず手をつけるべきは、文科省の過去の判断や自らの答申
を含めて、教育行政を総括することだろう。どこに誤りがあった
か。なぜ間違ったのか。この際きちんと整理し、説明してもらいた
い。」

これは極めてもっともな事だと思います。しかし、それを認める
と同時に、「新聞はこういう事をただ『説明してもらいたい』と他
者に要求するだけでいいのかな」という疑問が湧きました。

マスコミとか新聞は立法・行政・司法の三権に次ぐ、第4の権力
と言われています。ということは、新聞等にはそれらの三つの権力
をチェックする仕事が求められているということだと思います。

 この場合でいうならば、新聞はその「教育行政の総括」を中教審
に求めるだけではなくて、自分で調査して紙面に発表するべきだと
思います。

 この自分の仕事についての反省が無い点で、この社説には大欠点
があると言わなければならないと思います。

 私はかねがね、日本の教育行政の根本方針はどこでどういう風に
して決められているのか、本当の事を知りたいと思っています。し
かし、少なくとも朝日新聞はそういう私の要求を満たしてくれませ
ん。私の知る範囲ではそれをテーマにしたルポ(ルポライターなど
による)もないと思います。

 06月25日の社説は、共産党の議員がセクハラを理由にして退職願
いを出したことから出発して、様々な疑惑で議員を辞めた人と辞め
ない人についてまとめて論評しています。

そこでは中学校の公民教科書を参考にした発言があります。社説
の結論にも次のようにそれを引用しています。

「公民教科書はこうも言う。『国民が選んだ国会議員がどのよう
な活動をしているか、注目していきましょう』。そう、最後は私た
ちの問題なのだ。」

このように自己反省を入れている点では、前の社説よりましでは
あると思います。そして、実際、国会議員の活動については新聞は
かなり報道していると思います。

では、なぜ先の社説には「私たち自身も文科省の活動を監視しま
しょう」という一句がなかったのでしょうか。それは、ひょっとす
ると、公民教科書に書いてないことも一因かもしれません。公民の
教科書が建前しか書いておらず、実態については書いていないから
、新聞社の論説委員の方々には理解できないからなのでしょう。

日本は主権在民の民主主義国家です、憲法上は。しかし、実態は
、「役人の役人による役人のための国家」になっている面が大きい
と思います。これは今や多くの人によって気づかれています。しか
し、これを是正しようとする動きはあまりにも小さいと思います。

(2003年06月28日発行)

教育、第129号、静岡大学のセクハラ問題

2005年10月26日 | サ行
 去る(2003年)05月08日、静岡大学の学長と副学長は静岡県庁で記者会見を行い、教育学部の男性助教授をセクハラ行為を理由として懲戒解雇した、と発表しました。

その発表によりますと、昨年の09月その助教授は面識のある女子学生をホテルに連れ込み、性的関係を伴うセクハラをしたとのことです。つまり、一種のレイプをしたのです。

静岡大学でのセクハラによる教員処分はこれで2ヵ月間に3件となりました。最初は、やはり男性助教授が女子学生の体に触ったということで、停職2ヵ月の処分でした。2度目は、非常勤講師が数年間にわたって自分の指導するサークルの複数の女子学生に対してホテルへの同宿を要求したというもので、この講師は解雇されました。

このように同じ大学で何度もセクハラ事件が起きたので、遠山敦子文部科学大臣も談話を発表しました。

「大学という知の拠点でこういう事が頻繁に起こるとすれば、大きな問題である。大学関係者は襟を正して本来やるべきことに力を尽くして欲しい」というものでした。

マスコミや有識者などからは、大学側の対応についても批判が寄せられました。特に、対応が遅すぎるという点が批判されました。それに、被害者保護の名目で事実の公表、処分者の氏名公表を避けている点も問題視されました。

05月10日の朝日新聞はスクランブル欄でこれを詳しく取り上げ、「大学の対応にはこの問題に真剣に取り組もうとする姿勢が伝わってこない」と酷評しました。

その記事の最後にこう書いてありました。

 「(記者)会見では、『なぜ静岡大学でセクハラが相次ぐのか』という質問に、大学側は無言で考え込むしかなかった。それを明確にできない限り、『再発防止に取り組む』という決意の言葉もむなしく響く」。

これほどひどい状況を考えるにはやはり大学全体を視野に入れなければならないでしょう。私は次の諸点を考えました。

第1に、静岡大学ではこの4月から新しい学長が赴任しているということです。ということは、これは前学長(佐藤博明氏)の6年間の任期の最後に起きた事件だということです。

2つ目のそれは数年間にわたって行われていたそうですから、そっくりその6年間と重なります。他の2つは昨年に起きた事件ですから、前学長の任期の文字通り最後の時期に起きたわけです。

つまり、これらのセクハラ事件は前学長時代に大学全体が沈滞していたことの最も醜悪な現れにすぎないのではないか、と思うのです。いずれにせよ、この事件については前学長に大きな責任があると思います。前学長が謝罪しないのはおかしいと思います。

第2にこれと関連して注目したい点は、この3回目の事件は昨年(2002年)の09月に起き、被害者は11月に大学の学生相談室に相談したのに、処分の発表されたのはこの05月だということです。

この時間差は単に「遅すぎる」というような量的な問題ではないと思います。なぜなら、前学長の時に起きた事件であり、その任期の終わりの3月末までに十分に時間があったのに、前学長はそれを処理しないで辞めたからです。

これはいったい責任感のある人のする事でしょうか。

06月26日、桃山学院大学の社会学部の助教授がやはりセクハラで処分されました。この時は「女子学生の胸に触った」ということでしたが、処分は停職1ヵ月でした(本人は辞職したと報じられました)。しかし、同時に、学長は自分自身にも「役職手当て1ヵ月分返納」という処分を課したのです。

静岡大学でも教育学部長が「監督不行き届き」で訓戒の処分を受けてはいますが、前学長は全然処分されていません。ここに昨年09月に起きた事件を今年の05月にようやく処分し発表したことの真相があると思います。

前学長は、もし自分の退職直前に3件ものセクハラ処分を発表したら、自分の責任が問われ、場合によっては退職金の一部返納という事態になる、と危惧したのだろうと思います。普通に考えればそうなると思います。

第3に、更に根本的な問題を考えてみましょう。最近、経済系の週刊誌が相次いで「大学の実力ランキング」の特集を組みました。1つは「週刊東洋経済」で、もう1つは「週刊ダイヤモンド」です。

前者は種々の客観的なデータを一覧表にまとめたものが中心です。後者は、主要企業の人事部の人たちにアンケート調査した結果をまとめたものです。

これらのランキングに静岡大学はどのように出てきたでしょうか。ほとんど出てきていないのです。今でもはっきり覚えていますが、10年ほど前、その「週刊ダイヤモンド」の人事部長に対するアンケートで静岡大学は総合力で38位にランクされていました。

しかし、今では「卒業生が大企業の役職などについている」という点で45位にランクされているだけです。つまり、静岡大学は過去はまあまあだったが、今ではいかなる点でもベスト50にすら入らないということです。

悪い方には名前が出てきます。この10年間で志願者数の減った大学の一覧表がありました。静岡大学は国立大学の中では佐賀大学に次いでワースト2でした。つまり静岡大学は魅力のない大学であり、入りやすい大学になってしまったのです。

第4に、文部科学省のいわゆるCOE(卓越した拠点。いわゆる「トップ30」の名前だけを変えたもの)が昨年度から始まりましたが、静岡大学は3件申請したようですが、1件も通りませんでした。しかも、その通らなかった事を反省するような事柄もHP上に発表されていません。

同志社大学は昨年の惨敗を恥じて、その決意をHP上で述べている、と有名です。昨年、その選に漏れた時、大学幹部は卒業生から「立命館に負けるとは情けない」(立命館は3件採択された)と、厳しく叱責されたそうです(1月5日付け朝日新聞)。

第5に、静岡大学は2006年から始まる法科大学院にも申請しなかったようです。静岡大学の法学部を出て法曹関係に進んでいる人々は大いに失望したと伝えられています。

要するに、静岡大学については悪いニュースは沢山聞かされるのですが、好いニュースがほとんどないのです。これらの事実は静岡大学が容易ならぬ退化過程にあることを推察させます。

今回のセクハラ事件の後、静岡大学の学長はHP上に「お詫び」の文章を発表し、「対策が決まり次第公表する」と誓いました。しかし、その対策が公表されたという話を私は聞いていません。その「お詫び」の文章だけは知らないうちに削除されています。

(2003年06月30日発行)



講壇学問の貧しさ

2005年10月25日 | タ行
01、講壇学問の貧しさ

 去る(2003年)06月30日の朝日新聞に伊藤成彦さん(中央大学名誉教授)の「『異端』のローザの魅力」と題する文章が載りました。新聞社の方で付けたと思われる「日本でR・ルクセンブルク全集完全版刊行へ」と「レーニンらの革命指導にあらがった先駆性」という説明的な見出しもありました。

内容は、日本(伊藤さん)が中心になって初めてローザ・ルクセンブルクの完全な全集が出ることになったというもので、ローザの意義を3点にまとめたものです。

これを読んで、(2003年)02月06日付けの朝日新聞に載りました的場昭弘さん(神奈川大学教授)の文章「世界最高水準のド・イデ研究」を思い出しました。これには「河出『広松版』28年ぶりに新編集」という説明的な見出しも付いていました。

これは昨年(2002年)の秋に岩波文庫でその新編集が出て評判になっていることを契機にして書かれたものです。内容は、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』(とされている)草稿の最も好い(実物に近い)出版物(の翻訳)はこれであるというものです。

1974年に広松渉さんが出したものがベースなのですが、その広松さんの仕事の意義を論じています。

この両者に欠けているものは何よりも自分の現在の生き方への言及です。伊藤さんも書いていますように「社会主義への関心が薄れています」。その中で自分は社会主義に対してどういう考えを持っていて、どう生きているのかに全然触れていないのです。お二人とも社会主義に賛成のようですが、それならその理由を述べるべきでしょう。

選挙になると、「自分はいかなる考えに基づいてどういう投票行動をとるか」を言わないで、傍観者的に何党が勝つか負けるかだけを論じるのが好きな日本人に相応しい知識人であり大学教授だと思います。しかし、これは本当の学問ではないと思います。

何も、「理論と実践の統一」とやらを振り回して政治ごっこを押しつけるのが正しいと言っているのではありません。そもそも「理論と実践の統一」とは「両者は統一するべきだ」というお説教ではありません。

しかし、的場さんも言うように1960年代、我々は「マルクスを片手に未来を語った」のです。その中心的書物を取り上げるのに「いま、自分はどう生きているのか」を言わないのでは、ほとんど意味がないと思います。

そもそも、的場さんの尊敬する広松さんはなぜこの編集にこだわったのでしょうか。それは、正しく編集すると、共産党系で信奉されているミーチン主義の「唯物史観」はマルクスの真意とは違うことがはっきりし、それによって共産党を批判できる、と考えたからだと思います。

もちろんその考えは間違っていました。共産党はマルクスの一言半句を重視する党ではありませんし、「ド・イデ」の正しい編集が出ても、正しい唯物史観が得られるわけではありません。広松さんの『唯物史観の原像』(三一新書、1971年)を見れば、大した事のないのが分かります。

しかし、広松さんはともかく当時の社会で戦って生きる武器としての理論を追求していたのです。

伊藤さんはローザを「人間の顔をした社会主義」思想の元祖だと言いますが、日本共産党も「ソ連や中国の社会主義は本当のものではない。自分たちは本当の社会主義を作るのだ」と言っています。では、伊藤さんはそういう日本共産党に対してどういう態度を取っているのでしょうか。なぜその事を論じないのでしょうか。

的場さんは広松さんの意義として、マルクスがこの本を契機として疎外論から物象化論に移ったことを明らかにしたことだと言っています。しかるに、的場さんは後の方で疎外論と唯物史観とを等置するような言い方をしています。そして、「物象化論のポイントは、人間と人間との関係が、物と物との関係として転倒した姿で現れるということだ」と解説しています。

まず、「ドイツ・イデオロギー」という題名の「イデオロギー」について説明するべきでしょう。なぜなら、それは今の日本語では「人間の行動を決定する、根本的な物の考え方の体系。(狭義では、階級的に規定を受けるとされる政治思想・社会思想を指す)」(新明解国語辞典)を意味しますが、それと違うからです。

それは「観念論的な歴史観」ということです。マルクスとエンゲルスは自分たちのそれまでの歴史観が観念論的だったと気づき、仲間たちの考えを批判するなかで自己批判したのです(観念論的と観念的とは違います)。

的場さんは、マルクスは「ドイツの哲学者に向かって『それは幻想だ、真実はここにある』と吠えている」と言っていますが、「幻想」などという不正確な言葉を使うのは分かっていない証拠です。唯物論か観念論かの問題なのです。

従って、「ド・イデ」の中心はあくまでも唯物史観です。それはもちろん物象化論への道を開くもので、それを完成させたものが「資本論」です。

物象化について説明するのなら、人間関係が物の関係として現れること自体を「転倒して現れる」と言ったのか、それとも、物として現れる場合に転倒して現れる場合とそのまま現れる場合と両方の可能性があるのか、そういう点にも触れるべきでしょう。

的場さんの文章は用語法が不正確すぎます。これが「世界最高の水準」なのでしょうか。

  (メルマガ「教育の広場」第130号、2003年07月12日発行)

 02、投書(第130号を拝読して)             K・S

 毎回おもしろく拝読しております。

 今回の「講壇学者」に「自分の現在の生き方への言及」が欠缺しており、それを自覚しないことが「貧困」であるとのご指摘は正鵠を得ていらっしゃると拝察を申し上げます。

「人間の顔をした社会主義」という概念自体が特に佐瀬昌盛『チェコ悔恨史』等で虚構であることが古くから指摘されております。またメイリア『ソヴィエトの悲劇』では、マルクス=レーニン主義が生み出す体制そのものが、人間の自由と両立せず、レーニン、トロツキー自体が恣意的な「人民の敵」への徹底的なテロを主張していたこと等への検討も我が国では十分に消化されていないように思われます。

 そもそもそのような「貧困」が生まれる原因を私個人としては、学者として物事を虚心坦懐に考察できない、学者としての素養にも問題があるように思っておりました。理論を考察する場合に、その理論についての肯定論・否定論を先入観なしに考察し、主体的に自己の議論を組み立てるという、当たり前の価値自由(Weber)なしに、社会科学・哲学等は成立しないように思われます。ご指摘の論者の出発点がすでに「社会主義者」の立場に立ち、「社会主義への関心が薄れています」と嘆いてみても、それは信仰告白以上のものではありえません。

「社会主義」への関心が失われたのは、「ヒューマニズム」「博愛主義」の否定という事実を、なぜこのような講壇学者は認識しないのでしょうか。やはりそこには先生がご指摘になった「自分の現在の生き方への言及」が欠けているところに、原因がありそうです。個人の実生活への現実性が欠けているから、先入観に簡単に支配されてしまうのではないか、と先生のご意見を拝読をして認識を新たにいたしました。

 そしてそのような「社会主義者」の経済学者が、学的批判勢力のない地方の国公立大学等で「正しい経済学」を教えています。このような「講壇学者」は独立行政法人化とともに淘汰されることを心より期待しているのは、私だけでしょうか。


 03、お返事(牧野 紀之)

 投書をありがとうございます。

 社会主義批判については、自分はかつて社会主義者だったのか否かをはっきりさせてからにするべきだと思います。

 又、批判の仕方も大きく分けると、現実の社会主義の間違いを指摘する方法と、マルクスとエンゲルスの思想そのものに間違いがあったとする方法とがあると思います。いずれの場合でも、社会主義の歴史的功績も認めるべきだと思います。

 実際には、現実の社会主義社会の批判(あら捜し)が多すぎると思います。私はマルクスとエンゲルスの理論を再検討したいと思います。

 又、今後の日本の進路については資本主義を前提するとしても、ヨーロッパ型を取るのか、アメリカ型を取るのかの問題があります。

 そもそもヨーロッパ人の言う「社会主義」は日本で言う「社会民主主義」のことで、日本で言う社会主義はヨーロッパの人々は「共産主義」と呼ぶということも確認しておきたいと思います。

 (02と03は、メルマガ「教育の広場」、2003年07月17日発行)


国語辞典は意味以上に使い方を

2005年10月24日 | サ行
 以前から「日本語疑典」を書いていますが、2日も続けて疑問を持つと又書かなければならなくなります。

 朝日新聞の国際欄に、多分毎週でしょうが、「水平線地平線」というコラムがあります。筆者は交代制ですが、10月23日は市川速水氏で「クールに進む『日本離れ』」と題する文を書いていました。その中に次の文がありました。

──日本の植民地統治下の強制動員に関しても、約20万件の被害申告を元に補償の対策案づくりが佳境に入っている。・・

 これのどこに疑問を持つかと言いますと、「佳境に入っている」という表現の使い方です。これは好い事柄について使うのではないかと思うのです。

 学研の国語辞典で「佳境」を引きますと、「物事が進行してもっとも興味深くなる所」とあり、その使い方の例としては「物語が佳境に入る」を挙げています。

 たしかに「対策案づくり」は悪い事ではありませんが、元の「強制動員」が悪い事で、それの償いの仕事ですから、全体としては楽しい事ではありません。

 ですから、こういう事柄が大事な場面に差しかかった時に「佳境に入っている」とは言わないと思います。

 「対策案づくりが山場に差しかかっている」くらいでどうでしょ
うか。あるいは「対策案づくりがもう少しという所まで来ている」
でもいいでしょう。

 次に今日、10月24日の朝日新聞は日本シリーズでロッテが2連勝したことについて2頁を割いて報じています。ロッテファンの私としては痛快な事ですが、それはともかくとして、見出しの文の最後にこうありました。

──阪神は3回無死1、2塁で藤本が送りバントを失敗。6回1死1、3塁ではシーツが2ゴロ併殺打。一方的な試合で連敗。──

 どこに疑問を感じるかと言いますと、阪神の側で論じているときに「一方的な試合で連敗」と「一方的」を使っていいのか、ということです。

 他の辞書はたいてい「一方的な試合」を載せていますので、新明解国語辞典で「一方的」を見てみますと、「一方だけにかたよる様子」とあり、「一方的な勝利」という例が載っています。

 では逆に、「一方的な敗北」という表現はあるのでしょうか。多分、そうは言わないでしょう。

 たしかに、上で引用した所は「一方的な試合で連敗」であって、「一方的な連敗」ではありませんが、私は不自然に感じます。

 「好い所無く連敗」くらいでよかったと思います。

 それにしてもこのように単語や熟語の使い方に疑問を感じることが多いように感じます。私がこれまでに書いてきたのもほとんどがこの使い方の問題だったと思います。

 それなのに、「国語辞典の使命は語義を明らかにすること」という固定観念は変わっていないと思います。私もかつてそう書きました。今では、語義も大切だが、それと同時に、あるいはそれ以上に「語句の使い方」の説明が大切だと思っています。上の例から分かりますように、使い方の中にこそ語義を正しく理解しているか否かが現れるのだと思います。

 そういう語句の使い方を説明した国語辞典には、悪例(間違った使い方の例)も載せなければならないと思います。

 私は機会あるごとに、国語辞典の編集者たちにこれを伝えている
のですが、理解してくれる人が出てきません。編集権を握る国文学
者の先生にはこういう問題意識がないと見えます。

 誰かがインターネットのホームページでこういう本当の国語辞典を作ってほしいと思います。私はその試みを「ヘーゲル哲学辞典」(今は掲載していません)の中に入れましたが、私にはそれを続けて完成させる力も余裕もありません。

 誰かがやってくれるなら協力します。

  (メルマガ「教育の広場」2005年10月24日発行)

第 215号、カウンター・ホームページ

2005年10月20日 | 政治関係
第 215号、カウンター・ホームページ

  (2005年10月20日発行)

 国の実際の姿は、法律によってその大きな枠組みが定められてい
ますが、それはそれを担って実行する公務員によってかなり左右さ
れると思います。

 民間は、それによって決められた枠組みの中で独自の活動をする
わけです。

 従って、法律を問題にすることは根本ですが、今の法律を前提し
た場合でも、公務員の活動が適正に行われているか否かをチェック
することが大切になるわけです。

 しかるに、公的機関の不正や怠惰を防ぎ、是正させるには情報公
開が大切だと言われています。かなり前から日本でもオンブズパー
ソンが活動して成果をあげています。

しかし、相手にホームページを充実してもっと発表せよと言うの
も意義のあることですが、市民の側が相手の公的機関に関するホー
ムページ、つまりカウンター・ホームページを作ってしまうことも
同じように意義のあることではないか、とかねてから思っていまし
た。

 先方の発表の仕方は「部分的事実を発表して全体的真実を隠す」
という方針であり、これは変わらないと思うからです。従って、カ
ウンター・ホームページの方針はあくまでも「全体的真実を明らか
にする」だと思います。

 この5月、我が家にもようやく ADSL が来て、ブロードバンド時
代に入りました。パソコンも新調して、途中で切れることもなくな
りました。

 かねてからの持論を実行することにしました。これがブログ「ポ
ランの広場」です。しかし、これはあまり成功しなかったと思いま
す。

 そもそも、成功しているか否かを判断するための資料がありませ
ん。これはライブドアブログを使って出したのですが、ライブドア
ブログではアクセス数を教えてくれないのです。

 それに、対象が広すぎたと思いました。

 浜松市政に的を絞って gooブログ「浜松市政の広場」を9月11日
に立ち上げました。こちらはアクセス数の実績が分かるようになっ
ています。

 毎日新しい記事を載せると、全体としてはアクセス数が増えてい
くと思いました。しかし、毎日更新するのは大変なので、1日おき
にしました。そうしたら、継続的に増えるということはないように
思いました。

 そこで又、何とか毎日、簡単なものでもいいから、新しい記事を
書くようにしています。この所、好調です。しかし、土日は休むと
かいう方向も考えています。

 成果もあがっています。私の意見で浜松市のホームページは少し
改善されました。最大の成果は「教育長のページ」ができたことで
しょう。

 皆さんも私のやり方を参考にして、ご自分の活動をしてくれるよ
うに希望します。

  gooブログ「浜松市政の広場」のURLは次の通りです。

http://blog.goo.ne.jp/goo05ma12ki


教育の広場、第 132号、定年後に客員教授になる学長

2005年10月18日 | 教育関係
教育の広場、第 132号、定年後に客員教授になる学長

 大阪大学の岸本忠三学長がこの(2003年)9月末で定年になるそ
うです。しかるに、氏はその後、大阪大学で客員教授として研究を
続けることになったそうです。お金は某企業からの寄付によるそう
です。06月18日付けの朝日新聞が報じました。

岸本さんは世界的に有名な免疫学者だそうです。

いったいなぜこのような事を大々的に報ずるのでしょうか。国立
大学を定年退職した教授が私立大学に教授として天下るのが普通な
のに、岸本さんはそうしないで、研究に力点をおいたのが偉い、と
朝日新聞が考えたからだと思います。

しかし、これが新聞記事になるほど「偉い事」と思われるほど、
国立大学教授の天下りは当たり前なのだという事実の方こそが問題
だと思います。

国立大学の教授は定年後はせいぜい非常勤講師を週に2日するだ
けにして研究と理想の授業をするか、引退するか、何か他の事をす
るべきで、私立大学に教授として天下るのは間違いだと思います。
これは本メルマガの第11号で「東大の定年延長」を論じた時に書き
ました。

「京都学派」と俗称される西田幾多郎氏や田辺元氏らのグループ
は定年後に多くの著作を出したようです。これが当たり前であり、
金より学問が好きならこうなると思います。

岸本さんは東大の定年延長に反対して、大阪大学では教授の定年
を延長しなかったそうです。これも当たり前の事です。定年を延長
したり私立大学への天下りを認めると、若い人々の成長する場を狭
くします。

私立大学の定年もせいぜい65歳にするべきだと思います。これで
お金には困らないはずです。

実験などで費用のかかる学問の場合は岸本さんの場合のようにど
こかが寄付をしてくれないと難しいと思います。日本は成熟社会で
すから、そういう寄付をする所は出てくると思います。

客員教授も給与はもらいます。立花隆さんが東大で客員教授をし
た時は、出勤1日あたり、同年の教授の年棒の1日分だったと、書
いていました。

非常勤講師の場合は、国公立大学は時間給です。私立大学は月給
制が多いようです。私が某国立大学でもらっている時間給は1時間
あたり6000円弱です。本務大学での地位が教授か講師か、そもそも
本務大学を持っていないかなどで、違わないようです。一度、某私
立大学の教授の時間給を聞いた時、私と同じでしたから。

(2003年07月20日発行)

教育の広場、第 133号、ヨーロッパ型資本主義のために

2005年10月17日 | サ行
 2003年07月17日付けの朝日新聞の「声」欄に次の投書が載りました。

──「君は3月から5月まで3ヵ月間の休みを取るように」と上司から言われた時は、正直耳を疑った。ついにリストラかと思った。しかし説明では、「残業時間合計が 350時間を超えている。この超過勤務分をすべて休暇として消化しなくてはいけない」。

フランスでは、週労働35時間制を取り入れている。個人の労働時間を短縮し、その分を他の者の雇用に向け、高失業率を少しでも抑制しようという、いわゆるワークシェアである。はじめは戸惑ったが、会社側が「休暇を取れ」と言うのでそれに従うことにした。

労働者天国などと揶揄されるフランスでもさすがに3ヵ月は同僚からも冷やかし半分で色々言われたが、最後はみんなが「君はいつも働きすぎだから当然のことだ」と言ってくれた。もちろんその3ヵ月間の給料は支払われる。

日本であったらどうだろうか。夏休みも上司の顔色をうかがい1週間といったところだろう。経営者側、労働者側の意識改革が待ち望まれると思う。ちなみに驚くなかれ、私にはさらに夏のバカンスが1ヵ月保証されているのである。──

筆者はフランスのホテルで働く日本人で38歳とありました。

もちろんフランスでも色々な事がありますが、こういう事がかなり一般的であるのも事実だと思います。これがいわゆる「福祉社会」だと思います。つまり、社会保障や労働規制(安全網)をしっかり整えてその範囲内での自由主義経済(市場原理)ということだと思います。

さて、今では多くの日本人がヨーロッパで生活し、このような社会を評価しています。それなのになぜ日本ではこの方向への動きが鈍いのでしょうか。こういう事を経験した日本人が日本でこのようなヨーロッパ型社会を作ろうとしないからではないでしょうか。あるいはその努力が少なくて、自分がヨーロッパでの生活を享受するだけだからではないでしょうか。

明治時代、国から欧米へ視察に派遣された人々はもちろん私的に欧米に行った人達も、多くは、「欧米に学んで、日本を変えていく」という目的意識を持っていたと思います。そして、実際、日本はその人達のリーダーシップによって近代化されました。

今では多くの人がヨーロッパに行くようになりました。ということは、国の指導者になろうと思っていない人もヨーロッパで生活するようになったということだと思います。しかし、そういう人は、ヨーロッパで生活して「これはいいな」と思っても、それを日本に取り入れるために何かの行動をしようとは必ずしも思わなくなったようです。

しかし、日本が先進国の1つになり、成熟社会になったということは、平均的な人々もそれなりに「日本はどうあるべきか」を考え、自分なりの仕方でその方向に働きかけていかなければならないというではないでしょうか。

私はこの投書をしたホテルマンが何もしていないとは言いません。フランスの事情を紹介することも1つの貢献ではあります。しかし、働きすぎ等ヨーロッパから大きく遅れた日本を変えていくためには、平均的な人々がもう少し「意識改革」をして、自分の出来る範囲で日本を変えていこうと行動する必要があると思います。

シンガーソングライターの小椋桂さんはかつて第一勧業銀行の浜松支店長だった時、「毎週水曜日は絶対に全員定時退社する」と決めて実行したそうです。5時に退社するなどということは夢にも考えられない銀行業界で、週1とはいえ、これを実行したのです。立派な事だったと思います。

支店長に出来ることはここまででしょう。後は頭取とか政府首脳を始めとする他の人々の仕事です。

しかし、他者に何かを求める前に、ヨーロッパ型資本主義を目指したいと思う人々は、小椋桂さんのように、それぞれの分野で自分に出来る事をするべきだと思います。そして、情報交換をして協力して目的に向かうべきだと思います。

もちろん学者等の指導的立場に立つ人達は積極的に研究し紹介しなければならないと思います。先頃、講談社現代新書で福島清彦さんが『ヨーロッパ型資本主義』を出しました。これは好い本だと思いますが、難点は英・独・仏が中心で北欧3国やデンマーク、オランダ、ベルギー、スイスなどの紹介が足りないことです。

社会主義は資本主義を乗り越えることは出来ませんでした。しかし、社会主義の資本主義批判には多くの正当性がありました。これを受け止めた資本主義はヨーロッパ型の「福祉社会」という答えを出しました。 日本の向かう方向もこれしかないと思います。

(2003年07月28日発行)