ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第03号、教育改革の議論の進め方

2006年03月31日 | 教育関係
教育の広場、第03号、教育改革の議論の進め方

(2000年10月14日発行)

 或る会社の経営がうまく行かなくなったとします。その会社はどうするで
しょうか。どこが悪いのだろうかと全面的な調査をするだろうと思います。
自社内にそのための調査委員会を作って調査をするか、外部の経営コンサル
タント会社に調査を依頼するか、どっちでも構いません。とにかく自社の問
題点を徹底的に調査すると思います。

 或る人が、体の調子がどこかおかしいと感じた時も同じだと思います。病
院に行って人間ドックに入るとか、そこまでしないでも、とにかく検査をし
てもらうと思います。

 このように、人は何か問題があると感じ、それを解決しようと思った時は
、まず徹底的な調査から始めるものです。なぜなら、問題点を明らかにし、
何が根本の問題で、何がそこから派生した問題で、何が枝葉の問題で、何が
頼るべき長所か、といったことが分からなければ、正しい対策を立てること
は出来ないからです。

 しかし、昨今大問題になっている日本の教育改革の議論を聞いていますと
、この当たり前の事が実行されていないと思います。(2000年)10月09日と
10日にNHK教育テレビで日本の宿題シリーズの一環として教育改革をテー
マにした討論が放映されました。それを見ても私はそう思いました。

 この番組はNHKの町永俊雄氏を司会者として、橋爪大三郎氏(東京工業
大学教授)、高木幹夫氏(日能研代表取締役)、白井智子氏(ドリームプラ
ネットインターナショナルスクール校長)、堀田力氏(さわやか福祉財団理
事長)、寺脇研氏(文部省政策課長)の5氏が議論したものです。

 第1夜のテーマは「学力低下」で、第2夜のそれは「学校の改革案」でし
た。

 この番組の第1夜の持っていき方にこの議論の方法上の欠点がよく出てい
ると思います。司会者は「情緒的・抽象的になりがちな教育を、具体的な枠
の中で現実を動かすような議論を積み重ねていきたいと思います」と大上段
に構えました。期待が高まりました。

 しかし直ぐに、「そういった意味で文部省の打ち出した教育改革を俎上に
して1回目は話し合ってまいります」と、議論は文部省ペースでやるのだと
トーンダウンしました。

 ここでがっかりしましたが、更にそれに続いて、「まず5人の皆さんにい
ま、学校のどこが問題なのかを伺いたい」と始めました。これならまともで
す。では、その答えはどうで、その答えはどう扱われたでしょうか。

 5人の考えは次の通りでした。

 橋爪大三郎氏。(「無連帯」と書かれたボードを示しながら)「学校は教
育機関ですから、生徒にきちんと学力をつけてもらわないといけないのです
けれども、現在の学校は教育機関の体裁をなしていない。それほどガタガタ
ではないかと思います。無連帯とはこなれない言葉ですけれども、言いたい
ことはバラバラ。先生も教頭先生も校長先生も父兄も生徒たちもそれを取り
巻く社会も協力できていない。ここが現状ではないでしょうか」

 高木幹夫氏。(グラフを示して)「少子化と同じように私立中学の受験者
数がずーっと下がってきたのが、今年の春、上がりました。なぜかというと
、2002年に学習指導要領の改定があるということに親はすぐに反応してきた
ということです。先行きに対する不安と期待。公立の学校に対する不安。そ
して、自由になるんだったら、私立だったらもっといろんな事をしてくれる
んじゃないのかという期待だと思うんですね。これが一つの見方だと思うん
ですね〔文部省の改革は多くの親にはこう見られている、という意味らしい
〕。」

 白井智子氏。(「『学力』で人間の価値を決めるな」と書かれたボードを
示して)「一人一人に必要な学力は違うんじゃないのか。何でも知っている
人は誰もいない。それをテストの点数が悪いからといって、自分はダメなん
じゃないかと思ってしまうのは余りにももったいない。一人一人の才能を見
つけて伸ばすということをしていくと、子供たちは真剣に自分に必要な学力
は何なのかを追求し出していくということを私共の学校の子供たちが証明し
ていってくれていると思います。」

 堀田力氏。(「個の圧殺」と書かれたボードを示して)「白井さんの発言
を踏まえて。学力だけで決めようとするために子供たちの個性が殺されてい
る。人間は自分に自信が持てないとやる気になれない。どの子もいい所を持
っている。それを認めて、そしてそれを伸ばすような教育に変えていかなけ
ればならない。」

 寺脇氏に対しては司会者は「(学習内容の)3割削減の狙いは何か」と質
問して答えてもらいました。

 寺脇研氏。「一人一人の子供が違うものを持っていることに対応していか
なければならないのではないか。主要教科という考え方自体が、それ以外の
ものが出来る奴なんか大したことないという考えと結びついている。それか
ら、みんなが同じ時に同じ事をやっていくという考え方、これを改めるため
に、みんなが同じ時に同じ事をやるという時間を減らしていって、その分、
総合的学習の時間で教科の枠に囚われずに、しかし教科の内容を総合的にや
っていくこと。

 それから、中学の場合は選択の時間がありますから、自分が選択して英語
とか国語とかをやるという時間がありますから、みんなが同じ時間に同じ事
をするのを3割減らして、その部分はそれぞれに合った形でもっとやってみ
たいことができたり、分からないことをもっと時間をかけて学んだりする。

 これは学校の構造をも変えなければならない。今までは画一的ですから、
連帯なんかしなくたって自分の持ち場をやっていればよかったかもしれない
けれども、どのような教育内容を提案していくか、学校の中だけではなしに
、保護者や地域住民を含めた大議論が必然的に起こってくる。」

 司会者はこうして5人の答えを聞いた後、それらの間にある食い違いなど
を手掛かりにして「いま学校のどこが問題なのか」のテーマを広げ深める努
力をすることなく、聞きっぱなしで、予定通り、「学力はどう変わっていく
のか」の議論に進んでいきました。

 これは「科学」でもなければ、およそ「議論」でもないと思います。文部
省の改革案は既に始められていて、それが変わることはないということは誰
もが知っていて、そして「議論」をしようというのです。

 本当の議論とは、未だに決まっていない結論を出したり、あるいは一応出
されている結論でも場合によっては変えうるという前提でなされるものだと
思います。しかし、この議論には議論のこの根本前提が欠けているのです。

 NHKは教育に熱心で、教育トゥデイを中心に多くの時間を使ってくれて
いますが、そしてそれらはそれなりに高い評価を受けているようですが、そ
れらのほとんどが「核心を外して核心以外の事を扱う」という特徴を持って
いると思います。残念ながら、今回もその例に漏れなかったようです。

 私たちは文部省の改革案に囚われることなく、学校教育を根本的に考える
というのはどういう事なのかと独自に反省しつつ考えていこうと思います。
その中で、必要な場合には、今回のNHKの議論についても振り返ることが
あるかもしれません。

 次回からは、根本的な問題から順序よく一つずつ考えていくつもりです。
どの場合でも私の意見は問題提起にすぎません。皆さんの積極的な参加をお
願いします。


教育の広場、第04号、学校は勉強を教える所

2006年03月30日 | カ行
学校教育の仕事は何でしょうか。この根本問題について国民のコンセンサスが得られていないのではないでしょうか? 前回紹介しましたNHKの番組でも、橋爪大三郎氏は「学校は教育機関ですから、生徒にきちんと学力をつけてもらわないといけないのですけれども」と切り出しています。つまり、学力をつけること、要するに勉強を教えることが学校の仕事だと考えているのです。

 しかし、第2夜に白井智子氏のフリースクール(不登校の子供たちなどを集めた学校)の実践を聞いた出席者たちは、「すばらしい人間教育だ」と言っていました。つまり、学校教育の仕事は人間教育をすることだというのです。

 この二つは同じなのでしょうか。私は違うと思います。この根本が違っていて話し合っても好い結果は得られないと思います。

 今では社会人が大学に入ることも多くなりましたが、そういう場合を除くと、学校は未成年者を教育する機関だと思います。従って、未成年者の教育はどう行われているかと考えてみますと、それには学校教育のほかに家庭教育と社会教育(地域社会による教育)があることが分かります。この三者には重なる部分もあると思いますが、やはり主たる任務は異なるのではないかとも考えられます。それを考える中で学校教育の任務を考えることが出来ると思います。

 動物の子供の教育、特に人間に一番近いサルの場合を考えてみますと、サルの場合にも子供の教育は厳然としてあります。それは主として親による教育のようですが、群れをなして生活していますから、自ずから社会教育もなされていると考えられます。つまり、サルに無いのは学校教育だけなのです。逆に言いますと、人間特有の教育機関は学校だということが分かります。

 そして、学校は家庭教育と社会教育の任務の一部を取り出して、それを専門にさせるための機関だということも分かります。では、特に学校のための仕事は何でしょうか。

 私は勉強を教えることだと思います。しつけは家庭教育の仕事だと思います。社会教育は部活とか行事などによって、社会生活のルールを教えるのだと思います。

 こう考えると、今の学校のように、「生きる力」を教えることが要求されたり、生活指導が要求されたり、部活のために授業の準備もろくにできないような状態はおかしいということになります。

 私はこれを定式化して「学校教師の仕事は、家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強を教えることだけである」と考えています。部活は地域社会の仕事だと思います。

 では、学ぶ姿勢の出来ていない生徒はどうしたらよいのでしょうか。元々、事情があったとはいえ、家庭にそういう教育力がなかったからこそ、その生徒は学ぶ姿勢が身につかなかったのです。ですから、そういう生徒を家庭に返してもよくなることは考えられません。ですから、そのためにはそのための教育機関を別に作るべきだと思います。

 実際に、問題のある生徒は児童自立支援施設(昔の教護院)とか少年鑑別所とか少年院といった教育機関に入れられているのですが、もう少しいろいろな種類のそういう教育機関を作るべきだと思います。

 現在は、そういう子供のためには民間のフリースクールしかないようです。そして、今の日本ではその「学ぶ姿勢の出来ていない生徒」の教育、いわゆる「生活指導」とか「人間教育」までも、その大部分が学校教師に押しつけられているのです。ここに根本的な無理があると思います。

 逆に言うと、なぜ私立学校では好い教育が可能かというと、その根拠の最大のものは、入学時に「学ぶ姿勢」をチェックすることで、勉強を教えることに専念できるということだと思います。

 勉強を教えることと生活指導とは全然別の仕事だと思います。一人の教師に両方の能力を求め、両方の仕事をさせるのは無理だと思います。実際にこれが無理だという事は教師自身がよく知っている事なのです。大切な事は一般の国民がこの事実を認めて、教師に無理な要求をするのを止めることだと思います。

 もし教育を根本的に改革しようとするならば、教師と学校の仕事を正しく限定して、その上でその仕事をどれだけしっかり果たしたかを評価するシステムを作り、それによって処遇を決定するようにしなければならないと思います。

 この考えには異論もかなりあると思われます。ゆっくり議論をしたいです。ご意見をどしどしお寄せ下さい。とにかくこの問題が根本だと思いますので、この問題から議論すべきだと思い、問題提起として私見を述べました。

(2000年10月18日発行)


校則(04、隠しカメラのどこが悪いのだろうか)

2006年03月29日 | カ行
 (2000年)10月18日付けの朝日新聞は、鹿児島市の市立中学での隠しカメラ事件を次のように報じています。

- 鹿児島市立中学校の男性教諭が担当する2年生のクラスの教室にビデオカメラを設置し、生徒の行動を撮影していたことが分かった。このクラスの女子生徒に対し、1年近くいじめが続いており、教諭が加害者を特定するため、設置したという。

市教育委員会は「教諭は加害者を特定するためにやむを得ずこうした方法をとったが、教育上好ましいことではない。学校全体でいじめ問題を解決してほしい」と話している。(引用終わり)

今回はこの問題を考えてみたいと思います。この男性教諭が隠しビデオカメラで生徒の行動を撮影したのは一体どこが悪いのでしょうか。

 考えられる点は次の3点だと思います。

 ① いじめ加害者を特定するためとはいえ、生徒の行動をカメラで撮影すること自体が悪い。

② 他の教員に相談しないで「独断で」行ったことが悪い。

③ 生徒や保護者に知らせないで「隠して」撮影したことが悪い。

では、学校以外の一般社会ではどうなっているでしょうか。スーパーとかいったお店では防犯カメラの設置は当たり前です。しかも、「防犯カメラ設置」と表示しています。これはむしろ客に知らせることを目的にしているのだと考えられます。

金融機関ではカメラを設置するだけでなく、「警察官立ち寄り所」といった表示が、これまた客に知らせる目的で掲示されています。つまり、一般社会では客の行動をカメラで撮影することは何ら否定されていないのです。

 もちろんこれらは店側では店長以下、全員の承知の上でなされている事で、言わば「公然」カメラです。ですから、一般社会では「独断で」「隠して」設置し撮影するということは、普通は、ありません。

 では、この中学校の場合の「悪い」点はその男性教諭が「独断で」「隠して」設置し撮影したことなのでしょうか。逆に言いますと、職員会議で諮(はか)った上で、生徒と保護者に知らせてから設置し撮影したのなら、「悪くない」のでしょうか。多分、論者の考えはそうではないでしょう。

 たしか10年ほど前に静岡県の三島市だったかの高校で、学校のあちこちにやはりカメラを設置していたのが判明して問題になったことがあります。この時は学校として設置したのでした。しかし、それが判明してからは「不適切」ということで、撤去されたようです。

 やはり、学校では、そのようにいじめの加害者を特定するという目的のためとはいえ、カメラで生徒の行動を撮影すること自体が「教育上好ましいことではない」とされているのでしょう。

 では本当にこれは「教育上好ましいことではない」のでしょうか? なぜそれは「教育上好ましいことではない」のでしょうか?

 私の知る範囲では、ドイツのギムナジウム(11歳から19歳の生徒が通っています)では、生徒は朝、門を入ってから、午後1時すぎに門を出るまで、つねに誰かの先生に見られています。おそらく先生に見られていないのはトイレに行く時だけでしょう。

教室には先生がいます。授業と授業の間の休み時間はほとんどなく、教室を移動するだけです。10時頃に20分間の「大休憩」があります。その時は生徒は教室から出て、外の空気を吸わなければなりません。教室には鍵が掛けられます。そして、死角がないように校庭の3~4ヵ所に先生がそれとなく立って、生徒の行動を監視しています。これを文字通り「監視」と言います。職員室には監視の当番表が張ってあります。

午後1時で学校が終わりますから、もちろん昼休みはなく、部活もありません。学校の立場からすると、生徒を預かった以上、生徒を守る責任があるという考えだと思います。

皆さんはこれをどう考えますか。日本のやり方と比較すると根本の人間観が違うようです。多分、日本人は、「生徒は見張っていなくても悪い事はしない」として生徒を信頼するべきだとする性善説の立場に立っているのだと思います。多分、「生徒を疑うこと自体が悪い」と考えられているのでしょう。ですから日本では先生に見られていない時間や場所が沢山あります。

それに対してドイツ人は、性悪説(キリスト教は性悪説です)の立場に立っていて、「人は誰かに見られていないと悪い事をするものである」という考えなのだと思います。

どちらが正しいでしょうか。結果から見るかぎり、ドイツのやり方の方が正しいと思います。たしかにドイツの学校にもいじめはあるようです。現にミヒャエル・エンデの『果てし無い物語』の主人公はいじめられっ子です。しかし、ドイツでのいじめは日本ほど多くもなければひどくもないと思います。

では最後に、目で見る監視なら「教育上好ましい」が、カメラで撮影するのは好ましくないのでしょうか。私はそんな事はないと思います。学校は生徒を預かった以上、生徒を守る責任があるというのは、その通りだと思います。

 ここで「生徒を守る」とは、生徒が悪い事をされないように守ることであると共に、生徒が悪い事をしないように守ることでもあります。しかるに、生徒を守ることの基本は「生徒をつねに教師の目の届く所に置いておくこと」だと思います。ここまで認めるならば、生徒を「監視」するのは当然です。

 そして、日本のように長い時間を学校で過ごす場合には、しかも特に生徒数に比して教師数の少ない学校では、ビデオカメラに頼ることも止むを得ないこともある、と思います。関係者(教員、保護者、地域住民)全体できちんと話し合った上で、仕方ないと決まったならば、堂々と公然カメラを設置したらどうでしょうか。

 今回も、多分、多くの方々の常識と異なった意見になったと思います。落ちついて分析的に議論をしたいものです。ご意見をどしどしお寄せ下さい。

(2000年10月20日発行)


教育の広場、第06号、退学処分には復学規定を

2006年03月28日 | 教育関係
教育の広場、第06号、退学処分には復学規定を

(2000年10月23日発行)

 (2000年)10月19日付けの朝日新聞静岡版は、県立農業高校を退学処分さ
れた生徒の親が県を相手取って損害賠償の訴えを起こしたと報じています。

 個別的な事情が分かりませんので立ち入った批評は出来ませんが、この問
題を考える一般的な枠組みについて少し考えてみました。

 まず、その記事の中で紹介された両親の言葉は次のようになっています。
「本人の弁明を聞かず、調査が十分にされていなかった。反省する点はある
が、校長の裁量権の逸脱。家庭と協力して解決していくのが学校教育のあり
方ではないか」。

 これを読んで、私は最後の言葉にひっかかりました。これは「家庭と協力
して」とは言っていますが、実際は、要するに「悪い生徒(学ぶ姿勢の出来
ていない生徒)を良くするのが先生の仕事」という考えにつながると思いま
す。

 第04号の「学校は勉強を教える所」で述べましたように、私はこの考えに
反対です。態度の問題は家庭の仕事、勉強を教えるのが教師の仕事、という
考えです。これは確認するだけでここでは繰り返しません。

 この私の考えからしますと、現在、多くの学校で、特に退学処分の可能な
高校で、退学処分がその「悪い生徒を良くするのが先生の仕事」という間違
った世論のために躊躇されていると思います。

 ですから、この訴訟で問題になっている場合は、多分、学校がかなり我慢
して指導した末に止むなく退学処分にしたのだろうと推測します。私の考え
では、一般的には、もう少し早目に処分した方が被害が少なくて済むと思い
ます。

 次に私の考えた事は、退学処分はそれ自体が最後の目的ではなくて、やは
り本人に立ち直ってほしいのだから、立ち直って復学する手だてをきちんと
させておかなければならないということです。

 実に、日本社会ではこの「やり直しの道」が不十分だと思います。失業保
険についても、新しく何かの資格を取ったりできるように、2年間にするべ
きだという考えがあります。私はこの考えに賛成です。

 さて、退学させられた生徒を立ち直らせて復学させる方法を、と考えて思
い出したのがアメリカのやり方です。2年ほど前だったと思いますが、NH
Kで「少年法廷」というドキュメンタリーが放映されました。アメリカの多
くの州では、犯罪を犯した少年に、他の少年犯罪を裁く法廷で陪審員をさせ
、奉仕活動をさせ、反省文を書かせて、無罪扱いにして社会復帰させるとい
うのです。これで復帰した少年は他のやり方の場合より再犯率が格段に低い
というのです。そのためこれがアメリカでは広がっているそうです。

 日本でもこういうのを取り入れたらどうでしょうか。大人の陪審員制度さ
えない日本でこれをこのまま取り入れることは出来ませんが、とにかく退学
処分で終わりではなく、奉仕活動とか労働体験などをさせたり、カウンセリ
ングを受けさせたりして、復帰する道を開くことはできると思いますし、そ
うするべきだと思います。

 結論として、日本社会をもう少し公正な社会にするために次の3つの原則
を確認したいと思います。

 1、ルールを明確に定めて、そのルールを守って自由に競争するようにす
る。

 2、ルールを守らない人は処罰し、ルールを守っての競争の結果に対して
は結果責任を取らせるようにする。

 3、処罰されたり、自分で失敗した場合でも、復帰できる道を保障し、復
帰のルールを定めておく。

 私の推測では、今回の退学処分ではこの復帰のルールのなかったことだけ
が問題なのではないかと思います。

教育の広場、第07号、授業のルールの1例

2006年03月27日 | 教育関係
教育の広場、第07号、授業のルールの1例

(2000年10月25日発行)

 第6号で私は、「ルールを明確に定めて、そのルールを守って自由に競争
するようにする」ということを提案しました。契約という観念の弱い日本社
会ではなかなか理解されないかもしれません。今回はこれを授業について考
えてみたいと思います。

 アメリカの大学の授業では、その第1回の授業の際に、その講義内容と採
点方法を詳しく書いたシラバスを配付するそうです。日本の大学でもシラバ
スはかなり(というのは、専門科目などについては出ない方が多いから)出
されるようになりましたが、その内容はお粗末なものが多いようです。

 私はシラバスを書いた経験は少ししかありませんが、今ではどの授業でも
第1回の授業の際に、詳しい「授業要綱」を配って説明します。参考のため
に、某専門学校での哲学の授業でこの秋に配ったものを紹介します。

        記

 まず、「授業要綱」として、こういう授業を目指しますということをお話
します。

 1、哲学とは筋道をつけて考えることとする。従って、その練習をし、各
自が自分の考え を自分にはっきりさせ、発展させることを目的とする。

 テーマとしては、今年は今大きな問題としてクローズアップされている医
療事故から 出発したい。その後はそこから出てきた問題を深めていくこと
とする。いずれにせよ、 先を急がす、どんなテーマでも対話と反省を深め
ることに注意したい。

 2、授業の方法

 (1) 与えられた資料を手掛かりにし、また講師の意見を聞いたりして考え
、カンファレンス〔3、4人での話し合い〕をして、自分の考えをレポート
にまとめる。

(2) レポートを書く時の注意
  メモをとって3分は考えてから書く。日付を入れる。

  「その他」としてテーマとは無関係な事、私生活上のこととか、授業の
感想とかを書いてよい。書いて欲しい。

 「教科通信」に載せられては困ることは、その旨記すように。匿名希望
も可。

 (3) 講師は「教科通信」を発行して、考えを深めるのに役立てるように努
力する。

(4) 「教科通信」を家族に見せたり、授業の事を家族に話したりすること
を歓迎する。家族の意見をレポートで報告するのも大いに歓迎する。

 個人の対話体験の基礎は家族との対話、特に親子の対話にあると思う。

 (5) ディベートの練習も出来たらしたい。

 (6) 講師はレポートには感想を書いて返すように努力する。

(7) レポートは学校の原稿用紙に書くのを原則とする。

 授業中はメモ用紙に書き、後で原稿用紙やワープロで清書するのもよし
、初めから原稿用紙に書いてもよし。それを、学期末にまとめて綴じて文集
にする。

 文集は同じものを2部作り、2部共提出する。講師は1部を自分に取り
、1部に成績の根拠を書いて返すように努力する。

(8) 授業中、適当な時に「休憩」を入れるように努力する。
たいてい、授業と無関係なものを読んだり、ビデオを見たりする。

(9) 配付する資料等はA4に統一するので、A4のファイルを用意して欲
しい。

(10)授業中、気持ち悪くなったり、トイレ等の用のある人は、黙って出て
いくこと(断らなくてよい)。

(11)当番の人は始業5分前には来て『天タマ』〔教科通信〕等を配ってお
いて欲しい。

(12)教科書『囲炉裏端』は「筋道をつけて考える」ことの参考書とみなす


3、哲学の授業に臨む態度ないし心構えについて

(1) 自分の言いたい事を全部、分かりやすく言うように努力する。

(2) 相手の言う事を最後まで聞くように努力する。

(3) 感情的にならないように努力する。根拠をあげて客観的に冷静に意見
を言う。

(4) 講師は先を急がないようにする。生徒のレポートなどで問題に気づい
たとき、自分の意見を言う前に、生徒に問題を提起して考えてもらうように
努力する。

4、授業のあり方の反省

この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談して欲しい
。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に改善して欲しい点が
ある」という立場で考えるものとする。

(1) レポートの際、いつでも、「その他」として、授業の感想・提案を書
いてよい。

(2) 講師の作ったアンケート「より良い授業のために」を2回取る予定。

 (3) 学生が企画・実行する「アンケート」も1~2回行う予定。

(4) この「授業要綱」にあることにはつねに意見を出せる。従って変更も
ありうる。但し、最後的決定権は講師にある。

(5) Eメールで意見を下さっても結構です。

5、成績

(1) 生徒に相応しくない態度は、1回でC、2回でD、または酷い場合に
は1回でDとする。(感情的な態度、私語と内職、規律を乱す行為、等)

(2) 受講態度に問題がない場合は、レポートの内容によってS・A・Bを
つける。

 その観点・・独創性、考察の広さと正確さ、文章のまとまりと分かりや
すさ、等。特に独創性を評価する。

(3) 成績の根拠を生徒に伝えるものとする。

 異義申し立ては1回だけ聞くものとする。最後の決定権は講師にある。

6、希望

内容のある楽しい授業にしたい。


 以上ですが、この授業要綱の特色は、授業のあり方について反省する機会
を沢山設けていることだと思います。その上、授業のあり方に対して想定さ
れる批判ないし不満を根本的なものと部分的なものとに分けて処理するよう
にしていることだと思います。もう一つは、レポート、それに対する感想、
教科通信など、書き言葉を重視していることだと思います。

皆さんの意見をお聞かせください。

教育の広場、第 226号、大学教員の責任

2006年03月26日 | 教育関係
教育の広場、第 226号、大学教員の責任

  (2006年03月26日発行)

 辺見庸さんが朝日新聞(2006,03,08)に「小泉時代とは」という文章を寄
稿しています。その中で次の一節が気になりました。

──それでは、政治権力とメディアが合作したこの劇場の空気とは何だろう
か。第1に、わかりやすいイメージや情緒が、迂遠ではあるけれど大切な論
理を排除し、現在の出来事が記憶すべき過去(歴史)を塗り替えてしまうこ
と。第2に、あざとい政治劇を観(み)る群衆から分析的思考を奪い、歓呼
の声や嘲笑を伝染させて、劇を喜ばない者たちにはシニシズムを蔓延させた
ことであろう。
(引用終わり)

 たしかにこのような見方は広く行き渡っているようですが、本当にそうな
のでしょうか。

 第2点から検証してみます。

総理大臣を先頭として自民党と公明党が合作し、民放テレビが大々的に従
い、NHKも少し控えめではあるが従い、新聞も事実上協力したあれだけの
小泉劇場にもかかわらず、「小泉流郵政民営化」(郵政民営化一般ではない
)に反対の票が賛成の票より多かったという事実。民主党だけでも2480万票
集めたという事実。これを「シニシズムを蔓延させた」と言えるのでしょう
か。「群衆から分析的思考を奪」った、と言えるのでしょうか。

 たしかにこの事実を国会で首相に突きつけた共産党の佐々木議員の質問に
対して、小泉首相は「議席数が大切」と軽く一蹴しました。これは私もそう
だと思います。

 この点について野党が質問するべき相手は首相ではなくて自分自身だと思
います。反対の方が多数だったのに、それを議席数に反映させることが出来
なかったのはなぜか、と。

 つまり、シニシズムが蔓延しているか否かは知りませんが、少なくとも「
分析的思考」が奪われているのは、群衆ではなくて指導層ではないのでしょ
うか。

 次に辺見さんの第1点について考えます。

 「わかりやすいイメージ」に対立するのは「迂遠ではあるけれど大切な論
理」でいいのでしょうか。政治が問題になっている以上、ここで対立させる
べきは「分かりやすいがごまかしのスローガン」に対する「分かりやすく本
質を突いたスローガン」ではないでしょうか。

 「郵政民営化に賛成か反対か」というスローガンは、小泉流郵政民営化を
民営化一般とすり替えたごまかしです。有事立法の時も、どんな備えが必要
かという議論を「備えあれば憂いなし」という一般論にすり替えました。イ
ラクへの援助も、自衛隊派遣による小泉流援助が適切かという議論を人道復
興支援一般にすり替えました(自衛隊を派遣したことの本当の狙いが何だっ
たかは今は問いません)。

 これが小泉首相のいつもの手口です。これに対して、岡田民主党が「日本
をあきらめない」というスローガンを対置したのは「迂遠ではあるけれど大
切な論理」とは言えないと思います。それは「真面目」ではあるが「才気の
ない」「ピントの外れた」スローガンだったと思います。

 共産党の「確かな野党」は政権奪取を放棄したも同然のものでした。社民
党のそれは何だったか覚えていません。記憶にも残らない代物だったのでし
ょう。

 では私ならどういうスローガンを出したか。「小泉改革であなたの生活は
明るくなりましたか?」または「小泉さんに任せてあなたの老後は安心です
か?」くらいです。いや、その前に、私ならインターネットで国民の意見を
聞いてから決めます。

 ともかく、政争では政権与党がサーブ権を握っているのですから、先方の
スローガンを前提して、それのニセモノ性を暴露するものを出したいと思い
ます。それに、本当の意味で第1の争点は年金制度だったのですから、それ
に関係した言葉を選ぶ必要があったと思います。

 さて、以上の2点を検証した今、それの原因を考えましょう。辺見さんは
「政治権力とメディアが合作した」と言っていますが、これでいいのでしょ
うか。

 世の中はベクトルの世界だと思います。色々の向きと大きさの沢山のベク
トルの関係の結果として今の世の中があるのだと思います。しかし、その中
には主要なベクトルとそうでないものがあると思います。その中で辺見さん
が「政治権力とメディア」に言及したのは当然だと思います。三権(立法、
行政、司法)のほかにメディアは「第4の権力」と言われていますから。

 しかし、このほかにも重要なものがあるのではないでしょうか。最初の4
つが合作したら、もうどうしようもないのでしょうか。

 私は5つ目のベクトルとして大学と大学教員を挙げたいと思います。大学
は「学問の府」であり、その担い手は何よりもまず教員だからです。そして
、大学と教員こそが「分析的思考」や「論理」を広める使命を負っているか
らです。

 では昨今、それはその使命を果たしているでしょうか。

 私は同じく朝日新聞の03月01日に載りました東大教授山内昌之氏の「テレ
ビと政治と娯楽」という文章を思い出しました。題名からして辺見さんの文
と同じようなテーマを論じていると推測できます。

 さて、これを論じようとすると、この文章をまとめるのは困難だと気づき
ます。そこで、困難な理由を検討します。

 第1に、テレビの(政治に対する)否定的作用を論じているらしいのです
が、「スポンサーから期待される」とか「スポンサーの比重が増大し」とい
う言葉からは商業放送の事を言っているのかと思いますが、「概してテレビ
は」とか「複雑な思考を好まないテレビの特性」とか「テレビ報道に必要な
のは」とかいう言葉を聞きますと、テレビ放送全てについて言っているのか
とも思います。

 つまり山内氏には「分析的思考」が欠けているのではないかと思うのです


 第2に、そうしたテレビの欠点はテレビの本質的な「特性」なのか否かも
はっきりしないのです。そういう言葉は上に引用したようにあるのですが、
もしそうだとするならば、それに反してテレビに「そろそろテレビ報道に必
要なのは、煽情的なジャーナリストではなく」とか「もしテレビに個人の派
手な行状にとらわれない洞察力と大局観さえあれば」といったことを言うの
は、不可能な事を求めていることになると思うからです。

 そして、最後に、国民を批判する言葉があります。以下のとおりです。

──個性的なキャスターに頤使(いし)され、お笑いタレントに揶揄される
政治家を、さながら古代ローマの「パンとサーカス」のように娯楽として眺
めているとするなら、政治を混迷させる責任は視聴者たる国民の側にもある
といえよう。(引用終わり)

 こう見てくると山内さんの批評文には大学と自分を含む大学教員がその任
務をしっかり果たしているかの反省が全然ないことが分かると思います。

 念のため、東京大学のホームページで山内さんの頁を開いてみました。そ
れはお粗末でした。

 そもそも最終更新日が「1998年07月27日」というのはあまりにも国民を馬
鹿にしていると思います。

 現下のテーマとの関連で特に問題なのは、授業について講義名だけ書いて
あって、講義の詳細な内容と授業方法の具体的な様子が分からないことです
。山内さんは学生に「分析的思考」を身につけさせるためにどういう努力を
して、どういう成果を上げているのか、全然分からないのです。

 一国の文化を決める大きな要因は大学と大学教員だと思います。今、日本
では、この要因が弱くなっていると思います。

学校批判(01、批判者の非民主的性格)

2006年03月25日 | カ行
 「ハダカの学校」というメルマガ(まぐまぐ系)があります。発行者はT氏です。その第83号にそのT氏が「『入学誓約書』に異議」と題する文章を発表しました。T氏の娘さんがこの春、愛知県の公立高校に入学するにあたって「入学誓約書」を求められたのだが、それに承服できないとして校長及び教育委員会に抗議しているというものです。

 求められたものは、生徒本人に対しては「私は今般入学を許可されました。つきましては校則を固く守り、生徒としての本分を尽くすことを誓います」というものであり、保証人に対しては「御校へ入学の上は上記(生徒氏名)の在学中にかかわる一切の責任を私どもにて引き受けます」というものです。

 T氏の校長への質問は次の通りです。

1、「生徒手帳に記載してある制服規定やアルバイト禁止などの校則と、生徒の意見表明権、表現の自由、自己決定権、および子どもへの第一義的教育権である親権との兼ね合いはどうなりますか。そもそも改廃の手続きの明記がない校則は規則とはいえないのではないでしょうか」

 2、「『在学中にかかわる一切の責任を親・保証人が引き受ける』ということは、生徒がその能力に応じて教育を受ける権利や、学校生活における心身の安全保障についても、学校は何も責任を負わないということですか?」

 3、「要するに、日本の法律に基づいて学校を運営していただきたい」

 その他いろいろと書いていますが、主要点は次の通りです。

 4、学校は生徒にとって敷居を低くし、また魅力ある学校にすべく日夜必死の努力をしなければならない。

 5、「生徒としての本分を尽くすこと」とは一体何でしょう。まず、勉強することは生徒の義務だと思わせたいのでしょうが、そうではありません。有名大学への進学率を上げることを各学校管理職は競い合っているようですが、生徒は校長や教育委員会を喜ばせるために通学しているのではありません。

 懸命に勉強して学問の道を目指すか、あるいは高校に通いつつ、スポーツ・文化活動、芸術活動、アルバイト、ボランティア、旅行、読書等で人生経験を積みながら人格と個性を磨いていくかは、全て一人一人の生徒本人が決めることである。

 6、要望を出すのは生徒・親の側です。学校に要望することは、それぞれの教科の学問としての面白さを伝え、生徒にとって解る授業を工夫することに専念していただきたい。生き生きと学園生活を楽しむことが出来る事を保障していただきたいということです。

 7、唯一の校則は、オーストラリアの学校に倣って、「全ての生徒は学校をエンジョイする権利がある」だけでよい。

 8、日本の場合はもう一つの校則が必要で、それは「児童・生徒は、校長に対して、学校の運営の全てについていつでも異議申し立てをすることが出来る」である。この異議申し立てに対しては、校長はそれを具体化出来ない時は、その理由を解るように合理的に誠意をもって、児童・生徒に説明する責任義務がある。

 私はこれに対して次のような意見を投稿しました。

 1、まず私もこの誓約書は間違っていると思います。T氏の抗議を支持します。

 2、しかし、なぜこういうものを学校が要求してくるのかというその背景についての洞察ないし推察がないと思います。そのために、対案として出されている校則みたいなものとその考えも間違っていると思います。それは、すべてを学校と教師の責任にするもので、学校の誓約書の裏返しになっていると思います。

 3、誓約書のような考えは、第1に政治的な背景もあると思いますが、その事自体、戦後の文部省と日教組の対立が背景にあると思います。

 しかし、それはともかく、第2に、学校と教師に過大な仕事と責任を押しつける日本人全体の間違った考えがあると思います。学校で起きる「問題」の8割は教師(学校)に責任があると思いますが、2割は生徒(親)に責任のあることだと思います。

 本当は学校にくる資格のない生徒もいるのです。それを退学処分にすると、世間(世論)は「悪い生徒をよくするのが教師の仕事ではないか」と言って、教師(学校)を責めるのです。教師(学校)はこれが間違っていると分かっていても、この世論が余りにも強いので抗しきれず、そのため「問題」を事前に防ごうとしてこういう誓約書になるのだと思います。

 4、換言しますと、教師の仕事は「家庭教育によって学ぶ姿勢の出来ている生徒に勉強だけを教えること」だと思います。つまり、部活は地域社会の仕事であり、生活指導は家庭の仕事なのです。日本では教師(学校)に地域社会や家庭の仕事まで押しつけているのです。

 T氏は「それぞれの教科の学問としての面白さを伝え、生徒にとって解る授業を工夫することに専念していただきたい」と言っていますが、それなら、この間違った世論が教師(学校)に生活指導や部活まで要求していることにも反対するべきだと思います。

 5、T氏のこの点でのあいまいさは、「魅力ある学校にすべく日夜必死の努力をしなければならない」という言葉と、「児童・生徒の異議申し立ての内容について、校長がどうしても具体化することが出来ない時は、校長はその理由を解るように合理的に誠意をもって、児童・生徒に説明する責任義務がある」という言葉に出ていると思います。

 教師も人間であり国家の一員なのです。それこそ「日本の法律」を適用される権利があります。つまり、教師は「日夜必死に」働く義務はないのです。法律や条例で定められた条件を守ってその範囲でベストを尽くす義務はありますが、それでも分からない生徒にはそれ以上の事をする義務はないのです。現実には、さぼり教師と過労死するほど「必死に」働いている(働かされている)教師とその中間の教師との3種の教師がいます。

 6、教師(学校)の努力というととかく「出来ない」生徒に徹底的に教えることを考えがちですが、現在起きているそれ以上の大問題は、能力と意欲のある生徒の才能が十分に開花されないということだと思います。ゆとり授業のため、また一部の悪い生徒のために、真面目な生徒が迷惑しているのです。

 出来ない生徒に「分かるまで」教えるなどというのはこの大問題を助長することになると思います。それこそ「個人の能力に応じた」教育がなされず、そのために意欲のある生徒が迷惑しているのです。全部の生徒が全部の授業を同じように出来る必要はないという事こそ確認するべきだと思います。

 或る授業をとってみると、教師はその授業に対して意欲と能力のある生徒を出来るだけ伸ばすことを第一に考えるべきだと思います。そうすることで、中や下の生徒も最大限に伸びるのだと思います。しかし、日本ではヘンナ平等意識のために中間か下の方に合わせた授業がなされています。これでは日本人からは優秀な人は出ないわけです。

 7、「校則廃止に向けた教員と生徒と保護者の三者共闘」では具体的にどんな組織作ってどんな共闘を提案しているのか、分かりません。又、校則廃止だけでは狭すぎると思います。

 総理大臣の「私的」諮問機関に対抗する民間の「教育改革市民会議」でも作りませんか。あるいは学校オンブズパーソンでも作りませんか。個々の問題でのゲリラ的抗議では世の中は改革できないと思います。現にT氏自身、先日の中1の女子生徒の「暴力教師にどうしたらよいか教えてほしい」という訴えに対して何の忠告も出来ないではありませんか。これでは何のメルマガなのでしょうか。(私のT氏への投稿はこれで終わり)

 少ししてT氏からメールが来て、私の投稿は載せられないこと、二人だけで話し合いたい、とのことでした。私はメルマガに載せるように要求しましたが、いまだに掲載されていません。そして、T氏を無条件に支持する投書だけが載っています。

 自分に都合の悪い事は公の場できちんと話し合うことを避ける点で、T氏も学校や教育委員会と全く同じ体質なのです。こういう人が学校批判とやらをしても世の中は良くならないわけです。

 これと同じ事を私は既に「ある体罰反対運動の民主主義」と題して書きました。拙著『囲炉裏端』(鶏鳴出版)に載っています。

 資本主義を批判した社会主義は資本主義以下でした。世のいわゆる体制批判者にもこういう事は多いようです。

(2000年10月27日発行)

付記・その後返事が来ましたので、追加します。

   ハダカの学校からの返事

第170号、ハダカの学校からの返事 (2004年06月02日発行)

 第 169号の「議論のない教育」を「ハダカの学校」の発行者の寺本さんに送りました。次の返事がきました。全文掲載します。

 ──牧野紀之様

 貴「教育のひろば」に、当「ハダカの学校」を転載していただきありがとうございます。牧野様のコメントについて少し釈明させていただきますが、当会あるいは投稿意見に対する反論は長年の間、実のところ全くと言っていいほどありません。あったとしても当会の責任において学校被害者保護を優先させていただいております。

 個々の投稿者のプライベートに関わる肉容については、牧野様ご指摘の点も含めてアドバイスや相談等を私信にてすでに何度も交換していますので、その点も是非ご安心頂きたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

 なお、当方からの貴第169号への回答として下記の掲載をお願いできればと思いますのでよろしくお願いいたします。

「子どもの感性を育む会」寺本孝一



第169号にて紹介していただきました「ハダカの学校」の発行者寺本と申します。当メールマガジンのキャッチフレーズは、「親も知らない今どきの学校教育、行政の被害者としての教飾、教育改革の朗報などについて報告します」です。

 日本の間違った教育制度により、非常に多くの児童,生徒・保護者及び教師自身が被害を受けています。全国津々浦々その方々の心の叫びを上げる場は、残念ながらインターネット以外にはほとんどありません。そして当「ハダカの学校」も微力ながら、深刻な学校の内実を広く開示することにより、教育行政当局に対して早急な学校改善を求めることを目的としています。

 是非ご意見・投稿等お寄せ下さい。(「ハダカの学校」の返事、終わり)──

 牧野の感想を2つ

 第1は、寺本さんはこちらの意見を自分のメルマガに載せていないということです。なぜそんなに批判を恐れるのでしょうか。どこかの国の将軍様みたいですね。

 第2は、「個々の投稿者のプライベートに関わる内容については~私信にてすでに何度も交換していますので」という言葉です。こういうもっともらしい言い訳で、公開の席上で議論するべきことも公開しないのは、年金未納問題で「個人の私事だ」といって納付状況の公開をこばんで、ついには辞職することになった前官房長官と同じではないですか。








教育の広場、第09号、論文捏造より悪いもの

2006年03月24日 | 教育関係
教育の広場、第09号、論文捏造より悪いもの

(2000年11月02日発行)

 (2000年)10月20日付けの朝日新聞は、神奈川歯科大学教授の論文捏造が
発覚し、既に免職処分されていると報じています。

たしかに、してもいない実験をしたかのよう偽ってデータを捏造するなど
というのはもってのほかです。それは論を待たないでしょう。

しかし、私は、大学教授にとって論文捏造より悪いものがあるのではない
かと考えています。それは、研究をせず、論文を発表しないことです。これ
に比べれば、論文の捏造は、論文を書かなければならないということを自覚
しているだけましとも言えるのではないでしょうか。

 「毒にも薬にもならない」という言葉があります。世の人々は、薬はもち
ろんのこと毒でさえ、「毒にも薬にもならないもの」よりはましである、と
考えているのです。

今の場合、この毒とは論文を捏造するような教授のことであり、「毒にも
薬にもならないもの」とは、研究せず論文を書かない教授です。論文を捏造
するような教授にははったりの強い人が多いようですが、そういう人はそれ
なりに学生を刺激する所もあるのではないかと思います。

それに対して研究をせず論文を書かない教授は、何の工夫もなく教壇に立
って時間をつぶすだけの授業をして、学生のやる気を失わせています。「生
きた屍」ははったり屋より悪いのです。ワル教授は何かに役立つが、無気力
教授は何の役にも立たないのです。

しかるに、こういう研究せず論文を書かない教授は処分されないのです。
これはおかしいのではないでしょうか。こういう教授からは研究費を返還さ
せるべきではないでしょうか。

 最近は大学もホームページを持って情報を開示し始めました。それを見ま
すと、大学によって随分違いますが、いずれもまだ不十分だと思います。一
人一人の教員について最低でも次の事は開示するべきだと思います。

 1、これまでの「すべての」研究業績。

(「すべての」業績の開示を義務づけている大学はほとんどないようです
。「主な」業績としている所が多いです。「主な」業績と聞くとそれ以外に
も業績があると考えるのが普通ですが、実際には「主な業績」が「すべての
業績」である人も結構沢山いるようなのです。これは誤魔化しだと思います


なお、研究業績の開示においては、それをどこに発表したのかも開示する
べきです。更に、本や論文で発表されたものは、その大学の図書館に特別に
「本学教員の研究業績」というコーナーを作ってまとめて展示するべきだと
思います。)

 2、担当授業の一つ一つについての「実質的な」シラバス。

(ここで「実質的な」としたのは、書き方の如何にかかわらず、その授業
がどういう授業かが大体分かるように書かれたものであること、という意味
です。こういうシラバスを発表している人は少ないです。又、教養課程の授
業と比較して専門課程の授業やゼミについてのシラバスの開示は遅れている
と思います。)

 3、学外での活動として、学会での活動や他大学での非常勤講師を発表し
ている人もいますが、これもぜひ必要だと思います。

特に、他大学でのアルバイトは詳しく発表するべきだと思います。それが
本当に「本務に支障のないもの」か判定できるように。

 4、以上の項目の開示は、専任教員についてのみならず、非常勤教員につ
いても行うべきだと思います。大学では専任教員のほかに非常勤教員も大き
な役割を果たしており、学生にとっては同じ先生なのだからです。

(実際には、非常勤教員の研究や授業についての情報を開示している大学
は一つもないと思います。ありましたら教えてください。)

 結論として、私の要求は、第1に、以上のような条件を満たした本当の情
報開示をすること、第2に、研究業績の評価システムを確立して、研究の不
十分な教授からは研究費を返還させ、そういう教授は降格すべきである、と
いうものです。

教育の広場、第10号、大学教員のアルバイトこそ堕落の元

2006年03月23日 | タ行
 (2000年)10月06日付けの朝日新聞は、新潟大学医学部の教授の「兼業隠し」が発覚したと報じています。それによると、W教授が税務調査をうけて、外部の医療機関の依頼で行った仕事に対して受け取った診断料など合計7000万円以上を税務申告していなかったと認定されたといいます。

 同紙は説明のなかで、「国立大学付属病院の医師らは、許可を申請して本業に支障のない範囲ならば、アルバイト的な診断も認められているが、W教授は大学の兼業許可を得ていない期間があった」と述べています。

 国公立大学教員の兼業、つまりアルバイトは教育公務員特例法第21条によって「本務に支障がないと学長が判断した場合のみ」認められています。つまり、申請することと任命権者が「本務に支障がない」と認めて許可することとが条件です。

 今回はこの申請がなかったというものです。ですから当然許可もなかったわけです。つまり「隠れてした」ことが悪いというのです。そして、税務申告していなかったのが悪いというのです。後者は当然ですからここでは論じません。

 では、申請し許可を得てすれば「大学教員のアルバイト」は良いことなのでしょうか。いや、そもそも「本務に支障のないアルバイト」というのはあるのでしょうか。

 私はS県の情報公開条例を使って、S県立大学教員(教授、助教授、専任講師)のアルバイトの実態を調べました。そこでは全教員 180名の内、83名がアルバイト(この場合は他大学・専門学校・高校での授業)をしています。実にアルバイト率は46%です。

 特にアルバイト率の高いのが経営情報学部の教員で21名中16人、76%の教員がアルバイトをしています。率の低いのは薬学部です。これは、薬学部の教員は、今回の新潟大学医学部の例から推測できますように、医療機関や製薬会社でのアルバイトがあって、それの方が割りがよいという事情があるからだと思います。

 1人の教員が複数の学校でアルバイトをしている例も沢山あります。1人で2ヵ所でアルバイトをしている教員は沢山います。実に5ヵ所でアルバイトをしている教員が3人もいます。3ヵ所は4人です。

 では、これらのアルバイトは本当に「本務に支障がない」のでしょうか。私も大学や専門学校で授業をしていますが、私の場合は週に2日合計4コマ(1コマとは90分の授業のこと)です。しかし、学生参加型の授業をし、頻繁にアンケートをとったりして学生の意見を聞き、また学生のレポートに感想を書き、それをまとめた教科通信を発行すると、週2日が限度です。

 これ以上になると、学生のレポートの1つ1つに対する感想が書けなくなります。つまり、授業の質を落とさざるをえなくなります。私は年寄りで体力がないということを考慮したとしても、自分の担当している授業をすべてこのような「本当の授業」にするとしたら、そして本来そうしなければならない義務を教員は負っているのですが、週3日が限度だと思います。

 しかるに、専任教員はたいてい週3日の授業を義務付けられていますし、授業のほかに教授会もあり、大学の委員会などの仕事もあるのです。もちろん自分の研究もしなければなりません。

 ですから、アルバイトをするならば必ず「本務に支障をきたし」ます。つまり、研究をさぼり授業は手抜きすることになります。学生参加型の授業や学生との対話はできなくなります。現に或る語学教師は「小テストをすると採点が面倒だから小テストはしない」と言いながら、他大学でのアルバイトは面倒でないらしく、2つもしています。

 たしかにどうしてもその先生でなければならないという場合も稀にはあると思います。ですから、私は一切の兼業を否定しようとは思いません。しかし、そういうのは極めて稀です。大多数の兼業は小遣い稼ぎのためのアルバイトなのです。

 どのくらいの稼ぎになるかと言いますと、毎週1コマの授業を1年間担当すると、だいたい30万円前後の小遣いになります。多くの教員は4コマのアルバイトをしていますから、 120~ 140万くらいの小遣い稼ぎをしていることになります。そういう小遣い稼ぎを、1千万前後の年収があり、十分な年金と退職金が保証されている人がしているのです。皆さんはこれをどう思いますか。

 一番重大な事は、そういうアルバイトに精を出すことで教員本人が堕落し、授業が無気力でお粗末になって、折角勉強したいと思って大学に入ってきた学生の勉学意欲を奪っているということです。

 昨今、学生の学力低下が問題とされています。これについてはいずれ詳しく論じたいと思いますが、結論だけを言えば、大学教員の学力低下と熱意の低下が学生の学力低下の第1の本当の原因だということです。

 そして、この大学教員の堕落は大学教員のアルバイトに集約的に現れているのです。それは、許可を得てやれば良いというようなものではないと思います。
(2000年11月07日発行)




教育の広場、第11号、東大教授の定年延長

2006年03月22日 | 教育関係
教育の広場、第11号、東大教授の定年延長

(2000年11月15日発行)

 東京大学の教授の定年は(2000年)現在60歳だそうです。それを2001年か
ら3年ごとに1歳ずつ段階的に延長して2013年に定年を65歳にするそうです
。この提案がかなり大きな反響を呼びましたが、一応決まったようです。こ
こでこの論争を聞いた私の考えをまとめておきたいと思います。

 東大総長の提案理由は「教員の国籍、性別、年齢による分布の多様化を図
り、欧米の大学のように60歳を超える人材を活用する」ということだそうで
す。

 それに対する反対意見は、この提案理由は欺瞞で、本当の理由は、年金支
給年齢が引き上げられているのに東大教員の他大学への再就職が難しくなっ
ていることだ、と主張しています。そして、反対者たちは、定年を延長する
と「若手の登用が遅れて研究活力が低下する」という弊害を指摘していま
す。

 私もこの東大教授OBを中心とする反対者たちの推測と反対意見は正しい
と思います。しかし、私はこの反対意見を読んでいて、その反対者たちの特
に東大教授OBの人たちが、現在私立大学教授の肩書を持っていることに注
目せざるをえませんでした。

 もし年金支給年齢が引き上げられて、しかも他大学、即ち私立大学への再
就職が難しくなってきているとするならば、東大を60歳で定年退職した人は
その後どうしたらよいのでしょうか。もしここに不安があるとするならば、
これまでに首尾よく私立大学に再就職した人に、定年延長に反対する資格が
あるのでしょうか。

 又、定年を延長すると「若手の登用が遅れて研究活力が低下する」とする
ならば、東大を定年退職した人が私立大学に再就職することは、私立大学に
おける若手の登用を妨げ、私立大学における研究活力を低下させるのではな
いのでしょうか。それとも、東大の研究活力の低下は困るけれど、私立大学
の研究活力は低下してもいいと言うのでしょうか。

 とこう考えてくると、根本的な問題は60歳を超えた大学教授のあり方であ
ることが見えてきます。そして、今回も全然議論されなかったのがこの根本
問題なのです。大学教授たちの問題考察能力はこの程度だということなので
しょう。

 60歳を超えた人が教授をしていることが「若手の登用を遅らせ研究活力を
低下させる」というのはその通りでしょう。これを認めるとするならば、大
学教授は原則としてみな60歳定年にせよ、ということになると思います。そ
して、私はこの考えに賛成です。では、その人たちは定年後、どうするべき
なのでしょうか。

 まず、60歳定年にしたら当人は本当に困るでしょうか。65歳からは年金が
もらえます。額としてもかなりのものがもらえるはずです。従って、年金支
給年齢以前だけが問題です。この間はどうしたらよいのでしょうか。私見で
は、貯金と非常勤講師の給与で十分だと思います。貯金は、定年時に退職金
をもらった時点で少なくとも数千万円はあるはずです。住宅ローンは終わり
、子供はたいてい独立していますから、大してお金はかからないはずです。
これだけの貯金があれば十分でしょう。

 その上に、60歳ならまだ働けますから、大学で非常勤講師をするとよいと
思います。給与は週に2日・4コマ(1コマ=90分の授業)で年間約 120万
円くらいになりますから、貯金の目減りを防ぐことも少しは出来ます。

ここで大切な事は、他大学に教授として再就職するのではなくて、非常勤
講師になるという点です。専任の教授になると「若手の登用を妨げる」こと
は既に確認しました。ですから今回は非常勤講師になることです。そして、
出勤を週に2日以内にすることです。私の提案の一番大切な所はここです。

 なぜこういう提案をするかと言いますと、第10号で大学教員のアルバイト
を論じた中で述べましたように、それまでは週に3日以上の授業があり、教
授会もあり、その上アルバイトなどもしたりして、一人一人の学生を大切に
する「本当の授業」が出来なかったと思うからです。

定年となり、お金の心配がなくなった今こそ、そして人生の最後を迎えた
今こそ、少ない授業を一つ一つ丁寧なものにして、一人一人の学生と心の交
流をする授業にし、若い人達に本当の学問の面白さを伝えるべきだと思いま
す。

 週に2日の授業ならこれが可能なのです。学生の意見が十分に聞けます。
それをまとめた教科通信を発行できます。これは私の経験から断言できます
。お金をためることばかり考えないで、残り少ない人生を有意義に過ごすこ
とを考えたらどうでしょうか。