ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

『精神現象学』

2006年12月24日 | サ行
   ヘーゲル著、牧野紀之訳、未知谷刊、2001年09月初版発行
   四六判上製箱入り、1047頁、定価 10500円(税込み)

 ヘーゲル哲学の生誕を告げる書として名高いが、難解をもって知られる原書を、多くの注解を盛り込みつつ翻訳した。

 哲学史的背景については金子武蔵氏の訳業を踏まえつつ、哲学するための翻訳を目指している。

 鶏鳴双書で3分冊として出た前半をまとめ、後半を新たに訳して全部で1巻としています。

 理解の助けになる小論を4つ付録としています。

 付録1・知識としての弁証法と能力としての弁証法
 付録2・ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理
 付録3・恋人の会話(精神現象学の意味)
 付録4・金子武蔵氏と哲学

 序論の冒頭の部分を掲載します。


   序 言 (科学的認識について)

 〔第1段落・哲学書の序言について〕

 著者が企図した目的や出版するに至った動機や、同じテーマを扱ったこれまでの他の諸著作と自分の本はどういう関係にあると思っているかといったことを、序言の中で予め書いておくことが習慣になっているが、そういうような説明は哲学書の場合には余計に見える。いや、それどころか、不適切で目的に反しているようにすら見える(1) 。

 というのは(2) 、哲学について序言の中で何をどのように言ったらよいのかと考えてみると、まあ〔自分の哲学の〕傾向とか立場とか、あるいはその本の概括的な内容とか結論とかを記述的に〔個条書き的に〕報告するか、真理について〔その本の〕あちこちで(3)言われている主張や断定を〔これまた箇条書き的に〕まとめるといったことくらいであろうが、そういったやり方を哲学的な真理を叙述する方法と見なすことはできないからである。

 (1) へーゲルの scheinen はほとんど常に「~と見えるが実際はそうではない」という含みをもっている。山本信氏はここを「しかしこうした説明は、哲学上の著作においてはよけいであるばかりでなく、ことがらの性質上、不適当であり、害にさえなる」と訳している。つまりへーゲルの主張のように訳している。長谷川宏氏はその著『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)の冒頭で、この単語を「思える」と訳し、ヘーゲルが実際にそう思っていると解釈した上で、後の記述との「ヘーゲルの矛盾」について長々と論じている。いずれも誤訳であり誤解である。

 (2) denn と weil の違いは関口存男(つぎお)氏の研究にくわしい。金子氏も山本氏も「なぜなら」と訳しているが、関口氏によると、 weil が「なぜなら」で、 denn は「というのは」「即ち」「つまり」である。あるいは訳さなくて好い。

(3) 金子訳は「いわれもなくあれこれと語る一連の主張や断言」としているが、我々は文脈を読んでこう取った。


 また(1) 〔なぜそれは不適当で目的に反しさえするように見えるかと言うと〕哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍(2) をその本来的地盤(3) としているものだから、目的あるいは最終的結論の中で事柄そのものが表現され、しかもその全き本質において表現されているのであって、それに比すれば〔その結論への〕遂行〔過程〕は元々非本質的なものなのだという間違った外観が、哲学では他の諸科学における以上に発生しやすい〔ので、序言に本論の一般的結論を書くと、本論は要らないと考えられるかもしれないからである〕。

 これに反して〔他の諸科学では〕、例えば解剖学とは生体の諸部分をその死んだあり方で観察して得られた知識である、といったような一般的観念を得たからといって、〔そういう最終結論だけで〕事柄そのもの、つまり解剖学の内容を知ったわけではなく、その上に更に特殊〔細々とした知識〕を知ろうとしなければならないことは常識になっている〔ので、他の諸科学の本でなら、序言にその本の一般的結論を書いても目的に反することはないように見えるからである〕。

 (1) この auch がどういう意味なのか分かりにくかったが、我々は、これの前の文を「余計だと言ったこと」に対する説明と取り、ここ以下を角括弧内のように取った。

 (2) 「特殊を自己内に含む普遍」というへーゲル的考え方が早くも出てきたが、ここから、「だから結論=普遍だけ知ればよい」と持ってくるのはへーゲル的ではない。だからこれは「序言における説明は不適当という間違った主張の根拠」と「仮定」されている。ヘーゲルの真意は反対である。

 (3) 「本来的地盤」と訳した Elementについては山本信氏は次のような注を付けている。「『エレメント』は、ふつうには『元素』『要素』という意味であるが、ヘーゲルが使う場合には、たいてい、『事物が、それぞれの本性上、本来そこで存在し、そこで生活をいとなむ固有の環境』といった意味合いが主になっている。慣用句としても、ヨーロッパの多くの国語において、この語が、『本領が発揮できる場面』『得意の境地』という意味になる場合がある。『水を得た魚』というが、魚にとって水がエレメントである」。

 私はかつて「エレメントという単語には、もともと『地盤、本来の活動領域』という意味があり、それは日本語で『所を得る』とか『適材適所』という時の『所』に当たる」と書いた(『ヘーゲルの目的論』 119頁)。


 更に〔解剖学のような〕知識のそのような寄せ集めにすぎないようなもの(それは科学の名に値しないものなのだが)では、〔序言での〕目的やそういった一般的な事柄についての雑談と、〔本論で〕神経、筋肉、等々といった内容自身を扱う時の記述的で没概念的な(1) やり方とが違わないのが普通なのだが、これに反して哲学では、そういったやり方を〔序言で〕使うと、〔本論での哲学的認識なり叙述方法との〕食い違いが生まれ、そのやり方では真理を捉えることができないということが哲学自身〔本論〕によって示されてしまうことになるであろう〔だから、序論の中で、一般的結論を記述的にまとめることは、内容からいっても、方法=形式からいっても、哲学書の目的に反するように見えるのである〕。

 (1) 山本訳はここにへーゲルの「概念」についての説明を付しているが、ここに「概念」の説明を付けること自体適当でないし、付けられた説明の内容も拙い。ここではここの「記述的で没概念的」とはいわゆる「実証主義的」ということであることを知っておけばそれでよい。

関連項目

『精神現象学』のサポート



対訳・初版資本論第1章及び付録

2006年12月23日 | 業績一覧
     対訳・初版資本論第1章及び付録

   カール・マルクス著、牧野紀之訳、1993年09月初版
   信山社刊、A5判上製、 202頁。定価6300円(税込み)

 マルクスが「ヘーゲルに媚(こび)を呈した」と自白している初
版の第1章と付録(価値形態論)の対訳です。

 元は鶏鳴双書として出ました「第1章」と「付録」を合わせて、
訳文や注解も検討し直して、1冊にまとめたものです。

 豊富な訳注が付いていますが、マルクスがヘーゲルから受け継い
だ内在的弁証法とはどういうものかを理解するには、これだけでは
無理だと思います。

 「悟性的認識論と理性的認識論」(『ヘーゲルの修業』に所収)
の中で詳しく説明しましたので、参照されると好いでしょう。

 これを読むと、宇野経済学も自称マルクス主義経済学も共に悟性
的な認識論に立っていることが分かると思います。


理論と実践の統一

2006年12月22日 | 業績一覧
     理論と実践の統一

 牧野紀之編著、論創社、2005年05月初版
  四六判上製 432頁、定価4725円
 ISBN 4-8460-0308-6

 いわゆるマルクス主義の運動ないし自称科学的社会主義の運動ほ
ど非科学的な思想運動はなかったのではないだろうか。それは宗教
の運動よりもかえって非科学的だったのではないだろうか。キリス
ト教よりも仏教よりも、又戦後の日本では大きな勢力となった創価
学会の運動よりも。これが私の印象であり、問題意識です。

 それは、共産主義政党が政権を握った国では自由主義国よりも「
全体としては」独裁的であり、言論の自由がないという点に一番好
く現れていると思います。政権を握っていない日本の共産党でも「
自己批判」の強要や査問などという非民主的な事が行われてきまし
た。そして、その査問が怖いので、自己批判という名の土下座をさ
せられるのが嫌なので、共産党員は自由に考え物を言うことができ
なかったようです。そして、その雰囲気は党員だけでなく、共産党
の周りにいる人々をも支配することになりました。

 本書で取り上げました人々の多くは、観念論の立場に立つ人に対
して「政治から逃げている」と批判していますが、それは実際には
当たらないという以前に、そのように言う自称マルクス主義者自身
も共産党を冷静に客観的に認識論的に検討し、自分はいかなる理由
に基づいて共産党に対してどういう態度を取るのかという問題(こ
れも政治の一種)から逃げ回ってきたと思います。共産党に対して
どういう態度を取るのかという問題は実際には、マルクス主義に関
わる人なら誰でもが心の中で第一に考えている根本問題なのですが
、それを公然と理論的に論じることを避けてきたと思います。それ
は当人の姿勢の問題でもありますが、同時に共産主義運動を支配し
てきた雰囲気の結果でもあったと思います。

 その結果、「全てを疑う」という哲学の大前提が成立しないこと
になりました。スターリンに対する「個人崇拝」(実際には、スタ
ーリン信仰)はその最大の悪い例ですが、それ以外にもそういう無
批判的「信仰」は規模こそ大小さまざまであれ、運動の至る所に見
られたと思います。

 他者批判は立派だが、自己批判は全然ない。その典型として古在
由重氏の「現代哲学」を挙げることができます。これは二十世紀の
観念論哲学の内在的批判としてはとても立派なものですが、そこで
批判の尺度として前提されていたミーチン主義哲学には全く無批判
です。又、氏は認識論をやると言っていますが、その認識論には新
しい点は何もありません。つまり、哲学史家であって哲学者ではな
かったのです。文献を読んで検討することは出来ても、現実を哲学
することはできなかったのです。日本のマルクス主義哲学者の代表
者の一人である古在氏の在り方はマルクス主義哲学者全体を表して
いました。

 前著『マルクスの〈空想的〉社会主義』(論創社)に書きました
ように、私は今では社会主義者ではありません。しかし、公正な社
会を求める気持ちにはいささかの変化もなく、そのために残りの人
生を捧げたいと思っています。

 以上の根本前提に立って、人間の行動の根本を理解するための一
つの重要な問題である理論と実践の関係はいかなるものであるかと
いう問題をテーマにして、今回色々と考えてみました。これまでの
方々の論文を読みながら考えた事と私自身の考えをまとめたものと
です。(「まえがき」より)


        目  次

 まえがき
 序論・オルグの根拠としての理論と実践の統一

ヘーゲル「法の哲学」
  第1節〔法哲学の対象〕
 第2節〔法哲学は哲学の一部である〕
 第3節(略)
  第4節〔法の地盤〕

ルッポル「レーニン主義と哲学」

毛沢東「実践論」
  〔刊行者の「まえがき」〕
  〔第1節 序論・理論は実践から切り離しては理解できない〕

 〔第2節 実践から認識へ〕
 〔第3節 認識から実践へ〕
付論・毛沢東の名言

松村一人「ヘーゲルの絶対的理念にかんする批判的考察」

レオーノフ「弁証法的唯物論講話」

宇野弘蔵「理論と実践」

梅本克己「理論と実践の問題」

甘粕石介「理論と実践との弁証法」

柳田謙十郎「認識と実践」

許萬元「ヘーゲル弁証法の本質」

理論と実践の統一(牧野紀之)
 1、理論と実践の統一とは理論と実践は一致させなければならな
  いという意味か。
 2、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第11テーゼはどういう意味
  か。
 3、毛沢東の「実践論」の意義と限界はどこにあるか。
 4、理論と実践の統一が両者は事実一致しているという意味だと
  すると、言行不一致をどう考えるか。
 5、理論と実践の分裂の意義とは何か。
 6、理論と実践の二元性とは何か。
 7、「○○の思想と行動」という見方はなぜ可能か。
 8、マルクスはこの問題に何を加えたか。
 9、通俗的見解のどこがどう間違っているのか。
 10、或る行為が実践か理論かを判定する基準は何か
 11、理論と実践の統一の諸段階は何か。
 12、「革命的理論なくして革命的行動なし」という言葉はどう理
  解するべきか。
 13、個人の成長過程における理論と実践の統一の諸段階は何か
 14、実践の根源性とは何か。

付録1・船山信一「唯物弁証法」
     〔日本における唯物弁証法小史〕
付録2・牧野紀之「主義を糧とする人々」(映画『追憶』を見て)

小論理学

2006年12月21日 | 業績一覧
  ヘーゲル著、牧野紀之訳、定価各3675円(税込み)

   上巻・B6版上製、本文 342頁、訳注 204頁、
   下巻・B6版上製、本文 459頁、訳注 121頁

    1978年10月分冊で出版開始。
    1989年05月上下2巻の合本で出版

   いずれも鶏鳴出版刊


     内容説明

 ヘーゲル哲学の中心は論理学にあります。それをコンパクトに示した小論理学を、意味を補いながら訳したものです。

 ヘーゲル自身が日本語で話したらこう語ったのではないだろうかと思われる口調で訳されています。

 試しに、第1節の冒頭の段落を松村一人氏及び長谷川宏氏の訳と比較してみます。

   牧野紀之訳

 〔『哲学の百科辞典』への序文においては、やはり、哲学とは何かという問題から始めるのが妥当であろう。しかるに、およそ科学というものを定義するには、その科学の対象を示すのとその認識方法を示すのと二つの方法が考えられる。そこで、哲学とは何かに答えるのにこれら二つの方法は使えないかと考えてみると〕哲学以外の科学は自己の対象を表象によって直接承認されたものとして前提したり、〔その対象を〕認識する方法を(その認識の始元についても〔その始元からの〕進展についても)すでに容認されたものとして前提したりすることができるという長所を持っているが、哲学〔だけ〕はそういう長所を持っていない。たしかに哲学は、まず第一に、その対象を宗教と共有してはいる。哲学も宗教もその対象は真理であり、しかも最も高い意味での真理である。更に進んで〔第二に〕哲学も宗教も〔単に有限物から切り離された神だけを扱うのではなく〕有限物の領域も、すなわち自然と人間精神も扱っている。両者共に、自然と人間精神とは互いにどういう関係を持ち、またそれらの真理である神に対してどういう関係を持っているかということを論じているのである。

 従って、〔哲学は宗教と同じ対象を持っているのだから〕たしかに哲学はその対象についての知識を〔読者が持っていると〕前提することができる。いや、それどころか、哲学はそういう知識を前提しなければならないし、その上更に、また、読者がその対象に関心を持っていると前提しなければならない。というのは〔なぜ前提しうるのみならず前提しなければならないと言ったかと言うと〕、意識は、対象についての概念よりも表象を時間的には先に手に入れるものだからで、思考する精神はただ表象作用を通ることにより表象作用にひたり切ることによって初めて、思考による認識と概念による理解へと進みゆくものでさえあるからである。


   松村一人訳(岩波文庫)

 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜をもっていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象をもってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、すなわち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取扱っている。したがって哲学は、われわれがその対象を知っていることを前提しうるのみならず、それを識りそれに関心をもっていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用に頼ってのみ、思惟的な認識および把握へ進むものであることを考えただけでも明かである。


   長谷川宏訳(作品社)

 哲学以外の学問では、対象を直接にイメージできるものとして前提したり、認識をどこからはじめ、どう進めていくか、その方法を、すでにあたえられたものとして前提したりできるが、哲学ではそんな便利なやりかたをとれない。哲学の対象はさしあたり宗教と同じだと考えてよい。哲学と宗教はともに真理を対象とし、しかも最高の意味でつまり、神が真理であり、神のみが真理である、という意味で真理を対象とする。とすると、哲学も、人びとがその対象を知っていることを前提できるし、人びとが対象に関心をもつこととならんで、対象を知っていることを、前提しなければならない。というのも、意識は、時間的順序として、対象の概念を形成する前に対象のイメージを形成するのであって、思考する精神ですら、イメージを通過し、イメージを手がかりにすることによってのみ、思考にもとづく認識と概念に進むことができるのだから。

ヘーゲル的社会主義 

2006年12月17日 | 業績一覧
     ヘーゲル的社会主義 

   鶏鳴出版(鶏鳴双書36)、1990年03月初版
B6版並製、 256頁、定価1575円(税込み)

  内容説明

 「科学的社会主義」と訳されている言葉は本当は「ヘーゲル的社
会主義」と訳すべきだとする著者が、社会主義運動では信仰される
か無視されるかの両極端に揺れている事柄を真正面から取り上げて
、原理的に検討した論文集です。

 「ヘーゲル哲学辞典」は、本当の哲学辞典とはこういうものでは
ないだろうかと提示しています。

   目次

1、「文芸講話」で考える

 毛沢東の「文芸講話」の批判的検討を踏まえて社会主義における
芸術政策を考えています。

2、中国映画「芙蓉鎮」を評す

 中国映画「芙蓉鎮」の思想の詳しい分析と批評です。

3、レーニンの真理論

 『唯物論と経験批判論』におけるレーニンの真理概念を分析して
います。

4、マルクスの感情的社会主義

 マルクスの『資本論』の分析から「社会主義社会の到来の必然性
」は証明されていないと結論しています。

5、中国民主化運動の本質論と戦術論

 著者の大衆運動論である「本質論主義」の立場から中国の民主化
運動を分析しています。

6、グラムシの陣地戦論

 陣地戦主義に立つ著者が陣地戦論の先人の考えを分析していま
す。

7、日本共産党規約評注

 共産党論ではまともなものでもその「綱領」の分析しかしない人
がほとんどである中で著者は規約こそが党の本質を表すという考え
で分析しています。

8、「戦争論」への備忘録

 クラウゼヴィッツの「戦争論」は結構分かりにくいものですが、
それを読んだメモです。

9、哲学主義の政治

 著者の政治運動思想です。

10、ヘーゲル哲学辞典

 悪、感覚、観念論、教条主義、研鑽、実証主義、統一戦線、理論
の党派性、民主主義

囲炉裏端 

2006年12月16日 | 業績一覧
  牧野紀之著、鶏鳴出版(鶏鳴双書35)、1988年09月
B6版並製、 233頁、定価1300円(税込み)

      内容説明

 短い哲学随想を集めました。民主主義・規律・文章などを考えたものがいくつかあります。

 松崎温泉に遊ぶ
 ドイツに遊ぶ
 ドイツ再訪
 ユニークな塾・赤門塾
 「ブッデンブローク家の人々」を読む
 「復活」を読む
 「知的生産の技術」の二流性

   筆休め

 自分の医者は自分
 マルクス離れの問題について
 サルトルの「実存主義とは何か」を読み返して
 汝の敵を愛せ
 忠告の難しさ
 血縁哲学は思想運動の敵

 不惑
 蜂の一刺し
 毛沢東の名言
 メリー・クリスマス
 感性の文化
 サッカー・ボール
 標準服
 安藤博氏の体罰批判

 体罰を考える
 ダンケのパン
 幻想を持つ権利
 新宿の母
 思想の発案権
 努力とは何か
 その場で叱る
 一度で決めた事は無効
 第一次的問題意識と第二次的問題意識

 司会者の立場と討論者の立場
 思いやりの方法
 ブルジョア的生活
 直接的勝敗と歴史的勝敗

 操体法を見直す
 真向法
 授業参観
 小物の基準
 逃げ場としてのヘーゲル

 有機農業の限界
 80%の相互理解
 思想を作る方法
 二度で決める
 中途半端の哲学
 親分的指導者
 三宝を敬え
 ある体罰反対運動の民主主義

 内容的運動と形式的運動
 言語表現のいのち
 先生、せんせい、センセイ
 中村教諭事件
 1日の試合は十日の練習に匹敵する

 規律という観点
 社説とスポーツ記事
 真のオルグと偽のオルグ
 好景気待望論
 反牧野派の論理
 日本共産党の民主主義

 的確な背景説明を
 立体的箇条書き
 偉大なイスラエル人
 病は気から
 波多野精一著『西洋哲学史要』

 講義という授業形態
 人間みな兄弟
 言文一致
 青二才の徹底性と大人の徹底性

 私信は公表してよいか
 書評の書き方
 阿部行蔵氏の民主主義
 負け惜しみの道義
 野坂昭如氏の問題提起

 グレン・ミラー物語
 事実と真実
 彼は腹が立ってる
 悪文と駄文
 転落の許萬元ルート
 親分誕生
 花守安治氏
 健康の質
 エンゲルス著『住宅問題』

 民主主義を守る力

ヘーゲルと自然生活運動

2006年12月15日 | 業績一覧
     ヘーゲルと自然生活運動

   牧野紀之著、鶏鳴出版(鶏鳴双書34)、1987年12月初版
B6版、 283頁、定価1575円(税込み)

  内容説明

 労働運動を考え直した「労働者の立場と労働者階級の立場」が中
心的なもので、それに代わるようにして現れた消費者運動をはじめ
とするいくつかの運動を考えた諸論文が含まれています。

第1部・自然生活運動の実践

  人がやってくれないなら自分でやろう
  二番鶏の鳴き声
  読者を叱る
  鳩山農場を開く
  三番鶏の鳴き声

  鶏鳴学園の低さ
  相談事
  哲学の目的
  鶏鳴学園の現状と改革案
  休みと会費

  十歳の鶏鳴出版
  本誌の中断について
  田舎暮らしを始める
  鶏鳴学園の小改革
  失敗六分成果四分

  まず神の国を求めよ
  ちいげと歩む

第2部・自然生活運動の理論

  たまごの会と食べる会
  援農日記
  キミよ考え抜いてから歩め
   (宇井純著『キミよ歩いて考えろ』の書評)

  西ドイツ環境保護市民連合の申し合わせ
  特講の論理
   (ヤマギシ会の特講の考え方を認識論的に分析したもの)

  自然の理法に適った生き方
  本の紹介『原子力発電とはなにか』
  反核運動の考え方

  労働者の立場と労働者階級の立場
   (この2つの違いを問題提起した最初の論文)

  消費者運動の戯画
   第1部(転落の構図)
   第2部(教訓)
   (よつ葉牛乳購入運動の経験のまとめ)

  国際人と国際語を考える
  自然生活者憲章を考える


ヘーゲルと共に

2006年12月14日 | 業績一覧
     ヘーゲルと共に

  牧野紀之著、鶏鳴出版(鶏鳴双書20)、1982年10月初版
  B6版並製、 253頁、1470円(税込み)

   内容説明

 規律の問題を実際の例から出発して原理的に考えた第1部
 社会運動のあり方を考えた第2部
 唯物弁証法の諸問題を個別的に論じた第3部
 これらをヘーゲル哲学で鍛えた思考で考えています。

   目次

 序・思想をもって生きる

第1部・規律なくして組織なし

  真理の規律
   本当の規律とはどういうものだろうか。

  自己批判の自発性を考える
   自己批判とは強要して好いものだろうか。

  オルグと政治運動を考える
   政治運動に不可欠なオルグとは一体何なのか。

  ある討論

第2部・社会運動を考える

  科学としての社会運動
  XYZの会の者として一言(弥永健一)
  遊びとしての社会運動

第3部・唯物弁証法とは何か

  『反デューリンク論』を読む

  真哲学教室
   学習の友社『哲学教室』のいくつかの項目の批判的検討

  唯物弁証法問答
   問答体で唯物弁証法の諸問題を考えています。

  一寸失礼

ヘーゲルの修業

2006年12月12日 | 業績一覧
  牧野紀之著、鶏鳴出版(鶏鳴双書19)、1980年04月初版
  B6版並製、 217頁、定価1260円(税込み)

      内容説明

 普通は見過ごされてきた問題を解明してきた著者の「考える技術」とそれを身につける方法が紹介されています。

 第1部の「善悪と高低」はこの混同を正した最初のものです。後に「善悪と高低と好悪」と発展しました。

 第2部の「問題意識について」は、分かりきったものとして前提されている言葉を検討したものです。

 第3部の「知識としての弁証法と能力としての弁証法」は、弁証法をこのように別けて考えることを提案しています。

 第4部の「悟性的認識論と理性的認識論」はマルクスの『資本論』の内在的認識方法を説明したものです。

「マルクス主義哲学を笑う」は共産党系の哲学を分析したものです。


      目  次

第1部・前提

 ヘーゲル研究と素質
  善悪と高低

第2部・心構え

 カンパは乞食、オルグはお節介
 修業者の十戒
 問題意識について
 私のヘーゲル
 勉強の思い出

第3部・技術

 ヘーゲルとマルクスの登り方
 先入観をもって読む
 知識としての弁証法と能力としての弁証法
 文脈の本流と傍流
 適塾方式のすすめ

第4部・反面教師

 ゾレンの無力
 悟性的認識論と理性的認識論
 「マルクス主義哲学」を笑う(その一・失笑、その二・笑話)

付録・各論の難しさ

ヘーゲルからレーニンへ

2006年12月11日 | 業績一覧
  鶏鳴出版(鶏鳴双書18)、1979年09月初版
  B6版並製、 313頁、1700円

     内容説明

 大衆運動の根本問題をヘーゲル哲学を適用しながら原理的に考えた論考を集めています。大衆運動での議論を「本質論と戦術論」とに分けて考えることによって哲学的な運動とは何かを自分の経験にもとづいて提唱しています。

      目次と解説

1、解放の思想の条件

 その思想の提唱者はどういう生活をしていたのか、その生活は原理的にみながそれをすることが可能なのか、を基準として提案しています。

2、ヘーゲルの概念とマルクスの賃労働者階級

 『思想』(1973年10月号)に発表した論文です。
 マルクスの賃労働者階級をヘーゲルの独立存在概念で捉えることに反対して、概念(ヘーゲルの論理学の第3段階の概念という概念)で捉えることを主張しています。

3、「何をなすべきか」を読む

 レーニンがその前衛党論を作り上げた書を読み直し、その外部注入説を認識論的に検討しています。

4、本質論と戦術論

 著者の大衆運動論の根本であり、教育論の根本でもあります。

5、本質論主義の組合運動を!

 本質論主義を組合運動に適用して考えてみました。

6、中国共産党の論文「プロレタリアート独裁の歴史的経験について」への評注

 スターリン批判の中での最大の収穫とされながら、批判的検討が1つもなされていない本論文を認識論的に徹底的に分析した唯一の試みです。

7、日本共産党について

 これも認識論的分析は全然なされていない対象ですので、共産党の主要な考え方を分析してみました。最後に、日本社会党についても少し言及しています。

8、批判と自己批判

 特に左翼運動の中でかくも振り回されている句の意味を認識論的に分析して考えたものです。

9、「共産党宣言」を読み直す

 かつては押しいただいていたこの「宣言」を突き放して読めるようになったという。その結果です。評点は50点としてその理由を説明しています。

 文章の形式を読むという方法をじっ背していますから、その例として読むことも出来るでしょう。

10、「一歩前進、二歩後退」を読む

 この読みにくい本を何とか整理した上で、組織というものの本性から考え直したもの。レーニンの前衛党論は「何をなすべきか」と本書の2つが中心ですから、両方を検討してレーニン主義の認識論的分析を終えたことになります。