goo blog サービス終了のお知らせ 

ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第282号、図書館探検(02)

2007年05月26日 | その他
教育の広場、第282号、図書館探検(02)

     ビデオ「懐かしの奥山線」

 こういうビデオがあることを知っている人は少ないのではないで
しょうか。私も昨年(2006年)の秋だったか、細江図書館に行った
時、偶然見つけたのです。今、統合された図書館のホームページで
調べてみますと、これは細江図書館にしかないようです。

 大正3年に開業した奥山線は昭和39年(東京五輪の年)11月1日
に廃止されたのですが、ナレーションから察するに、その廃止の直
前に遠鉄が記録を残しておこうと考えたのでしょう。16ミリの撮れ
る社員に頼んで撮ったもののようです。

そのため夏の光景が映し出されています。又、昭和39年当時既に
廃止されていた部分は写真のみとなっています。

 このビデオ自身、遠州鉄道株式会社編となっています。もちろん
非売品です。

 全体で約17分。バックに流れる音楽はもちろんあの「ふるさと」
です。演奏あり、ハミングありと、工夫されています。

 画面は浜松駅から始まっています。続いてホテル「コンコルド」
と隣の大きな体育館が映し出されています。

 元城駅を過ぎて今でも残っています広沢のトンネルをくぐると広
沢駅です。そのテロップには「市立高校の利用駅。夏には女学生の
制服でホームが真っ白に見えた」とあります。古き良き時代という
言葉を思い出しますねえ。

 様々なエピソードを散りばめながら、終点に着きます。奥山線は
使命を終えたのです。


   付記

 これは別名を「軽便」と言いました。しかるに、このほかにも軽
便があったようです。昨年の秋、NHK静岡局が「車窓の記憶を訪
ねて」と題する25分番組を放映しました。

 これは「駿遠線(すんえんせん)」の名残りを訪ねて歩いた一種
の探訪番組です。もちろん昔のフィルムも少しは出てきます。

 駿遠線は大正2年に開業したと言いますから奥山線より1年早か
ったわけです。終わったのも奥山線より遅く昭和45年(大阪万博の
年)7月となっていました。全長64,6キロで、軽便としては全国1
の長さを誇っていたそうです。

 今の藤枝駅から少し離れた所にある大手駅が始点で、そこから大
井川をわたり相良駅を通って、終点は今の袋井駅だったようです。


 当時これで学校に通ったというかつての女学生の皆さんや、ここ
で働いていた方々のインタビューもありました。

 バックには静岡合唱団の歌う「藤相唱歌」(これは「汽笛一声新
橋を~」のあの鉄道唱歌の替え歌です)や「汽車ポッポ」の歌声が
流れていました。

 これはビデオではありませんし、図書館にあるわけではありませ
ん。

 逆に考えると、奥山線の場合は遠鉄が記録を残しておいてくれて
、とてもありがたかったと思います(多分、駿遠線のフィルムはな
いでしょうから。県立中央図書館には中村修編著「駿遠線物語、巨
大軽便の横顔」という本が1冊あるようです)。


教育の広場、第260号、論争の鑑賞法

2007年03月09日 | その他
教育の広場、第260号、論争の鑑賞法

 たしかにこのブログにはかなり論争があり、面白いと思います。
しかし、論争を鑑賞する(言葉が少し悪いかもしれませんがお許し
ください)場合、論争の内容だけに着目している方が多いと思いま
すが、その形式に着目するという鑑賞法もあります。

 それは、司会のあり方と論争の内容との関係に着目するという態
度のことです。

 このブログですと、Aさんが司会者ですが、Aさんは論争の一方
の当事者になることも多いです。その2つのあり方をどう意識し、
どう使い分けているか。それが論争のレベルとどう関係しているか
、ということを見るのです。

 Aさんの場合は特別な理論があって行動しているとは思えません
が、まあこれまでの経験の中で自然に身についた態度で両者を使い
分けているようです。別に下手という程のことはありませんが、特
に優秀という程でもないと思います。

 これは大学などのゼミでも同じで、教師が司会者を兼ねながら意
見も言う場合がそれに当たります。残念ながら、ほとんどの教師は
この問題についての自覚がなく、経験的に振る舞っています。自分
の立場を利用して自説を押し通そうとする人も少なくありません。

 たまには自覚のある教師もいます。東芝の常務か何かをした森健
一さんという人が昔、朝日新聞に書いていました。東大の工学部で
、先生が「討論の3原則」を定めて学生に討論を奨励したが、それ
がとてもよかったので、自分も東芝でキャップになった時、それを
実行した、という話でした。

 私自身、司会者のあり方と発言者の態度の問題では随分失敗もし
、その認識論的根拠について考えたものです。

 (これも或るブログへのコメントです)

教育の広場、第55号、駒場寮問題の本質

2006年02月02日 | その他
教育の広場、第55号、駒場寮問題の本質

(2001年09月19日発行)

 東大の駒場寮の撤去問題について、本メルマガは投稿を募集して
いますが、今のところ投稿はありません。09月15日の朝日新聞の「
私の視点」欄に西村秀夫氏が寄稿しています。氏は東大の教養学部
で長い間学生部専任教官を勤めた方です。

 氏の論点を追いながら私見を述べます。

 1、氏の立場は「〔寮は〕青年の人間形成の場、真の教養教育の
施設として貴重な存在」であるとするものです。

 この意見は大学の教養教育全体における寮の位置づけを欠いてい
る点で不十分だと思います。やはり授業がその中心だと思います。
寮も重要ではあると思いますが、絶対的ではないと思います。もし
寮を絶対視するならば、全員を寮に入れなければならないでしょ
う。

 2、氏の考えるその寮生活の内実とは次の通りです。「緑濃き学
園内での寝食を共にする大部屋での共同生活、よき先輩の影響を受
けながらの自由な読書と思索、ありのままの人間としての真実な話
し合い」。

 このように沢山の条件を並べるとどれが核心か分からなくなりま
す。後を読むと、大部屋での共同生活が中心のようです。それは、
多分、先輩・後輩の縦糸と同学年の横糸の人間関係を可能にするか
らだと思います。この後者と大部屋との結びつきは必然的なのか、
これが最大の論点です。

 なお、駒場寮のように大学の構内にあることは絶対の条件ではな
いと思います。「緑の濃い」ということも大切ではありますが、こ
れも絶対の条件ではないと思います。

 3、氏によると、文部科学省はこのような寮が学生運動の有力な
拠点となってきたのを嫌って、学外に移す方針を取った。

 これが本当だとすると、このような次元の低い考えしかできない
行政を持っていることは我々日本人の不幸だと思います。

 4、駒場寮を廃止して代わりに建てたのが三鷹の国際学生寄宿舎
で、「そこには近代的な個室はあるが、雑居的な共同生活の場はな
い」。

 ここから私の先の推定が出てくるのです。

 5、これを氏は「かつてのような自治寮」と表現しています。そ
れはかつて一高の校長が、生徒を信頼して寮の運営を自治に任せた
ことから始まったそうですが、完全な学生自治はありえない以上、
どこまでの自治だったのかを確定する必要があると思います。

 さて、駒場寮問題を考える時、私の頭に浮かぶのは東京の文京区
にある和敬塾です。これは3年ほど前、NHK・TVで放映されま
した(村上春樹の短編『蛍』も事実上ここを舞台にしていますが、
今とはかなり違うし、叙述の観点も違うのであまり参考にならない
と思います)。

 それによると、これは大学横断的で(つまり1つの大学の学生だ
けのための寮ではない)、大学院生も留学生もいます。東西南北4
つの棟があり、それぞれ70~80人くらいの学生が住んでいるようで
す。

 40年以上前に誰か実業家の出資で作られたもので、財団法人にな
っています。運営は肝心な所は大人が仕事として係わっていますが
、相当の自治があるようです。私はこの寮の成功の原因の一つはこ
こにあると思います。学生の自治の行き過ぎは却って拙いと思いま
す。歴史があるので、かなりの「伝統的な行事」があります(挨拶
回り、山手線一周夜行軍、塾祭、寮対抗の体育祭など)。

 さて問題の「共同生活」ですが、ここも最初は大部屋だったそう
ですが、その後、1~2年生は2人部屋で3~4年生は個室という
段階をへて、今では全員が個室となっています。しかし、食事は全
て食堂だし、様々な行事とか、日頃の交流で「共同生活」にはなっ
ていると思います。

 つまり、大部屋に雑居しなくても、共同生活的要素を取り入れる
ことは可能であり、縦と横の人間関係で、話し合い、自由な読書と
思索をすることは可能なのだと思います。私は駒場寮も立て替えは
当然として、目指すべきは和敬塾のようなあり方だったと思いま
す。1棟を女子寮にする手もあったと思います。

 ついでに、縦の関係のことで言っておきたいことは、いつからか
知りませんが、最近は大学のゼミが3年生用と4年生用とか、学年
別になっているらしいということです。ゼミというのは上級生が下
級生に教えるところに(1つの)良さがあるのだという私の考えか
ら言うと、とても残念な事態です。いつごろから、どういう理由で
こうなってしまったのでしょうか。

 高校の部活でも学年別にしている所もあると聞きました。おかし
な事だと思います。日本の学校における先輩・後輩の歪んだ関係は
改める必要があると思います。

 そもそもゼミのあり方も、文学部と法律や経済の学部とでそのシ
ステムに違いのあることは以前から指摘されてきました。私は法律
や経済のゼミのように1人の先生を中心にした閉鎖的なギルド的な
ゼミの方が、文学部のゼミのように開放的で紐帯の緩いものより好
いと思います。

 もう1つ付言しておきたいことがあります。それは地方の大学に
きて分かった事なのですが、地方の公立大学などが都市の中心から
離れた所に出来たり移ったりすると、その周りに学生用の下宿なり
アパートが建ちます。すると、寮ではないにしても、通学時間が短
いので、学生たちが夜まで残って仲間で読書会をしたり勉強会をし
たりするのに好都合だということです。

 首都圏の私立大学にいたころ、通学時間が2時間近くの学生も少
なくありませんでした。それでは学生生活の妨げになるのではない
かと思ったことでした。

教育の広場、第60号、Jリーグを応援します

2006年01月28日 | その他
教育の広場、第60号、Jリーグを応援します

(2001年11月25日発行)

 Jリーグは出来てから今年で9年くらいだと思います。ちょうど
私がS大学の講師になった年に始まったので、よく覚えています。

 最初の頃は本当にブームと言ってよい程でしたが、徐々に熱気も
薄れ、今では観客の数もかなり減ってきているようで、経営難の球
団もあるようです。

 しかしW杯の日韓共同開催も来年に迫り、トルシエ監督に率いら
れて日本代表チームも強くなり、サッカーへの理解も少しずつ本物
になってきているようです。

TOTOなどというサッカーくじも始まりましたが、これはいいこと
なのかよく分かりません。

 私は出身校の校技がサッカーだったこともあり、昔から好きでし
た。しかし、今こうしてJリーグを応援し、その発展に特別の関心
を持っているのは、これが日本社会を良い方向に変えていくのでは
ないかと思っているからです。

 それは第1にプロ野球以上に地域密着を指向していることです。
複数の特定の企業とスポンサー契約を結んではいるようですが、名
前からしてプロ野球のように企業名が表に出ておらず、地域の名と
愛称で呼ばれています。

 第2に、その地域の広がりがプロ野球ほどかたよっておらず、全
国に広がっていることです。私はこの点を評価します。東京と関西
に偏っているプロ野球と違って、Jリーグのチームは地方に散らば
っています。札幌にもJ1チームがありますし、今度はベガルタ仙
台がJ1昇格を果たしました。(J2は除くと)東北地方に始めて
のプロ球団が生まれたわけです。

 モンテディオ山形が最後の1戦でJ1昇格を逃しましたが、来年
もし山形がJ1に昇格すれば、日本海側にプロ球団が生まれるわけ
です。国土の均衡ある発展にとってとてもよい事だと思います。

 昨年はアルビレクス新潟がJ2でシーズン当初は首位を独走して
いたのに途中から後退して、日本海側のJ1チームという夢はお預
けとなりました。来年は新潟と山形がそろってJ1に昇格するとい
いと思います。

 実際、ドイツに行ってみて何がいいかというと、地方分権がいい
と思います。日本は東京1極集中がひどすぎると思います。ですか
らそれを是正する動きを応援したいと思います。

 第3にユース(高校に当たる)やジュニアユース(中学に当たる
)を擁することで、学校に任されてきた部活を地域が担う方向に向
かっていることです。今では学校の部活をしないで、Jリーグのユ
ースで部活をする高校生や中学生も出てきているようです。

 しかも第4に、その部活はサッカーだけでなく他のスポーツにつ
いてもしている所があるようです。アルビレクス新潟などはサッカ
ーだけでなく、バスケットボールのチームも持っているようです。
その他の所にもいろいろとあるのでしょう。こういう傾向が広がっ
てヨーロッパのクラブに近づいていってほしいと思います。学校は
勉強に専念するべきだと思います。

 今後の発展としては、やはり観客が増えて1試合平均2万人を越
えるようになってほしいと思います。そうすれば入場料で経費の相
当部分をまかなえるようになると思います。

 そのためにも観客席が3万人くらいのサッカー専用の球場を作っ
てほしいと思います。実際、陸上競技用のトラックで隔てられたの
とそうでないのとでは全然違います。

 又、市民が出場選手の働きを採点するような習慣も根づいてほし
いと思います。消費者としてはもっとも厳しいと言われる日本人も
こういう点ではまだまだ主権者意識が弱すぎます。公の生活につい
ては市民が成績を付けていいのです。

 日本の教育の低下の根本原因は大学教育の低下だと思いますが、
それを許している一因に「市民が大学教員の研究と教育活動につい
て成績を付けない」ということがあると思っています。

 もっとも世界的なスポーツであるサッカーを通して日本の姿を反
省し改革していきたいと思います。

 という訳で私はJリーグを応援しています。

教育の広場、第 105号、ノーベル賞授賞式に思う

2005年12月04日 | その他
教育の広場、第 105号、ノーベル賞授賞式に思う

 今年のノーベル賞は田中耕一さんが受賞者の一人となったために
わが日本では特別の大フィーバーになりました。しかし、それも12
月10日(現地時間)の授賞式でそろそろ終息に向かっていくと思い
ます。

現地での日本のマスコミの過熱取材については14日の朝日新聞に
ストックホルムに住んでいるジャーナリストのビヤネール多美子さ
んという人が苦言を呈しています。

その趣旨は、今回の取材の過剰ぶりと、他の国際問題の無視との
落差があまりにも大きいということだと思います。氏は、ストック
ホルムで1996年に開かれた「子供の性的搾取に反対する世界会議」
には世界のジャーナリストが約 500人集まったが日本からは女性記
者がたった1人、ロンドンから1人きただけだったといった例を挙
げています。

日本のマスコミの見識の無さは本当にひどいものだと思います。
今回のいわゆる拉致事件についてもそうですが、これは述べました
。今日は赤穂浪士の討ち入りの記念日ですが、そしてこの日は毎年
大々的に報じられますが、今年は特にその 300周年だそうで、一段
と大きく報道されています。

しかし、昨13日の南京大虐殺の記念日にはそれに関する報道はほ
とんどなかったと思います。1997年には60周年だということで少し
報道がありましたが、それ以外の年は無視しています。NHKラジ
オに「今日は何の日」という番組があり、毎朝2回放送しています
が、それも同じです。

しかし、今回はそれは論じません。舞踏会のことを考えたいと思
います。

ノーベル賞授賞式にはそれに続いてノーベル財団主催の晩餐会が
あり、その後には(多分、その晩餐会の一部としての)舞踏会が開
かれるそうです。その舞踏会のことを気にして「(参加を)勘弁し
てほしいです」と言っていた田中耕一さんは、その参加が義務では
ないことを知って以来「それなら踊りません」と言っていたそうで
すが、実際にも参加しないで宿舎に帰ったそうです。小柴昌俊さん
もやはり舞踏会には参加しなかったそうです。

何となく残念に思いました。小柴さんはアメリカに10年以上留学
していたそうですし、田中さんも島津製作所の英国子会社に何年か
出向していたそうです。その時にこういう舞踏会なりダンスパーテ
ィーなりの経験をしなかったのでしょうか。イギリスは社交ダンス
の本場だというのに。

その経験があれば、ノーベル賞の晩餐会の舞踏会などというもの
はうまく踊る必要はなくただ礼儀だけ守っていれば済むもののはず
ですから、それほど苦にする必要がなっかたし、楽しめたと思いま
す。そうすれば我が日本の女性田中ファンの喝采を博したと思いま
す。

少し大げさに聞こえるかもしれませんが、日本人が欧米の文化を
学ぼうとする場合、何か根本のものが落ちていて、結果だけを学ぼ
うとする傾向があるのではないでしょうか。特に顕著なのはキリス
ト教を知ろうとしないで欧米の文化を知ろうとする態度ですが、向
こうに留学してもあるいは滞在しても教会に一度も行かない人が多
いようです。

私の狭い知識によりますと、ドイツでは子供は14歳前後になると
特定の異性との交際を始めます。これは異性との交際の勉強をする
ためですが、ダンス学校に通うために相手が必要だということもあ
ります。そこで子供たちは礼儀などを学ぶのです。

日本ではダンススタジオは風俗営業法の対象になっているそうで
すが、ドイツのダンス学校は社交場のような感じです。青年も大人
もみなカップルで習いにきます。従ってレッスンは集団講習です。

 日本人のノーベル賞受賞者はこれまでも10人いたそうですが、こ
れまでの人たちは舞踏会に参加したのでしょうか。

(2002年12月14日発行)

教育の広場、第 110号、一橋大学の試み

2005年11月25日 | その他
教育の広場、第 110号、一橋大学の試み

 元旦から「大学の力」と題する連載記事を載せた朝日新聞は、今
年(2003年)は大学の問題に力を入れるのでしょうか。

 それはともかく01月05日には、一橋大学では「学生による授業評
価」の結果(通知表)を全面公開することにした、と報じていま
す。

よく読んでみますと、一橋大学では、全学部のほぼすべての授業
で、学生による5段階の授業評価を実施して、その結果を教官名を
含めて科目ごとに公開することに決めた、ということでした。

 公表とは、冊子にして学生に配ることと、図書館で閲覧できるよ
うにすることと、外部からの問い合わせにも応じるということだそ
うです。

 少し除外例もあるようです。つまり、受講生が20人以下の科目は
「教官に遠慮して率直な意見が書きにくい」と判断して外した、そ
うです。

 日大のH教授の話が載っていましたが、その内容は次の4点でし
た。。

 1、アメリカではそういう事は珍しくない。

 2、名前を出すと教官の真剣さが違ってくるからこういう方向は
自然な流れだ。

 3、学生に迎合する授業が増える可能性がある。

 4、研究には強いが講義が下手な教員もいるから、評価が低くて
も過度に反応しないように。

 私の考えたことを箇条書きにします。

 1、公生活なのだから、当然だと思います。

 2、受講生が20人以下の授業やゼミはどうするのでしょうか。専
門課程や大学院の授業はどうなのでしょうか。

 3、授業だけでなく、学長や学部長のリーダーシップも評価され
るべきではないでしょうか。学校教育というのは「校長を中心とす
る教師集団の行うもの」ということを知らないのでしょうか。

 4、その前提として、HPに次の事を載せるべきだと思います。
(1) 学長の年頭の一般教書及び時々の挨拶や所感。
 (2) 学部長についても同じ。
 (3) 教授会の詳しい報告。
 (4) 予算の詳しい数字。
 (5) 全ての教員(非常勤講師や集中講義の講師を含む)の職歴と
詳しい研究業績と詳しい兼業(アルバイト)実績。
 (6) 学長を含むすべての教員及び職員のメールアドレス。

 5、外部からの問い合わせにも応えるそうですが、HPに載せた
らどうでしょうか。

 6、本来、大学が教員を雇っているのですから、大学の側で(採
用時の契約を守っているか)評価して、不適切な教員は辞めてもら
うか配置転換するのが本当なのではないでしょうか。教員の人事と
結びつかないのでは不十分だと思います。

 7、といっても、その前に十分に話し合う場が必要だと思います
。公の場(例えばHP上で)授業のあり方について先生と生徒が話
し合えるようなのが理想ではないでしょうか。

 そして、場合によっては管理職もこの話し合いに加わるといいと
思います。この話し合いに誠意をもって参加しない教員は不適格教
員だと思います。2の問題についての私の答えはこれです。

 8、大学オンブズパーソンを制度化するべきだと思います。

 最後に、私の生徒(大学生)がかつて書いていた意見を載せま
す。

─前期の最後の授業の中で授業に対する評価を提出するのがあり
ました。選択式・匿名のものです。アンケートの内容が授業に反映
されるのは嬉しいことですが、これは対話ではなく、先生の意見の
聞けない一方的なものでした。

 昨年、浪人して予備校に通いました。そのとき講師に対する評価
をアンケートとして提出しました。予備校の講師というのは評価が
待遇に影響するそうで、講師は生徒の反応には敏感でしたが、人気
取りに気をつかわなければならないのか、授業態度を注意するのも
大変そうでした。

 一方的な評価を第三者が見て更に評価する制度というのは、この
ようにご機嫌取りを必要としてしまうのではないかと思います。

 牧野先生のアンケートのように、対話であることが本当の意味で
より良い授業のためになるのだと分かりました。昨年は「アンケー
トによる授業評価」自体を疑問に思いましたが、それが「一方的な
アンケート」に対する疑問に変わりました。─

(2003年01月27日発行)

教育の広場、第 140号、新幹線とヨーロッパの鉄道

2005年10月07日 | その他
教育の広場、第 140号、新幹線とヨーロッパの鉄道

 中国で北京と上海を結ぶ高速鉄道計画が進んでいるそうです。そ
れの受注を目指して日本の新幹線とドイツ及びフランスの超特急と
が競っているそうです。これは前々から伝えられていたことで、私
でも知っていました。

 かなり煮詰まってきたようで、9月3日付けの朝日新聞は現在の
様子と今後の見通しをまとめていました。それによると、以下のと
おりです。

 1、ドイツのリニアは経済性と信頼性で脱落したので、実質的に
上記の3つの争いである。

 2、スピードは事実上時速 300キロくらいで横一線である。

3、技術的には新幹線が優位に立っている。つまり、安全性(新
幹線は死亡事故ゼロだが、他は大事故あり)、輸送量(輸送密度な
ど)、エネルギー効率で新幹線が好い。

4、しかし、車内は欧州勢が上である。洗練されたデザイン、2
階席や展望席の眺め、旅客機並のサービス、食堂車、などである。

 結論として、「中国は各国と部分契約をし、いいとこ取りをする
のではないか」と結んでいます。

これを読んで、私も第4点に頷きました。私は1982年、1986年、
1997年と3回しかドイツに行ったことがなく、とても経験豊富とは
言えませんが、私の経験の範囲で以下のことを述べます。

初めて1982年にドイツの列車に乗ったとき、「ドイツの列車は、
不可能な事とは知りつつ、出来る限りホテルに近づけようとしてい
るな」と思いました。同時に、「日本の新幹線は人間を荷物と同じ
と考えて、ただ早く運べばいい、という考えだな」と思いました。

一番印象に残ったのはコーヒーでした。ドイツでは、紙製ではあ
りますが、ポットで出してくれるのです。そのほかにコップはもち
ろんあり、更にトレーと手拭きもあるのです。ポットには約2杯半
分のコーヒーが入っていました。

その時は食堂車には行きませんで、見ただけでしたが、どの机の
上にも可愛らしいランプがありました。狭い机の上に敢えてランプ
を置く心配り。楽しいではありませんか。

1986年の2度目はユーレイルパスでペンパルの所を回り、私とし
てはかなり動きました。これだと1等車に乗れるのですが、椅子が
前にスライドするのです。前の椅子もスライドさせると2つがくっ
ついて、ベッド代わりになるのです。私のように小さな日本人なら
ゆったり眠れます。

ホテル代を節約する時はこれを使いました。しかし、1晩同じ列
車に乗っているので、遠くまで行くことになります。そのためにパ
リを往復したこともあります。従ってフランスの超特急TGVにも
乗りました。

1番驚いたことは、コンパートメントに鍵を掛けてくれることで
した。大きなリュックを背負っていたのですが、食堂車に行きたい
と思っていました。ちょうど車掌が通り掛かりました。その旨告げ
ると、「何分で帰ってくるか」と聞かれました。40分と言うと、「
鍵を掛けて、40分後に又開けてあげる」と言われました。私は安心
して食堂車に行き、40分後に帰ってきました。車掌が丁度やってき
ました。

ヨーロッパは残念ながら治安が悪化しているようで、列車の中で
盗難に遇った方もあると思います。私もドイツでは郵便局員に金を
盗まれるという日本では考えられない嫌な経験もしました。

ですから、ヨーロッパやドイツが全ての点で好いとは思っていま
せん。しかし、鉄道旅行の「豊かさ」という点では、日本よりはる
かに上だと思います。そして、これは生活の豊かさということを第
一に考える人々が作った成果だと思います。

(2003年09月17日発行)


教育の広場、第 163号、加藤周一さんの限界

2005年09月08日 | その他
教育の広場、第 163号、加藤周一さんの限界
      
 朝日新聞の夕刊に月に1回くらいのペースで加藤周一さんの
「夕陽妄語」というコラムが載ります。私には読みにくいもの
で、たいてい途中で止めてしまいます。しかし、〔2004年〕03
月16日付けの「『オウム』と科学技術者」と題する文章は珍し
く最後まで読めました。

かつて地下鉄サリン事件が起きてそれがオウム真理教の犯罪
だと分かり、更にその他の様々な犯罪もオウムのものだと分か
った時、「このような犯罪を理科系の高等教育を受けた人がな
ぜするのか」と不思議に思う意見が多かったのに対して、加藤
さんは「なぜ不思議なのか」と反問します。

 この考えを批判するために、加藤さんはこの考えを一般化し
ます。それは、医者などの専門家にその専門領域以外の事柄に
ついても、その人達の「高学歴」が一般の市民以上の判断能力
を保証するだろうと考えることだ、とします。

 そして、このように考えれば、全体としては気違いじみた計
画や目的のために高等教育を受けた科学者たちが協力すること
はいくらでもあるとして、次の例を挙げます。

 東アジア全域への国家神道の強制、ヨーロッパ全土からのユ
ダヤ人の一掃、全知全能とされる独裁者の下での一国社会主義
の建設、そしていくら探しても見つからぬ大量破壊兵器の脅威
を除くためのイラク討伐等々。

 これらの「狂気」には多数の傑出した科学者や技術者が含ま
れていた。だから、科学技術者と集団的狂気とは、「オウム」
の場合にかぎらず、必ずしも相互に不適合とはいえない、と言
います。

 「集団」の側は、自分の目的の正当化のために歴史家や社会
科学者を、それの実行のためには技術者を必要とするし、科学
技術者の側では、専門領域では合理的実証的な思考をしていて
も、専門外の事では合理的な立場から批判することができない
、というわけです。

 ではどうすればこういった事の再発を防げるか。加藤さんの
答えは次の通りです。「合理性の個室と非合理な信念の個室と
の障壁を取り払えばよい。そのためには科学的個室で養われた
合理的思考を、いつどこでも徹底的に貫くほかないだろう」。

 私は加藤さんの問題提起には興味を持ちましたが、答えには
がっかりしました。それを詳しく述べましょう。

 オウムについて人々の疑問とした事をこのように一般化した
ことは優れた着眼だと思います。私もこういった事はこれまで
論じてきましたが、それは、部分的事実と全体的真実(あるい
は虚偽)の関係と言うことができます。部分的事実は必ずしも
全体的真実と結びつかないのです。

 又、偽善の問題でもあると思います。偽善というのは言行不
一致と理解されることが多いようですが、そうではなく、「大
きな悪を隠すための小さな善」のことだと思います。この点に
ついては、HP「ヘーゲル哲学辞典」の偽善の項を見てくださ
い。エルヴェシウスの言葉を引いてあります。

 もう少し小さな事で言いますと、精神分析学者(だと思う)
の岸田秀さんは「部分精神病」というのを指摘しています。

・・精神病の一種に部分精神病というか部分妄想狂というか、
ある一点だけが狂っていて他の点ではすべて正常というのがあ
る。たとえば、自分は天皇の落胤だという誇大妄想をもってい
て、誰が何と言おうが頑として受け付けず、いささかも確信は
ゆるがないが、世間の常識とか社会人としての義務とか礼儀作
法とか、その他の点はまったく正常で、したがって社会生活を
営む上では差し支えのない人というのがいるが、一時代前の西
欧の一部の理論家はこの種の精神病だったのではないかと思わ
れる。

 L・ボルクにしても、人類の進化を猿の胎児化現象として説
明するとき、なるほどと思わせる具体的な証拠をいろいろ挙げ
、実に明晰に緻密な論理を展開するのだが、その進化の過程で
白人は黒人より上の段階にあると言い始めると、とたんに判断
力に霧がかかったかのようになり、明々白々な反証が目に入ら
ず、論理の飛躍に気がつかないらしいのである。(『性的唯幻
論序説』文春新書)・・

 私の考えでは、これと同じように、「一時的精神病」もある
のではないかと思います。「自分はなぜあの時あんなバカな事
をしてしまったのか」と後悔した経験は多くの人が持っている
のではないでしょうか。

 このように、部分と全体の関係でも、或る分野と他の分野と
の関係でも、人間は必ずしもそれほど首尾一貫しておらず、十
分に整合的ではないのだと思います。ではどうしたら好いので
しょうか。

 この難問に対して加藤さんは実に「科学的個室で養われた合
理的思考を、いつどこでも徹底的に貫け」と教えてくれるので
す。これで答えになっているでしょうか。

 これが言われただけで簡単に出来るくらいなら間違いは起こ
らないと思います。自分の専門とする「科学的個室」で養われ
た合理的思考でも、専門外の領域で貫くことは難しいからこそ
、間違いが起きているのではないでしょうか。

 これはいわゆる「専門バカ」の問題だと思います。私はこれ
を人生における「幅と深さ」の問題として捉えます。人間は誰
でも一方で沢山の事を知りたい経験したいという思いと、他方
で一つの事を深く掘り下げたいという気持ちとを持っていて、
その矛盾に悩むと思います。

 特に青年時代にはそうですが、限りある人生でこの2つを両
立させることはとても難しいことだからだと思います。それは
、多分不可能ではないかとさえ思われるからです。

 加藤さんの答えを読んで、「この人は本当にこの問題で悩ん
だことがあるのかな」「専門外の事でしったかぶったために間
違えた経験はないのかな」と思いました。

 私は加藤さんという人をほとんど知りませんが、知っている
範囲で実例を挙げましょう。ドイツ文化協会では数年前からレ
ッシング翻訳賞というのを始めました。その第1回には長谷川
宏さんの訳したヘーゲル「精神現象学」(作品社)が選ばれま
した。その発表を新聞記事で読んだすぐ後、私は、その選考委
員の一人が加藤周一さんだったということを知って驚いたこと
を覚えています。

 加藤さんはあの長谷川さんの翻訳を自分できちんと読んだ上
で本当にレッシングの名を冠した翻訳賞に相応しいと「合理的
に」判断したのでしょうか。しかも、その後も自分の判断は正
しかったと思っているのでしょうか。

 実際にあの翻訳を読んだ人達の間では、「長谷川さんの訳で
は分からない」という声が多数聞かれることを知っているので
しょうか。又、何人かの哲学教授からは詳細な批判が発表され
ているのを知っているのでしょうか。

 もう1つ別の実例を挙げましょう。部分と全体の関係という
ならば、加藤さんは自分が朝日新聞に寄稿していることをどう
思っているのでしょうか。朝日新聞は今では創価学会批判をほ
とんど載せなくなりました。逆に、創価学会系の雑誌や本の広
告を沢山載せています。

 こういう新聞に定期的に評論を載せることは、その評論が「
合理的思考」だとしても、新聞全体の「狂気」を覆い隠すこと
にならないのでしょうか。加藤さんは朝日新聞のこの偏向を批
判したことがあるのでしょうか。

 私はこの「部分と全体の問題」はとても難しい問題だと思い
ます。だから加藤さんが朝日新聞に寄稿するのを一概に悪いと
は思いません。私自身、朝日新聞を定期購読しています。

 NHKについても、特にイラクへの自衛隊の派遣に関しては
、それを宣伝する役割の方が強くなっていると思います。しか
し、だからといって、NHKの多くの良心的な番組が多くの視
聴者に歓迎されていることも事実です。

 何だかまとまらない文章になりかけましたが、私の言いたい
ことは、加藤さんの今回の文章を読んで、特にその結論部分を
読んで、思想家であるための条件というものを考えたというこ
とです。

 第1に、自分の経験を踏まえた考えを言わなければならない
のではないか、ということです。

 第2に、火中の栗を拾わなければならないのではないか、と
いうことです。

 たしかに加藤さんは、アメリカの今回のイラク侵略について
触れていますが、火中の栗を拾うと言うならば、将棋の名人を
1期つとめた人が引退後、教育委員になって君が代・日の丸の
押しつけに狂奔しているといったことに触れるべきではないか
と思うのです。

 私は、この意味でサルトルは本当に思想家だったと思いま
す。彼は共産党に対する自分の態度でも、スターリンの問題で
も、ベトナム戦争の問題でも、進んで火中の栗を拾ったと思い
ます。

   (2004年03月24日発行)

教育の広場、第 173号、モハマド君の手術

2005年08月30日 | その他
        
 昨年(2003年)末、イラクのファルージャでの戦闘に巻き込
まれて左目に重傷を負った10歳の少年モハマド君(サレハ君、
と言う新聞もあります)の目の手術を日本でしてあげようとい
う努力が、大きな運動になりました。

その基金には1週間で1000万円以上の寄付が集まりました。
幸い日本に呼ぶことに成功し、手術も成功したそうです。

 これを始めた橋田信介さんがイラクで銃撃されて、甥の小川
功太郎さんと共に亡くなったという悲劇が加わって、一時はモ
ハマド君の居場所も分からなくなったりしたので、一層国民の
関心を引いたのだと思います。

 一段落した所で感想をまとめます。

 第1に、今回の特徴として確認するべきことは、橋田さんた
ちの銃撃・死亡事件に関して、その家族への悪罵がなかった(
らしい)ことです。これは、前回の3人のイラク支援ボランテ
ィアの人達の拘束事件の時や、先日の小泉首相の再度の訪朝の
時の拉致被害者家族への(少なくない国民の心ない)態度と比
較して大きな違いです。

これは、多分、橋田さんや小川さんの家族が政府批判をしな
かったからだと思います。逆に言うと、日本では政府批判は勇
気がいるということでしょう。民主主義国家の現状として大問
題だと思います。

第2に、モハマド君以外にも「日本に呼んで治療をしてあげ
ても好い人(子供に限っても好い)」がイラクには沢山いるの
ではないか、ということを考えたいと思います。それなのに、
そういう事はあまり意識されないように報道されていたと思い
ます。これも問題だと思います。

第3に、それどころか、そもそもなぜそういう罪なき人々が
沢山傷つくのか、という更に根本的な問題は全然論じられなか
ったと思います。それは分かっていた事なのかもしれません。
しかし、或る事柄を論じる時には絶対に結び付けて考えなけれ
ばならない事柄というものがあると思います。これを避けてい
ては、本当に考えた事にならないと思います。

第4に、全然論じられなかった事として、更に、日本政府の
「イラク復興人道支援」との関係をどう考えるのか、という問
題があります。イラクに派遣されている自衛隊員は通常の給与
のほかに「危険地勤務手当て」として1日3万円支給されてい
るとか聞いています。 300人以上派遣されているのですから、
それだけで1日1000万円以上、国庫から支出していることにな
ります。

このお金を自衛隊の派遣という形ではなく、別の形で使った
ら、一層大きく「イラク人道復興支援」の実をあげることがで
きるのではないでしょうか。こういう事は考えなくて好いので
しょうか。

第5に、以上の事を考えますと、モハマド君への国民の熱い
思いは、その反面に、こういう根本問題を避けて、何か好い事
をしていると思い込みたいという願望があるのではないか、と
いう推測を生みます。少なくとも、嫌な事の続く日々の中に一
服の清涼剤がほしいという願望があるのではないでしょうか。

こういう気持ちも分からないではありません。しかし、清涼
剤は清涼剤であって、本当に涼しくするものではないと思いま
す。

イラクへの米軍の侵攻についてアメリカを強く支持してきた
国々の中でも、スペインでは昨年の秋の列車爆破テロをきっか
けにして政権が交代しました。イギリスでも先日の地方選挙で
与党が歴史的な大敗を喫しました。来年の総選挙では政権交代
があるのではないかと言われる事態になっています。

それなのに我が日本では相変わらず小泉「はぐらかし」内閣
の支持率が50%を越えているのです。年金制度の改革では支持
を失っていますが、「イラク人道復興支援」とやらへの支持は
変わっていません。

第6に、モハマド君のための基金はその後も増えつづけたこ
とでしょうから、多分、1000万円を遙に越える寄付が集まった
ことと思います。その内のいくらをモハマド君のために使った
のでしょうか。残りはどう使うつもりなのでしょうか。

あと何人かのイラク人少年少女を日本に呼んで治療してあげ
ることに使ってもいいと思います。あるいは、イラク国内に適
当な治療施設を作ってあげるのもいい案だと思います。あるい
は、アフガニスタン援助を続けているアフガニスタン人の医師
(たしか磐田市近郊で開業している)を応援しても好いと思い
ます。

こういう基金については報告をした方が好いと思います(ど
こかでしているのかもしれません)。

 (2004年06月16日発行)

教育の広場、第 175号 要注意高校リスト

2005年08月06日 | その他
写真週刊誌「フライデー」の2004年06月18日発行の号が「要
注意高校リスト」として高校の実名を掲載したそうです。これ
に対して東京都が発行元の講談社に抗議したそうです。

このリストは、大型量販店が社員の採用にあたっての資料と
して作成したものだとされています。そして、偏差値が49以下
とされた東京都内と神奈川県内の高校名を挙げたそうです。

06月22日付けの朝日新聞に小さな記事として載っていまし
た。

これを読んで考えた事を書きます。

第1に、このような表は事実上、ほかの会社にもあるのでは
なかろうか、と考えました。表になっていなくても、人事担当
者の頭の中にはあるのではないでしょうか。これ自体悪い事な
のでしょうか。たとえ悪いとしても、頭の中まで禁止はできな
いでしょう。

私は某市の看護学校で哲学を教えていた時期がありました
が、出身高校によって生徒にある程度の特色があると思いまし
た。もちろんだからといって、出身高校で個人を評価してよい
ということにはならないと思います。しかし、高校の評価を考
える時には役立つのではないでしょうか。

第2に、根本的にはこういう評価なり判断をしたり発表した
りする場合は、学校(校長)や教員に向上してほしいという気
持ちをもって、その目的にとって適当な仕方で言ったり発表し
たりするべきだと思います。

人間はとかく「他人(ひと)を裁く」気持ちになりがちで
す。ですから聖書にも「人を裁くな、汝が裁かれざらんがため
に」と言っているのではないでしょうか。なかなか難しい事で
すが、相手に向上してほしいという気持ちで、相手と話し合う
ような態度で、「ここは違うのではないでしょうか」と、発言
できるようになりたいものです。

第3に、世間をみてみますと、このような評価は、病院とか
医師とかについてはかなりなされ、本や雑誌に発表されていま
すが、学校や教師については、ゼロではありませんが、あまり
にも少ないのではないでしょうか。

かなり前ですが、「学問の鉄人」とかいう本を見たことがあ
ります。同じ分野を専攻している教授たちにその分野での「鉄
人」を推薦してもらって、それをまとめたものだったと思いま
す。

私は次のような事をすると好いと思います。それは、1つ1
つの学校なり大学なりのホームページについて、必要な情報が
検索しやすく公開されているか、という観点で評価し、又発表
されている内容についての意見を相手に伝えるということで
す。独自のHPを作ってそれを載せるのです。

その中ではぜひ個々の教員の業績や授業についての評価や意
見も載せるべきだと思います。掲示板みたいにして、公の場で
本人も交えて議論できると好いと思います。

もちろん、悪い点については事前に本人に伝えて、改善を約
束した場合は載せないが、返事がないとか反論してきた場合は
載せるとかいった、いくつかのルールを決めておく必要がある
と思います。

そういう細かい点はともかく、要するに学校や大学について
は、市民による自由な評価・批評が公開の場でなされることが
少なすぎると思います。そして、これは日本の民主主義か未熟
なことの1つの現れだと思います。

私はこの4月から地域の自治会長をして、小学校と中学校の
後援会とかに出たり、校長と話したりしましたが、聞くだけで
実行する気はないのだなと思いました。住民の意見など全然力
になりません。ですから、やはりこういうHPでも作って、議
論をし、返事をしなかったり改善しない人や学校(校長)につ
いては実名を挙げて意見を言うのが好いと思います。

本当は、こういうHPは学校だけでなく、全ての役所とか特
殊法人とかについても必要だと思います。「特殊法人監視機
構」とかいうHPもあるようです。

オンブズ活動がもっと盛んになり、全ての公務についてこう
いうHPを作るところまで日本人は成長しなければならない、
と思います。

(2004年06月30発行)