ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

「天タマ」第18号

2006年09月30日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第18号(1999年10月04日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2回目のテーマは「先生と生徒は対等か」でした。ヒントの中の
「何が対等で何が対等でないか」が十分に考えられなかったようで
す。また、「対等」という言葉には、(1) 本来は対等である、とい
う意味と、(2) 現実に対等になっている、という意味と、2つの意
味がありますが、この両者を区別できなかった人もいるようです。
しかし、皆さん熱心に考えていました。

Aさんのレポートを紹介します。

──先生と生徒は対等かというと、理想としては対等であるべきだ
と思います。もちろん教える人・教えられる人としては対等ではな
いけど、人間としては対等であると思います。対等でなければ良い
授業は出来ないと思います。小中学校の事を思い出して、先生のイ
メージというと「こわい」ということが浮かんできます。今では考
えられないけど、あの頃は先生が平気で生徒をなぐったりして言う
ことを聞かせていて、先生の言う事に納得して従うのではなかった
ように思います。

 「先生」は確かに私たちより多くの知識を持ち、経験をつんでい
て、多くの先生はすごく尊敬の出来る人です。しかし先生の言う事
はすべて正しいと思ってしまうのは危険だし、学びながらも自分で
考えていくことが大切だと思います。先生がいつも上から見下すよ
うな態度だったら良い人間関係は作れないと思います。これは先生
と生徒の関係だけでなく、親子、友人関係でもそうだと思います。
やはり授業も対話といっしょで、相互作用が大切だと思います。

 だけど対等であるとしても、もちろん必要最低限、言葉使いや態
度は気をつけるべきだと思います。平等であっても友人と同じでは
ない事を勘違いしないようにしたいと思います。本校の先生は学生
の意見をよく聞いて下さる先生達ばかりなので、高校の時と違って
面白い授業が多いです。

 ★ これを「人格としては平等、権限としては不平等」とまとめ
ることにしましょう。

 第1点から「先生も生徒も互いに相手の人格を傷つけるような言
動をしてはならない」ということが出てきます。これが守られてい
ない場合があるのは残念です。

 第2点は「能力や理解力の不平等」から出てきます。しかし、こ
れは少し微妙で、スポーツや一部の芸術では、現役生徒の方が既に
現役を引退したコーチより能力が上である場合もあります。しかし
、経験や考え方などでコーチから学ぶものがあるのです。

 それと同時に第2点で大切なのは、生徒の方が先生を「自分の先
生」と思い、尊敬して従う気持ちになれることだと思います。しか
るに、学校では、多くの場合、先生が学校によって決められてしま
って、生徒に選択の自由がなく、尊敬できない場合があります。

   先生と生徒の対等を考えるその他の観点について

──先生と生徒の意見が違ったからと言って、議論をする必要はな
いだろう。議論をして、どっちが正しいかということを決定するの
ではなく、先生が意見を聞き入れ、考える余地を持ってくれればよ
いのだ。そうすることで、授業にも反映され、よりよい授業を作っ
ていくことができていくのではないだろうか。

──先生と生徒の意見が違った時、両者は議論すべきかというと、
私は、議論すべきであると思う。最終的な決定権は先生が持ってい
ると思うけれど、議論することで先生にも生徒がどういう意見を持
っているかが分かるから、議論すべきだと思う。こういう時、司会
をするのは先生でなくて、生徒がやった方が、生徒の意見を尊重で
きるし、先生と生徒が中立的な立場にいられるので、良いと思う。

──教壇は先生が生徒を見やすいようにある、と今まで思っていた
。しかし、先生が生徒より上であるということを示してもいるのか
、と感じました。対等ではないから一段上にいて当然なのだけれど
、先生は生徒より上であることをより一層生徒に植えつけているよ
うな気がする。

──先生は一番高い所で生徒が低い所にいるということはいちがい
には言えないと思う。大学は階段教室になっている所もある。そう
すると生徒の方が高くなる。

          先生の思い出

──私は高校時代の部活の顧問の先生を今でも心から尊敬している
。毎日毎日、怒られては泣きながら練習をしていた。しかし、どん
なに厳しくても、先生はいつも励ましつづけてくれた。先生を信じ
ていれば絶対に勝てる、と本当に信用していた。私が悩んでいる時
には、「試練は克服出来る者にだけ与えられる」という言葉をプレ
ゼントしてくれた。今、つらいことは乗り越えるためにあるのだと
、とても勇気づけられたてのをよく覚えている。先生と生徒の関係
。あたらめて考えてみると難しかったが、私にとって先生とは大切
な何かを教えてくれるかけがえのない人である。

          その他

──私は今、看護学生という生活がとても充実している。しかし東
京の大学に行っている友人はつまらないと言うことが多い。和敬塾
にいた大学生はとても楽しそうだったのに、どうしてこのような差
が生まれてしまうのか、疑問に思った。

 ★ 私は、和敬塾はそこの学生にとって第2のサークルなのだと
思いました。つまり、サークル活動が充実しているのです。授業が
つまらないという1年生の訴えに、4年生は「授業を面白いと思っ
ている学生が何人いるか」と答えていました。しかし、本当の学生
生活の中心は勉強を軸にした先生及び仲間との関係だと思います。
本校の皆さんは、これが充実しているのだと思います。ですから充
実といっても和敬塾の学生の充実と皆さんの充実は違うのではない
でしょうか。

──集団生活に憧れる部分がある。スポーツをやっていた時、夏休
みに3泊4日で合宿した経験がある。練習じたいは毎日とてもつら
くて逃げ出したいほどだったが、宿に戻ってみんなでワイワイ遊ん
だり、悩みを相談しあって夜遅くまで過ごすのはとても楽しかった
。今はもうそういう機会もなくなってきてしまっているし、寮とい
うのもあまり見かけない。集団生活もいい所ばかりではないと思う
が、学生のうちにしか経験できない貴重なものでもある。

──「哲学」と聞いて固いイメージを持っていました。でも、予想
に反して、今までみんなが一度は考えたことのあることや、日常に
していることについてしっかり考えるものであって、考えれば考え
るほど深いものだと思いました。

──カンファレンスでは、今まで自分たちの話題のテーマにならな
いようなことで話し合うことで、いろいろな人の意見を聞くことが
できていい。

──先生はなぜ哲学を学ぼうと思われたのですか。又、先生はご自
身でどう生き、どう人生の最終を迎えようと思っていらっしゃるの
ですか。私は「自分らしくある」をポリシーにしていて、それは時
代や背景の中で少しずつ変化していくものです。私はそのあいまい
さも又自分が自分であるために必要なものだと考えているのです
が。

 ★ 人間は自分を突き動かしている根本の衝動みたいなものを完
全に自覚しているとは限らないと思います。それは不可能かもしれ
ません。しかし、後から振り返ってみると、客観的にはその人を根
本で動かしているものがあるようにも思えます。

 自己認識としては、感情的な態度が嫌いだったということがある
と思います。一番覚えていることは、社会問題などで、とても感情
的になって自説を主張した多くの人々です。高校時代、「数学みた
いに、社会生活の分野でも理論的に解決できるといいな」と思った
ことを覚えています。私自身が感情的になったこともあります。

 真理が貫徹する真なる方法は何か、これがテーマかな。人間の心
の中には天使と悪魔の両方が住んでいます。問題はその割合をどう
見るかです。昔は9対1くらいに考えていて失敗しました。今は半
々に考えて警戒するようにします。すると、悪魔も活動しにくくな
るようです。教科通信とか書き言葉を使った対話はとても有効だと
思っています。

 ターミナルのことは余り考えていない、と言うより、考えられま
せん。仕事が残っています。あと10年頑張って、社会的責任を果た
してから死にたいです。
 今日は第2回のテーマを更に深めることにしましょう。

 「先生と生徒は対等か」というテーマを深めるための事例研究

 「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるも
のだから、それをなるべく理性的に解決するためには苦情処理のシ
ステムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の、
或る学校での或る生徒のレポートです。

──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人に
は言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接の
とき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心
は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。

 でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎ
て、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー
、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?
」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと
付いていけないわよ」と、言われてしまいました。

 確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いてい
るのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思
うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対
に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよか
った、と思いました。

 この事例を分析して考えて下さい。考えるべき点は次の通り。

 (1) この話し合いは公正に行われて正当な結論に達したと言える
でしょうか。
(2) イエスと思う人も、ノーと思う人も、そう判断する根拠を挙
げて下さい。
(3) この話し合いが不公正だったとしたら、誰にその責任がある
でしょうか。

 参考にして欲しいものは、第1に、「授業要綱」の次の言葉です
。「この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談
して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に
改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。」

 講師はなぜ不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分け
たのでしょうか。このように分けることが本当に正しいか、正しい
とするならなぜ正しいのでしょうか。

 第2に、『囲炉裏端』の「司会者の立場と討論者の立場」(87頁
)及び「ある体罰反対運動の民主主義」( 129頁)を読んでくださ
い。

第3に、次の諸点です。国会などで議長不信任動議を審議する時
、なぜ議長の任務を副議長にゆずるのか。議長と副議長はなぜ党籍
を離脱するのか。学校への入学の申込書はなぜ「願書」と言うの
か。

なお、授業のこと、対話のこと、先生と生徒は対等かという問題
について、家族とか友人とその後話し合った人はいませんか。あり
ましたら、それも報告してください。


「天タマ」第17号

2006年09月29日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第17号(1999年10月04日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 第1回のテーマは対話でした。なるべく多くの意見を紹介しまし
ょう。

 「対話の基礎は親子の対話にある」という講師の考えについて

──先生のような決まりきっていない授業はいいと思います。トイ
レは自由に行ってよいとか、授業の途中に休憩を入れるとか、集中
できるやり方で、今までの授業とちがい、新鮮です。

 あと、教科通信とか、クラス内での交流っぽいものは、小学生の
時にやっていたクラスで出していた新聞を思い出しました。あと、
それを家族に見せたりするのも、いまではやらなくなって、小学校
や中学の頃、よく母に学校であったことをいろいろと話していたな
と、久しぶりに見せたりしたいなと思いました。私も先生の「基礎
は家族の対話」というのにとても共感できます。家族というのはお
互いにすごい影響を受けるものだと思います。

──グループの1人の子が「親とうまく会話していない人がいるけ
ど、回りの人との対応はうまくやっているよ」と言っていました。
きっとその人は親との対話の中で、ダメな部分、良い部分を見つけ
て、まわりの人とは良い対話をしている人なんだなと思いました。

──先生の考えには同意しかねる。我が家は共働きであり、子供の
時はずっと祖母の家で1日を過ごしていたし、仕事も忙しかったの
で、兄弟や友人と過ごすことが多く、親子の甘えの関係ではなく、
それぞれ違う人々と関わる事で自分も学んだ事が多かったので、そ
うとは言い切れない事もあるのでは、と思う。

        いろいろな対話経験

──私はよく小さい頃から父に怒られるときは必ず正座させられ、
「人生とはなぁ~」と、訳の分からない話を聞かされました。その
時はまだ幼く、その父親の怒った顔が怖くて、ただ意味も理解でき
ずに聞いていた。だんだん大きくなるにつれて、父親の言っていた
こと、それをなぜ言ったのか、分かってきた気がする。今はゆっく
りと父親と話す機会がなくなったので、今度ゆっくり話したいと思
う。

──高校3年の時に体育の授業で逆立ち40秒というのをやって、
1人でも途中で倒れたら又皆でやり直し、という過酷な事をした。
私は逆立ちが苦手だったので、30を過ぎた所で倒れてしまった。
結局やり直しはなかったけど、泣いてしまい、次の時間もずっと保
健室。

 放課後になって、部活の先生の所へ行って「休みたい」と言った
ら、「どうした?」と聞かれ、また泣いてしまった。そしたら別の
部屋に連れていかれて、その先生は私の担任でもあったので、いろ
いろと聞いてくれたし、アドバイスもしてくれた。仕事が忙しいの
に、親身になって聞いてもらえてうれしかった。

──病院実習の時、必ずグループと指導教員とカンファレンスを行
い、困っていること、今日の反省などを話し合う。その時、実に中
身のある対話が出来ているように思う。1つの話題について皆が口
々に自分の意見や、自分ならこうするだろう、こうしたらいいので
はと、さまざまな意見が出される。対話というのはこのように一人
で成り立っているのではなく、どの人も平等に意見が言えることに
あるのではないか。

──私が「対話」と聞いて思い出すことは友達との対話です。高校
時代に仲良くしていた友達で、その人とは何でも話せる仲でした。
それ故に衝突することも多く、毎日のように大ゲンカをしてしまう
んだけど、おかしな事にケンカをすればする程仲良くなっているこ
とに気づきました。

 2人とも言いたい事を全て言える仲なので、最近は「会いすぎる
といけない」と分かり、間隔を空けて会っています。対話すればケ
ンカや衝突があるんだけれど、分かっていても対話してしまいたく
なる私達ってどんな関係だろうと思います。

        和敬塾のビデオを見て

──初めて和敬塾の存在を知った。一般の寮と違うところは行事が
あるということだろう。私はたまに「男に生まれたかった」と言う
。それは、和敬塾の生徒たちのように、男の人には「一致団結」と
か、「青春」とか、憧れるものがあるからだ。女には群れのような
ものがあって、別にうっとうしいと思っていないけれど、男のよう
な分け隔てない関係を羨ましく思う。

──私が一番印象に残っている映像は自己紹介である。よく高校の
応援団員が発するような声で寮全部の先輩たちにあいさつをする。
なかなかの大仕事だなあと思った。あいさつをするだけでなく、お
互い自己紹介してから、相手のことをもっとよく知るために話し合
う場面があった。いろんな考え方を知ることが出来、世界が広がっ
て、羨ましいと思った。

 ★ なぜああいう自己紹介の仕方をするのでしょうか。少し考え
てみました。照れ隠しなのではないかと思いました。初対面では誰
でも「照れ」を感じます。相手がどういう人か分からないので、ど
う振る舞っていいのか分かりません。そこで、少しずつというのと
反対の「大声を出す」という方法で一気に打開するのではないでし
ょうか。

 Jさんはこういう経験を紹介してくれています。「私は小学校3
年の時からガールスカウトに入っているが、県合同キャンプに行っ
た時のこと、テントに入ると知らない人が5人もいた。初めとまど
い、みんな沈黙だった。ご飯の時も沈黙であった。全然楽しくなか
った。しかし、1人の子が沈黙を破ってしゃべった瞬間にみんなし
ゃべり出した。みんなしゃべりたいという気持ちは同じだったのだ
」。

 ガールスカウトのようなしっかりした歴史のある団体にしては少
し不思議ですが、ともかく、ここではこの初対面の照れをどう解決
するかについて、自分たちのやり方が確立していなかったのです。


 私も新しいクラスを受け持った時、最初の授業をどう切り出し、
どう持っていくか、困りました。90分全部を使って、「大学で勉強
するとはどういうことか」と熱弁を振るったこともあります。ドイ
ツ語の授業では何の前置きもなく、「後に付いて発音して下さい」
とだけ言って、音読の練習を始め、それを90分続けて学生を驚かせ
たこともあります。本校でもいろいろありました。

 それらの経験をへて、今のような始め方にしました。生徒は「ど
んな先生かな」とか、「どういう授業かな」と思い、場合によって
は「一体、どこに連れていかれるのだろう」と思っているのです。
この不安にちきんと答えるのが一番好いと思うようになりました。
それは自分の授業の全体を自分で見渡すことにもなって、結局授業
の改善に役立っているようです。

 皆さんも、各々の先生が最初の授業をどう組み立てるか、考えて
みませんか。そして、どうしてそういうやり方をするのだろうか、
この哲学の授業の始め方と比べてどうだろうか、と考え進んでみて
下さい。するとこれがもう哲学になっているのです。筋道をつけて
考えているのですから。

        哲学の授業を受けてみて

──このような授業の型は初めてだったので少し驚いたが、受け身
の授業ではないので、眠くならなくて、いいと思う。

──授業要綱について先生が解説していくのを聞いていて、「努力
する」という言葉はいいなあと思った。努力して出た結果なら、た
とえそれが自分にとってよくないことだったとしても納得がいくよ
うな気がした。

    お願い

・濃い目の字(鉛筆なら2B以上)で書いて下さい。薄い字はとて
も読みにくく、疲れます。昔、中学の時、或る先生が「鉛筆の字は
電灯が反射して読みにくい」と言っていたのを実感します。私のお
勧めは「ボールペンテル」です。

・大き目の字で、行間を空けて書いて下さい。

・番号を必ず入れて下さい。


「天タマ」第16号

2006年09月28日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第16号(1999年 9月27日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 まず、「授業要綱」として、こういう授業を目指しますというこ
とをお話します。

1、哲学とは筋道をつけて考えることとする。従って、その練習を
し、各自が自分の考え を自分にはっきりさせ、発展させることを
目的とする。

テーマとしては、人間の相互理解ということにしたい。しかし、
実際は成り行きを尊 重して、テーマにはこだわらず対話と反省を
深めることを優先したい。
2、授業の方法
 (1) 与えられた資料を手掛かりにし、また講師の意見を聞いたり
して考え、カンファレンスをして、自分の考えをレポートにまとめ
る。

 (2) レポートを書く時の注意
   メモをとって3分は考えてから書く。
   日付を入れる。
   「その他」としてテーマとは無関係な事、私生活上のことと
か、授業の感想とかを書いてよい。書いて欲しい。
  「教科通信」に載せられては困ることは、その旨記すように。
匿名希望も可。

 (3) 講師は「教科通信」を発行して、考えを深めるのに役立てる
ように努力する。

 (4) 「教科通信」を家族にみせたり、授業の事を家族に話したり
することを歓迎する。家族の意見をレポートで報告するのも大いに
歓迎する。
   個人の対話体験の基礎は家族との対話、特に親子の対話にあ
ると思う。

 (5) ディベートの練習も出来たらしたい。

 (6) 講師はレポートには感想を書いて返すように努力する。

(7) レポートは学校の原稿用紙に書くのを原則とする。
   授業中はメモ用紙に書き、後で原稿用紙やワープロで清書す
るのもよし、始めから原稿用紙に書いてもよし。それを、学期末に
まとめて綴じて文集にする。
   文集は同じものを2部作り、2部共提出する。講師は1部を
自分に取り、1部に成績の根拠を書いて返すように努力する。

 (8) 授業中、適当な時に「休憩」を入れるように努力する。
   たいてい、授業と無関係なものを読んだり、ビデオを見たり
する。

 (9) 配付する資料等は A4 に統一するので A4 のファイルを用意
して欲しい。

 (10)授業中、気持ち悪くなったり、トイレ等の用のある人は、黙
って出ていくこと(断らなくてよい)。

 (11)当番の人は始業15分前には来てほしい。

 (12)教科書『囲炉裏端』は「筋道をつけて考える」ことの参考書
とみなす。

3、哲学の授業に臨む態度ないし心構えについて
 (1) 自分の言いたい事を全部分かりやすく言うように努力する。

 (2) 相手の言う事を最後まで聞くように努力する。

 (3) 感情的にならないように努力する。根拠をあげて客観的に冷
静に意見を言う。

(4) 講師は先を急がないようにする。生徒のレポートなどで問題
に気づいたとき、自分の意見を言う前に、生徒に問題を提起して考
えてもらうように努力する。

4、授業のあり方の反省
  この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談
して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に
改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。

 (1) レポートの際、いつでも、「その他」として、授業の感想・
提案を書いてよい。

 (2) 講師の作ったアンケート「より良い授業のために」を2回取
る予定。

 (3) 学生が企画・実行する「アンケート」も1~2回行う予定。

 (4) この「授業要綱」にあることにはつねに意見を出せる。従っ
て変更もありうる。但し、最後的決定権は講師にある。

 (5) Eメールで意見を下さっても結構です。
ホームページ「哲学の広場」も開いています。

5、成績
 (1) 生徒に相応しくない態度は、1回でC、2回でD、または酷
い場合には1回でDとする。(感情的な態度、私語と内職、規律を
乱す行為、等)

 (2) 受講態度に問題がない場合は、レポートの内容によってSA
BCDをつける。
   その観点──独創性、考察の広さと正確さ、文章のまとまり
と分かりやすさ、等。特に独創性を評価する。

 (3) 成績の根拠を生徒に伝えるものとする。
   異義申し立ては1回だけ聞くものとする。最後の決定権は講
師にある。

6、希望
 内容のある楽しい授業にしたい。


      第1回の授業のテーマ

 対話の思い出、実りある対話の条件は何か、「対話の基礎は親子
の対話にあり」という講師の考えをどう思うか、その他

        講師の自己紹介

 皆さん、初めまして。足掛け4ヵ月の授業ですが、「哲学」とい
う訳の分からない看板の下で何か怪しげな事をしていきましょう。
私も今年で5年目になりますので、この学校でも「仏の牧野」とい
う評判が定着してきたようです。評判を裏切らないようにやって行
きたいものです。

 東京に生まれ育ちましたが、引佐の山の中に引っ越して、イノシ
シと一緒に暮らしています。お蔭でこの学校に来ることになってラ
ッキーだったと思っています。好い生徒に恵まれて、哲学教育に新
しい境地を開くことが出来ました。

 私は1週1回、水曜日に、余技のドイツ語で国立大学でも授業を
しています。こちらは7年目になります。後期はこことS大と、週
に2回の授業です。といっても、こちらは不規則で、11月は週3回
になりそうです。

還暦が近くなり、体力の衰えを感じるこの頃ですが、こうして若
い皆さんと付き合っているのが心の若さを保つ秘訣かな、と思って
います。

        夏休みの1コマ

 8月10日、本校の去年の生徒たちと掛川郊外の「ねむの木村」を
訪ねました。宮城まり子さんの主宰する肢体不自由児のための施設
です。浜岡町から移転しました。吉行淳之介文学館が出来て、宮城
に宛てた恋文が展示されてあるとか聞いていました。

 台風が来ていて雨模様の日でしたが、私たちの歩いている時は幸
い雨は降りませんでした。まり子という喫茶店には他の客はおらず
、半年ぶりに会った元生徒たちとカレーセットを食べ、談笑しまし
た。宮城さんの好みなのでしょう。メルヘンチックな内装で、静か
にモーツアルトが流れていました。ここのトイレは身障者用トイレ
のあり方として一見の価値があると思います。

 文学館の展示には、宮城の心の中に今でも生きている吉行に話し
かけるような言葉が添えられていました。その後、茶室で抹茶を飲
みました。少し離れた所には美術館も出来たとか、そしてそれが自
然採光で、太陽の動きと共に絵の見え方も変わっていくようなもの
だとか、聞きました。これは秋晴れの日の夕方に見に来たいな、と
思いました。

 先日、教育テレビで宮城まり子さんとねむの木村のことを紹介し
た45分番組がありましたが、ご覧になりましたか。外からは分か
らない内部の事が描かれていました。

     昨年の「天タマ」第1号から

 「その他」にAさんが次のように書いています。

ke
今日初めて哲学の授業を受けてみて思ったことは、「哲学とい
う難しそうなイメージではなく、楽しくやっていけそう。先生も生
徒と対等に授業をしていこうとしていて、いい印象」と思った。私
も、ウワサで「哲学の先生はこわい人」と聞いていて、「どんな人
がくるんだろう」と思っていたが、授業要綱の紙を見て、生徒の意
見も反映しようとしてくれているところが印象良く感じた。(後略


 ★ ここからは沢山の問題が出てきます。それを箇条書きにしま
す。
(1) 先生と生徒は対等か(何が対等なのか何が対等でないのか)。

(2) 生徒の意見を聞いて反映させることは、何の「対等」を意味す
るか。

(3) 先生と生徒の意見が違った時(勉強の内容、学校の運営などで
)、両者は議論するべきか。

(4) 話し合うことと議論することとは同じか。違うとしたらどこが
違うか。

(5) 先生は一段高い所(教壇で)で話し、生徒は一段低い所にいる
のは何を意味するか。

(6) 先生と生徒が話し合う(議論する)として、その時先生が司会
者を兼ねているのは何を意味するか。

Aさんの言いたい事は私にも嬉しい事なのですが、それをこのよ
うに突っ込んで考えると哲学になるのです。そうすると、Aさんの
本当に言いたかった事が一層正確に表現されるようにもなると思い
ます。

 この「天タマ」を送った卒業生(元生徒)は手紙の中で次のよう
に書いてきました。

──「先生と生徒の関係は対等か」という部分ですが、私達も、同
じことを考えました。その時は、対等ではないと、答えたと思いま
す。知識も多く、経験も豊富なため、かなわないから、尊重、尊敬
すべきであると、答えました。職場に出ても、やはり上司は尊重す
べきであるという考えは変わりません。しかし、なんでも言い合え
る関係でなくては、よい仕事はできないと、気づきました。「上司
だから、上司の言うことは全て正しい」のではないのです。同じ人
間なので、間違いはあります。そこで意見を言えなかったら、いい
仕事にはなりません。上司であっても、自分の思うことはしっかり
伝える、これが、今私の働いている職場の目指していることです。
先生、生徒に置き換えても同じでしょう。良い授業をと考えるなら
、お互いが意見を言い合わないといけません。これが、社会に出て
考える私の意見です。

「天タマ」第15号

2006年09月26日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第15号(1999年1月25日発行)

          市立看護専門学校 哲学の教科通信

  2回目のアンケート「より良い授業のために」から

 ディベートは出来なかったが、先を急がない方針で、対話と反省
は深まったか

──1つのテーマを何回にも分け、段階をおって考えることができ
たので、多少難しいテーマも、とけても深く追求することができた
と思います。「天タマ」を見てもう1度反省し、考えることで、か
なり考えも深まりました。カンファレンスでの話し合いはとても充
実していて、この方針でよかったと思います。

  12月14日の初めての全体での話し合いについて

──少し人数が多い気がしました。4~5人のグループで席をまと
めていましたが、全体をまるく円状に机を並べて、お互いの顔が見
えるようにしたら、意見を言う人も全体に向けて問い掛けることが
できて、もっと意見を言い合えるように思いました。

           結婚と夫婦

──それまで別々の生きかたをしてきた他人同士が一緒に暮らすと
いうことは大変なことだと思う。初めのうちにルールを作っておけ
ば、うまくいくのではないか、と思います。

──結婚についてのテーマはとても興味深かった。最後の先生の言
葉「相手の欠点を全て含めて受け入れられる人でなければ結婚しな
い方がいい」というのが、深く心に残っている。結婚は相性だと思
うけれど、一生幸せでいられるような良い相性の人は、本当に存在
するのかと思ってしまう。価値観の占める割合がとても大きいと思
う。良い結婚ができるよう、あせらずじっくりと品定めをしたい。

──結婚て本当に難しいと思います。価値観の異なる同士が共に暮
らすので、けんかはあっても仕方ないと思う。~価値観の似ている
人を探すのは困難だと思う。相手に合わせるのは大変だと思うけど
、私はいつかそれが苦痛になる日がくると思ってしまうので、結婚
は特にしたいとは思わない。

 ★ 結婚生活がうまく行った場合の喜びは独身生活の喜びより何
倍も大きいと思います。失敗の危険を犯してでも、大きな喜びのた
めに努力する方が、生きる甲斐があるのではないでしょうか。虎穴
に入らずんば、虎児を得ず。

         キリスト教

──私はキリスト教の学校だった。クリスマス会なども行い、キャ
ンドルサービスや聖書朗読というおごそかな雰囲気の中でのクリス
マスもとてもよかった。まだクリスマス当日に教会のミサに参加し
たことがないので、いつか行ってみたいと思う。

        対話にはテーマが必要

──〔先生は〕夫婦にはお互いの関心を持てる「社会テーマ」が必
要だと言っていた。私の両親について考えてみた。けれどお互いが
関心を持っている「社会テーマ」は見つからなかった。しかし、私
の両親は仲が好い。私の両親の場合、夫婦関係のひけつは何なのだ
ろう? 私には分からない。

        シャタイナー教育と病院

──知り合いにシュタイナー教育の勉強をしている人がいますが、
VTRを見て、ちょっと興味をもったので、少しいろいろ調べてみ
ようと考えています。VTRでの障害児のいきいきした表情が印象
的でした。

──シュタイナーの病院はハード(施設)の面でも、ソフト(音楽
療法)の面でもすばらしいと思う。日本の病院でも音楽療法を取り
入れている所はあるだろうが、シュタイナーの病院のように、温か
みのある病院臭のしない広々とした部屋で、1対1で、それもハー
プ(のような楽器)を使って音楽療法を受けられる所はないと思う
。医学のレベルは高いかもしれないが、医療のレベルは低いのが今
の日本なのかと寂しくなった。

         「天タマ」と家族

──冬休みに父と話をしました。ふだんは学校のことをあまり話さ
ないので、父はとても熱心に聞いてくれました。先生も大変だなあ
、感心するよ、おれも何かもっと深く考えることをしなきゃなあ、
と言っていました。

──亡父がなんて言いそうかと、家族で話したら、母「お父さんと
気の合いそうな先生ね。二人で思い切り討論させたらすごそうね」
。兄「この先生になら哲学の授業を受けてみたいよ」。姉「お父さ
んと一緒にね」

──「天タマ」についてではないけれど、家族でちょっとした事で
も深くカンファレンスのようにして話ができるようになった。

          その他

──今までずっと気になっていたのですが、先生がどういう理由で
哲学を勉強するようになったのか、またドイツ語との関係など、授
業の度に気になっていました。

──この冬休みに文集を作っていて、レポートの数の多さにびっく
りした。授業があっと言う間に終わって、とても短く感じたためか
、こんなにたくさんレポートを書いたんだと驚いた。この授業に「
天タマ」があったことで、考えが広がりました。来年も授業で「天
タマ」を続けてほしいと思います。

──先日、NHK教育TVで「教育」について討論会をやっていま
した。試験勉強もそっちのけで思わず見てしまいました。「組織は
トップで決まる」とか、「目上の人は話の途中で反論してはいけな
い」とか、哲学で習ったなあ、と思い出しました。それにしてもル
ールが守られていないようですね。反対に笑えてしましいました。

──「天タマ」について。いろんな人が意見を言っていて、どんど
ん「天タマ」が大きくなっていくようで、なんだか嬉しい気がした
。1つのことでもみんなの意見でこんなにも大きくなるんだなと思
った。

──哲学は、本当に集中でき、貴重な時間だった。物事を考えてい
くきっかけを学べた。哲学の授業が終わると、なんだか少し寂しく
思う。他から来られる講師と違い、生徒との距離はとても近いよう
に感じ、授業も人間味を感じた。

──先生は最初に聞いていたほどこわい人ではなかった。むしろ真
剣に話をしている途中に時々見せてくれる笑顔が仏のように思えて
、いい先生だと思った。

──私は最後の授業の先生の挨拶にとても感動しました。「命を大
切にする」ことは「人生(生活)を大切にする」ということであり
、また「この90分の授業を大切にする」ことであるという先生の考
えに共感すると共に、先生のこの90分の授業への思いが伝わってき
ました。

      文集の「あとがき」から

      最後に

 これまでに自分の書いたものを読み返して思ったことは、まだま
だだなということでした。自分が書いた文章で、その時の私の状態
がよくわかります。また、今ならもっと違うことが書けるのにとか
、違う考えなのにとか思ってしまいます。新にもう一度書き直した
い気持ちです。でも、これらは記録として残しておきたいとおもい
ます。何年か先に見た時、また違った考え方をしているでしょう。

 哲学の授業で話した内容を、家族で話し合ったことがありました
。それ以来、毎回の内容を家族の夕食の話題として話しています。
社会について、学校について、教育について色々なことを話しまし
た。母親は、授業参観で見る視点が変わったと言っていました(今
までは、子供の様子しか見てなかった、授業の内容や先生に関して
無関心だったようです)。

 ある時、祖母が「こういう授業を受けれて幸せだね」といってい
ました。私もそう思います。この授業を受けていなかったら、きっ
と自分の考え方に変化がでなかったと思います。このような授業を
受けることができたことに、感謝しなくてはなりません。ちなみに
、父親は「へりくつばかり言うようになって」と言っていました。

私は哲学の授業は「考える」授業だと思います。「考える」こと
は、とても難しいことです。でも、考えなくては何も始まりません
。これから、いろいろな角度から物事を考えられる人になっていき
たいと思います。

 最後になりましたが、「天タマ」やレポートの返信ありがとうご
ざいました。

     終わりに

 今まで哲学の授業を学んできて、最初は先生の印象のことで先生
の話を聞き、これからの哲学に興味を持ちました。先生の考えはい
つも根拠に基づいていて「なるほどな」と思うことばかりでした。

哲学の授業は私だけでなくみんなも興味深い教科だったと思いま
す。それは受講態度でよくわかります。90分という時間がいつも早
く過ぎてしまいました。先生の熱心な気持ちが伝わってきているか
らこそ、みんなもその気持ちを感じていたと思います。

なかでも印象に残っているのは、「牧野先生は哲学の授業で勉強
だけを教えている」ということについて考えたことです。初めはそ
のようには思わなかったけれど、ドイツの子供の生活についての話
をきいて、地域との結び付きを知り、学校は勉強を教える所という
考えがわかってきました。また、記名・無記名のアンケートについ
て考えたことも印象深いです。

 こんなにひとつひとつのことについて深くつっこんで考えたこと
は今までありませんでした。私には、根拠に基づいて考えたり、深
く追求することが苦手だったと思います。「苦手」といえば、苦手
と嫌いについても考えました。哲学の授業はこのように考えてみる
と印象深いものばかりです。

 これからもいろいろな授業を受けていきますが、哲学で学んだよ
うにもっと追求していきたいと思います。

 先生、今まで毎回熱のこもった授業、レポートの丁寧なお返事、
ありがとうございました。いつまでも忘れない授業になったと思い
ます。お体に気をつけて、これからも頑張ってください。本当にあ
りがとうございました。

      お別れの挨拶(牧野 紀之)

 最後に簡単にご挨拶をしたい。哲学の授業は普通、「哲学とは何
か」という話から始まります。しかし、結局何のことだか結論はは
っきりせず、たいてい、そのまま哲学史の授業になっていきます。
私は「哲学とは何か」の説明から入りません。それは、そういう事
より、現実の問題を考えることの方が大切だと思うからです。現に
考えるべき問題があり、それを他の教科が取り上げていないならば
、それを取り上げることが大切なのであって、それを考える事が哲
学に属するか否かは大した問題ではないと思います。逆に、哲学の
定義が出来たとしても、そこで扱われる事が大して重要な問題では
ないならば、そういう「哲学」はやらなくても好いと思います。

 2年前、それでも一度は「哲学とは何か」の説明があってもよい
のではないか、という意見がありました。そこで去年は最後に、宗
教と哲学について考えました。しかし、やはり難しかったようです


 今年は「本当の哲学の授業の内容にはどのような事が入るか」を
考えてみようと思います。私の考えでは、それは3つです。第1に
、現実の問題を考えること。第2に、本の読み方の練習をすること
。本としては、日本語の本と外国語の本とがあると思います。哲学
科の授業などは大体、外国語の本を読んでいるのですが、読み方の
練習にすらなっていなくて、読んで訳すという、語学の授業として
も最低の授業になっています。第3に、文章の書き方の練習をする
こと、あるいは発表の仕方とか、討論の仕方の練習も含まれます。
ディベートなどはこれに入ります。

 私もこの学校での最初の年には、少しまとまった文章を読んだり
、文章の書き方の練習をしたりしましたが、今年はほとんど第1点
の「現実の問題を考える」ことに絞りました。この学校での哲学の
授業の置かれている条件を考えると、これで好いと思っています。

では本校では公式には、哲学の授業の目的としてどういう事が言
われているかと言いますと、それは「いのちの大切さを教える」と
かいった事になっているようです。それは看護学校ですから、ある
程度当然の事です。又、この「いのちの大切さを教える」というこ
とは、特に最近、中学生による殺人事件などがあるとよく聞かれる
言葉です。しかし、ああいう事件の後、それでは「いのちの大切さ
を教えなければならない」ということで、実際にはどういう事が行
われているのでしょうか? それは効果が上がっているのでしょう
か? 私の推測では、先生が何かの話をするといった事が行われて
いるのだと思います。そして、効果は上がっていないと思います。
だからこそ、いつまで経ってもいじめも殺人事件もなくならないど
ころか、増えているのです。

 では、「いのちを大切にする」とは、本当はどういう事なのでし
ょうか。いのちというのは人生の事であり、生活の事です。ですか
ら、それは「人生を大切にする」ということです。大切にするとい
っても、人間は永遠に生きるわけではありません。ですから、いの
ちを大切にするというのは、生きている間の時間を充実させるとい
う事以外ではありえないと思います。80年で死ぬとしましょう。す
ると、「いのちを大切にする」ということは、実際には、「この80
年の人生を充実して生きる」ということになると思います。

では、更に、「この80年の人生を充実して生きる」とはどういう
ことでしょうか。それは1年1年を大切にすることであり、1日1
日を大切にするということになります。私と皆さんとが関係する時
間を考えてみますと、それは結局、「この90分15回という授業時間
を充実させる」ということになります。ですから、「いのちの大切
さを教えなければならない」と言って、校長が何かの話をしたりす
ることは本筋ではないのでして、そんな話をしても、授業が充実し
ていなかったら、意味がないと思います。逆に、授業が充実してい
れば、その外に何かの説教をする必要はないと思うのです。

では、授業を充実させるというのはどういうことでしょうか。そ
れはその授業を通じて認識が広がり、深まるということであり、同
時にこうして集団で授業をしているのですから、お互いの心の交流
が深まるということだと思います。従って、この授業で「いのちの
大切さを教えているか」を判断するには、この授業を通じて認識が
どれだけ広がったか、深まったか、お互いの心の交流がどれだけで
きたか、ということになるわけです。その観点から反省する時、私
としては、個人的に言葉を交わした人がとても少ないということを
残念に思っています。レポートでは沢山話し合っているのですが、
こうして顔を合わせているのですから、二言三言でもいいから、一
度は言葉を交わしたいと思っているのですが、なかなかうまくでき
ません。

まあ、そういうことで、先の哲学の授業内容からみても、又言葉
を交わした生徒が少ないといった欠点はあるのですが、全体として
は、やはりかなり充実した時間を過ごすことができたと思います。
レポートと感想のやりとりを中心として、又全員のための広場とし
ての教科通信で、心の交流は今までよりずっと広がり深まったと思
います。皆さんのレポートも回を追うごとに充実してきて、「天タ
マ」にどれを載せようかと迷いました。

皆さんにお会いできて、嬉しかったです。後1年、どうぞ実習を
がんばって、立派な看護婦さんになって下さい。


「天タマ」第14号

2006年09月25日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第14号(1999年01月08日発行)

          市立看護専門学校 哲学の教科通信

 この授業では一昨年から、講師が企画するアンケート「より良い
授業のために」のほかに、学生が企画・実行するアンケート(授業
評価)をしています。これを「学生版アンケート」と言います。今
年は、授業が2ヵ月半で終わるため、2クラスとも、アンケートは
1回にしたようです。その結果を発表します。

    1組のアンケート結果

1、授業について
 01, 講義は生徒と共に進めていたか         3,3
 02, 授業内容に興味が持てたか           3,5
 03, 授業の進行の速さは適当だったか        3,3
 04, 授業により考えの視野が広がったか       4,1
 05, 授業は分かりやすいか             3,4
 06, 先生は授業に対して熱心か           4,7
 07, 授業は工夫されているか            3,9
 08, 望ましい態度で授業を受けられたか       3,9
 09, 意欲的に取り組めたか             3,6
 10, 授業内容は自分に役立てることができたか    3,6
 11, 授業は面白かったか              3,7

2、カンファレンスについて
 01, カンファレンスは自分の意見を述べるこ
   とができたか                 4,3
 02, カンファレンスは積極的に参加できたか     4,2
 03, カンファレンスは有意義だったか        4,0
 04, グループで十分話し合うことができたか     3,9
 05, カンファレンスではんろんな人の意見が聞けたか 4,3

3、休憩について
 01, 休憩は充実していたか             4,6
 02, 休憩時間は楽しめたか             4,6

4、レポートについて
 01, レポートのテーマは興味深いものであったか   3,4
 02, テーマに沿ったレポートを作成できたか     3,0
 03, レポートに意欲的に取り組むことができたか   3,4
 04, は自分の意見を十分に書くことができたか    3,3
 05, は自分にとってプラスになるものであったか   3,6

5、「天タマ」について
 01, 「天タマ」は楽しむことができたか       4,2
 02, 「天タマ」に興味があるか           4,1
 03, 「天タマ」を読んで自分の考えを深められたか  4,1

    2組のアンケート結果

授業は楽しかったか                3,6
 授業中の時間配分は適当であったか         3,9
 先生の言いたいことが理解できたか         3,3
 先生の話し方は適当だったか            2,8
 カンファレンスでは自分の意見が出し合えたか    3,8
 レポートは8割がた自分の意見が書けたか      3,5
 レポートの返事が自分の学習により生かせたか    3,28
 「天タマ」が自分のプラスになったか        4,0
 先生の意見に共感できたか             3,46
 先生の意見を聞くことで自分の考えを深められたか  4,6
 哲学の時間を通して自分で考えるという事ができたか 3,9
 哲学の時間に何か一つでも得るものがあったか    3,9
 授業中に考えたことを生活で生かせたか       2,87
 哲学とは〔何か〕理解できたか           2,68
 自分の視野は広がったか              3,7
 授業は充実していたか               3,8
 休憩の時間は楽しかったか             4,4

     学生版アンケートを見て

 (1) 両クラス共、「授業が楽しかった」の項より、「休憩が楽し
かった」の項の方が高い数字になっています。これは本当に笑える
事実ですが、「楽しい」という言葉には授業の知的楽しさより、休
憩の感情的な楽しさの方がぴったりするということではないでしょ
うか。いずれにせよ、休憩のある授業というのは珍しいですが、そ
れが好評なのはよいことと考えるべきでしょう。

(2) 低い数字の出たのは講師の話し方(早口すぎる)ですが、こ
れは授業中にも説明した通りで、1時間半の中に、レポート執筆(
30分)、休憩(10~15分)、カンファレンス(15分)を前提すると
、講師の話す時間は30分しか残らなくなるという、どうしようもな
い事実があるのです。

では1コマ1時間半というのは決まっているのでしょうか。いい
え。大学設置基準では、大学の1コマは「休み時間を入れて2時間
」と定められています。それをほとんどの大学では1時間半の授業
と10分の休み時間にしているのです(東大の本郷とかの極めて少数
の所だけが授業1時間50分、休み10分、合計2時間にしています)


そして、この市看でも2年前からそれに合わせて、授業時間を1
時間40分から1時間半に減らしたのです。つまり改悪したのです。
私の理想は授業時間1時間45分、休み時間15分です。しかし、それ
を言っても仕方ないので、やはり今後は30分で話せるように内容を
絞るべきだと思います。

(3) 進行速度が適当、時間配分も適当という評価は一安心です。
私の欠点として、沢山の事を押し込みすぎること、時に先を急いで
しまうことがあると思っています。そこで、今年はこの欠点を克服
しようと思い、出てきた問題は全部丁寧に扱うという方針でやって
きました。その結果、ディベートを入れる機会をついに見いだせな
いということにもなったのですが、ともかく「消化不良」というこ
とにはならなかったと思います。

(4) 授業の成果を生活で生かせたかという項があり、低い数字が
出ています。しかし、これは設問が無理だったと思います。つまり
、哲学で学んだ事を生活に生かすのは社会人になり、家庭をもって
からだと思うからです。その意味で、出来れば、5年後、10年後に
、アンケートをとるとか、レポートを書いてもらえると面白いと思
います。その気のある人は、自分で5年後にレポートを書いて下さ
い。今回も、既に看護婦などをしている先輩にこの「天タマ」を読
んだ感想を書いてもらう予定ですが、それはそのような問題意識を
もって読むこともできると思います。

(5) 今年は両クラス共、自由記述の項を設けなかったようですが
、不適切な回答が出た場合の処理の面倒を予め避けたのだと思いま
す。確かにそこまで責任を負うのは大変な事です。しかし、回答に
ルール違反がないかを全員で確かめる大変さを背負いつつ、自由記
述に挑戦する気概が欲しかったと思います。逃げていては成長しな
いと思うからです。

       無記名のアンケート

 昨年作った「無記名のアンケート」を、今年もしてみました。短
時間でやったせいか、何か雑に○をつけているという印象を持ちま
した。そこで、次の時間に4項目を選んで、考え直してもらいまし
た。評価する場合は、評価対象について事実認定し、それを何らか
の基準にあてはめて評価するわけです。自分は対象(この場合はこ
の哲学の授業)をどう判断し、どういう基準で評価するのか、その
根拠を書いて、やり直してもらいました。評価できない場合は○を
付けなくてもよいと念を押しました。

 統計は、重ねた用紙の中程から12枚抜き出して集計し、最高点と
最低点を除いて、10枚の平均を取りました。

   結果              最初    反省後
                  1組 2組 1組 2組
・自分の学科(専門)が好きで、
 よく研究している          4,5 4,5  4,5 4,5
・授業自身が楽しい          3,6 3,8  3,8 4,4
・講師は一人一人の生徒を理解し
 ようと努力している          -  -   3,9 4,5
・この授業に参加してよかった     4,2 4,0  4,4 4,3

 (第1項目については白紙が1組で4枚、2組で6枚もありまし
た。これは判断出来ないということでしょう。第4項目も白紙が少
しありました。これは時間が足りなかったのでしょう)

 ○を付けるだけのアンケートについては、「天タマ」第9号にA
さんの詳しい反省を載せました。又、他の授業でのアンケートにつ
いては第13号に感想が載っています。私もここ数年、いろいろなア
ンケートを試みてみて、考える所があります。結局は、やはり生徒
と教師の間に日頃からどの程度の信頼関係があるかが根本で、その
上にたって十分に準備してアンケートを実施してこそ所期の目的が
達せられると思います。

この「最初」と「反省後」を比較すると、後者の方が高い数字に
なっています。では、いつでもこうなるのでしょうか。そうではな
いと思います。いわゆる悪い授業の場合だったら、逆に、「反省後
」の方が低い数字になるのではないかと、推察しました。つまり、
大雑把に○をつける時は、良い授業の場合でも悪い授業の場合でも
、当たり障りのない点数になりがちだということではないでしょう
か。

     エ コ ー

──私は看護婦として、 気になるテーマに対し自分の考えを述べて
みたい。

 第2号のテーマより。『患者が「あなたじゃ心配だから、他の看
護婦に代わって」と、新人看講婦を断わった』について。

 私は看護婦2年目である。未だに行っていないこともあるし、初
めて行うようなことも、多々ある。しかし、常に思うことがある。
患者は治療をしに来ているのである。看護して貰う人により、治療
、看護を十分に受けることかできない、ということは決してあって
はならない。つまり、1年目、2年目が行うため十分な看護が出来
ない、と甘えは言えないと考える。1年目、2年目でも、患者にと
っては同じ看護婦なのである。プロとして、 ただ、 今患者の必要と
している最良の看護を提供したい。そのため、 私は日々学習し、自
分は責任の持てる仕事をしているつもりである。自信のない仕事は
しない。自分が学習するか、もしくは、 人に尋ね、 行えると思う仕
事しかしない。この、実際の場面は分からないが、自分の出来ると
いう自信が新人看護婦には甘く、患者に伝わってしまったのかもし
れない。

 私は、 学生の時も同様であった。医療行為以外、患者にはこんな
行為をしたいとプランをたて、報告し、自信のあることは自分で行
っていた。少しでも不安な事や、自信のない行為に対しては、どん
なに看護婦が忙しそうにしていても、一緒に行ってもらえるよう依
頼した。それは、自分のためではなく、患者のためなのである。そ
こで患者に嫌味を言われたとしても、それは患者にとって必要な行
為であり、動機をもっていれば怖くはなかった。間違っていないと
いう自信もあれば、自分はこう思っているからこの看護をしたいと
自分の意思をはっきり伝えた。きっとかわいくない学生だったであ
ろう。しかし、患者のためであり、今考えると自分自身の看護を高
めることにもつながっていたと思う。自分が学習し、しっかりとし
たプランをもっていれば恥じることはないのである。みなさんも、
そうである。学生なんだからと言う甘い気持ちはもたず、 私も医療
者の一員であるという、責任と誇りを持てるような心構えで、勉強
していって欲しい。看護婦は全て正しいのでは決してない。自分の
看護に自信を持って、 頑張っていって欲しい。

 また、 私は患者側から考えてみた。患者はお金を払って医療を受
けに来ているため、 患者側には選ぶ権利はある。しかし、今の医療
では、まだ患者側が弱者という傾向がある。患者が不満を持ってい
ても口にだせないということがその一つと言えるであろう。しかし
、この事例の患者は自分の心配という気持ちを訴えることができた
のだから、良かったのではないか。そこで、 言われたことに腹を立
てたり、ショックを受けるのではなく、その後の目分の対応が一番
大功だと思う。もしそこで自信があれば、「心配ないですよ」と伝
え、まだ不安のようであれば、 他の看護婦と代わって貰えばよい。
自信がなければ、もちろん代わって貰う。そして、 なぜ患者にそう
思わせてしまったのたのか考え、 二度とそんなことが起こらないよ
う対処することのほうが重要である、と私は考える。

 私は、現在看護婦である。しかし、学生という道も歩いてきてい
る。誰でもそうである。いずれは同じ職場で働いていく同僚なので
ある。看護婦、学生と隔たりをつけるのではなく、一緒にその患者
のことを思う医療の一員として看護していけたらいいと思う。(先
輩の感想)

──「天タマ」通信、興味深く読みました。哲学の授業は新カリキ
ュラムなのでしょうか。私の学年は哲学の授業はありませんでした
。とても学生に人気のある授業みたいですね。私も受けてみたいな
あって思いました。通信を読んで、以前無記名のアンケートがあっ
た時のことを思い出しました。教員に対しての意見を書いたら、私
の筆跡に特徴があったらしく、あとで教員に呼び出されて、いろい
ろ言われたのですが、まあその時は教師・・学生の関係は上下関係
なんだなとつくづく思い知らされましたけど。(インターネットの
HPへの書き込み)

 ★ 生徒がアンケートで学校や教師を批判したことについて、本
人を呼び出して文句を言ったり、朝礼で皆の前で、注意をしたりと
いう例が結構、あるようです。逆に、アンケートに感情的な事を書
く生徒もいます。アンケートは取りさえすれば好いというものでは
ないと思います。

 (1) アンケートの目的は何か。(2) その目的を達するには教師と
生徒はそれぞれどういう事に気をつけなければならないか。(3) ア
ンケートを教師ないし生徒がその目的に反して利用する行為を防ぐ
にはどうしたらよいか。(4) アンケートを学校(組織)内部のコミ
ュニケーションのためのそれ以外の方法とどう結び付けるか、とい
ったことを考え合う授業が必要だと思います。

──「天タマ」の感想
 私目身も医療関係の学校に3年間通った経験があり、「天タマ」
を読んでいるととてもなつかしい感じがしました。人間生活のあら
ゆる場面で、感情的にならずに論理的に物事を考えるということは
、非常に重要なことだと思います。

 (1) まず自分の問題としてどうするべきかを考える。
 (2) 問題の核心は何かを考える。
 (3) 自分の問題をはなれ、広い視野にたって考えてみる。

ということを日常生活でこころがけてみるだけでも、自分自身の生
活の質をかなり向上させることができると感じました。このことを
怠ったために、誤った判断をしてしまったと反省することも多い毎
日です。

この哲学の授業のように、個人で考えたことをさらに集団で話し
合えるならば自分の考えを一層深めることができるでしょう。が、
残念ながら、このような話し合いのできる人間関係を築いている社
会人は、たいへん少ないのではないかと思います。(インターネッ
トへの書き込み)

──牧野宛の手紙から
 教科通信『天タマ』2~4号拝受し拝読しました。どうも有り難
うございました。小中学校で熱心な先生が出しておられる学級通信
、学級新聞は知っていましたが、高等教育の場で「教科通信」とし
て出ているのは知りませんでした。「大好評」とのことですが如何
にもと思いました。

 (1) 具体的な、個人の問題に適切なアドバイスをしながら、同時
に、一般的な場や普遍的な理論に結び付ける、(2) 講義についての
学生の意見や感想を知ってつぎの講義のときに再びとりあげたり補
足をしたりする、なによりも、(3) 牧野先生のことを(考え方や思
想それに性格までも)学生たちはよく知ることができる、もちろん
、(4) クラスメイトの考えや経験がわかり、参考になる、といった
ことが「好評」の要因ということでしょうか。

それにしても、患者は看護婦さんにいろいろ言うのですね。私は
幸か不幸か入院したことがありません。病気になればお医者さんま
かせ、看護婦さんまかせで、俎の鯉のようにしているものと思って
いましたが、そうはいかないものと見えます。病院(医者)、患者
、看護婦、実習生の間で、不満や問題やトラブルが発生する。第2
号の2頁の二つの「感想」のとおりと思います。ひとと民主主義と
リーダーの問題ですね。「先生にいいつけてやる」という科白が無
力無効の時代では、学校カウンセラーの存在は必要ですね。ただ学
校カウンセラーが、保健室や保健婦さんのようなあり方になるかど
うか(・・そこでたむろし、ときに叱りとばされたりする)。

 実は私は、教育学を講じて30年になるものです。「話し言葉と書
き言葉と、あらゆる手段を使って対話を促し深めていく、それが哲
学であり、教師であると思います」との言葉のとおりに実践してお
られることに深甚の敬意を表します。教育、教師についての私の考
えと重なります。私もある科目の講義の時間を30分ばかりのこして
、講義を聞いている間に考えたことなどを、学生に書かせています
。その何枚かをコピーしてくばりコメントしたり、ただ読み上げて
コメントしたり、はしています。しかし貴氏のようにはしていませ
ん。いろいろな考えがあり、いろいろな書き方があるということを
知らせているだけです。

以上『天タマ』を拝読しての寸感です。ところで『天タマ』って
、どういう意味ですか。いろいろ憶測したのですが思い当たりませ
ん。 

★ 看護婦=白衣の天使。看護学生=そのたまご。しかし既に「
天使のたまご」という題のマンガがありますので、「天タマ」とし
ました。

「天タマ」第13号の2

2006年09月24日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第13号の2

     (その1から続く)

         教師の実力

──先生の実力は誰が一番よく分かるのだろうか? 生徒なのか、
同じ教師なのか。高校生くらいになれば、この先生はよく勉強しい
てるなとか、教える意欲があるなとか、教え方が上手だなというの
が分かってくる。学校の先生が勉強を教えるというけれど、学校の
先生より塾の先生の方がよっぽど教え方が上手いし、分かりやすく
工夫されているし、分かるまで教えてくれる。私は、学校の先生に
教えてもらったというより、中・高と、塾の先生に教えてもらった
ことの方が印象的だし、覚えている。

 教師も塾の先生も同じ勉強を教えるという仕事なのに、こうも違
うのは何故だろう? それは、塾の先生には、自分の専門教科を学
習する時間があるし、塾によっては生徒による評価もある。学校の
先生は公務員であったり、教師という組織の中で守られている。実
力主義ではない。塾は実力主義である。この違いも大きいと思う。
もっと教師は自分の専門性を理解し、自分の仕事をしてほしい。組
織に甘んじてはいけないと思う。

        学校カウンセラー

──先週の学校カウンセラーのVTRを見てカウンセラーの存在の
大きさを知った。私は不登校の経験はないが、ちょっと悩み事のあ
る時はいつも保健室に友達と行ったのを覚えている。進路のことと
か、特に私が看護学校を受験しようと決めた高校3年の夏以降は、
けっこう聞きに行った。誰かに自分のことを聞いてもらう、誰かに
自分の意見を受け止め、共感してもらうということは、すごく心強
いことがということを感じた。

          親に感謝

──最近、私の両親の子育て、私が受けてきた社会での教育(学校
)を振り返り、私の両親がこの両親でラッキーだったと思う。愛情
等はもちろんだが、それは別として、しつけに限らず、教養をつけ
てくれたと思う。私の中では出来上がってないものの、感性や性格
、教養など、本当にお金では買えないものを与えられた。今のとこ
ろ自分を好きでいられる自分があり、感謝している。

       俵万智と読む恋の歌

──俵万智と読む恋の歌は心あたたまるものでした。そして、すご
くその場の雰囲気が伝わってきます。そして、自分も「ある、ある
」と、うなづいてしまうものでした。ただの男友達だったのに、ふ
とした時に2人になってしまい、ドキッとしてしまったことなど、
思い出しました。やっぱり2人ともギクシャクしてしまい、思い出
しても笑ってしまうような行動をとってしまいました。これも青春
の1ページなんだと思いました。あの時、もっと女らしくしていた
ら~と後悔することもあったけど、彼とは今でもいい友達です。

──私は銀色夏生さんの詩がけっこう好きです。こんど本を全部集
めようかと思っています。心にジーンときたり、妙に納得してしま
う詩ばかりです。

         ピカソの絵

 これは極端に二つの意見に別れるようです。

──私はピカソの絵のどこがいいのか分からない。それは価値観の
違いだと思う。お金持ちの人がピカソの絵を売ってくれると言って
も、お金を出してまで欲しいと思わないし、タダでくれるといって
も迷うかも~。目の左右上下がバラバラで,鼻がどっか向いてて、
顔が青くて~などという絵はスバラシイのか? 発想は豊かだと思
うけれど。芸術とは難しい。

──ピカソは、不思議な絵しか見たことがなかったので、小さい頃
の絵を見てびっくりした。笑っている顔や、楽しそうな絵は1枚も
なかった。どんな気持ちでかいたのだろう。どんな人だったのだろ
う。もっと知りたくなった。

──私はピカソの不思議な絵になんとなくひかれます。画家になっ
た頃の絵は、自分の目に写ったそのままを描いていたような気がす
るけれど、不思議な絵は違います。不思議な絵には、絵の中に出て
くるものの訴え、雰囲気など様々なものが読み取れるし、またピカ
ソ自身の感情も読み取れるような気がします。いつも何か考えさせ
られるような感じだけど、あの絵にはピカソの人間全部が出ている
ような感じがします。

──先月、名古屋市美術館にピカソ展を見に行った時のことを思い
出しました。それまでの私のピカソに対するイメージは、理解でき
ないようなキバツな絵を描く人といった感じだった。そのピカソ展
では、ピカソの絵が時代にそって飾られており、その時代のピカソ
がどんな感じだったのかなどの説明もついていて、今まで理解でき
なかった絵も、なんとなくその思いを感じることができた。ピカソ
展では「青の時代」というシリーズにとても心がひかれた。VTR
にも出てきた「自画像」も青の時代の内の1枚だ。あのなんとも言
えないような青い色が今でも心に残っている。・・

 ★(絵画のシロウトとしての講師の感想)

 人間は対象を自分の主観を通して受け取ります。印象派の絵でも
同じことだと思います。ただピカソなどではその「主観」が必ずし
も分かりやすいものではないだけではないでしょうか。対象に対す
る理解と愛情をどうしてもこのようなデフォルメ(変形)や色によ
ってしか捉えられず、表現できないその画家の心の必然性に、鑑賞
者がどこまで共感できるかの問題ではないでしょうか。

 ピカソの大作「ゲルニカ」を見たことがありますか。スペイン内
戦の時、ファシスト・フランコの軍がゲルニカという町を無差別爆
撃しました。爆撃された民衆の阿鼻叫喚(あびきょうかん)を描い
ています。民衆に対する愛情とファシストに対する怒りがひしひし
と伝わってくる名画です。

       アンケート

──この前、他の授業でアンケートを書く機会がありました。6段
階評価だったので、何を基準にしてよいのか分かりませんでした。
ここで哲学の授業のことを思い出しました。しかし、結局自分の中
で勝手に基準を決めて評価しました。みんな、どうやってつけてい
るのか気になりました。

 ★ 私も色々なアンケートをしてみて、アンケートを取りさえす
れば好いという考えは間違いだと分かりました。授業を良くしたい
という意思が教師と生徒に共有され確認されていて、或る程度以上
の信頼関係が必要だと思います。教師は返事をすること、それによ
って生徒は「これが授業の改善に役立つ」と知っていること、こう
いった前提が必要だと思います。しかし、哲学の無記名のアンケー
トでも全ての項目に「3」を付けた人もいます。人間というのはな
かなか難しいものです。

          哲学の授業

──前回のレポートの感想に「あなたのレポートの雰囲気が以前よ
り落ちついてきたと思います」と書いてありました。それをみてち
ょっと驚きました。私はレポートが苦手で、このレポートを書くの
もいつも必死で書いていました。考えがなかなかまとまらず、あせ
ってしまうのです。何度も書いて慣れてきたのでしょうか。もっと
レポートがうまく書けるようになりたいです。

 ★ そのテーマについて思い出すままに箇条書きにする。全部書
き出してから、どう書こうかと考えて書きはじめる。これを実行す
るだけでも随分上達します。

──哲学は、今までの授業とは違った感覚があり、楽しかった。こ
れを続けていけば知的な人になれる気がする。人間は、広い範囲の
知識があると、頭がよく思える、私は。はじめは牧野先生とはどれ
ほどの人物かと思ったけど、結構笑顔のすてきな良い人でよかった
。あまり気合を入れすぎないようにして下さい。

──私はこの授業を受けて、自分の社会への関心のなさに気づかさ
れ、とても恥ずかしく思った。今後はもっと自分の身の回りからま
た日本や世界まで、深く考えられるような知識を身につけていきた
いと思う。

──今日でレポートも終わりということで、少し淋しい気がします
。90分という時間がそれほど長くないと感じられていたのは、その
時間、自分がいかに集中できていたかの表れだったと思います。私
でも集中できるのだということが分かり、それにはやはり授業の内
容というものが大きく関係しているということを実感できました。
このような授業に出会えて、本当によかったと思います。哲学とい
うものがどういうものであるのか、分かってきた気がします。これ
からも、筋道を立てて考えるということができるようになるために
、いろいろなことを考え続けていきたいと思います。

            冬

──12月になって寒くなってくると恋しいのは鍋。今、私の家族の
中で人気なのがキムチ鍋。骨つきの鶏肉を水から入れて、アクを取
るのは大変ですが、後は切ったごぼうやきのこ類、しらたき、そし
てキムチなどを入れて、だしの素で味をととのえれば出来上がり。
これは簡単で私でも作れるので、私がキムチ鍋の係みたいになって
います。体もあたたまって最高です。

──今年、私は初めてスノボ(スノーボート)をやる予定です(冬
休みに)。去年まではスキーだけで十分だと思っていましたが、オ
リンピックでの里谷たえさんの金メダルを見たり、雑誌や友達から
の情報をもらったりと、どんどん夢はふくらむようになって、つい
に今年スノボをやることにしました。先週の土曜日にスノボ用品を
集めて買ってきて、家に帰って着てみたりして、今からワクワクし
ています。

──もうすぐお正月です。私の家は何かあるごとにお餅をつきます
。私は小さいころからお餅つきに参加していましたが、これが結構
大変なのです。朝早くから薪で火を燃やし、釜でもち米をたくので
す。つくのにもかなり力がいるし、もち米自体が熱くて火傷するこ
とがあります。ふつう四角もち、あんころ餅、きなこ、鏡餅なども
作ります。でも、小さい頃から食べているせいか、店で売っている
ものより、つきたての自分で作る餅の方がとてもおいしいです。ち
なみに、もち米も自家製です。

       クリスマスとキリスト教

 間もなくクリスマスです。彼との楽しい時間を夢見ている人も多
いでしょう。しかし、この機会にクリスマスとキリスト教について
少し考えてみませんか。

 イエス・キリストというのは全体が個人の名前なのではありませ
ん。イエスだけが個人の名前です。苗字ではなく、名前の方です。
昔の人は出身地と名前で呼びました。「どこそこの誰々」と。イエ
スは「ナザレのイエス」と言いました。次に、キリストとは、元の
意味は「油を塗られた者」という意味ですが、そこから転じて「救
い主」、もっと正確に言うなら「旧約聖書でヤーヴェの神が約束し
てくれた救い主」という意味です。ですからイエス・キリストとは
「ナザレのイエスこそがキリストである」という判断を含んでいま
す。「帝王カラヤン」とかいうのと同じで、評価を含んだ通称なの
です。ですからキリスト者以外の人は本当はイエス・キリストと言
ってはならないのです。ユダヤ教の人達はイエスをキリストと認め
ませんから、絶対にイエス・キリストという言い方をしません。

 クリスマスはそのイエス・キリストの生誕を祝うキリスト者の祭
礼です。一度でいいですから、クリスマス・イヴを教会で過ごして
みることをお勧めします。


「天タマ」第13号の1

2006年09月24日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第13号(1998年12月14日発行)

        市立看護専門学校 哲学の教科通信

 11日はレポートの最後の日となりました。2回分のテーマをみな
、黒板に書くとよかったのですが、それをしなかったので、例えば
学校カウンセラーについて、又1組では7日に読んだ「恋の歌」に
ついて書く人が少なかったです。

 講師の考え方についての印象をまとめてもらうことが中心でした
。やはり哲学の授業では、講師の考え方と対決するということが一
番大切な事だと考えたからです。「考え」と「考え方」とを混同し
た人もいたようですが、皆さんしっかり考えていたと思います。授
業全体のまとめになったようですので、沢山の人の意見を収録した
いと思います。

      講師の考え方について

──先生の考え方は、1つの文があったとしたら、その文を2通り
で考えている。私は文を深く考える方ではないので、1つ文があっ
たら、読んでいる時に理解した意味で考えている。しかし、この授
業で先生の話を聞いていて、1つの文にも2通り、又は3通りとい
ういろいろな考え方ができることを知った。そして、確かに1つの
文を1つの意味だけで考えてしまうのはどうかな?と思うようにな
った。そのため、最近は、この文はこうも考えられると、自分の中
で1つの文を2通りで考えるようになった。

──無職氏の投書についても、私は「この先生はいい人だな」とか
、表面的なことしか考えられなかったが、牧野先生は無職氏の考え
方の間違いを指摘している。さらに、どこがどう違うかをきちんと
筋道立てて考えていてすごいなと思う。

──無職氏の投書の件でも、「指導歴がある」というのは、前の学
校の教師の判断で、間違っているかもしれない、「指導」したのだ
からその後改善されているかもしれないということ。あの投書を見
た時、そこまで考えはしませんでした。牧野先生はすごく深い所ま
で考えて意見を言うなと、思います。

──初めてのレポートで私は「授業の進行の説明や、成績のつけ方
など、しっかり説明してくれるし、生徒の意見も聞いていくなんて
、いい先生」ということを書き、「天タマ」に載り、問題としてあ
げられていた。そのレポートは哲学で初めてのレポートで、私なり
にいろいろ考えをめぐらせて書いたつもりだったが、先生の感想は
一歩奥まで入り込んだ感想だった。

 「先生の意見は自分の考えを押しつけているだけ」という生徒も
いるようだが、先生本人としては「押しつけているのではなく、あ
くまで参考に」と言っている。実際、私にとって本当に参考になっ
ていたと思う。

──牧野先生の考え方は常に現実に基づいて構成されているので、
筋道が通っていて、分かりやすいと思う。小・中学校の先生、一部
の高校の先生等の物事の善悪の判断についての考え方には、筋道の
通っていないことが多く、結局納得のいかないことが多かった。牧
野先生とどこが違うかと言えば、小・中学校、一部の高校の先生の
考え方は、「学生とはこうあるべきだ」という彼らの信念のもとに
私達を当てはめようとしていることだと思う。

 どうして「学生はこうあるべき」でないとだめなのかについての
根拠がない。少し疑問を問い掛けてみれば、一般常識という言葉だ
けで片づけられてしまった。生徒の意見に耳を傾けようとしてくれ
ない。哲学とは、物事を筋道を立てて考えることと先生は教えてく
ださいましたが、牧野先生の考え方は本当に細かく細かく筋道が立
っていると感じています。

──授業が始まった頃は、自分の考えだけが正しくて、他人の意見
に耳を貸さない人だなあ、というように思っていた。正直言うと、
最初の2・3回目くらいは哲学の授業が苦痛だった。その初めの印
象が、先生の話を聞く時に邪魔をしてしまい、全て、賛成できずに
いた。そのお蔭で、先生とは話が合わないのだろうかという思いも
出てきました。

 しかし、この間の、教師の仕事・役割は何であるかの事例につい
て、先生が話している時、初めて先生の考え方が自分の中で納得の
いくものとなった。今までの自分自身がどうしても或る一方向の考
え方しか持っていなかったという気づきにもなった。先生が人の意
見、他の見方をしないのではなく、自分が偏見にとらわれて、いろ
いろな角度から物事を推測できていなかったということを知ること
ができた。そういう意味でもこの気づきは自分の中で良いものとな
った。

──哲学という授業のイメージとのギャップから始まったこの講義
は、いつも新鮮な気持ちで受けられた。この授業をただ「哲学」と
いう名前のもとに終ってしまうのはもったいないような感じがする
。もっとふさわしいネーミングがあるのでは~。

──哲学の授業を通して先生の考え方をたくさん学びました。それ
まで当たり前のように流してきた会話の1つ1つに注目することで
、どれだけその言葉が理に合っていないかなどを知りました。私た
ちはよく「普通~だよね」とか、「みんな~って思ってる」などと
いう言葉を使い、知らず知らず他人をまきこんで会話を成立させて
いる。自分一人が違う意見を持つのが怖くてそうなっていると思う
。なぜ皆と一緒でなければ不安になるかといえば、それは自分自身
の考えに自信がないからだと思う。~

 牧野先生は、自分の意見を根拠に基づいて持っていて、何度も感
心させられました。今回の professorは「教授」(教え授ける人)
ではないという話はとても興味深かったです。生徒は聞く義務はあ
っても、必ずしもそれに賛成する必要はない。私は、これが哲学な
んだなあと思いました。授業を聞いて、自分と意見が合わない→つ
まらない。これまでは私はこうでした。しかし、意見が合わない→
自分の意見はこうである→それはこういう根拠に基づいていると、
そこから自分を発展させていけることを知り、とても感動しました


 ★ professor =前に運ぶ人=自分の考えを明確に述べる人

──授業以外にみんなのレポートを読み、まとめ、感想を一人一人
に書くこと、熱の入った授業がきっと今の私を変えたところもあり
ます。授業前に「天タマ」を読む。休み時間に授業の準備をするの
は哲学の授業だけのような気がします。

──「天タマ」やコメントを下さる様子からは、牧野先生は「言語
というものにとても誠実な人」という印象を持っています。私はこ
んなに言語(コミュニケーション)というものに真剣に取り組んで
いる人は少ないのでは、と思います。

──先生は大学教授は勉強が足りないとおっしゃっていましたが、
現在大学生である友人やS大生に授業はどうなのか、教授との関連
はどうなっているのか聞いてみました。すると、「ただ一人でしゃ
べっているだけで、さっぱり意味が分からない」とか、「私はこう
思うとか、こう考えたなどと言う教授は1年に1人会えれば良い方
だ」という返事でした。

 私は、大学ってもったいないことをしている、どうしてそうなっ
てしまうの?と思いました。市看の先生はよく勉強していると思い
ます。私たちと一緒に考え私達の何倍も勉強しています。「私はこ
う思う」とはっきり言う先生も多いと思います。

──私は先生の授業を聞いて、「考え方」と「考え」というのは微
妙ではあるが、異なるものだと感じた。「考え」というのは、人そ
れぞれのものを持っているので、異なるのは当たり前だし、また同
じになることもある。~でも先生の「考え方」というのは持ってい
る人が少ないように感じる。

 先生の「考え方」というのは、自分の意見を押しつけるのではな
く、いつも「こういう根拠のもとにこう考える」という、考えに対
する自分の導き方を話していた。冷静かつ豊富な知識・経験のもと
に導いてきていると思う。「考え」を教えるのではなく「考え方」
を教える。この2つは同じだと言う人もいるかもしれないが、私は
こう思ってしまったのである。

──最近の私は、先生が問題提起の前提として話すことを聞きなが
ら、ん?今日はどこがおかしいのかな?と、私なりにここはちょっ
とほっておけない問題だぞぉ、というのを探しながら聞いている。
先生と一致している箇所はあった時も1回や2回くらいあったと思
う。だが先生と自分の視点は違っていて、自分の中でもある程度「
ここが問題だ」と理論的に考えてみるのだけれど、結局先生の話を
聞いて「あっ、そうか」と納得してしまう。というのも、私が理論
的に考えたことはまだまだ中途半端であって、だからどうするべき
かという具体的な内容、解決まで達していないことが多いからであ
る。

──まさしく professor=自分の考えを前に出す人であると思う。
自分の考えを言わずして何が教師か、という考えに賛成です。この
20年間に私はこのような「教師」に出会ってきただろうか。いや、
きっと初めてだと思う。初めてだから最初は戸惑ったりもした。し
かし、今ではすっかり慣れてしまったし、牧野先生の言葉はストン
と胸に落ちてくる感じだ。「哲学は筋道をつけて考える」ことであ
る。物事に筋道をつけて考えるというのは実に「面白い」ことだと
思ってしまうのは不謹慎だろうか。

 授業前は一般論みたいな教科書に載っているようなことを学ぶこ
とが「哲学」であると考えていたが、実際に私達の生活している回
りにも「哲学」が生きていることを知るのと同時に、ずんぶん世の
中には「間違っていること」が当たり前のようにまかり通っている
な、という印象を受けた。「正しい」ことは「正しい」と言える、
そんな哲学の授業は大変興味深く、刺激を受けた。同時に自分の考
えを持つ(持ちつづける)ことの難しさも感じた。自分の考えを他
人に理解してもらい、受け入れられるのは何と大変なことだろうか
。私にはまだまだ努力と経験が必要なようである。

 牧野先生に出会ったことで、自分は今まで何と片寄った視点から
しか物事を見られなかったのだろうと気づかされると同時に、うま
くは言えないが、目の前が切り開かれたような、今までごちゃごち
ゃしていた物事がスッと片づいていくような、そんな感じを受けた
。「筋道を立てて考える、相手のことを考えて発言する」ことを心
に留めておきたいと思った。

      ドイツの子どもの生活

──はっきり言ってうらやましいです。学校は1時で終わり、部活
などもなく、真っ直ぐ家に帰ることができるなんて。やっぱり日本
は勉強ばかりやりすぎだと思う。小学生でも部活をやったり、塾へ
行ったりと、家にいる時間がドイツに比べて少ない。だから、家族
がバラバラになったり、家族の会話が少なかったりするのではない
かと思う。

 小学校は10歳まででもう進路を決めることができるなんて、考え
られないことだと思った。もうそんな小さい時から選択できるなん
て、自立が早いなと思う。又、家庭を基本として、あったかい感じ
がするし、18歳をすぎたら大人ということで、一切指図されないな
んて、信用されてるんだなと思う。親と子のきずなが強いんだなと
思う。そう思うと、日本は教育がだめだったのかなという感じがす
る。受験戦争なんて親のエゴなのかもしれないと思う。

──〔幼稚園が〕環境の好い所にあるということは魅力的な事だと
うらやましく思えた。私は焼津なので、ほどよく緑もあって自然に
ふれて育った。小さい頃に自然にふれることはとても大切だと思い
ます。~部活は学校の仕事ではないということも印象に残りました
。私は中高と運動部で、休みもなく一番遅くまで残って部活をして
きました。やっている時は本当に辛かったけれど、今となっては良
い思い出です。

        学校と教師の仕事

──例えばこの学校の先生は私たちに看護を教えて下さるわけで、
みな看護婦です。その道の経験者で、専門職です。それではここで
先生の仕事は終わりかというと、そうではないと思います。みんな
、少々学校がきつくて嫌になった時、その他、悩みがある時、さり
げなく聞いてくれる先生が数多くいると思います。

 この学校は年2回ほど、担任の先生との面接があります。本当に
先生の仕事が看護を教えることだけだったら、個人のプライベート
にまで関わる必要はないわけです。そのような悩み相談は先生のプ
ライベートの時間が削られて行われるのではなく、学校の勤務内で
行われているのですから、教員として対処してくれているので、仕
事として行ってくれているのだと思います。先生の仕事は教えるこ
とだけとは限らないと感じます。

──神戸小学生連続殺傷事件のことで、先生は事件の前の暴力事件
の時、警察に引き渡すべきだったと言いましたが、それはどうかと
思う。まだ未成年であり、責任能力もなく、すごい負担になると思
う。世間体に関する事、重荷を一生背負っていくこと等、無理では
? だから、その時に違った方法で(カウンセラーなど)原因や次
の行動を予防すればいいと思う。

 神戸事件は結果的に最悪なことになったが、暴力事件の時の担任
はもっとその子に注意を向け、必要な対処法を見つけるべきだった
。「学校に来なくていい」は、他の生徒への〔同じ〕被害〔の発生
〕を防ぐためであったろうが、それでも家を訪ねてみたりする等、
少年に関心を持つべきだったのでは?

 ★(質問) あなたの考えではどういう場合なら警察に引き渡す
のも仕方ないということになるのでしょうか? 鑑別所や少年院な
どは原理的にあってはならないということでしょうか? あっても
良いとするなら、どういう人のためにあるのでしょうか。犯罪を犯
したなら、少年院等に入らなくても、重荷を一生背負う(償いの人
生を生きる)のは、当然ではないでしょうか? そこまで考えてみ
て下さい。

 (その2に続く)

「天タマ」第12号

2006年09月22日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第12号(1998年12月11日発行)

          市立看護専門学校 哲学の教科通信

   この哲学の授業は勉強だけを教えているか?

 これは問題の出し方が不適切だったかな、とも反省しました。と
もかく、私は「教師は勉強だけ教えていればよい」と考えているの
ですが、「勉強だけ教える」という言葉で考える内容が、皆さんと
私とでは異なっているようなので、それを確認する目的で出しまし
た。

 皆さんは「教師は勉強だけ教えればよいというものではない」と
考えていると思いますが、この哲学の授業については肯定してくれ
ているのです。しかるに、私の考えでは、この哲学の授業では「勉
強しか教えていない」つもりなのです。
 問題の出し方のどこが拙かったかと反省してみると、「教師は勉
強だけ~」がテーマなのに、今回は「この授業は~」と問題を出し
てしまったことだと思います。

 レポートから3つの意見を拾います。

──私のイメージの中の「勉強」は、授業中に問題を出されたりテ
ストがあったり、家へ帰ると宿題をするということです。英語・数
学などがそうです。その事から考えると、哲学の授業は違います。
「勉強を教わっている」というよりむしろもっと広い「教育を受け
ている」イメージを持っています。

 現にこの授業の休憩は、休み時間のような休憩ではなく、その日
の授業の本題からは離れていますが、考えさせられたり参考となる
話、ビデオが多く出てきます。そのため広い範囲での知識が身につ
きます。この点からこの哲学の授業は「勉強」ではなく、「教育」
なのだと思います。

──「勉強」の意味にも色々あると思います。哲学では物事のとら
え方、筋道を立てて考えることを学んでいると思います。それがこ
れから社会に出て、いつか親になろうとするために必要な事ならば
、「勉強」と言えると思います。

 しかし、私達自身に問いかけをして考えさせる哲学の授業は、教
えてもらっているというよりも、考えさせてもらっているという感
じがします。いつも私が思いもつかない考えを先生が述べる時は、
新発見として驚いています。

──この哲学の授業は、社会勉強、人としての勉強、病院のシステ
ムの勉強と多方面にわたっていろいろな事を考えさせるものだと思
う。分野的には別であるが、物事の実質を見抜く上では全てに共通
しているものがあると思う。

 ある(資料)事例をみると、自分の価値観、偏見が優先してしま
うのだが、先生は客観性を高めて、いろいろな考えがあると示して
くれる。そういう意味でもこの哲学の授業は物事をとらえるにはそ
れなりのルールがあるということを教えてくれているのだと思っ
た。

      無職氏の投書の件についての講師の考え

 (1) あの投書の出来事の核心はどこにあったのでしょうか。「指
導歴がある」ことで「問題がある」と判断したことだと思います。
「指導歴がある」ということは、前の学校の教師(他人)の判断で
す。間違っているかもしれません。又、「指導」したのですから、
その後改善されているかもしれません。

 ともかく自分で判断するべきでした。結果から見て、その女子生
徒は悪い生徒ではなかったのです(遅刻は問題になりません)。た
だそれだけの話です。悪くない生徒が入ってきたのですから、問題
の起きる筈がなかったのです。

 従って、これによって「悪い生徒を直すのは教師の仕事」という
「一般常識」とやらが証明された訳でもありません。無職氏が女子
生徒を救ったのは事実です。立派な事です。ただその解釈に誤解が
あったようです。

(2) この「一般常識」は、「悪い生徒を直すのは教師だけが全責
任を負ってなすべき仕事」という意味に理解されていて、これは完
全に間違いです。従って、教師の仕事の範囲を狭め、同時にその仕
事については厳しく要求する必要のある現在、このような間違った
理解を助長する不正確な表現は使うべきではありません。

 (3) Dさんの考え(学力検査で通っているなら入れて、後で問題
を起こしたら退学)に賛成です。しかし、日本ではこの退学が例の
「一般常識」のために難しい。そこで、学校は入り口で規制しよう
とするのです。根本は間違った「一般常識」にあります。

(4) 現在の学校には問題が多すぎますが、核心的な問題は2つで
す。第1は「学校教育は校長を中心とする教師集団の行うもの」と
いう考えが定着していないことと、第2に、教師に専門の実力のな
いことが最大の問題だということが十分に知られていないことです


 前者は今日の授業で取り上げます。後者は前回の授業で話しまし
た。「授業の神様」と言われている大村はま氏の『教室をいきいき
と』3の「あとがき」から引用します。

 「私は先生方の皆さんに、国語教師として一人前の学力、国語の
力を持つことに、もっともっと努力してほしいと言いたいのです。
~国語教師なら当然持っているはずの力、持っているかどうか~な
ど、自他ともに問題にもしないような素朴な基礎的な国語の力のこ
とです。子どものことばでいえば『国語ができる』ということです
。充実した読み、書き、聞き、話す力です。この基礎的な力が不足
しているために、いろいろ研究して来られた指導の方法が生かされ
ない、使えないことになるのです。」

 これは国語教師だけのことではありません。どの教科でも同じで
す。では、このように先生に専門の実力がないという事態はどこか
ら来るのでしょうか。私は、例によって大げさに言いますが、一国
の教師の実力は大学教授の実力で決まる、と思っています。実力と
熱意のない教授が高校以下の学校教師を育てているのです。出来な
い教師が多くなるのは理の当然です。つまり、大学教授に根本の問
題があるのです。

 (5) 学校改革の基本は、学校の仕事を限定すること、情報の公開
を制度化すること、外部による評価制度(学校オンブズマン制度な
ど)を確立することでしょう。


           その他

──VTR「宝石博物館」で宝石がすごくきれいだった。原石が、
磨くことによってあんなにキラキラと輝く宝石になるなんてすごい
。宝石の輝きを生かすも殺すも職人次第だと言っていた。私にとっ
ての職人て誰なのだろう。私を輝かせてくれる人はいるのかなぁ。
そんな人が見つかるまでは自分で自分みがきに徹しよう。いつでも
輝いている女になりたいですね。

──私は今、2つ宝石を持っています。どれも成人式の日に母から
もらいました。1つは祖母の形見で、祖母の母親が大切にしていた
ものだそうです。VTRにも出てきたブラックオパールで、祖母が
死ぬ前に(その時私はまだ小学生でした)、これはK子の分と、母
にあずけてくれた、とあとで聞きました。

 もう1つの指輪も、母が若い頃大切にしていたものです。昔のも
のなのでデザインも古くて、あまりふだんは身につけることはない
けれど、ずっと昔から祖母も母も大切にしてきたものを引き継いで
いく感じがとてもうれしくて、あの十倍の大きさのものと交換する
と言われても、絶対に手放さないと思います。職人さんが一つ一つ
手作りで作っていく様子を見て、私の指輪もあんな風につくられて
きたのだと、さらなる愛着がわいてきました。

──この前の授業で講師の給与を初めて知った。なかなかいい給与
だと思った。でも牧野先生は、天タマを作ったり、みんなのレポー
トを読み、そして感想を書いたり、授業の題材を考えたり、とてつ
もない時間を費やしているんだということを知った。先生が私たち
のレポートを読んで感想や意見を下さるようになってから、他の先
生たちからレポートの感想がない時は、感想が欲しいなあ、と思う
ようになりました。でも先生達も忙しいから仕方がない、とも思い
ます。

──今日の「天声人語」にあった少年院の話。ここにいる人たちは
、小中学校、または高校でいろいろな体験をすることができなかっ
たのだと感じる。「やり遂げる、協力する、認められる」。私は幸
いこのような体験を今までに何度となく経験したことがある。もち
ろんこれは家庭、学校、地域を問わず経験していくことが出来ると
思う。そんな機会に出会わなかった、出会えなかった人にとって、
更生施設はとても貴重な場所だと思った。

──私の中学校、特に私たちの学年はとても荒れていた。私も小学
校が一緒だった人で不良グループ(のようなもの)の中でリーダー
のようになっていた男の子がいた。彼はいわゆる家庭に問題のある
子だった。だから学校で荒れるのか、よく分からないけれど、大酒
飲みでどうしようもない父親のかわりに妹弟のめんどうをみる母親
にとっては頼もしい長男だった。

 こういう場合誰に責任があるのか。いない父に代わり、働く母の
代わりに思春期の長男を妹弟のめんどう見のために犠牲にさせた家
庭なのか。私は彼にとって家庭に恵まれなかったことが非行の一番
の原因だと思う。しかし、2番目に、彼の非行行為が始まった時、
友達の誰一人としてとめる者がいなかったということもあると思う
(私も含めて)。見てみぬふりをした教師にも責任がある。誰か一
人の責任にはならない。でも彼の周りの彼を含めた誰もに責任があ
ると思う。

 ★ カウンセラーのビデオで出てきた「問題生徒」はみな、不登
校のように自分に籠もってしまうタイプの人でした。この場合のよ
うな「外に出て、非行をする」タイプにどう対処するのか。これも
知りたいものです。

 私の考えは、校長を中心として教師集団がまとまっていることを
前提として、教師は授業で勝負する以上の事は出来ないし、する必
要もないということです。そういう問題を考え話し合う授業の中で
、教師や同級生との関わりの中で本人が立ち直ってくれれば一番よ
いのですが、よい結果にならない場合は仕方ないと思います。原因
はともかく、暴力的な行動がある場合は更生施設の仕事になると思
います。

──小学校の頃、通信簿に性格評価のようなものもあり、◎○●で
なされていた。これは、学校がしつけをした結果こうでした、とい
う評価なのか、お宅の子供さんは学校ではこういう子なので注意し
て直して下さい、ということなのか。今日の授業を受けてふと疑問
に思った。私は●はなかったと思うが、いつも大抵同じ所が○で、
成績よりもそのことで怒られた記憶がある。自分の性格を評価され
ることは気持ちのいいものではなかったことを覚えている。

──「天タマ」をさりげなく机の上に置いておきました。お母さん
も読んでくれたみたいで、「おもしろそうだね。看護学校でこんな
ことまでやってるんだ」と驚いていました。お父さんはパソコン通
信をやっているので、「ホームページのアドレスあったよな。こん
どアクセスして、ダウンロードしといてやるよ」と張り切っていま
した。「天タマ」の威力は凄かったようです。


「天タマ」第11号

2006年09月21日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第11号(1998年12月7日発行)

          市立看護専門学校 哲学の教科通信

 「悪い生徒を直すのは教師の仕事か」について、「天タマ」第10
号で問題提起しておいたことを考えてもらいました。それの準備と
して、「学校のスリム化」について、少年院の実情について、生徒
「やり放題」の実情について、正しい知識を持つために、新聞記事
を読みました。テーマとしては「授業の記録」にあるものを設定し
ました。改めて考えると、必ずしもはっきりしない点も多く、「今
日はすごく考えさせられるテーマだった。早く『天タマ』を見て、
みんなの意見を知りたい」と思った人も少なくないでしょう。

   未成年者の教育における家庭と学校と地域社会の役割分担
     (更生施設の役割も)

 Bさんに一般論を代表してもらいましょう。

──子供のしつけなどはやはり家庭の役割だと思う。親の接し方で
どういう子に育つかが決まると思う。学校は勉強を教えることと、
家庭では学ぶことのできない集団生活を教えることも大切だと思っ
た。同年代の大勢の仲間と遊んだり、接していくことは、学校に行
くからこそできることだと思う。

 私は学校が勉強だけを学ぶところだったらつまらないと思う。基
本は勉強だが、人との接し方や社会生活について学ぶことができる
と思う。地域では同年代の人だけでなく、違う世代の人との交流を
深められる場であると思う。

 更生施設の役割については、次の意見を聞いてみましょう。

──更生施設の役割は、世間一般では悪い子を更生させる所だと思
われている。私は、この3者(家庭と学校と地域社会)が救えなか
った子を最終的に支える役割があるのではないかと思うようになっ
た。

 傷害や暴走行為などは悪いことだけれど、子供の最後のSOSな
のだと思う。更生施設では、何故最後のSOSを使う所までSOS
を出せなかったのか(親が気づかなかったか)を明らかにして、子
供達を助けていって欲しいと思う。

 ★ 今の学校に「悪い子を直す」役割をそっくり任せるのでもな
く、かといって直ちに更生施設に送るのでもなく、その中間みたい
なものとして、学校にカウンセラーを置くという提案をしている人
もいます。

──生徒は家庭・地域社会・学校と関わっているのだから、学校だ
けに責任を持たすことはできない。それでも学校に頼むというなら
ば、専門の人を置いてはどうだろうか。少しのことでも更生施設へ
送ると、今度は更生施設に責任が行ってしまうので、学校にカウン
セラーを置くのである。

 病院では疾患別に病棟が違うのだから、出来ないことはないと思
う。教師とは別の人間を置くことで、家族にも教師にも言えない悩
みを話し合う機会もできるだろう。教師も悩んだらそこに行くのも
いいかもしれない。

 ★ 実際、兵庫県などでは学校カウンセラーが既にかなり沢山置
かれているといって、先日もTVで紹介されていました。今日、こ
のVTRを見る予定です。
 全体として皆さんのレポートには「地域社会」の教育的機能につ
いての具体的記述がほとんどありませんでした。この事が日本では
未成年者の教育において地域社会が小さな役割しか果たしていない
ということの何よりの証拠だと思います。Eさんはこう言っていま
す。

──家庭と学校が責任の押しつけ合いをするばかりで、地域は今の
日本では関係していないのでは。人と人との関わりが少なくて、地
域が何かの役割をしてくれるということはほとんどないと思う。小
学校までは子供会もあり、多少関わるものの、それ以上ではなかな
か。学校の役割というものをまず出してみて、それ以外の事は地域
と家庭で補うようにすればよいと思う。

 ★ 参考までにドイツの子供たちの生活を私の知っている範囲で
紹介します。

 幼稚園に入るまでは日本とほとんど同じだと思います。幼稚園も
似たようなものですが、日本の幼稚園には勉強を教える所も結構あ
るようです。ドイツの幼稚園ではそういうのは少ないと思います。

 それに、ドイツの幼稚園は都会のそれであっても、広い公園の一
角とか、環境の好い所にあるようです。そして、遊びも本格的とい
うか、私の見た例では、準専門家の指導を受けながら、幼稚園の壁
に一人一人が絵を書いたタイルを張るといった本格的な「仕事」も
あったりします。

 ドイツの小学校は4年(10歳)までです。その後、進路によって
大きく3つに別れます。しかし、途中で進路を変えることも出来ま
す。いずれにせよ、ドイツの学校は8時ころ始まって午後1時でお
終いです。休み時間は10時頃に20分間の大休憩があるだけです。そ
れ以外は教室の移動だけです。学校にいる時間が短いのです。

 1時になると、皆お腹かが空いていますからさーっと帰宅します
。部活は学校の仕事ではありません。クラブは地域社会の仕事なの
です。学校の先生が学校の施設を使ってクラブをすることもありま
すが、それは地域の一員としてするだけです。

 次に、ドイツでは生徒は学校にいる間は必ず誰か先生に見られて
いるということです。教室には先生がいます。大休憩の時は教室か
ら出て外の空気を吸わなければなりません(教室には鍵が掛けられ
ます)。その時、校庭が全部見えるように、3か所くらいに先生が
立っています。これを「監視」と言います。監視の当番表が職員室
に張ってあります。

 職員室と言えば、ドイツの生徒は職員室には絶対に入ってはいけ
ません。ドイツでは18歳未満は子供で、大人の言うことを聞かなけ
ればならないとされています。逆に、18歳になると、大人は一切指
図しなくなります。その代わり自分で一切の責任を負わなければな
りません。

 14歳前後には異性との交際の練習を始めます。家で公認された特
定の異性と付き合うのです。これは一緒にダンス学校に通うためで
もあります。そこで礼儀なども学ぶのです。結婚にまで発展する人
がどのくらいいるかは知りません。

 大人の年休が沢山ありますので、夏休みなどには一家でどこかの
旅行先に2~4週間滞在して、家族でキャンプ生活をするという事
も多いようです。

   自分の子供が「やり放題」のような子供になったら、
   誰の責任と考えるか?

──本人と親の責任だと思う。よく「子供は親の背中をみて育つ」
と言うように、親が一番子供といる時間が長いのです。やり放題に
なった子供を注意して直せるようであれば、子供が親を親として見
ているということだし、そのような力のない親は、親としての威厳
がないと思う。子供が親を尊敬していないということだと思いま
す。

──親の責任だと思う。育児は簡単なものではなく、難しい。親は
子供を育てるのに一生懸命だと思う。時には失敗する親もいるが、
全ての責任を親に親に押しつけるのも可哀相である。しかし、自分
が親だったならば、やっぱり責任を感じると思う。

 ★ 私は、親、本人、学校(教師集団)の順で責任があると思い
ます。しかし、その「責任」の種類も違うと思います。いずれにせ
よ、こういう問題を冷静に話し合う場がないというのが一番困った
事だと思います。その場を作る人として、私は「学校オンブズパン
ーソン」を考えています。

         その他

──先日、新聞を見ていたら「オンブズマン」の記事が目に入って
きた。授業で知ったばかりということもあって、興味深く読んでみ
た。学校のオンブズマンと地域行政のオンブズマンの記事だった。


 私はまず福祉オンブズマン以外にオンブズマンがいることに驚い
た。学校オンブズマンは、学校に対して利害関係のない人達が学校
に行き、調査するというものだった。日本で初めての事らしい。仕
事は福祉オンブズマンと同じようなものであった。

 この記事を読んで、学校・福祉・行政以外にももっと「オンブズ
マン」が必要な場所があるのではないだろうか、と思った。「オン
ブズマン」という仕事はこれからも増えていくと思う。

──初めて鑑別所を見た。どういう事をしているのかも知らなかっ
た。悪い事をよくする人は、何も反省していないのかと思ったけど
、家庭のことですごく悩んでいるんだなと思った。親子関係って本
当に大切なんだなと思った。

──鑑別所のビデオを見て思った事は「私も一歩間違えばあの中に
いたかもしれない」ということでした。私には問題を起こすほどの
勇気もなく今に至っていますが、あのビデオの中の話には私の現在
の状態とそっくりなのもありました。私には話を聞いてくれる友人
がいたので、何とか今まできました。改めて友人を大切に感じまし
た。

 ★(個人の暦)

 カレンダーはどの日も区別無く平等に配列している。しかし、一
年 365日のすべての日は歴史や生活と結びついている。それを「暦
」と呼ぶことにする。 NHKラジオで毎日、「今日は何の日」という
のを放送している。これは社会全体にとっての暦と言うことができ
る。それに対して「個人の暦」というものを考えることができると
思う。人にはそれぞれ、自分にとって忘れられない日が一年に何日
かあるはずだからである。

 私にとっては1年は60年安保闘争と結びついている。20歳代にそ
の渦中にあって経験したあの日々は私に消えることのない刻印を押
した。1959年の11月27日、この日は「全学連の国会突入事件」のあ
った日である。指名手配された指導者が東大の駒場寮に逃げ込んだ
。警察は大学も治外法権ではないといい、教授は大学に官憲を入れ
ないために、出るように主張した。結局12月10日のデモに出た所を
逮捕された。

 6月15日は樺美智子さん(東大文学部4年生)が殺された日であ
る。6月18日の「自然成立」の日は国会の周りに座り込んで一夜を
過ごした。その後、何もかも分からなくなった。それを一つ一つ考
える中で自分の哲学を作ってきた。

「天タマ」第10号

2006年09月20日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第10号(1998年12月4日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 1996年6月11日の朝日新聞に66歳の無職氏の投書がある。「職場
の不正」というテーマに寄せられたものである。

──最近、私は公立高校の講師を務めましたが、教員の生活に慣れ
ると判断が一方的になり善悪感もマヒするんだ、と思いました。

 ある日、他県から引っ越してきた生徒の編入試験の合否判定会議
に出ました。事前の学年会で不合格が決まっていたから追認の会議
でしたが、教師の利益に合わないというのが不合格の理由でした。
家庭に問題があり、本人も指導歴があるから教育しにくい。こうい
う生徒を受け入れるのは、教員の労働条件の面からも問題、という
のです。

 私はパートですから、組織を怖がる理由がなく、一般社会の常識
を述べました。(1) 手続き通り受験し、学力に支障なく定員も空き
がある、(2) 教員の労働条件は受験生と無関係、(3) 悪い生徒を直
すのが教師の仕事~。

どうせ教職経験のない人の言うことと思っていましたが、決をと
ると、若い女教師の手があがり、賛成が半数を少し超え、合格が決
まりました。入学後は遅刻指導などあったらしいが、成績は上の
方。あわや私は少女の一生を狂わせ、老いて悔いを残すところでし
た。(引用終わり)

 これを読んで意見を書いてもらいました。そのレポートを読んで
、「授業の成果が出てきたな」と思いました。「校長は何をしてい
たのだ」という発想があったこと、看護婦と患者の関係で捉え直し
てみる発想があったこと、この2点がその理由です。代表的なもの
を拾います。

──看護婦の仕事も利益に合わないくらい大変な仕事だと思うが、
それを行っている看護婦は、人の死と直面しているから、手を抜く
ことができないというか、無責任なことができないのではないかと
思う。教師も生徒の人生を今回の事だけでなく、左右することがあ
るので、無責任な事だけはしないでほしいと思う。

──このことを言ったことについては「えらいなあ」と思うけど、
パートだから言えたというあたりが、今の現状を見た気がする。こ
ういうのを見ると、この前の授業で考えた「トップで決まる」って
いうのに通じていると思う。本当なら校長とかが言うことじゃない
のかな。それなのに、パートの人しか言えないなんて、何か間違っ
ていると思う。

──私が看護婦になって、もし同じような事があったら、病気以外
で問題を抱えた患者が入院してきたら、快く受け入れられるのかは
、今はまだ自分に自信もないし、分からないが、自分が嫌だと思っ
た事は他人にしてはいけないと思うので、その場限りの感情に流さ
れないで、一度立ち止まって考えてから結論を出したいと思う。

──違う意味かもしれないが、看護婦になると「人の死に慣れる」
というのと同じなのかなあと思ってしまいました。(もちろん学生
だから、人の死についてもまだ理解できないけど)。「教員の生活
に慣れると善悪感がマヒする」。職業病なのでしょうか。

 ★ 「教師の労働条件は生徒と無関係」などというのは「一般社
会の常識」ではないと思います。反対です。1人の看護婦が夜勤を
して、50人の患者を受け持つのと、60人の患者を受け持つのとでは
、患者にとって無関係でしょうか。

 私も「天タマ」とレポートへの感想との両立が難しいと分かりま
したが、1クラスの人数が今のように32~33人でなく、国際標準の
20人だったならば、もっと感想を沢山書けると思います。

 この無職氏は、労働条件は生徒と関係があるという一般論ないし
総論と、この個別的な事例で専任教師たちの挙げた理由が不合格の
理由として正しいかという各論とを区別することができなかったた
めに、間違ってしまったのだと思います。

      「悪い生徒は直すのが教師の仕事」?

 まあ、労働条件の問題は考えやすいと思います。それ以上の根本
的な大問題が「教師の仕事は何かという問題」です。これは、毎年
、講師と生徒の皆さんとの間でもっとも鋭く対立する問題ですので
、冷静に細かく考えたいと思います。

 Eさんは皆さんの反発を代表して次のように言っています。

──先生は何の為にいるのか。それはただ生徒に授業を教えるだけ
のためにいるのではないと思う。この子は問題児だから嫌だ、では
なく、この子は良い生徒・悪い生徒と区別することなく、人間対人
間として対等に接していくことが必要になってくる。自分の利益に
合わないから不合格にする、この子は問題ないから合格にする、そ
のような事で合否をつけるなら、自分からこういう学校は願い下げ
である。

 自分の学校に傷が付く、変なうわさをたてられると困る、という
考えではなく、「よし、この子を良い生徒に更生させよう」という
気持ちで、生徒と関わっていく事も大事であると思う。まだ十代で
ある少年少女の一生を狂わす事をしてはいけないのである。暖かく
見守ることが大人・先生の義務であると思う。(引用終わり)

 匿名希望の方からはこういう抗議もありました。

──問題のある生徒だから入学させたくないと言っているが、誰で
も問題は抱えている。私だって友だちだって、教師には言わなかっ
たが、家庭に問題のあった一人です。(引用終わり)

 不合格も必ずしも不当とは言えない、という意見はFさん一人で
す。

──転入生でも何でも、何か行う時、この学校では2段階に分けて
会議がなされているのか。それはともかく2回行うというのは良い
と思った。より多くの人の意見を取り入れられるし、違った見方が
できることで充実すると思う。裁判でもそうなっている。

 でも、学年会で「不合格」と決めた事の理由は間違っていないと
思う。この場合は転入生だったから個人のみの会議になってしまっ
ているけれど、ふつうの高校入試の時は皆が同じような会議にかけ
られているはず。入試の時、中学での素行とかもチェックされてい
る。

 全体をふるいにかける時はそういう「不合格」者が出てもよくて
、個人を判定する時はダメなのだろうか? あやうく不合格になり
そうだったこの少女が、その後問題を起こさなかったからといって
、〔この考え方で〕よかったということにはならないと思う。(引
用終わり)

 現実的な対案を出しているのはGさんさんです。

──私も無職氏の考えに賛成である。試験で一定のレベルに達して
いれば、合格は当然だろう。そして、彼女の過去に問題があるなら
,入学してから、退学をさせても良いと思う(高校なのだから)。
不合格で彼女の可能性を無にする権利は誰にもないのではなかろう
か。

 実際に彼女と接し、教育をした上でだめであったなら、それはそ
れで仕方ないと思う。教員は生徒を教育する職種なのだから、最初
から彼女を不合格で投げ出したら、教員とは言えないだろう。彼女
の過去で不合格にするのは公正とは言えない。

 ★ 今回は、私の意見は直ぐには言わないようにします。まず、
私として、この問題を考えるにはこういったことを考慮する必要が
あるのではないかという観点を出したいと思います。

 (1) 未成年者の教育機関には家庭、地域社会、学校の3つがある
が、その役割分担は、今の日本ではどうなっているか。これからは
どうあるべきか(最近言われている「学校のスリム化」とは何か。
それをどう考えるか)。

参考
Eさんは「教師はただ勉強を教えるだけではない」と言うけれど
、その「勉強だけ教える」という言葉で皆さんはどういう事を考え
ていますか?

 第1問・学校教師は勉強だけ教えればよい、という考えに賛成か

 第2問・牧野の哲学の授業は勉強だけ教えている、という判断に
賛成か?

 (2) 更生施設(鑑別所、児童自立支援施設、少年院)が存在する
という事実があるが、これの存在を認めるか(どんな悪い生徒でも
学校と教師が直すべきか)。どういう人はこれらの更生施設に送ら
れるべきか。

 参考
 戻るべき家庭のない児童(非行者ではない)のための「自立ホー
ム」もある。

 (3) 問題生徒(悪い生徒)と一口に言うけれど、問題の性質を分
類する必要がある。

 A・自分の人生を傷つける行為
  A-1 ・法律で禁じられている事・・飲酒、喫煙、麻薬、援助交
際など
  A-2 ・学校(教師)が規制している事・・服装、頭髪、化粧、
ゲームセンタ ーなど
 B・他人の人権を侵害する行為
    いじめ、暴力、盗み、ストーカーなど
 C・成績不良

これらについて考えるべき問題
 ・今の学校ではそれぞれはどう扱われているか。
 ・本当はどう扱ったらよいか。

 (4) 神戸小学生連続殺傷事件で犯人が中学3年生と分かった時、
教師がその犯人生徒に「学校に来なくていい」と言ったか否かが、
大問題になった。これは何を意味するか。

これは最後の殺人の前に、同級生を殴り、殴られた生徒は転校し
た時についてである。

(5) 文部省は教員養成課程に「問題生徒の指導技術を学ぶこと」
を含ませ始めた。これをどう考えるか。


        その他

──私は、昨年一年間地元にあるホテルでフロントのアルバイトを
していました。VTR「秘書検定」を見て、アルバイトをしていた
時の事が思い出され、とてもなつかしかったです。

 私はウェイトレスを希望して面接に向かいましたが、面接の際に
「君はフロントに向いているから、フロントへ行って下さい。君な
ら大丈夫だよ」と言われてフロントへ~。フロントの仕事はとても
楽しかった。自分に向いていると思いました。私が笑顔で応対し、
お客様も笑顔で接していると、嬉しくなりました。

 毎月1度は会議で見えるお客様に「君の笑顔があるとホッとする
ね」と言われ、その日一日きげんが最高潮だったこともしばしばあ
りました。本当に勉強になりました。