ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 177号 社民党は公明党から学べ

2005年07月31日 | サ行
(2004年)07月11日、第20回参議院議員選挙が行われました。自公連立与党が何とか安定多数を確保したようです。

今回の選挙について1つだけ述べます。

それは、与党は自民党と公明党とが協力したのに、野党は民主党と社民党と共産党との協力が極めて少なかったということです。そして、この事がその分だけ政権交代を遠ざけたということです。そして、この事の原因は社民党と共産党が政治的にコドモだという点にある、ということです。

今回の参議院選挙の結果について1人区だけで見てみますと、共産党はともかくとして、社民党が民主党を応援したら民主党が議席を取った(従って自民党が議席を取れなかった)であろう選挙区が4つあります。山形県と富山県と徳島県と香川県です。

社民党が民主党に協力したら、民主党が議席を取れたかもしれないと思われる選挙区も4つあります。鳥取県と山口県と佐賀県と熊本県です。

後者は除いて前者のほとんど確実に逆転していたであろう4つを逆転して計算しますと、自民党は45議席になり、民主党は54議席になります。

これなら民主党の大勝で、小泉首相は退陣していたでしょう。従って、次の総選挙は近づいていたでしょう。

ではなぜ、社民党(共産党も同じ)は民主党に協力しないのでしょうか。民主党に協力すると自党の存在感が薄れるからであり、民主党の憲法観に賛成できないからであり、消費税引き上げに賛成できないからだそうです。これらの点を憲法第9条で代表させますと、要するに、民主党に協力したのでは憲法第9条を守れないからであり、民主党と自民党は同じだからだと言うのです。

では、民主党に協力しないで、独自に戦って「憲法第9条を守れる」でしょうか。否。社民党の議席は変わりませんでした。共産党は大敗しました。

どこに間違いがあるのでしょうか。公明党を見るといいでしょう。公明党は自民党に協力しながら、自党の存在感をどんどん高めています。今回、自民党に恩を売ったために、自民党の憲法改正と教育基本法改正はその分だけやりにくくなったと言われています。

つまり、選挙では、政権に対する態度が根本であって、それ以外の点は二の次、三の次なのです。社民党と共産党に分かっていないのはこの点なのです。公明党が心得ているのはこの点なのです。これがコドモと大人の違いです。

小選挙区の比重が高まり、二大政党時代になった今、選挙は常に政権維持か政権交代かが根本問題なのです。その時、どちらかと組まなければ自党の存在感を出すことは不可能なのです。大政党と組んで自党の存在感が薄れたとするならば、それは大政党と組んだからではなくて、自党の組織のあり方が間違っているからなのです。

現在の日本の政治では政権交代が最大の課題であり、これに比べたらほかの問題は小さな事柄です。この事については既に本メルマガ第 141号「政権交代はなぜ必要か」(2003,09,25配信)で詳論しました。私は決して民主党支持者ではありませんが、今回も民主党に入れました。

政策的には社民党が正しいと思います。正しいで悪ければ、私の考えと一致します。憲法第9条を守れということも、自衛隊は憲法違反だということも、国民全員に月8万円の年金を保障せよということも、皆賛成です。

 しかし、私は社民党には入れませんでした。なぜなら、社民党の考えは中学生の社会科のレポートみたいなものだからです。被選挙権のない党に投票することはできません。

 確かに憲法改正の足音は高まっています。だからこそ、それに現実的に対処することが必要なのだと思います。ドイツのみどりの党は社民党と協力しながら政権につきました。なぜ日本の社民党に同じ事が出来ないのでしょうか。それはただ、社民党の人々、特にその指導者がコドモだからだと思います。

 次の総選挙までに社民党の中にこういう大人の考えが根づくことを願っています。

 なお、昨年(2003)年11月の総選挙でも共産党が民主党に協力していれば政権交代が実現したという説があります。一応これをお断りしておきます。

(2004年07月14日発行)


教育の広場、第 178号 議論は真理にとってのみ有利である

2005年07月30日 | ご意見の広場
 これまでにも何回か投書をいただきましたUさんから又投書をいただきました。これをまず全文掲げます。

 牧野様

 いつも拝読しています。

 第 177号「社民党は公明党から学べ」を読んで、同様の疑問を持ちました。そして、私も牧野さんと同様の投票をしました。政権交代を期待して、さほど好きでもない民主党に入れました。

 ただ私は、公明党から学べなどと言う気はさらさらありません。そんな例を出さずとも、野党が協力しあえば好いと言えばよいと思います。

 創価学会を母体とするインチキ風見鶏政党などを例に出す必要はないと思います。私の家の周囲は学会の人間が多く、その一人にいわれのない嫌がらせを受けたりしたことがあります。また、こういった宗教団体を母体にした政党には、民主的に問題を解決する能力は無いと思います。

 話は変わりますが、文中の言葉がとても偉そうですね。今回も、政党に対して子供、大人という表現をされています。確かに、全体的な事柄を表現するのにこうした言葉があなたにとってはぴったりなのかもしれませんが、読んでいる方は、「何をこいつ偉そうに~」と思いますね。

 以前、ノーベル賞学者の批判をするときもそういった表現があったと思います。読んでいて不快です。

 牧野さんの考え方は非常に参考になりますし、現実的、建設的だと思いますが、感情的に受け入れられない人は多いような気がします。あなたのいま置かれている立場がそうさせているような気もします。

 私はたとえ気に食わなくとも支持しますが~。

 PS・このメールはプライベートなものです。公開されなくて結構です。当方としてはコメントの必要ありません。 -

     感想(牧野紀之)

 「PS」を読みますと、これは「投書」ではないのかもしれません。しかし、こういう発言を「プライベート」と断って、公開やコメントを拒否する自由があるのでしょうか。それなら始めから投書するべきではないと思います。

 そのように考えましたので、投書者の考えに反して公開し、コメントを書きます。公の問題についての議論は公の場で冷静に議論することが真理のためであり、そういう議論はただ真理にとってだけ有利なものだと思います。

 私への批判は「言葉が偉そうだ」ということだと思います。

 ご忠告はありがたく伺い、繰り返し反省するつもりですが、私の基本的な立場を申し上げます。

 それは、第1に、最近の日本語ではあまりにも「~させていただく」という謙譲語が多すぎると思うということです。批判する場合には、相手が反省してほしいという思いを持って、又自分の方が間違っているかもしれないということを忘れずに、対等な立場で客観的な言葉で話し合うという態度で話せば好いと思います。

 第2に、原則として言ってはいけない言葉もあると思います。例えば、「バカ」とかです。しかし、又、なるべく使わない方が好いが場合によっては根拠を挙げて使うならば、使っても好い言葉もあると思います。

 Uさんが問題にしている「コドモ」という言葉は後者だと思います。Uさん自身、「インチキ風見鶏政党」という悪罵を投げつけていますが、これの方が感情的で不適切だと思います。

 第3に、批判する場合には特に根拠を示すべきだと思います。「以前、ノーベル賞学者の批判をするとき」と言っていますが、このメルマガはすべてバックナンバーが残っていて調べられるようになっていますから、それくらいは調べて確かめて、どの言葉が不適当なのかを指摘するべきだと思います。批判のモラルも守ってほしいと思います。

 尚、Uさんは牧野と同じ投票行動を取ったと書いていますが、自分の政治的見解及び支持政党については述べていません。多くの日本人は自分の支持政党を言わないで、何党が勝つかなどを論じるのが好きですが、残念ながらUさんもこの日本人的特徴を持っているようです。

 私は自分の支持政党を言わない人は政治の話をする資格がない、あるいは半分しかないと思います。

(2004年07月21日、発行)


教育の広場、第 180号、同語反復は無意味か

2005年07月29日 | その他
学研の国語大辞典は「同語反復」について次のように説明し
ています。

─伝統的な形式論理学で、同じ語または同じ意味の語を用い
て判断を行うこと。また、その判断。「人は人である」「男と
は女でない人間のことである」「雨が降れば天気が悪い」の
類。意味論的には空虚であるが、論理的には虚偽ではない。─

まあ、平凡な説明ではあると思います。しかし、実際に使わ
れた用例を挙げるので有名な、そして私もそれ故に支持してい
るこの辞典がここに挙げているのは本当に使われた例なのでし
ょうか。出典が示されていません。

たしかに相手の意見が無意味だとして批判する場合に「それ
は無意味な同語反復だ」と言う言い方をする場合があります。

 この場合などは、同語反復は無意味なものだという事を前提
して言っているのだと思います。「同語反復にも無意味なもの
と有意味なものとがあり、それは無意味な方の同語反復だ」と
いう意味ではないと思います。

ですから、「意味論的には空虚だ」という学研の説明はこう
いう「公理」(と考えられているもの)を踏まえていると言え
るでしょう。

しかし、同語反復は本当に無意味でしょうか。私がこれまで
に収集した用例を私なりに分類しながら考えてみましょう。

 第1の型・「規則は規則だ」型

1、かつてワシントン大使館勤務時代、官舎に入ったところ
前任者の犬と猫が汚した跡があまりにひどいので、業者に清掃
してもらい、これは私費で支払うべきものだ、と書き添えて前
任者に請求書を送りつけた。

館員会議でこのことに触れ、ペットを飼うことは公務員宿舎
では認められていないはずだとクギを刺したところ、「欧米で
はペットを飼うことは普通でしょう」という不満が何人かから
出た。

「それはわかる。ただ、規則は規則だ。それがおかしいとい
うのであれば、それを変えてもらう以外ない」と答えた。
(2002,1,31,朝日)

2、ゲバラには、指導者としてのカストロの立場と選択が痛
いほどよく分かる。ソ連に対して不信感を抱きながら、しかし
それを表立って口に出せない苛立ちと苦渋。国民を食わせるた
めに、大国に身を寄せなくてはならない小国の指導者の忸怩た
る想い~。しかし、だからといって自分の信念を曲げるわけに
はいかない。間違いは間違いなのだ。
(戸井十月『カストロ』新潮社)

3、ところが「市民社会建設の掛け声を言うだけなら、ロシ
アでは何ら新しいことではない」と、大統領をからかったのは
有力紙イズベスチヤだ。例にあげたのが、 300年前の改革者ピ
ョートル大帝である。~後世の歴史家の厳しい評価を引用し
て、上からの改革で市民社会を生み出すことがロシアではいか
に難しいかを指摘した。時代は違うが、ロシアはロシアだ。プ
ーチン氏が歴史に実績を刻むには相当な覚悟が要る。
(2004,05,31, 朝日)

感想

思うに、この型の同語反復が意味を持つのは、単語の意味に
2種類あるからだと思います。これは私が拙稿「辞書の辞書」
に書いたことです。

1つは「信号対象」ということです。言葉は信号の1種であ
り、従って対象を持っています。鬼とかいった架空のものにつ
いてはどうかという議論もありますが、これもやはり(架空
の)対象を持っていると思います。

もう1つは「内容上の意味」とでも言うべきもので、「その
対象についての人間の理解」です。

この考えで今問題になっている「規則は規則だ」を敷衍して
説明しますと、「規則と呼ばれているものは従わなければなら
ない(規則の性質、本質を持ったものだ)」という意味になり
ます。

つまり、主語の「規則」は「信号対象」で考えられており、
述語の「規則」は「内容上の意味」で理解されているのです。

 この型の同語反復は「やはり」を入れることができるという
特徴があります。「規則はやはり規則だ」「間違いはやはり間
違いだ」「ロシアはやはりロシアだ」と。

さて、このように理解しますと、この第1の型にはいくつか
のバリエーションのあることが分かります。それをまとめてみ
ましょう。

 第1型の派生型、その1。「自分は自分だ」型

4、伊之助には、良順のように気体を愉しむようなゆとりは
なかった。/ (自分は自分だ)/ と思わざるをえない。
(司馬遼太郎「胡蝶の夢」3)

5、私は私。父とは違う。父の政策をまねるつもりはない。
(2004,07,27, 朝日)

感想

この派生型は文としては基本形と同じですが、2つのもの
(事柄)が別物であることを一方を主にして言う所に特徴があ
るのだと思います。

 第1型の派生型、その2。「やる時はやる」型

6、〔不当な圧力をかけた政治家の名前は〕墓場まで持って
いくというのが藤井氏の基本姿勢だが、自分の身を守るために
止むを得ない時は止むを得ない。
(2003,10,22, 朝日)

7、公明の支持者も生身の人間。いくらお願いしても動かな
い時は動かない。  (2003,10,22, 朝日)

8、「有るところには有るもんだねえ」。あたりまえです。
有る所には有る、無い所には無い。
(関口存男「ドイツ語論集」)

感想

この派生型は完全な同「語」反復ではありませんが、同文
(同句)反復で、しかも「時は」とか「所には」といった仮定
の入っている点に特徴があると思います。

 第1型の派生型、その3。「専門家の専門家たる所以」型

9、本来ならば~とでもやった方が合理的なのですが、そう
しない所が只今述べている例外現象の例外現象たる所以なので
す。(関口存男「ドイツ語論集」)

感想

この派生型も基本形と同じ構造を持っていると思いますが、
同語をつなぐ助詞が「の」であることと、「~たる所以」と続
く所に特徴があるのだと思います。

 第1型の派生型、その4。「デタラメならデタラメだ」型

10、ドイツ語と出鱈目との区別がわからんでどうする。ドイ
ツ語なら何か意味があるし、出鱈目なら~出鱈目じゃないか。
(関口存男「ドイツ語論集」)

感想

これは「デタラメはデタラメとしか言いようがない」、つま
り他の言葉で説明のしようがない、ということではないでしょ
うか。これについては関口さん自身が次のような言葉を残して
います。

「啖呵というものはすべて『当たり前なこと』をいうもの
だ、という点に注目して頂きたい。一見わざわざ云う必要もな
い、あんまり当然すぎて却って論理を成さない事を口に出して
云うのが、これが『居直った捨て台詞』である。いったい強烈
な意志を表現するには、内容的には馬鹿馬鹿しい啖呵や捨て台
詞が最も適当で、戯曲の台詞には殊にこれが多いと云えるであ
ろう。不貞腐れた女が、『女はどうせ女ですよ』と云うのなど
もそうである。とにかくこうした同語反復によってのみ表現し
得る或る種の強烈な真理があることは事実である。『食えなく
なったらどうする?』と云ったのに対して、『食えなくなった
ら死んだら好いじゃないか』と答える場合には、論理の進展は
ちっともないが、其処には或る種の意気が含まれているのであ
る。(関口存男「ファオスト抄」)

感想

これはひょっとすると第1の型の派生型ではなくて、独立し
た第3の型にするべきかもしれません。ご意見を求めます。

 第2の型。「事が事だから」型

11、ただの不勉強なのか、憲法9条改正に道を開こうとする
確信犯としての行動なのか。小泉首相の言葉が短絡的で粗雑な
ことには慣れっこだが、これは事が事だけに、黙っているわけ
にはいかない。(2004,06,30, 朝日社説)

12、〔河島みどり『リヒテルと私』を読んでみたらとても面
白かったという話の中で〕ことに旅の話などはお伽話みたいで
実に楽しい。これだけでもこの本を読む価値があるといってい
いくらいである。それは話の主人公が主人公だからでもあるが
、著者の筆のせいでもある。(2003,10,20, 朝日。吉田秀和)

 13、〔良也は、石楠花園の〕所長が〔良也の父親を〕心配し
て病状を聞くのを「大したことはないらしいが、何分年齢が年
齢だから」と言葉を濁した。
(辻井喬「終わりからの旅」)

感想

この型の特徴は、「が」を使うことと、同語反復の後に「だ
から」とつながっていくことだと思います。このほかに「物が
物だから」、「金額が金額だからね」などもすぐに思い浮かび
ます。

さて、この型の同語反復の2つの語のそれぞれは第1の型と
同じ意味でしょうか。違うと思います。主語の「事」は「今問
題になっているその事」という意味だと思います。そして、述
語の「事」は「(好い方にせよ悪い方にせよ、とにかく)ひど
い事」という意味だと思います。

用例11ならば、「ここで念頭に置かれている事がきわめて重
大な事だけに」、12ならば、「話の主人公が音楽ファンなら誰
にでも関心のあるすごい主人公(大ピアニストたるリヒテル)
だから」、13なら、「何分父の年齢が相当の年齢だから」、と
なると思います。

 第2の型にも派生型があると思います。それは「親も親だ」
型とでも名付けられるものです。

14、あの骨董屋の但馬(たじま)さんが、父の会社へ画を売
りに来て、れいのお喋りを、さんざんした揚句の果に、この画
の作者は、いまにきっと、ものになります。どうです、お嬢さ
んを等と不謹慎な冗談を言い出して、父は、いい加減に聞き流
し、とにかく画だけは買って会社の応接室の壁に掛けて置いた
ら、二、三日して、また但馬さんがやって来て、こんどは本気
に申し込んだというじゃありませんか。乱暴だわ。お使者の但
馬さんも但馬さんなら、その但馬さんにそんな事を頼む男も男
だ、と父も母も呆(あき)れていました。
(太宰治「きりぎりす」)

15、昨年4月から実施されている学習指導要領が、文部科学
省の諮問機関「中央教育審議会」の答申を受けて、1年余りで
改められることになった。(略)学校の完全週5日制の実施に
伴って教育内容を大幅に削減し、「ゆとり教育」を打ち出した
のがいまの指導要領だ。

しかし、それが学力低下を招くとの批判が相次ぐと、文部科
学省は学力重視の方針に転換した。そうなると、指導要領が「
ゆとり教育」のままでは整合性がとれなくなる。そこで〔指導
要領の中にある〕歯止め規定を外して、取りつくろうというわ
けだ。

中教審を使えばもっともらしくなるとでも思ったのだろうか
。あやつり人形を演じた審議会も審議会だ。
(2003,10,9,朝日社説)

感想

この派生型は「も」を使っている所に特徴があるのだと思い
ます。つまり、2つの物事を比較して同じように断罪する場合
に使う表現だと思います。

これを第2の型の派生型とする理由は、その「も」を取り除
いて、1つの文だけにして、「親が親だから」と言っても、そ
の事だけとしては同じ意味になると思うからです。

「但馬さんも但馬さんだ」は少し難しいですが、「但馬さん
がひどい人だから」と理解できないでしょうか。

例文15は、表面的には「審議会も審議会だ」と言うだけです
が、裏に「文部科学省も文部科学省だ」というのが前提されて
いると思います。

 因みに、これは朝日新聞の社説でしたので、こういう時に英
語ではどう言うのかなと思って、「ヘラルド・アサヒ」の英訳
を見てみました。

The ministry apparently used the council to impose an
air of legitimacy to its policy shift. The panel should
be ashamed of having served as a puppet for its own
ends. (Herald-Asahi)

英語には同じような言い回しがないのでしょうか。意味を取
って訳しています。

 以上は私のドイツ文法研究の途中経過を披露して、皆さんの
ご教示を受けたいということですから、ご意見をどしどしお寄
せください。
  (2004年08月07日発行)


教育の広場、第 181号、言葉の手品

2005年07月28日 | ご意見の広場
教育の広場、第 181号、言葉の手品

 前回に続いて少し学問的な事を書きます。

精神病理学者の木村敏(びん)さんは『人と人との間』(弘
文堂)の94~ 101頁に「了解」について次のように書いていま
す。

─ディルタイによれば、いっさいの文化的、歴史的世界は生
の表現、生の客観化されたものであり、これは自然科学的な因
果連関を求める説明によってではなく、そこに自らを表現して
いる生そのものの内的連関を追体験することによってのみ把握
されうる。この追体験の過程を、ディルタイは了解となづける
のである。

この了解の概念を精神病理学の中へ導入したヤスパースは、
これをさらに静的了解と発生的了解に区別する。或る人が怒っ
ているのを見て、その怒りそのものを追体験して了解するのが
静的了解であり、その人が例えば誰かに侮辱されて怒っている
のだ、というように、或る心的現象が他の心的現象から発生し
て来る意味連関を追体験するのが、発生的了解である。(略)

 一般に用いられている「追体験」の意味は、或る他人の心中
を思いやり、自分でその人の身になって感じとる、ということ
である。(略)

 これと同様に、或る風土を追体験するということは、自らを
その風土の中に住まわせてみる、それも単なる観光客としてで
はなく、構想力においてその風土を構成する生きた住民とな
り、その風土において自己を風土化した人間となって、その風
土を思いやるということである。(略)

 現実に与えられている事実的データを「結果」として前提
し、それに対する何らかの「原因」を仮定して、この原因から
の因果連関的・説明的な推論を行って、それが現在与えられて
いる結果と一致した場合に、事態が解明されたものとみなす方
法は、例えば自然科学的医学における病因論的診断に際して常
用される方法である。

 例えば、左半身に運動麻痺が生じている場合、大脳右半球の
病変という原因を仮定すれば、これが運動神経の伝導路の交叉
によって裏付けられた因果連関的推論によって、左側半身麻痺
という結果を完全に説明できるが故に、ここで病変の局所診断
が可能となる。さらにその場合、血圧とか、眼底所見とか、脳
脊髄液の所見とかのいくつかのデータが結果として前提され、
それに応じて、大脳の一定箇所における出血による組織破壊と
いうような原因の推定を許すならば、病因論的診断はますます
確実になる。

 或る風土の成立の事情を、自然科学的に説明しようとする態
度は、この医学的診断法の態度と同一である。(略)

 これに対して、風土の発生的了解に際してとられる態度は全
く異なったものである。風土は全体として一挙に与えられ、し
かもこの与えられ方それ自体の中に、それの成立の事情もま
た、直観的に与えられている。この場合にも、その風土に関す
る経験が豊かになれば、それだけこの直観も確かなものとなる
けれども、それは、データの豊富さに伴って精密度を増す自然
科学的推理の場合とは、違った意味においてである。つまりそ
れは、構想力の可能性を増大せしめることによってである。

 したがって、このような直観は、出発点となる構想力の優秀
さの度合いによって、つまり、それを見る人物の眼力の程度に
よって、大きく左右されることになる。(略)

 風土とは、説明されるべきものではなくて了解されるべきも
のである。それは何らかの原因に基づく結果ではなくて、現在
の風土のあり方それ自体の中に見出すことのできる何らかの契
機の意味的連関における表現である。─

 これについての私の考えは以下のとおりです。

 ここで木村さんは「自然科学的因果連関の説明」に対比して
「文化科学的歴史科学的了解による把握」を説明しているので
す。氏による対比を整理すると次のようになると思います。

 自然科学的・因果連関の説明的推理・局所診断
 文化科学的(追体験=了解)・内的連関の感取=把握・全体
の直観・構想力

 このように整理すると分かる事は、まず対比が完全でないと
いうことです。構想力に対応する自然科学的知力が述べられて
いません。それと同時に「全体の直観」に対して「局所診断」
と言われていますが、この「診断」の認識方法が述べられてい
ません。これを私の推測で補って完成させると、両者の違いは
結局は「部分の分析的認識(悟性)」と「全体の直観(構想
力)」の違いということになるのだと思います。

 これくらいの事なら大して新しくもありません。要するに、
理性主義に対するロマン主義です。従って、この問題は既にヘ
ーゲルが答えています。ヘーゲルを理解できない人達が形を変
えていろいろな説を立てているだけだと思います。

 もう少し丁寧に検討してみましょう。

 「了解」は「因果連関を求める説明」と対比されて「自らを
表現している生そのものの内的連関の追体験による把握」とさ
れています。しかし、両者はどこがどう違うのでしょうか。

 まず、結果としての(所与の事実の)「説明」と「把握」と
はどう違うのでしょうか。同じだと思います。だからやはり自
然科学だろうと文化科学だろうと「科学の目的は事実の説明」
なのです。

 では、その説明の仕方はどう違うのでしょうか。一方は「自
然科学的因果連関」とされています。因果連関に自然科学的と
そうでないのとがあるのでしょうか。ないと思います。つまり
因果連関で説明するのが自然科学だと言うのです。まず、ここ
に既に問題があります。自然科学は因果連関だけではありませ
ん。相互作用もあります。生物学では目的関係も使われます。

 それに対して歴史科学では「追体験」という方法を使うのだ
そうです。対象が人間的な事実である以上、追体験を方法にす
るのは当たり前です。問題はその追体験の中身です。この追体
験は自然科学における実験や観察とどう違うのでしょうか。社
会生活(政治や会社の活動)でのすべての政策や事業は実験と
いう意味を持っていますが、それは自然科学の実験とどう違う
のでしょうか。

 追体験では追体験する人はこれまでのすべての経験を踏まえ
ています。その追体験とやらは漠然と「感じる」だけのものの
ようです。それなら、それは芸術ではありえても科学ではない
と思います。科学は概念で定式化しなければなりません。「或
る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関」と言い
ますが、それは「因果連関」とどう違うのでしょうか。

 それは「局所診断(分析)」か「全体の直観」かの違いのよ
うです。この両者は確かに違いますが、それは自然科学と文化
科学の違いでしょうか。自然科学の場合でも、新しい理論など
に気づく場合、「全体の直観」が大きな役割を果たしています
。むしろたいていの場合、答えは直観的にひらめくものです。
それを証明するために観察し実験しデータを集めるのです。

 木村氏のおかしさは、「完全な説明」を与えた「局所診断」
の後に更にデータが加わって「ますます確実な診断」がなされ
るなどと言っている所によく出ていると思います。

 たしかに分析的自然科学もありますが全体的自然科学もあり
ます。全体的文化科学もありますが分析的文化科学もありま
す。学者の方法の違いにすぎないと思います。

 新しい用語で何か新しい事を言ったつもりになるのは科学で
はありません。これまでの用語との関係をきちんと説明するべ
きです。そもそも「了解」と訳されているドイツ語は Versteh
en(フェアシュテーエン、理解)です。これをこれまで通り「
理解」と訳したらどこが拙いのでしょうか。

 ヘーゲル学の中でもヘーゲルの Wissenschaft (ヴィッセン
シャフト)という単語を「学」とか「学問」と訳すことで何か
を説明したつもりの人が多いです。私は「科学」でいいと思っ
ています。これまで「科学」と呼ばれてきたもの、あるいは普
通に「科学」と呼ばれているものの、これまで理解されていな
かった本性を明らかにしたのですから、対象を指示する単語と
してはこれまでと同じ単語を使わなければ分からないのではな
いでしょうか。それについての理解の違いは述語の中に示され
るのであり、文章全体の中で表現されるのです。

 実際、ヘーゲルの Wissenschaft を「学」とか「学問」と訳
して満足している人の中にはヘーゲル哲学の分かっている人は
一人もいないと思います。

 「実存」という単語についてもいつもそう思います。これは
人間のことなのですが、その人間を「実存」として捉える考え
方に立って見た時の人間のことなのです。ですから、人間をど
う捉えるかが問題になっている所では、対象を指示する語とし
ては「人間」を使い、その人間とは何かを文章全体で説明し
て、そのまとめとして実存という語を使えば好いと思います。

 イエス・キリストにしても同じです。この言葉は、「イエス
(ナザレのイエス、つまり歴史上の個人)がキリスト(旧約聖
書で予言された救い主)である」ということを前提して、それ
を認めた表現です。だから、ユダヤ教徒はこの言葉を使いませ
ん。彼らはイエスをキリストと認めていないからです。

 だから、イエスがキリストであるか否かを論じている時に、
イエス・キリストという言葉を使うのは学問的に間違いなので
す。そこで問題になっている対象はイエスなのだから、ただイ
エスと言うべきです。

 単語の意味は大きく分けて2つあります。1つはその信号対
象のことであり、もう1つはその対象についての理解のことで
す。この事を正確に理解したいものです。詳しくは「辞書の辞
書」(拙著『生活のなかの哲学』に所収)に書きました。
 (2004年08月20日発行)


宗教(02、西洋人の考え方)

2005年07月27日 | サ行
 新渡戸稲造氏の『武士道』の第1版への序文は次のような書き出しになっています(奈良本辰也訳、三笠書房による。角括弧内の語句は牧野)。

- 約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。

「あなたがた〔日本〕の学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるんですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に〔は〕忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。 -

 これが1つのきっかけとなって新渡戸氏はこの本を書くことになったそうです。

 さて、日本人は宗教を持たない(人が沢山いる)、といったことを言うと、外国人、特に欧米人は「それではどうやって道徳を教えるのか」と聞いてくる、という話は好く聞きます。私自身はそのような質問をされた経験はありませんが、そういう話は好く聞きますし、好く読みます。この新渡戸氏の経験は計算すると1889年頃の事になりますが、それほど昔からずっと続いているようです。

この話を聞いて私の考えている事をまとめます。

第1に、こういう質問をする人(欧米人)は宗教の目的(の1つ)は道徳教育にあると考えているようですが、本当にそれで好いのかということです。私見では、それは宗教の意義を低めるものではないかと危惧するからです。

ということは、第2に、道徳は家庭で親などから一部は自然に、一部は親の教えを通して学ぶものではないのか、という疑問です。日本語には「親の背中を見て育つ」という表現があると思いますが、これは前者の事だと思います。

そもそも第3に、事実として、日本人は欧米人に比して道徳を知らないだろうか、という疑問があります。私は外国人のことはほとんど知りませんが、海外旅行した経験のある人の多くは、全体としては日本人の方が道徳的だという感想を持っているのではないでしょうか。

第4に、最近好く見たり聞いたりします「なぜ人を殺してはいけないのか」などという愚問について言いますと、こういう事を宗教とやらに教えてもらわなければ分からないなどという事は、ほとんど考えられない位珍しい事だと思います。

しかし、最近はこの「問い」が結構流行っているようで、それに答えるような題名の本まで出ています。

ついでですから私の返事を書いておきましょう。「それが分からないのなら、人を殺してみるといいでしょう。そしたら捕まって刑務所に永い間いることになりますから、その持て余すほどの時間を使って『なぜ人を殺してはいけないのか』と、分かるまで考えるといいと思います」。

人間の頭はこのような事を考えるためにあるのではないと思います。

宗教についていつも思うことは、その定義について広く認められたものがないということです。

学研の国語大辞典はこう書いています。

「神仏などの超自然的・超人間的なものを信仰・畏怖・尊崇することによって、心のやすらぎを得ようとすること。また、その信仰の体系的なまとまり」。

多くの辞典の説明はこのようなものです。この説明の特徴は、第1に、信仰される教義そのものと信仰する態度との両方を含んでいることです。本当は信仰する態度と宗教とは分けた方が正確だと思います。たしかに現実には信仰する態度のことをも宗教とか宗教的態度と言ったりしますから、そういう使い方もあるのですが、それはあくまでも派生的な使い方ないし不正確な使い方として紹介するべきだと思います。

第2の特徴は、仏教とキリスト教を宗教と前提してそれに合わせて説明していることです。そのため、原始仏教は宗教ではないのではないかとか、原始キリスト教は本当に宗教なのか、といった問題自身が出てこないようになっていることです。

そして、それと結びついている事として問題なのは、この説明では、「日本の会社は新興宗教だ」とか「共産党は宗教団体だ」といった考えを検討できないことです。

思うに、言葉を定義する際には、新しく言葉を作る場合を除いて、一般に使われている言葉の意味を正確に説明しようとする場合は、それが実際にどのように使われているかを、用例に基づいて調べて、それの全てに通用するような説明でなければならないと思います。

(2004年08月26日発行)

 参考

 01、ドストエフスキーは『悪霊』のシャートフに「宗教、すなわち善悪の観念を持たぬ国民はかつて存在したことがない。……理性はかつて一度も善悪の定義を下すことが出来なかった」と言わせている。ここには宗教こそがモラルの根底であるという確信があり、それが同時に、理性はモラルの根底になりえないのではないか、という疑いとなっている。(川崎『ソ連の地下文学』朝日新聞社281-2頁)

   関連項目

宗教

教育の広場、第 207号  コーチングスタッフのその後

2005年07月25日 | 教育関係
教育の広場、第 207号  コーチングスタッフのその後

 本メルマガ第 195号で、静岡県教育委員会の「魅力ある授業
作り支援事業」とやらを検討し、それが間違いであることを主
張しました。

 しかし、それはこの04月から実行に移されているようです。
これを評価しているらしい朝日新聞は06月20日付けの静岡版で
かなり大きなスペースを割いて報じています。曰く「コーチン
グスタッフ始動」「元校長ら授業指導」などという具合です。


 まずそれが何かを確認します。「キーワード」という名の説
明の囲みを見ますと次のように書いてあります。

─主に校長経験者が任命される。小学校4教科、中・高校5
教科にそれぞれ担当がおり、〔静岡県の〕東・中・西部に1人
ずつ、計42人が指導にあたっている。

 各教科の担当コーチが県内の全小学校 541校、中学校 266
校、高校 106校を1年間で1回訪問する。小・中学校は1週間
で6校、高校には2週間で5校を回っているという。

 学校が選んだ教員の授業を1~2時限、多いときには1時限
に2~3人の教員の授業を見る。授業後、約1時間の教員との
協議会で、授業の改善点などの指導や、特に身につけさせたい
内容や発展的な学習内容などを具体的に示した「県版カリキュ
ラム」の浸透・普及を図っている。─

 ここに書いていない基礎的事実で私が県教委から電話で聞い
たことを書いておきますと、コーチ1人あたりの仕事は週に30
時間で、報酬は1年間で約 200万円払うそうです。

 42人を掛けますと、全部で約8千万円です。予算は約1億8
千万円でしたから、後の1億円は何に使うのでしょうか。県教
委の得意の裏金でしょうか。

 この制度を2年間限定にしたのは、2年やってみて、結果を
みてその後の事は考えるのだ、とのことでした。

 さて、朝日に報じられた言葉を引用します。

 教員の声は次の通りです。
・班の活動が機能しなかった。どうすればよかったか。
・抽象的なことをイメージするのが難しい事柄がある。
・勉強になった。次の授業に生かせる。
・生徒とのコミュニケーションがもっと必要だと分かった。

 コーチの言葉は次の通りです。
・英語の発音が上手だったら、もっとほめてあげることが大
事。
・子どもたちの既成概念を覆して驚かせることで、授業に集中
させる。
・子どもたちは学びたいという意欲がある。
・授業をもっとゆっくり見たいし、協議会でも話をしたいが、
時間が短く、伝えきれない部分もある。
・〔学校教員は〕他の教員がどんな授業をしているかを知る機
会が少ない。他校の授業紹介などで、研究会を教員同士で開こ
うと思うきっかけ作りになれば〔いいと思う〕。

 校長の言葉は次の通りです。
・歓迎すべき制度だ。
・どの教員を見てもらうか悩んだ。すべての教員を見てもらえ
る時間がほしい。

県教委の言葉は次の通りです。
・学校からは好い感触を得ている。課題も見えはじめているの
で、できるだけ現場の声を取り入れていきたい。

 以上です。

 改めて言うことはありません。これらはすべて校長がすべき
ことであり、出来ることです。

今回、元校長からこのコーチを選んでいると知りましたが、
この人たちは自分が校長だった時、何をしていたのでしょう
か。コーチをする前に、それを自分のHP上で発表するべきで
しょう。説明責任を果たしていないサボリ校長はコーチの資格
ありません。

 県教委は「学校からは好い感触を得ている」と言っています
が、私はあのメルマガを県の教育長に送りました。しかし、返
事がありません。そもそも静岡県教委は(も、と言うべきか)
県の教育行政について県民と共に議論する公開の場を作ってい
ません。

 こういう非民主的な教育委員会がこういう税金の無駄遣いを
考え出すのだと思います。


NHK の広場、22、ドイツ語(21、諏訪功さんの語学)

2005年07月24日 | NHKの広場
 平成17年度になって久しぶりに本格的な読本の放送があると
いうことで期待しました。しかし、内容的に不十分でした。担
当者の諏訪功さん(一橋大学名誉教授、独協大学特任教授)に
出した2つの手紙と、係への手紙を一度に載せます。


 諏訪さんへの第1の手紙

 諏訪功様

 前略
 貴下の放送を2回聞きましたが、少し感想と要望を述べま
す。

 と言いますのも、貴下は関口存男さんから直接教えを受けた
経験をお持ちと聞いておりますし、長らく三修社の Mein
Deutsch の編集に携わってこられた方だからです。

それに、貴下は一橋大学を定年退職し、今ではドイツ語に力
を入れている独協大学に勤めているほどの方で、日本ドイツ語
学界の長老だからです。

さて、そのような立場の方が久しぶりに、失礼ですが、人生
の終わり近くになって、日本のドイツ語教育において決して小
さくない役割を果たしてきたし、今でも果たしているNHKの
応用編を担当し、しかも「読んで味わうドイツ語」というタイ
トルでドイツ語の文章を味わうとなると、聴取者の期待も高ま
るのも自然だと思います。

それはNHKは昨今会話教育に力点を移してきていまして、
それはそれで意義のある事でありかつ大きな成果を挙げている
と思いますが、文章を読むということを主眼とした講座が珍し
いからです。

しかし、2回の放送を聞いたところ私の期待は残念ながら外
れました。それを詳しく述べます。

以上にまとめました事情から考えますと、貴下が今回なすべ
きことは、「世界の」とは言わないまでも日本のドイツ語学及
びドイツ語教育の歴史と現状をどう考えるか、その成果と欠陥
をどこに見るかということをしっかり考えた上で、その成果を
受け継ぎその欠陥を補うという姿勢なり見識を提示することだ
と思います。しかし、この点で貴下がどのような考えを持って
いるかが分からないのです。これが根本的な欠点だと思いま
す。

具体的な証拠を出しましょう。

04月08日の放送でメーリケの詩の中の Du bist's及び Er
ist's についての説明の最後に貴下は次のように述べました。

・・なお、「あなただ」「あなたなんだ」ですが、英語では
It's you と言いますし、フランス語では C'est toiと言いま
すが、ドイツ語では Es ist duとは言いません。必ず人称代名
詞の du を文頭に置いて、Du bist esまたは Du bist'sとしま
す。

標題の Er ist's もそうで、Es ist er とは言いません。こ
の辺は詮索し始めるときりがありません。今回は Du bist's.
Er ist's. という形のまま覚えていって下さい。・・

私の問題とするところは、「この辺は詮索し始めるときりが
ありません」という言葉です。そもそも「この辺」とは何を指
しているのですか。Du bist esの語順の事だけですか。それ以
外にどんな事を含んでいるのですか。それがまず分かりませ
ん。

貴下は「詮索し始めるときりがありません」と言いますが、
貴下は実際に「詮索」しているのですか。しているならば、貴
下が追究している問題を3つか4つで結構ですから、具体的に
提示してください。関口さんならそうしたでしょう。

例えば、 es を dasに代えたら語順はどう変わるか、意味な
いしニュアンスはどう変わるか、そのように es を dasで代え
ることはどんな場合でも可能なのか、といったように具体的に
貴下の詮索している問題を出してくれませんか。それが生徒の
研究心を刺激し、本当の語学教育になるのだと思います。貴下
は大学の教師としてそのように指導して来なかったのですか。

 しかも貴下は「今回は Du bist's. Er ist's. という形のま
ま覚えていって下さい」と言いましたが、この「今回は」とい
う言葉は、普通に理解すると、「次回以降に関係する事柄が出
てきたらその時に更に深めましょう」という意味だと思いま
す。

しかるに、第2回には次の文がありました。

Das war es, was es so besonders still machte: sein
Atem fehlte.

この文についての貴下の説明は次の3点でした。
 第1に、 wasの先行詞は es である。
 第2に、 dasはコロン以下の内容を前もって指している。
 第3に、これは強調構文の一種である。

この貴下の説明は第1点と第2点はその通りだと思います。
第3点の説明もその通りだと思いますが、不十分だと思いま
す。この文のどこが強調構文の一種なのかがはっきりしないか
らです。放送を聞いていたら、多くの人は、不明確ながら、
「Das war esという表現が強調構文の一種なのだな」と思った
と思います。これでいいのですか。

しかも、もしそれが「一種」だとするならば、同じ事を強調
する他の方法も1つか2つくらいは提示したらどうですか。関
口さんならそうしたと思います。

しかし、ここで特に問題にしたいのはその事ではありませ
ん。 Das war es はは第1回の Du bist es と関係があると思
うのですが、貴下はその点について全然触れなかったのです。
私が先に「貴下は実際に詮索しているのですか」と聞いたのは
ここに根拠があります。「今回は」という言葉を取り上げたの
もここに根拠があります。

Das war es はNHKの放送でもその最後にドイツ人が Das
war's fuer heute という形でよく口にします。このように関
係文なしに使われた場合と関係文の付いた場合との異同はどう
なのか。これくらいの事は説明するべきではないでしょうか。

 根本的な問題の第2として、語学教育と文学教育の違いない
し関係をどう考えるかという問題があると思います。国語教育
では特にそれが問題ですが、外国語教育でも同じだと思いま
す。貴下はこの点についてどう考えているのですか。

文学教育の観点からは、第1回の放送で sein blaues Band
の説明がなかったのは困ります。私が授業(静岡大学の1年の
後期の授業)でこの詩を取り上げた時も、いろいろな人(ドイ
ツ人を含む)に聞いてみましたけれど確たる答えはありません
でした。分からないなら分からないと言うことも大切だと思い
ます。

ついでに。貴下は一橋大学の教授だったようですが、現在そ
この教授である田辺秀樹さんが2回にわたって「歌で楽しむド
イツ語」という放送を担当しました。彼はピアノはうまいのか
もしれませんが、語学的には問題の多いものでした。最初の
年、私は沢山の質問をしました。ようやく最後にまとめて出て
きた回答のコピーを同封します。

いちいち反論するのも馬鹿らしいからしませんでしたが、1
つだけ、一番下に書いてある問題について教えて下さい。
 シューベルトの「冬の旅」の第1曲 Gute Nacht の冒頭の句
です。

Fremd bin ich eingezogen,
  fremd zieh' ich wieder aus.

この fremdについて田辺さんは奇妙な説明をしています。貴
下はどう思いますか。2回目も全然研究しなかったようで同じ
事を言っていました。

この点は入門篇でも同じで、増本浩子さんはこの〔2005年〕
03月24日の放送の中で、

Beruhigt ist er nach Hause gegangen.

の Beruhigt を「副詞的用法」と説明していました。しかも
「格語尾変化していないからそうなのだ」という説明でした。

 貴下はどう思いますか。関口さんの説明とは違うと思うので
すが、現在のドイツ語学界ではそう言う事になっているのです
か。

貴下の放送が内容の充実したものになってほしいと願って書
きました。

 なお、私の事について知りたいならば、共通の友人である浜
松医大のSさんに聞いてみるといいと思います。

               草々
2005年04月21日
                  牧野 紀之


 諏訪さんへの第2の手紙

 諏訪功様

 前略
 04月22日の分について次の質問をします。

 1、1行目の Da dachte ich, hier waere was. の waereが
接2であることは説明の必要がないと思います。それより大切
な事はそれが「接2のどういう用法か」ということだと思いま
す。「接続法は難しい」という通念がありますが、こういう所
を一つ一つ丁寧に検討し説明しない教師の怠慢がその原因の8
割だと思います。

 又、ここは hier sei was あるいは hier ist was と言った
場合とどう違うか、ということこそが説明するべき問題だと思
います。貴下は大切な問題を避けている印象を受けます。

 2、この日のテキストでは現に、夫の考えを叙述した ich
dachte のほかに、妻の考えを叙述した dachte sie もあり、
後者の内容は、引用符も使わないのに、直接法現在形で書かれ
ています。普通なら接1を使う所なのに、そこを直接法現在を
使うとどう違うのか、これこそ説明が必要でしょう。

 3、Es war sicher die Dachrinne.と Es war wohl die
Dachrinne. とがありますが、これは、Es ist etwasで「何々
が原因だ」という言い方なのですか。そうならば、そのように
きちんと説明するべきではありませんか。

 貴下はそのような大切な構文について何も説明もしないで、
放送では、一か所でだけ「雨どいのせいだったのだろう」とい
う「訳」をしていました。テキストにはその種の説明はありま
せん。しっかりしてください。

 この点についての関口さんの説明は、"Immensee"(三修社)
の62-63 頁にあります。

 もちろん「それは彼のせいだ」という場合は Das ist er と
言うことができます。その時 Er ist's とも言えるだろうと思
いますが、私はまだその文例を見たことがありません(Es
liegt an ihm もあります)。

 前回注意した「この辺は詮索するときりがない」というのは
こういう事も、本当は、含んでいるのだと思いますが、貴下は
「詮索」しているのですか。それにしては全然言及がありませ
んでした。

4、下から5行目の左の方に、 "Wind ist ja"という文があ
ります。なぜここだけ現在形を使ったのですか。この現在形は
私には分かりません。教えてください。

 貴下はここは「風だな、うん」と訳し、その後の "Wind war
schon die ganze Nachtは「もう一晩中、風だったからな」と
訳しています。そして、現在形と過去形の違いについては説明
がありませんでした。これは逃げたのではありませんか。

 04月29日の放送もひどいものでした。貴下が関口さんを勉強
しておらず、ドイツ語を研究していないということが分かりま
したので、もう質問はしません。

 テキストの96頁の第3段落冒頭の Dann war es stillを貴下
は「それから静かだった」と訳していますが、落第でしょう。
大学1年生の訳です。

 その2行後の sollte については、放送では説明がありませ
んでしたが、テキストにあるからいいことにしましょう。

 大問題は下から6行目の Du kannst doch nicht nur zwei
Scheiben essen の語学的解明が極めて不十分だったことで
す。

 貴下の説明は「ここは nicht nurではない、つまり nichtと
nurは切れていて、 nur zwei Scheiben essenを nichtで否定
しているのだ」というものでした。

 ここは doch nicht がまとまっているのではありませんか。
私の考えは言いません。言うと、自分も初めから分かっていた
かのような顔をするからです。例の一橋大学の教授がそうでし
た。私見は私のホームページにその内に書きましょう。

 又、この kann の解釈も貴下は「普通の可能」と取ったよう
ですね。「~すませるってわけには『いかない』だろう」とい
う訳文からはそう察せられます。この「いかない」は kann の
訳でしょう。ほかの解釈の可能性は考えなかったのですか。

自信をもって訳しているように見えないのは、関口さんを勉
強していないからだと思います。
   草々
2005年05月01日
                牧野 紀之


 係への手紙

NHKのラジオドイツ語講座の係の方へ

前略
 諏訪功さんはドイツ語を研究しておらず、実力がないから代
えてください。お願いします。

 根拠は同封の手紙と前回の質問を見れば分かるでしょう。
                   草々
2005年05月01日
牧野 紀之
   (2005年07月24日)

NHK の広場、21、ドイツ語(20、境さんへの5通の手紙)

2005年07月23日 | NHKの広場
 2006年のドイツでのサッカーW杯でドイツ語熱が盛り上がっ
ている面もあるようです。2004年春、それを題材にした講座が
開かれました。今年(2005年)の秋にも再放送されるようで
す。

担当者は慶応大学教授の境一三(さかい・かずみ)さんでし
た。しかし、いくつか疑問がありました。質問をしたのです
が、お返事はついぞ頂けませんでした。境一三さんにはフェア
プレーの精神はないのでしょうか。

 境さん宛の手紙を一度に5通全部載せます。


境一三さんへの第1の手紙

NHKラジオドイツ語講座、入門編、境一三様

前略
 貴下の入門編は聞き取り能力の養成を重視したもので充実し
ていると思います。

7月1日(木)の放送の最後の質問に答えた説明について質
問します。
 貴下の話は次の通りでした。

 「 die Berliner Mauer についてご質問があります。地名を
形容詞にする時には、地名の後に -erという語尾を付けるわけ
ですけれども、これが例えば、 an der の後に来たときにどう
なるか、というご質問を頂いています。

例えば an der Berlineren Mauerとなるのでしょうか、とい
う質問ですけれども、これはそうはなりません。なぜかと言い
ますと、 Berliner という固有名詞が形容詞化したものは、も
うこれ以上変化しないという決まりになっているからです。」

さて、 an der Berlineren Mauerとはならず、 an der
Berliner Mauerであるという指摘はその通りだと思いますが、
それを「固有名詞が形容詞化したものは、もうこれ以上変化し
ない」という決まりとして一般化するのは正しいのでしょう
か。

 次の例があります。

 1. Differenz des Fichteschen und Schellingschen
Systems der Philosophie

  Fichte → Fichtesch, Schelling → Schellingsch
として出来た形容詞が格語尾変化しています。

 2. die chinesische Sprache

  China → chinesisch として出来た形容詞が格語尾変化し
ています。この場合は頭文字が小書されてもいます。

 貴下の一般化は不正確ではないでしょうか。
 以上、用件のみにて失礼します。
      草々
  〔2004年〕07月07日
                  牧野 紀之


 第2の手紙

NHKラジオドイツ語講座、入門編、境一三様

前略
貴下の講座の08月25日と26日に連続して sich auf etwas
freuenという熟語の使い方の練習がありました。それの例題の
答えを見ますと次の通りです。

1. Ich freue mich schon sehr auf das Studium an der
Sporthochschule. (これは物語の中にあった文)
2. Er freut sich schon auf den Ausflug.
3. Ich freue mich auf eine Reise nach Deutschland.

4. Sie freuen sich auf ein Wiedersehen.
5. Ich freue mich auf den Ausflug.
6. Sie freut sich auf die Reise nach Deutschland.
7. Ihr freut euch auf das/ein Wiedersehen.

これらを見ますと aufの目的の4格名詞の冠詞が定冠詞のも
のと不定冠詞のものとがバラバラに使われていることが分かり
ます。例7は、放送では dasが使われていましたが、テキスト
の解答欄には einも書かれています。

この場合の定冠詞と不定冠詞の使い分けの原則はどのように
なっているのでしょうか。こういう機会に、冠詞の違いを十分
に理解していない我々日本人にそれを説明することはぜひ必要
だったのではないでしょうか。

私は2003年06月08日に、当時中級講座を担当していた慶応大
学の平高史也氏に対して、限定的関係文によって修飾される先
行詞に定冠詞が付いている場合と不定冠詞が付いている場合と
の違いを無視した説明をする、ないし練習問題を出すのは不適
当ではないかと質問し、同封の答えをいただいております。

貴下も慶応大学の教員のようですが、慶応大学では実用語学
を重視しているとか聞きますが、このような文法的な事は軽視
しているのでしょうか。

又、私は本年07月07日付けで「形容詞の格語尾変化の例外規
則」について意見を述べましたが、お返事をいただいておりま
せん。

しかるに08月10日の放送には次の文がありました。

Das war in den 60er Jahren.

しかし、この 60er が格語尾変化していないことの指摘はな
かったと思います。

ドイツ語の形容詞の格語尾変化は覚えるのも大変ですが、か
なり沢山の例外規則があります。それについて機会ある毎に正
確な知識を与える事も必要だと思います。

貴下の誠意ある対応を求めます。
草々
2004年08月27日 
               牧野 紀之


 第3の手紙

 NHKラジオドイツ語講座、入門編、境一三様

前略
08月30日から09月02日までの夏休み特集での質疑応答に2点
疑問があります。

第1に、私の質問した、 sich auf etwas freuenの etwasに
来る名詞の冠詞が定冠詞の場合と不定冠詞の場合との違いにつ
いて。

貴下の答えは、「定冠詞と不定冠詞の普通の違いと同じ。つ
まり、既に出ている事なら定冠詞、初めての事なら不定冠詞」
というものでした。

本当にそれで好いのでしょうか。ゲストのドイツ人に聞いた
のでしょうか。関口存男さんの本を読んだのでしょうか。貴下
の答えはきわめて不十分だと思います。

第2に、ステップ55に出てくる次の es について。
Schreiben Sie doch mal einen Text ueber den japanis-
chen Fussball fuer die UniZeitung. Ich korrigiere es
gerne.

ラングさんは、この es は einen Text を受けることはでき
ない、 es は全体の状況を指している、とのことでした。その
理由は、 einen Text を受けるなら ihnでなければならない。
実際に沢山の文章を寄稿することを考えているだろう、という
ことでした。

これには疑念が残ります。

第1点。 es は性・数に関係なく前の名詞を受けることが出
来るという事の確認をまずすべきだったと思います。この事は
辞書に書いてあります。ついでに、私の調べた所では、 es は
格に関係なく dessen の代わりもします。

第2点。ここで「先生」が「複数の文章」を想定していたか
は疑問があります。学生新聞に寄稿するのです。常識的に考え
て1篇でしょう。又、複数の文章を書くとしても、「みな見て
あげる」のが常識でしょうか。

第3点。貴下は「ドイツ語についてはドイツ人の意見は絶
対」と思っているのでしょうか。日本語についての日本人の意
見は絶対でしょうか。貴下は、なぜ「舌切り雀」と言って「舌
切られ雀」と言わないのか、その理由を説明できますか。

これまでの放送でもドイツ人ゲストがお手上げの事もありま
した。例えば Tausendundeine Nacht であってなぜ Naechteで
ないのか、という問題です。

es の用法についてもドイツ人の意見を「参考」にするのは
結構ですが、自分で用例を集めて研究したらどうでしょうか。

貴下の誠意ある対応を求めます。
草々
2004年09月04日
牧野 紀之


第4の手紙

 NHKラジオドイツ語講座、入門編、境一三様

前略
 〔2004年〕09月07日の放送の中に次の2つの文がありまし
た。

1. Antjie: Hallo, ihr beiden. Wie war's?
 2. Antjie: Dann muss ich euch beide jetzt erst mal auf
andere Gedanken bringen.

1の ihr beiden の beiden はなぜ弱変化しているのです
か。ここは本来なら強変化して ihr beideとなるのが原則では
ないのですか。 ihrと beiden は並んでいて、 ihrは beiden
の冠置詞ではないからです。

2の euch beide は原則通り beideと強変化しています。こ
こは euch beidenと弱変化する言い方はないのですか。

 貴下は全体として形容詞の格語尾変化、特にその例外につい
て無神経だと思います。

大学教授なのだからもう少ししっかりしてくれなくては困り
ます。

研究して、放送の中で説明して下さい。
草々
  2004年09月08日
                    牧野 紀之


第5の手紙

NHKラジオドイツ語講座、入門編、境一三様

前略
 〔2004年〕09月09日の「おしゃべりコーナー」は面白かった
です。

K: Es ist doch ein schoener Zufall, dass ihr beide aus
Ostdeutschland kommt.

これは境さんの作ったドイツ語でしょう。

これに対して、ドイツ人の作った文は09月07日にあったよう


A: Hallo, ihr beiden.

でした。

授業で習った文法をそのまま適用した日本人と、文法など意
識せずに日頃使っている言い方で書いたドイツ人と、面白い対
比でした。

問題点は既にお手紙を差し上げました。
 まあ、がんばって下さい。
                      草々
2004年09月10日
                牧野 紀之


NHK の広場、20、ドイツ語(19、2つの質問と係への要望)

2005年07月22日 | NHKの広場
 その後は、全然返事がこなくなりました。
 1つ1つでは大変ですので、今後は少しずつまとめて、発表
します。

 第1の質問

 NHKラジオドイツ語講座初級篇、増本様

 前略
 「ライプチヒの初恋」は面白く聴いています。
 〔2003年〕07月03日放送の Plaudereckeの内容について質問
があります。

その会話の中に次の部分があります。
A: Und was machst du denn heute an deinem Geburtstag?
B: Nichts.
 A: Was, nichts!
 B: Ja, nichts.

ここは 'Nein, nichts.'とは言わないのでしょうか。どっち
でも好いのでしょうか。
 教えてください。お願いします。
                        草々
2003年07月05日
                   牧野 紀之


 第2の質問

 NHKラジオドイツ語講座入門篇、山本様

前略
 2度目ですが、入門篇「ハンナの魔法の杖」を楽しく聞いて
います。

〔2003年〕11月05日放送の中の次の文について質問します。

 K: Hanna, siehst du den Mann dort drueben?
 H: Wen meinst du?
 K: Ihn! Er traegt eine Sonnenbrille.
 H: Und er hat einen Stock. Das ist er.

 この最後の Das ist er.を貴下は「あれは彼だわ! 」と訳し
ています。又、放送の中での説明でも、「銀行強盗騒ぎで見失
ってしまった例の紳士を2人は偶然このレストランで見つけた
ようです」と言っていました。つまり、その意味を「 Das(あ
れ。あそこの男)は er (彼。銀行で見失った紳士)だわ」と
取っているようです。

逆ではないでしょうか。つまり、「 er (あそこの男)が
das(2人が了解している例の者)だ」ということではないで
しょうか。語順がこうなったのはドイツ語の語順が dasを使っ
た場合はこうなるというだけのことではないでしょうか。

 放送の中でお返事いただけたら幸いです。

 今後もがんばって下さい。
                       草々
2003年11月07日
                     牧野 紀之


 係への要望

 NHKラジオドイツ語講座の係の方へ
 前略
 この春以来、私の質問に対して、時々ではありますが、お返
事がいただけるようになったことは嬉しく思います。

〔2003年〕09月07日付けの平高さんのお返事は率直なもので
した(増本さんからは返事がありませんでした)。

しかし、私の求めているのは「放送された事柄の内容に関す
る質問、特に異論は放送の中で取り上げるべきではないか」と
いうものです。この点は全然改良されていません。多様な考え
を自由に交換することは教養の基本だと思います。これが参加
者(学生やリスナー)の問題意識を刺激するからです。

NHKの語学講座は充実していますが、決められた計画を消
化することを優先しすぎていて、場合によっては、予定を変更
してでも異論を紹介し話し合うという大切な点を忘れていると
思います。

今回、山本さんに質問を書きましたが、これも放送の中で扱
ってほしいと思います。尚、山本さんは前回の私の2つの質問
を無視しましたが、今回はそういう事の無いように希望しま
す。

 今後もがんばって下さい。
                       草々
2003年11月07日
                     牧野 紀之

PS 「質問が沢山あるからいちいち取り上げていられない」
という理由は成り立たないと思います。私のしているような語
学的内容に関係した質問は多くない、あるいはほとんどないと
思います。


 批評

 以上2つの質問及び係への要望は日付から分かるように2回
に分けて出したものですが、どれにもいまだに返事をもらって
いません。

 なお、内容的には、山本さんへの質問は私の方が間違ってい
たかもしれません。


NHK の広場、19、ドイツ語(18、冠詞、接続法第二式)

2005年07月21日 | NHKの広場
 平高史也さん(慶応大学教授)への質問は2回ですが、返事
をまとめていただきましたので、こちらも1回にまとめます。

第1回の質問

NHKラジオドイツ語講座中級篇、平高様

 前略
 皆さんの中級篇を面白く聞いています。

〔2003年〕06月07日放送の中で関係文の練習がありました。

テキストの中に出てきた文例は次の通りです。
A: Das ist eine Torte, die viel Buttercreme hat.

 しかし、練習問題に出た文例は次の通りです。
 B: Kennen Sie die Dame, die vor dem Aufzug steht?
 C: Handkaes' mit Musik ist das Essen, das in Frankfurt
sehr bekannt ist.

 私が質問したいのは、限定的関係文で修飾された先行詞に定
冠詞が付いている場合と不定冠詞が付いている場合とでは意味
が違うのではないか、ということです。

ですから、テキストの文例の先行詞には不定冠詞が付いてい
る時、説明なしに、先行詞に定冠詞の付いた文例を問題として
出すのは不適切ではないか、ということです。

 又文例Cの先行詞には不定冠詞を付けて、
D: Handkaes' mit Musik ist ein Essen, das in Frankfurt
sehr bekannt ist.
という表現も場合によっては十分可能ではないのだろうか、と
いうことです。

もしそうならば、CとDの違いについても説明してほしい、
ということです。

 日本人には冠詞の問題は難しいですし、翻訳を見ていても、
特に限定的関係文で修飾された先行詞に不定冠詞の付いている
場合に「1つの」と訳す人が多いように思います。こういった
現状を見ても、きちんと説明するべきではないでしょうか。

よろしくお願いします。
                         草々
2003年06月08日
                  牧野 紀之


第2回の質問

 NHKラジオドイツ語講座中級篇、平高様

 前略
 皆さんの応用篇を面白く聞いています。

08月01日分のテキストに次の文があります。
A・ Das waere gut, wenn ich schon hier fuer alle etwas
einkaufen koennte. Dann haette ich es hinter mir.

これらの接続法第2式について貴下は次のように説明してい
ます。「この話をしている時点では仮定の話で、まだ現実にな
っていないので、動詞は3つとも接続法第2式になっていま
す。」

 では質問します。次の文を見てください。
B・ Wenn ich morgen Zeit habe, besuche ich dich.
(クラウン独和辞典)

この文ではなぜ定形は直接法なのでしょうか。この場合も
「話をしている時点では仮定の話で、まだ現実になっていな
い」と思います。

 条件と帰結から成る複合文(ないし本質的にそれと同じ文)
で接続法第2式が使われている場合の「仮定話法」とは、正確
には「反実仮想」と言うべき所を略して言うのだと思います。

その本質について関口存男さんは次のように説明していま
す。

「直接法と違い、裏面に横溢している反対事実をわざわざ利
かさんがために約束話法〔仮定話法〕を用いるのだと言っても
構わない。」(初版独逸語大講座・ 229頁)

又、『新ドイツ語文法教程』 267頁では次の比較で説明して
います。

C・ Ich taete es gern, wenn ich nur die Zeit dazu
haette.
   (言わんとする事は「出来ません」ということ)

D・ Ich tue es gern, wenn ich nur Zeit dazu habe.
(その条件が満たされたら、結論の方も実現される可能
性があることを示す)

つまり、仮定には現実的仮定(可能性のある仮定)と反現実
的仮定(可能性のない仮定)とがあり、どちらの場合でも「仮
定」(仮想)を表すのは wenn なのだと思います。そして、「
反実」(現実ではないこと)を表すのが接続法第2式なのだと
思います。

文例Aで言うならば、「仮定」を表しているのは接続法第2
式ではなくて、 wenn であり、 dann だと思います。その接続
法第2式は「まだ現実になっていない」といった可能性のある
ことを表しているのではないと思います。

 文例Aは意味から考えて「反実仮想」ではありません。つま
り、条件と帰結から成り接続法第2式を使っている文でも「反
実仮想」ではない表現があるということです。ではそれは何の
表現なのでしょうか。これが次の問題です。

私の知っている限りでは、これについて説明している文法書
はありません。しかし、こういう文は沢山使われています。N
HKラジオドイツ語講座の中でも、私が記録しただけでも、次
の2例があります。

1, A: Bekomme ich denn schon dieses Jahr meinen Urlaub?

 B: Selbstverstaendlich haben Sie ein Anrecht auf
Urlaub. Mir waere es am liebsten, wenn Sie Ihren
Urlaub erst im September nehmen wuerden, falls
Ihnen das nichts ausmacht. (NHK,R.84.8)
   (9月に休暇を取っていただければ一番ありがたいので
すが)

2, A: Ich wuesste gar nicht, welche CD ich auswaehlen
sollte.
 B: Also, wenn du heute nachmittag Zeit haettest,
koennten wir in die Stadt fahren und zusammen eine
passende CD aussuchen. (NHK.R.95.04)
   (今日の午後君の都合がいいなら、町にいって一緒に見
てもいいけど)

 もちろんほかでも沢山使われています。それなのに文法書に
これが記載されておらず、説明がないのが問題だと思います。
そのため、今回のように単に「仮定であってまだ現実でないか
ら」といった説明になるのだと思います。

ドイツ語では接続法第2式が難しいという定説ないし神話が
ありますが、このように新しく遭遇したものをきちんと考えな
いでごまかしていくからそういう神話ができるのだと思いま
す。つまり学者が怠慢なのだと思います。

何事も(日本語の文法でさえ)完全に理解することは出来ま
せんが、直面した問題をごまかさないできちんと考えていけ
ば、8割は分かると思います。

今後もがんばって下さい。
                       草々
2003年08月03日
                     牧野 紀之



 平高史也さんからの返事

 拝啓

 いつもNHK ラジオドイツ語講座をお聞きいただきまして、あ
りがとうございます。お便りを2通いただき、ありがとうござ
います。ご返事が遅れましたことをまずお詫び申し上げます。

 関係代名詞の先行詞に定冠詞がついたものと不定冠詞がつい
たものを、何の説明もなく同時に出すのは不適切であるとのご
指摘、その通りだと思います。

今回の講座では6月になってようやく関係代名詞を扱いまし
たので、まず先行詞と関係代名詞の性数格の一致を導入しよう
という意図が先にありました。そのため、定冠詞と不定冠詞の
違いを考えずに、2つとも入れてしまいました。

 お書きの点は関係代名詞がなくても、名詞に定冠詞や不定冠
詞をつけるだけの場合にもあてはまることであり、その点も含
めて、今後はもう少し慎重に対さなくてはと反省したしまし
た。

 また、「反実」を表すのが接続法2式であるとのご教示、あ
りがとうございました。これを拝見して、手元の文法書(G.He
lbig/J.Buscha(1980): Deutsche Grammatik. Ein Handbuch fu
er den Auslaenderunterricht. Leipzig: VEB Verlag Enzyklo
paedie) を調べましたところは、やはり直説法による「現実的
仮定」は確率の高い実現可能性、接続法2式による「反現実仮
定」は確率の低い実現可能性という説明がなされておりまし
た。

 これからはご指摘のような違いも考慮しながら、講座を進め
てまいります。

 今後ともどうぞよろしくご指導ご鞭撻のほど、お願い申し上
げます。
                    敬具
2003年09月07日
平高 史也


 批評

 私の意見を入れてくれたからというのではありませんが、こ
れまでいただいた返事の中ではもっとも誠意のあるものでし
た。

しかし、疑問に思うのは、大学の授業でこれらの点をきちん
と教えているのなら、講座でこのような不用意な事はしないだ
ろうということです。逆に言うと、大学でも、これらの点につ
いてはきちんとした説明をしていないのではないか、というこ
とです。

 慶応大学は会話の教育に熱心のようですが、そしてそれは一
つの方針ではあると思いますが、大学での語学はあくまでも本
当の文法にあるのではないのだろうか、というのが私見です。

    (2005年07月21日)