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教育、第58号、教養教育(高知大学の日本語技法の授業)

2006年01月30日 | 教育関係
     高知大学の日本語技法の授業

 高知大学では1年生全員に日本語技法という科目が必修として課されているそうです。この科目について国立S大学のM教授が関心を持ち、調査した結果をそのS大学の学内広報誌に書いています。

 私もとても興味をそそられましたので、そのM教授の報告の要旨をまとめてみました。

 高知大学では共通教育のあり方を見直す中で、知的生活を営む上で必要不可欠な知識と技能の涵養・習得を目的とする全学必修の「基軸教育科目」を導入したそうです。これは平成9年頃のことらしいです。

 それには大学学、日本語技法、情報処理1と2、大学英語入門、英会話、健康などが含まれているそうです。

 これを見ると、何となく慶応大学の湘南藤沢校舎のあり方を連想します。情報処理と英語の重視という点です。現下の日本の大学で共通教育を考えるとやはりこの2点は外せないのでしょう。

 それはともかく高知大学にはここに日本語技法というのが制度化されました。こういうものの必要性については高知大学の考えは紹介されていませんが、M教授自身の問題意識が3点にまとめられています。

 1、学生のリポートや卒業論文の作成指導をしていて、理科系においても日本語の運用能力(分かりやすく論理的な文章を書く、要点を簡潔かつ過不足なく話す、書かれた文章を正確に読む、相手の言い分を正確に聞き取る)が必要不可欠であるのに、学生たちの多くはその基本的な訓練がまったくなされていないのではないか。

 2、学生に聞いた話では、高校までの国語の授業では、日本語を知的活動あるいは意思・情報伝達の手段としてとらえ、それを生徒に身につけさせる訓練を施すという活動は皆無のようだ。

 3、大学でもそうした活動は教員個々の努力以外にはなかった。

 さて、多分高知大学でも同じ問題意識からこれを導入したのでしょうが、それの導入には、「学長の強いリーダーシップの下で各学部から若手教員を集めて検討会を組織した」そうです。

 私が以前から言っていますように、ここでもやはりトップのリーダーシップが一番大切だったのです。慶応大学の湘南藤沢校舎で新しい語学教育をまとめるために担当者を決めた時、塾長が「結果には私が責任を取るから自由にやってくれ」と全権を委任したそうです。この話は関口一郎氏がその著書『慶応大学湘南藤沢キャンパス、外国語教育への挑戦』(三修社)に書いています。

 高知大学での「学長の強いリーダーシップ」がどういうものだったか、具体的に書かれていないのは残念です。M教授の問題意識がこの点になかったのでしょう。

 この検討会は約3ヵ月で「素案」をまとめたそうですが、それは、毎回の会議の後(多分、座長を勤めていた)某教授が会議の「まとめ」と「提案」を作り次の会ではそれを基に具体的な議論をするようにしたこと、「各学部へ持ちかえって意見を聞く」方式をとらなかったこと、アイデアはそれだけで貢献とみなして「言い出しっぺが損をしない」方式をとったことなどが、その理由として報告されています。

 私のように大学の専任教員になったことのない者には分かりませんが、多くの会議は極めて非効率なのでしょう。そういう大学教員の習性を熟知したリーダーがその悪い習性の出てくるのを防いだのでしょう。

 しかし、これは本当に大切な事で、授業運営においても、学生は決して善意の固まりではないということを意識して、学生の中にある遅れた傾向が表に出てこないようにすることは教師の大切な仕事だと思います。宿題を出すことが一番大切ですが、そのほかにも例えば席を決めるとか、アンケートを記名にする、とかがそうです。私もかつては自由放任でしたが、自由放任は教師のさぼり行為だと思います。

 さて、その「素案」は全学で検討されて半年後には改革案がまとまったそうです。そして、実行に移されたわけです。その内容はほぼ次のようです。

 1、半年で15回の授業。1クラス10人前後のゼミ。そういうこともあって、お茶やコーヒーを片手に授業が進むのが多いそうで、お茶当番もあるようです。

 2、学生も教員も学部横断的ではなくて、各学部毎に行う。つまり所属の教員が担当する。専門課程で役立つことを意識しているからだそうです。そのために授業内容は多彩になったそうですが、専門のタコツボに陥る傾向が出ているそうです。

 3、M教授の参観した授業では次のようなものがあったそうです。

  power point を使っての魅力ある発表資料作り
  討論会(新聞記事からトピックスを取り上げる)
  ディベート
  書く技術に集中した授業。

 高知大学での日本語技法の授業を理解する上で大切な点は2つあるようです。

第1は、日本語の運用能力を「技術」として捕らえるということです。つまり、それを普遍的・組織的・再現可能なものとすることであり、文才に頼るのではなく、(練習によって)誰でもが一定水準の明確さ、正確さ、簡潔さを備えた文章が書けるようにするということです。

 第2は、単なる日本語能力ではなく、テーマの選択や展開の仕方といった「構想力」を伸ばし、着想や発想を豊かにすることに重点を置いているということです。

 では、このような目的を持った授業を実現するためにはどのような準備がなされているのでしょうか。

 第1に、学生には学生向けのテキストがあります。

 第2に、教員には、教員向けの資料が配られます。それは「15週をのりきる工夫」というのと、17の「シラバス集」だそうです。

 そして、これらを1回配って終わりにするのではなく、授業を相互に参観しあい、日頃から授業方法や教材の情報を交換し、担当者の会議やワークショップ(合宿?)を開いて授業経験の共有化を図っているそうです。

 これだけやれば成果は上がるでしょう。「授業は先生の実力と情熱で8割決まる」のですから、当然です。

 高知大学の教員はもちろん大変だったようですが、こういった準備と真面目な議論の中で「大学教育の意味を再考する」ことになったそうです。

 課題としては、高知大学自身では「教員の教育に関する業績評価が制度化されないないこと」を挙げているそうです。やはり努力の報いられる制度がないと、精神的なものだけでは続かないと思います。

 私が唯一「どうなっているのかな」と思った点は、教員全員がこれを担当しているのではないらしいということです。国立大学は教員が多いからそうなるのかもしれませんが、それならば、担当者をローテーションにして、全員が担当するようにしたらいいと思います。

 これを担当することで、担当教員自身の日本語運用能力が高まるはずだからです。そして、これが一番大切な点だからです。

(2001年10月20日発行)

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