ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

投書(40人学級などについて)とお返事

2005年09月30日 | カ行
01、投書・40人学級の効用について(LEE )

牧野様

初めてお便り致します。小学6年の保護者LEE と申します。40人学級のお話ですが、私なりに少し考えた事がありました。

それは、子供が小学1年で、40人体制だと先生の目が行き届かず、先生が、「ちょっと視線をやっても、こちらの意図も判らない。あるいは急に一人の子供が殴りつけられて、どうした
のかと思ったら、殴られた子供がうっかり通路をふさいでいたその子供の足を踏んでしまった。しかし、踏んだことは気がついていなかった。殴られた方が応戦した。」

こんな具合で、先生は、子供がまだ「人間の「に」の字くらいだ」と言われました。確かに、まだこうした子供たちを見る為には40人を見るのは大変だと思われます。子供は学校で知識も社会のルールもいろんなことを学ぶ必要があります。

小学3、4年の掛け算割り算での習熟が足りない為に、中学で大幅な遅れに気づくということで、最近は、算数などは1クラスを2つにしての授業も行っています。

──そこまでは小学校の話──でした。

 さて、くだんの「進学校」ですが。「幼稚園~大学」までの学校でだとどのあたりを指すか難しいですが、一般的に思い浮かべるのは、中学~高校じゃないでしょうか。

 前述の為のような生活指導のためには少人数制である必要はもはやないでしょう。授業に集中する、判らないところは自分で調べるなり、聞くなりして克服する。与えられるのを待って
いない、は当然だからです。教員側もそうですが、生徒側も、「お客さん」ではなく、自分が何をするべきか、目的等しっかり認識する必要があります。

 また、逆に、人数が少なくなって生徒の生活や背景に先生が精通して相談に乗れるか、というと疑問です。

 「自分で考える」「総合的な能力」を発揮するような授業の仕組みが、少人数で建前でなくできる、という具体的取り組みについて伺いたかったです。

 40人クラス定員としても、私学の場合、合格者が全員入学するわけでないので、どうしても多めになってしまうし、途中抜ける生徒もでてくる。

 ところで、私学でも公立でも、学校制度ができてから、教室の大きさや設計というものはほとんど変わっていないそうです。すると、どこでも、かなり狭い。公立の学校公開では、生徒
がもう体に合わない机で姿勢悪いし、エアコン効きすぎで1時間突っ伏して寝ている。机の配置はかなり窮屈で、足の踏み場がないほどかばんが置いてある。

 これは勉強以前の問題として、問題だと思います。

 私学というものは、お金がかかるものかもしれませんね。

 しかし、今、結構説明会で目玉にしているのは、「1ケ月夏休みホームステイ」など海外研修。まあ多少人生経験になるかもしれませんが、1月HSしたからって語学能力が上がるわけが
ありません。

 保護者にとっては非常に痛い出費です。学校もそういうことはわかっているはずなのに、「語学研修」と銘打って、良い指導をしているように宣伝するのは如何なものかと思います。

 教育費はトータルで保護者は見ますから、まずは装飾しない無駄のない教育費についてよくよく考えて欲しいものです。

 以上です。


 02、お返事・2、3の原則的な事(牧野 紀之)

 投書をありがとうございます。ご趣旨がよくは分からなかったのですが、原則的な点について私見を箇条書きにしておきます。

 第1点。40人学級は小中学校については以前から原則となっており、今はそれより少人数の学級にしていくことが課題なのだと思います。

そして、国際的には「少人数学級」とは25人以下の学級のことを言うということです。埼玉県の志木市では小学校の1~2年生については25人学級を実現したそうです。3年生以上で30
人学級を実現することが現下の課題だそうです。

本当に日本は教育については発展途上国だと思います。

第2点。我が大学で語学の授業の40人学級が問題になっているのは、それが大学だからであり、語学の授業だからだと思います。しかし、この場合でも、それは余りにも低すぎる目標だ
と思います。

私見では、大学の授業は語学に限らず全てゼミにする、20人学級にする、1つのゼミで取れる単位を2倍にする、学生は1日に2つのゼミを取るくらいにする、宿題を多くして内容を充
実させる、教科通信を義務づける、等が目標だと思います。

第3点。考える能力をつける授業とはどういうものか。この点はこのメルマガや拙著「哲学の授業」(未知谷)を見てほしいと思います。

このための大前提は、先生が考える人であること、自分の意見を言うのを憚らない人であること、だと思います。現実にはこの大前提が欠けているのだと思います。

第4点。テレビの報道によると、教室の設計は大分変わってきているようです。壁のない教室とか。机と椅子の高さを変えられようにするのはぜ必要だと思います。室温とかも教師が細
かく配慮するべきだと思います。

第5点。1ヵ月のホームステイで英語が出来るようになったりしないという考えには賛成です。日頃の授業の改善を忘れてホームステイを云々するのは間違いだと思います。

第6点。親は費用をトータルで考えているというのも当然だと思います。公務員の給与も自治体などは月給(基本給)の平均値で出していますが、これはごまかしです。週刊誌などが調
べて発表しているように、これも1年間の総収入で考えるべきだと思います。

  (2003年11月12日発行)

社民党の敗北

2005年09月29日 | サ行
過日の(2003年11月の)総選挙で社民党と共産党(と保守新党)が敗北しました。保守新党のことはともかく、社民党と共産党の敗北についてはきちんと考えをまとめておきたいと思います。

社民党について言いますと、それは、これまでにも論じてきましたように、修身と斉家(身の回りの公生活)がきちんと出来ないのに、治国と平天下(国家レベルの公生活)を論じている青二才だということです。

その事を少し角度を変えて論じてみましょう。

社民党は根本的に政党とは言いにくい面があると思います。というのは、そもそも「政党としての組織」があると言いにくいからです。

議員は少しいますが、それ以外の地方組織は形だけでほとんど運動がないと思います。社民党の基礎的な単位である支部できちんと支部会議が定期的に開かれている所はほとんどないようです。まして、そこで決まった事を皆で実行する、少なくとも反対しない、という組織としての最低のルールないし規律すら守られていないようです。

それと対になっていることが、規律を守らず党員としての生活をしていない人を除名ないし除籍できないことです。

たしかに共産党のような「規律」は又それで問題でしょうが、社民党の「規律」はないに等しいと思います。

それなのに今まで持ってきた方がよほど不思議です。それは労働組合が民主党支持になるまでは社民党を支持していたこと、そして「自民党は支持できないが、かといって共産党でも困る」という人々が沢山いたからだと思います。

しかし、東西冷戦の終焉で体制選択の問題がなくなり、共産党も「かなり」社会民主主義的になってきた今、社民党の存在理由はほとんどなくなったと言っていいと思います。

それに社民党の議員の能力はかなり低いのではないかと思われます。かつてもそうでした。それは個人的な実力とはほとんど関係なく労働組合の組織の序列に従って議員になるからだと思います。

もう随分前のことですが、加藤寛氏(現在の千葉商科大学学長)が当時の社会党について、「社会党の議員でアメリカへ行って向こうの政府の人達と英語で議論の出来る人が何人いますか」と言っていました。私はこの記事を今でも覚えています。

 たしかに例外はいるでしょうが、全体としてこう言われても仕方ない面があると思います。

それに比べると、今の民主党の若手議員はかなり優秀です。松下政経塾出身者とか官僚出身者とか弁護士出身者とか、ともかく自分の意見を持っていて、しかも(いや、だからこそ)他者と話し合うことが出来、そして決まった事は実行する、そういう一人前の社会人として当たり前の事をしっかり出来る人が少なくないようです。

菅代表もかつて初めて代表をした時の「独断専行」を反省して、今回は実務はこれらの優秀な部下たちに任せて、自分は全体を見るという方針でやっているようです。菅代表は欠点も多いようですが、反省して改善する能力を持っているようです。

 少し民主党を褒めすぎたかもしれませんが、ともかく社民党は能力が低すぎます。あるいは、青二才すぎます。

それのはっきり出たのが、小沢一郎氏の社民党排除方針に反発して(これは当然)、自民党と組んだことだと思います。自民党を権力から遠ざけるということが一番重要な事だと分かっていたら、いかなる理由があっても、自民党の復権に手を貸すような事はしなかったと思います。

このようになる根本的な理由として、社民党にはアイデンティティがなく、自信がないのだと思います。

この事は、日本の社会民主主義はヨーロッパのそれとは違って、共産党に対するコンプレックスをその本質としている、あるいは根底にそれを持っている、ということと結びついていると思います。

日本では、「マルクス主義は理論的に正しいが、レーニン主義的前衛党や革命運動には踏み切れない」という人達が社会党に集まったのだと思います。しかし、ヨーロッパの社会民主党にはこういう共産党コンプレックスはないようです。

では両者にはなぜこういう違いが出来たのでしょうか。

それは日本の直接接した共産主義が主として中国のそれであり、ヨーロッパの直接対峙した共産主義はソ連と東欧のそれだったということがあると思います。

たしかにソ連の共産主義も革命以前はゴーリキーの「母」に描かれたような美しさをもっていたと思います。しかし、権力を握ってから、特にスターリンが権力を握ってからは堕落の一途だったと思います。

西欧の社会民主主義はそういう情報を得て、完全な自由競争も駄目だが、共産主義でも駄目だ、と分かって自分たちの道を探したのだと思います。

しかし、日本の左翼は中国革命に大きな影響を受けました。それも権力獲得以降は堕落していきましたが、隠されていたこともあって、なかなか共産主義自体が根本的に間違っているという認識は生まれなかったのだと思います。

この社民党の共産党コンプレックスの良く出た例が北朝鮮に対する態度だと思います。日本共産党も北朝鮮に対しては最初、間違った態度を取っていたようですが、社会党よりはるかに早くその間違いを見抜き、関係を断ちました。

では、社民党は今後どうしたら好いのでしょうか。独立して生き残る道は1つしかないと思います。ドイツの緑の党のように独自の路線と組織形態を持って民主党との連立内閣を目指すことです(民主党に吸収合併される道はありますが、これは「独立して生きる道」ではありません)。

そのためには、外国の好い所を調べることから出発するのが好いと思います。

選挙中にも福島幹事長(当時)は非武装路線に関してコスタリカに言及していましたが、それならコスタリカに誰かを派遣して、その国を徹底的に調べ、皆に知らせ、どこを受け継ぐかを明らかにすることだと思います。

また、西欧の社会民主主義政党とその活動方法をしっかり研究したらどうでしょうか。ドイツの緑の党の会議のやり方、全国大会の持ち方、日常活動などを調べにいったらどうでしょうか。

そして、憲法第9条を守ることだけでなく、国のあり方全体に対して、自分たちの考えを持つことだと思います。こうしてとにかく思想的立場と組織形態について自分たちのアイデンティティを確立して、それを研究して深化させていき、それに従わない党員は除籍することです。

党の財政については、まず収入に合った活動をしながら、収入の増大を目指すようにするしかないと思います。背伸びをしても失敗するだけです。

福島党首がこういう道に気づくように祈っています。

  (2003年11月17日発行)

共産党の敗北

2005年09月28日 | カ行
 では(2003年11月の総選挙での)共産党の敗北はどう考えたら好いのでしょうか。私見をまとめます。

 共産党の敗北は構造的なものだとする私の考えでは、その敗因はこれまでの発展の原因消滅で説明することになります。

 共産党はなぜこれまでかなりの支持を獲得し、発展し、勢力を保ってきたのでしょうか。

 その大前提は、社会主義社会は可能であり、ソ連や中国のそれは間違っていただけで、本当の社会主義社会はもっと好い社会なのだ、という考えが生きていたからだと思います。現に、日本共産党はそう主張しています。

 しかし、ソ連の崩壊以降、こう考える人々は減少の一途をたどり、今や極めて少数になったのだと思います。私自身も、社会主義社会は不可能のようだ、マルクスとエンゲルスの社会主義社会到来論には根本的な欠陥がある、と考えるようになりました(この点の検証は拙著『マルクスの〈空想的〉社会主義』、論創社)。

 キューバのように権力が腐敗しない社会主義社会もある、という主張もあることは知っています。しかし、キューバも一党独裁ですし、反政府的言論は弾圧されていますし、何よりカストロの死後も今のように清廉であり続けられるのかという問題もあります。

 いや、そのキューバ自身も社会主義市場経済に向かっているそうです。つまり、資本主義も社会主義も互いに反対の方向から同じ到達点(規制された自由主義経済)に向かっているのです。

 従って、共産党の取るべき第一の対策は社会主義理論の間違いを認識することであり、社会主義を捨てて、社会民主主義の立場に立つことです。しかし、これは当分、難しいでしょう。

 共産党の発展をこれまで支えてきた第2の理由はそのいわゆる「大衆的前衛党」という路線が「戦術的に」成功したことだと思います。これが日本経済の高度成長と一緒になって、共産党の発展を可能にしたのだと思います。

 共産党はその民主集中制という組織原則の故に怖がられ、嫌われ、あるいは敬遠されてきましたが、大衆的前衛党という戦術はその欠点を補ってきたと言っていいと思います。

 しかし、それは諸刃の剣でした。党員数が増大するにつれて、その理論水準の低下は避けられませんでした。

 かつては共産党の理論水準も相対的にはかなりのものでしたが、今では学問的に問題にするに足るようなものは党員学者からはほとんど出てこなくなりました。多くの大学で、特に文系の学部では、共産党系の教員はお荷物になっています。

 私の印象では、党員全体の平均的水準は、創価学会の会員全体の平均的水準よりひょっとすると劣るのではないか、とすら思います。

 これに対する対策としては、「理論と実践の統一」という命題の正しい理解を打ち立てることが理論的には必要ですが、それは難しいでしょう。

 ですから、理論はともかくとして、実際的な対策として、学者や芸術家の入党を断るようにするといいと思います。そういう人が入党したいと言ってきたら、「支持はありがたいが、だからといって党に入って政治ごっこをするのではなく、あなたの専門の仕事の中に内在させてくれ。それの方が我々の共通の目的に役立つ」と言って断るべきだと思います。

 朝日新聞などは、政策決定の透明性を高めよと忠告しています。これはこれで正しい忠告だと思います。共産党の秘密主義はまだまだひどすぎます。

 そのためにも、まずは査問などという憲法違反の疑いすらある愚劣な事を止めるべきだと思います。実際、査問が怖くて自由に考えられないという党員が沢山います。

 批判と自己批判(本当は「批判と自己批判の統一」と言わなければならない)についての正しい理解を期待するのは無いものねだりでしょう。

 「共産党とは関わりあいを持ちたくない」という気持ちを多くの人々が持っているのはなぜか、それを反省することから出発すると好いと思います。

(2003年11月20日発行)


教育の広場、第 149号、外交と内政

2005年09月27日 | 政治関係
教育の広場、第 149号、外交と内政

 先日、グルジア共和国のシュワルナゼ大統領が辞任に追い込
まれました。直接的な理由は、議会選挙での不正のようですが
、根本的には、その11年間に及ぶ統治が不適当だったことのよ
うです。

 〔2003年〕11月25日付けの朝日新聞は「『新思考』の悲しい結末」と題
する社説を載せました。その中で、次のように言っています。

─緊張緩和と相互依存を軸にした「新思考外交」を推進し、
東欧の民主化や冷戦終結の立役者となった同氏が、こんどは独
裁者打倒を叫ぶ民衆の声に囲まれた。

─米国は人口一人あたりでいえばイスラエルに次ぐ支援をし
てきた。しかし、期待された改革は進まず、国民の大半は貧困
生活を強いられたままだ。大統領の親族を含めて汚職も深刻化
し、世界で最も腐敗した国の一つとなった。

─シュワルナゼ氏の悲劇は、こうした困難の打開を対話と合
意による政治に求めず、他の旧ソ連諸国の指導者と同じように
強権的な手法に求めたことだろう。

これに対して、シュワルナゼ氏は28日、新聞記者との会見の
中で次のように言っています(29日付け朝日夕刊)。

─汚職はどんな国にもある。
─11年間で11% の経済成長を達成し、石油パイプライン建設
で戦略的要衝の地位を築いた。

しかし、こういう言い訳には一々立ち入る必要はないでしょ
う。

私の感想は又しても「修身と斉家(身の回りの公生活)ので
きない人が治国と平天下(国家レベルの公生活)を唱えても力
を持たない」というものです。この場合はその「修身と斉家」
が「内政全般」になり、「治国と平天下」が「外交」になると
いう違いがあるだけです。

実際、特に発展途上国の指導者の場合、その外交方針なり戦
略なりで国際的に注目され評価されたけれど内政で失敗したと
いう人が多いと思います。かつてのエジプトのナセル大統領、
1960年代のアフリカの時代に活躍した人(例えばガーナのエン
クルマ大統領)、インドネシアのスカルノ大統領などが典型的
な例だと思います。

なぜこういう事が起きやすいのでしょうか。外交は立場上対
等な外国と同じく対等な一員として議論し交渉することですが
、内政は自分がトップとして部下なり国民を指導して「何かを
創っていかなければならない」からだと思います。

批判は易しく創造は難しいのです。

そして、その創造(内政)の失敗の原因にはほとんど政権の
腐敗が挙げられ、親族の腐敗が絡んでいます。妻に振り回され
た大統領もかなりいるようです。これを「人間の弱さ」と一般
化して好いのでしょうか。

キューバのカストロ議長が反対派を弾圧はしているがそれほ
どひどい強権的手法に走らないでこれたのは、やはり国民的支
持があったから、反対派があまり強くならなかったからではな
いでしょうか。

それはともかくも政権の腐敗を防いだからであり、身びいき
をしなかったからではないでしょうか。経済危機を乗り切って
今や成長軌道に乗せることができたのも、根本的にはこの条件
があったからだと思います。

   日  本  語  疑  典(その1)

2003年11月12日付けの朝日新聞の「私の視点」欄には立教大
学講師の三浦展(あつし)さんが「地域社会の変質認識を」と
題した意見を発表しています。

内容は、最近の重大事件が「地方の郊外農村部」で起きてい
るとして、その背景として「地方の大きな変質」を指摘したも
のです。

その中に次の文がありました。

─私自身、新潟県上越市の出身であるから地方の変質は肌で
実感している。

「肌で実感する」という言い回しはあるのでしょうか。辞書
を引くと、「肌で感ずる(感じる)」「肌で知っている」は載
っていますが、「肌で実感する」は載っていません。

「肌で」と「実感」の「実」とが重なるから拙いのだと思い
ます。

最近の不適切な表現の1つの大きな原因は「不必要に強調し
て言おうとすること」だというのが私の推測ですが、これもそ
の1例です。

もう1つ次の文もありました。

─過去20年ほどの間に全国の地方の郊外農村部で道路が飛躍
的に整備され、住宅地が開発され、・・

「道路が飛躍的に整備される」と言うでしょうか。

どこに違和感を感じるのかと考えてみますと、「飛躍的」と
いうのは「飛躍的発展」と言うように、「進み方」ないし「進
む速度」のものすごく速いことを言うのに、「整備」自体は
「進む」という意味を含んでいないからだと思います。

やはりここは「道路の整備が飛躍的に進み」だと思います。

(2003年11月13日執筆)

      日  本  語  疑  典(その2)

朝日新聞夕刊では最近、少し大きめのテーマについてそれぞ
れ5回の連載コラムを載せています。今回は「監視する社会」
という題でした。

2003年11月12日、その最終回のコラムはICタグ(電子荷札
)を扱っていました。このICタグというのは砂粒以下の大き
さのチップだそうで、それにアンテナを付けて、チップ内に書
き込まれた情報が無線で飛び交うようになっているそうです。

 それは「モノを追跡するために使う」のですが、同時に「そ
のモノを持っている人も追跡してしまう」ことが避けられない
そうです。そのため、便利さとプライバシー保護の相剋が起き
るのです。

その文の最後は次のように締めくくられていました。

─野村総研が昨年9月、全国2400人に実施したアンケートで
は、情報化の進展で8割が「生活が便利になる」と答えた。一
方、「新しい犯罪が増えそうで不安」「プライバシーが侵され
そうで不安」という人は、約9割だった。・・

どこに問題を感じるかと言いますと、情報化に期待する人が
8割であることと、それに不安を感じる人が9割であるという
2つの事実を報じるのに、このように「一方、~という人『は
』」という言葉を使っている点です。

私は、この文を読んできて、「一方、『新しい犯罪が増えそ
うで不安』『プライバシーが侵されそうで不安』という人は、
」と来て、最後に「約9割」という数字を読んだとき、とても
驚きました。こういう言い方をしたならば、「約2割だった」
といったように、前者に対して少ない数字が来るものだと、無
意識のうちに予想していたからだと思います。

2つの相反する事が8割と9割だったのなら、私なら次のよ
うに書きます。

─野村総研が昨年9月、全国2400人に実施したアンケートで
は、情報化の進展で8割が「生活が便利になる」と答えた。『
同時に』、「新しい犯罪が増えそうで不安」「プライバシーが
侵されそうで不安」という人『も』、約9割だった。・・

皆さんはどう思いますか。

(2003年11月13日執筆)

      日  本  語  疑  典(その3)

11月30日の朝日新聞に次の文がありました。

─「封印」してきた地域金融機関の処理・再編には、もはや
ぎりぎりの時間しか残されていなかった。・・

「ぎりぎりの時間」という言い方があるのでしょうか。

学研の国語大辞典で「ぎりぎり」を見ると、次の用例が載っ
ていました。

1、国電の始発時間ぎりぎりまで交渉が難航することは必
至。

2、そうそう、僕、あんたのぎりぎりの意見聞きたいんやけ
ど。

3、中尉さんはこう言えたのがぎりぎりでした。

「ぎりぎりの時間」がなぜおかしいかと言うと、「ぎりぎり
」とは「必要な量や時間に余裕のないこと」だからだと思いま
す。

上の用例の「ぎりぎり」の所を「余裕のない〔こと〕」で言
い換えてみると次のようになります。

1、国電の始発時間に余裕のない所まで交渉が難航すること
は必至。

2、そうそう、僕、あんたの余裕のない〔言い残す所のない
〕意見聞きたいんやけど。

3、中尉さんはこう言えたのが余裕のない所〔精一杯〕でし
た。

では、最初に挙げた朝日の文の「ぎりぎり」を「余裕のない
〔こと〕」で置き換えますと、「『封印』してきた地域金融機
関の処理・再編には、もはや余裕のない時間しか残されていな
かった」となります。

「余裕のない時間」自身もおかしいし、「余裕のない」と「
残されないなかった」が重複すると思います。

代案としては次のようなのがどうかと思います。

「封印」してきた地域金融機関の処理・再編に、残された時
間はほとんどなかったのである。

あるいはどうしても「ぎりぎり」を使いたいならば、

「封印」してきた地域金融機関の処理・再編には、時間的に
ぎりぎりだったのである。

くらいでどうでしょうか。

(2003年11月30日執筆)

(2003年11月30日発行)

教育の広場、第 150号、言論の自由とは何か

2005年09月26日 | カ行
   投書・「日本語疑義典」について(N・T)

 はじめまして。メルマガ「教育の広場」を読み、さまざまなことを考えさせられています。

 牧野さんの考え方にすべて賛成できるわけではありませんが、毎日の仕事と研究に忙殺されてしまい、議論として呈示できるだけのメールを書くだけの時間的余裕がなく、断念してしまうばかりです。

 今回は、日本語疑義典の中で少し付け加えられそうな点を見つけたので、メールを差し上げる次第です。

  149号の日本語疑義典2に関してです。「一方」という単語にこだわった場合、

 ──野村総研が昨年9月、全国2400人に実施したアンケートでは、情報化の進展で8割が「生活が便利になる」と答えた。『その一方で』、「新しい犯罪が増えそうで不安」「プライバシーが侵されそうで不安」という人『も』、約9割『に上った』、という言い方ができると思います。いかがでしょうか?

 また、日本語疑義典3で、

 『あるいはどうしても「ぎりぎり」を使いたいならば、「封印」してきた地域金融機関の処理・再編には、時間的にぎりぎりだったのである、くらいでどうでしょうか。』
 と書いておられますが、これは
 『「封印」してきた地域金融機関の処理・再編は、時間的にぎりぎりだったのである』
 の間違いではないでしょうか? 単純ミスとは患いますが、疑義典として他者の日本語を批判するのであれば、こうした単純ミスをしないということも重要なポイントでしょう。重々ご承知とは存じておりますが、一報のみにて失礼申し上げます。

    お 断 り (牧野 紀之)

 1、牧野の公的言動について批判するのも疑念を呈するのも自由ですが、「単純ミスとは思いますが、疑義典として他者の日本語を批判するのであれば、こうした単純ミスをしないということも重要なポイントでしょう。」という言葉は黙認できません。

 2、この考えで行くと「完全無欠な人間でなければ何も言えない」ということになると思います。従って、この考えは自由な言論を抑制することになると思います。民主主義が個人の不完全性と可誤性に立脚するものだとするならば、民主主義を否定するものですらあると思います。

 3、したがって、私はN・Tさんを語るに足る相手とみなすことが出来ませんので、お返事はしません。

 4、ただし、この投書も投書としては有効だと思いますので、そのまま掲載します。

 5、なお、私の書いているのは「日本語疑典」であって、「日本語疑義典」ではありません。

(2003年12月03日発行)

茂木都立大学総長の言と行

2005年09月25日 | マ行
 石原東京都知事が(2003年)8月1日に突然、「都立の新しい大学の構想について」を発表したことで、都立大学と東京都とがもめているようです。この問題について〔岩波書店発行の〕「世界」12月号は茂木都立大学総長へのインタビュー記事「自由闊達な話し合いこそが大前提」を載せました。これを読んで疑問に思ったことを書きます。

第1点。 121頁の中段に次の文があります。

─大学は教育と研究の両面について責任を担っている。このどちらにウェイトを置くかに関しては率直に言って教員間に温度差があります。しかし、どちらにせよ都立大学は、その成り立ちから考えて、現在または将来にわたって、都民にとって有益かつ役に立つ教育と研究を行う責務があるのです。─

大学(ないし大学教員)には研究と教育の二つの仕事があるということはよく言われることです。そして、それを前提として、特に国立大学については「これまでは研究中心でありすぎた」と言われます。

しかし、本当にそうでしょうか。私見では、大多数の大学教員は研究も教育も疎かにしてアルバイトに狂奔している、と思います。私は、助教授は自著を最低1冊、教授は最低3冊出している必要があると思いますが、自著を1冊も出していない人が沢山います。それなのにアルバイトだけはせっせとやっています。都立大学についても同じ事が言えると思います。分かりやすく言えば、都立大学ではなくて「都立兼業大学」に成り下がっていると思います。

或る団体が2、3年前、東京都の情報公開条例を使って都立4大学の教員の兼業の実態を調べました。その結果を見た或る友人は「目に余るものがある」と言っていました。私も同感です。

 例を挙げましょう。都立大学の哲学の某教授は神戸大学と南山大学と北海道大学で集中講義をそれぞれ30時間し、上智大学と慶応大学でそれぞれ週2時間の授業を持ち、東京大学での多分野交流演習に月1回・4時間(年間)出ています。私の推定では、これで年間 200万円以上の副収入を得ていると思います。

これは最もひどい例の1つですが、2つや3つのアルバイトはザラです。私の経験では、本当に好い授業をするためには私の場合では1週間の出勤が2日ですが、若い人でも4日くらいが限度だと思います。それ以上になると、どこか手抜きをしなければならなくなります。

 自分の大学での授業や教授会や委員会などだけでも忙しいのに、どうして他大学でアルバイトが出来るのでしょうか。それは全てで手抜きしているからだと思います。

 このように研究と教育(もちろん自分の大学の学生の教育)の質を落としてでもアルバイトをしているのを茂木総長はどう考えるのでしょうか。法律によって、教員の兼業は総長の許可がなければできないはずです。茂木総長はどういう考えでこのようなアルバイトを許可したのでしょうか。

 また、かつて私が都立大学の大学院に在籍していた昭和38年から45年の経験で言いますと、9月の授業を勝手に休講にしているサボリ教授もたくさんいました。又、研究業績もなく授業も休んでばかりいながら政治運動とやらに憂き身をやつしている教授もいました。

茂木総長はこういうこれまでの実績(悪い実績)をどう考えるのでしょうか。

第2点。 123頁の中段に次の文があります。

─〔石原知事の〕新構想をめぐって都側と全然、協議していないとは言いません。しかし、それはあらかじめ都側が決めた枠の中の議論なんです。重要なのは、枠にとらわれない自由闊達な話し合い。これこそどのような大学を創っていくかの大前提なのです。─

では、(行政組織上の)「上」に対して「自由闊達な話し合い」を要求する茂木総長は、「下」の者との間にどのように「自由闊達な話し合い」を実行し、又都立大学の全教員に対して「学生との自由闊達な話し合い」を指示しているのでしょうか。もししているというならば、どういう工夫がなされているか具体的に教えてほしいものです。

都立大学のホームページを見てみましょう。すると次の事が分かります。

まず、茂木総長自身が都立大学の全教職員・学生に宛てたメルマガすら出していないことです。それはなぜでしょうか。小泉総理ですらメルマガを出しています。学問の府であり、議論を奨励する場のトップがメルマガすら出していないで、どうして他人に向かって「自由闊達な話し合い」を要求する資格があるのでしょうか。

いや、メルマガどころではありません。茂木総長は自分のメールアドレスすら公開していません。どうしてメールアドレスを公開して、都立大学の全関係者(更に外部の人)からの意見を聞いて、それに答え、その問答をホームページ上に公開しないのでしょうか。これこそが「自由闊達な話し合い」ではないでしょうか。

更に、教員紹介のコーナーを見てみましょう。先に兼業ばかりしているとして例に挙げました哲学の某教授の欄を見てみましょう。研究業績は最低の事しか書いていません。自分の担当している授業についての説明も不十分です。もちろん、兼業については全然書いていません。そもそも、大学側の指示した項目の中に兼業という項目がありません。

全教員(非常勤講師、集中講義の担当者を含む)について、その全職歴、全研究業績、全授業要綱、全兼業、大学内での仕事の全てを公表することは最低の説明責任だと思います。それなのに、この責任を茂木総長は果たしていません。十分な情報公開がないのにどうして「自由闊達な話し合い」ができるのでしょうか。

第3点。 124頁下段に次の文があります。

─よく基礎学力の低下が問題にされますが、私は同時に自分の意思を明確に述べ、相手が日本人であれ外国人であれ、まともに議論出来る力を養うよう手助けするのが教育の大事な仕事ではないかと考えています。─

ではこの「大事な仕事」を都立大学はこれまでどのように果たしてきたでしょうか。都立大学出身者でドイツ文学翻訳家として名高い人がいます。この方が3年ほど前、NHKのラジオドイツ語講座で「原書で楽しむグリム」という講座を1年間、担当しました。内容的には結構面白いものでした。しかし、語学的にはかなり問題のあるものでした。私の気づいた点をNHK宛てに質問しました。係から返事がきました。「いま、担当の先生に回答をお願いしています」と。しかし、「担当の先生」からはついにお返事はいただけませんでした。

第4点。このように問題点を指摘しますと、多分、茂木総長はこう答えるのでしょう。

 ─これもまた、すぐに効果の現れるという話ではないのですが。( 124頁)

この「大学の仕事の効果はすぐに現れるものではない」という論拠は大学人の好く使うものです。任期制導入が問題になった時もそうでした。今回の国立大学の独立行政法人化に反対する論拠の1つもそうでした。

この一見もっともらしい論拠を反駁しておきましょう。

第1に、都立大学は創立してから50年以上たっているのです。この間に大した成果が上がっていないことが問題なのです。むしろ悪くなってすらいるのが問題なのです。これまで50年以上の時間が与えられながら、大した成果も挙げられなかった人達が「大学の仕事の効果はすぐに現れるものではない」と言っても通りません。

一歩を譲ってそうだとするならば、どういう手を打っていつまでにどの程度の効果を挙げるのか、数値目標を出すべきでしょう。今はマニフェストの時代なのです。更に、教授の業績についても、定年(ないし退職)の時に「最後の審判」をして、研究や教育について成果の不十分だった教授には退職金を払わないとか、減額するといった制度を創るべきです。

第2に、すぐに効果の出るような手段や方法も沢山あります。例えば、高知大学で導入している日本語技法の授業です。これは1年生の前期だけのものですが、実質3ヵ月で効果が出ているそうです。それを何年も続け、方法を改良していけば成果は大きくなるでしょう。

総長がメルマガを出して教職員の意見を聞いて、「自由闊達な話し合い」をするのも効果はすぐに出ると思います。北星学園大学校の土橋校長のように学長通信を出していた(当時)人もいます。茂木総長もそれのまねをして総長通信を出したらどうでしょうか。これはすぐに効果が出ると思います。

同様に、全教員に教科通信を出させて学生との「落ちついた意見交換」をさせるならば、その効果は直ちに現れるでしょう。これは私の経験からはっきり言えます。

つまり、「大学の仕事の効果はすぐに現れるものではない」というのはやる気のない大学人の逃げ口上であり、言い訳にすぎないのです。

結論として私の言いたいことは、「自由闊達な話し合い」を実行していない茂木総長にはそれを東京都に主張ないし要求する資格がないということです。あるいは、そういう事を要求しても力にならないということです。

しかし、私は同時に、石原都知事の都立大学改革の方向もやり方も支持しません。

では都立大学はどうしたら好いのでしょうか。民営化したらいいと思います。法政大学総長の清成忠男氏は朝日新聞のアンケートに答えてこう言っています。

「成熟した経済大国という現状においては、国立大学の存在意義はない。今日、国立でなければできないことは何もない。基礎研究は私立大学に財政資金を投入すれば、国立大学に劣らず十分に可能である。国立大学への優遇など、『民業圧迫』はやめるべきだ。」(2003年07月06日付け朝日新聞)

同感です。この国立大学にはもちろん公立大学も入ります。小泉総理の言うとおり、民間で出来る事は民間に任せるべきだと思います。東京都は財政難で苦しんでいるそうですから、民営化したらその点でも助かると思います。

 付記

これは「世界」に投稿したものですが、「世界」は「自由闊達な話し合い」がお嫌いなようで、採用されませんでした。ここに掲載します。


(2003年12月16日発行「教育の広場」から転載)

教育の広場、第 214号、朝日新聞の堕落

2005年09月23日 | 教育関係
第 214号、朝日新聞の堕落

 08月20日付けの本メルマガに私は「第2外国語の衰退の原因
」と題する文章を発表しました。それは05月10日付けの朝日新
聞の天声人語の文章を批判したものでした。

 私の文章は朝日新聞の東京支局あてにメールで送り、担当者
に連絡してくださいと書き添えました。

 支局からは、「担当者に連絡する」との返事を受け取りまし
た。

 その後、朝日新聞はニセ記事捏造事件を契機にして、「解体
的出直し」を宣言し、読者からも意見を受けると発表しまし
た。

 そこで、私は次の意見を送りました。

─2005年05月10日の天声人語について私は、同08月20日、
自分のメルマガに批判的な論評を載せました。これをメールに
よって朝日新聞社の東京支局に転送しました。「担当者に連絡
します」との返事を受け取りました。しかし、担当の執筆者か
らは未だに何の返事もありませんし、天声人語欄でもこの件に
ついては何も書いていません。

民主主義は「人は意見の違うもの」という前提に立って、議
論を中心にするものだと思います。又、人間は議論を通して成
長するのだと思います。しかし、日本では学校教育が議論を中
心にして運営されていませんし、メディアもそうです。これで
は民主主義は育たないでしょう。

朝日新聞の再生の方針は唯一つ。「議論を中心にした紙面作
り」です。「記事に対する読者の論評は原則として載せる」。
記者には原則として答える義務を課すことです。「アサヒコム
」に「掲示板」を作って自由な書き込みを奨励し、その中の適
切なものは紙面にも載せるようにするといいでしょう。
(2005年09月16日)

 09月22日、東京本社野編集局長の吉田慎一名で次の返事を受
け取りました。

 牧野 紀之様

日頃、朝日新聞をご愛読いただき、ありがとうございます。
また、このたびはご意見・ご提言をお寄せいただき、重ねて御
礼申し上げます。

 小社の社長秋山耽太郎は9月7日の記者会見で、「編集部門
を中心にした『解体的な出直し』に、不退転の決意で臨み、新
聞づくりの土台からの改革を軌道に乗せます」と、読者のみな
さまにお約束しました。

 また、「今回の事件を踏まえ、例えば記者の採用や教育に問
題がないのかどうか、会社の風土のなかにモラルの低下を招く
ような部分がないのか、そして、組織や制度そのものに問題が
ないのかどうかを根本的に洗い直して、再建策を講じていきた
いと思っています」との方針を表明しております。

 朝日新聞は、ご意見、ご提言をしっかりと受け止め、よりよ
い記事と紙面を生み出すための再建策を打ち出す作業を続けて
おります。どうか今後とも見守り続けていただければ幸いです


 末筆ながら、みなさまのご健勝をお祈り申し上げます。

              2005年9月20日

       朝日新聞東京本社編集局長 吉田慎一

 一言、批評します。

 一方で「再建策を打ち出す作業を続けている」と言いながら
、他方で、私の天声人語批判には答えない、あるいは担当者に
答えるように指示しない。この2つは矛盾しているのではない
でしょうか。避けてきた議論をすること自体が再建策の中心的
な部分だと思うのです。

 それともその再建策とやらが確定して、その中に、記事と議
論を中心に据えた紙面を作る、と決まったら、その時初めて担
当者に返事をさせる、と言うのでしょうか。

 このメルマガも又、朝日新聞社に送ってみます。

   (2005年09月23日発行)

都立大学問題のその後

2005年09月21日 | タ行
 石原東京都知事が都立新大学を作ろうとしている問題はその後新たな展開を見せました。

 第1は、その新大学の「都市教養コース」と「国際文化コース」の「理念」について河合塾にその「補強」を委託することにしたというものです。

 人文・社会系各コースの授業科目名の提案、都市教養学部全体の設計、教養教育の英語、情報教育プログラムの設計なども「補強」してもらうそうです。

 12月05日付けの朝日新聞が報じていました。委託料は3000万円だそうです。

外部委託をする理由は「大学の先生方は法学、経済学など既存の学問分野での縦割りの検討は得意だが、学際的に横断するのは苦手。河合塾は大学評価手法の調査を経済産業省から委託された実績もある」とのことです。

理由の前半は正しいと思います。しかし、東京都や知事が自分で「理念」すら作れないということは、大学を作る能力と資格がないということだと思います。

都立大学は民間に売却するべきだと思います。

第2は、東京都のやり方に抗議して都立大学の法学部の4人の教授が辞任の意思を表明したために、2004年04月に開校予定の都立大法科大学院の予定が立たなくなり、01月に予定していた入試を延期することになった、というものです。〔2003年〕12月12日の朝日新聞が報じていました。

あらたに専任教員を採用して間に合わせるつもりのようですが、本当に間に合うのでしょうか。「週刊朝日」はその4人の内の2名の名前まで上げていました。

たしかに東京都のやり方は民主的ではありません。それに抗議するのは結構ですが、これまでの都立大学のやり方に抗議してこなかった点の反省が欠けていると思います。

第3は日本独文学会が声明を発表して「都立新大学構想の再検討を」求めたということです。12月17日付けの朝日新聞が報じていました。

その声明の中に「問答無用の形で出された新構想は、人文学部の廃止を前提としているとされ、大学の自治を完全に無視する暴挙」という言葉があるそうです。

前から思っていたことですが、今度の都立新大学設立自体とそのやり方は、かつて東京教育大学を廃止して筑波大学を作ったこと及びそのやり方と酷似していると思います。

あの時も文部省と教育大学内部の保守派の狙いは文学部の解体であり、政治に無関心な大学を作ることだったと言われました。

教育大学の文学部も都立大学の人文学部も、保守派が思うほど左翼的ではないと思います。被害妄想でしょう。

しかし、教育大学に代わって作られた筑波大学が政治に無関心になったことは事実のようです。巷間では「筑波大学の奨励するのは3S(study, sports, sex)」と言われたものです。

 独文学会がなぜ声明を出したのか知りません。それは自由です。内容も必ずしも間違っているとは思いません。しかし、やはり自己反省が欠けているのではないでしょうか。

1991年の大学設置基準の大綱化以来、集中的に縮小の対象となったのが第2外国語であったということ、その結果、大学でのドイツ語教育の比重は極めて小さいものになったということ、そして、その大きな原因の一つが、「教養教育の一環としてのドイツ語教育はどうあるべきか」を熱心に追求してこなかったことにあること、つまり大学におけるドイツ語教育の縮小はドイツ語教師の自縄自縛的側面が大きいこと、を反省していない点で、極めて不十分だと思います。

        投  書

 拝啓

 私は八王子在住のFと申します。Yさんから紹介されてこのHPを読んでいます。

 今回の都立大学の件は、〔牧野さんの意見に〕本当に同感します。私は中央大学が母校なので、都立大学の凋落ぶりは手に取るように分かります。またメルマガに記されている教授たちの怠慢ぶりは予備校、LECを職場とする私のようなアカデミズムの門外漢にも知れ渡っています。

 現在、私が委員を務めている八王子教育改革プランでも次回はこの話題を出してみます。


        お 返 事(牧野 紀之)

 投書をありがとうございます。

 LECとは何でしょうか。又、あなたが委員をしている「八王子教育改革プラン」とはどのようなものでしょうか、行政組織上の何かの権限があるのでしょうか。

 こういった外部の人間の知らない点についての説明があるともう少し親切になったと思います。

 そこで取り上げた結果をまた知らせて下さい。お願いします。

(2003年12月25日発行)

教育の広場、第 154号、師弟関係(教える姿勢と学ぶ姿勢)

2005年09月19日 | サ行
 今年ブレイクした人ないし事柄の1つとして甲野善紀さんの古武術があると思います。この人はその方面では以前から知る人ぞ知る人だったようですが、昨年、巨人の桑田真澄投手の復活を支えた人として一段と有名になったと思います。

 今年は桑田投手はイマイチでしたので、その点では少し評判が落ちたという話(桑田投手の復活は「燃え尽きる直前のロウソク」みたいなものだ、とかいう話)も聞きますが、陸上競技短距離の末続慎吾選手(世界陸上の 200米で3位)の活躍もあって、そして末続選手も甲野さんから体の動かし方を学んだとかで、全体としては今年も甲野さんの名声は大いに上がったと思います。

本は沢山出版され、秋にはついにNHKの人間講座で講義をするようにまでなりました。

武術には縁のない私ですが、この人の古武術については興味を持っていましたので録画して熱心に見てみました。しかし、やはり具体的な内容についてはほとんど分かりませんでした。

感銘を受けたのはただ1つ、甲野さんがいろいろな武術の1つ1つについてかつてそれぞれの道の第1人者と思う先生について学んだこと、そしてその先生(師)の術をマスターした後に自分の武術を作ったことです。

甲野さんのついた先生は誰でも「自分はこうやっている」という言い方で、「自分のもの」を生徒(甲野さん)に伝授したようです。そして、生徒が一通りその「自分のもの」を身につけた後には、「後はあなたのやり方で自分の術を作っていくように」と言って、卒業させたらしいことです。

甲野さんも生徒としてその先生についている間はその先生のものをマスターすべく努力したようです。その証拠に、「先生のやり方はこうだった」と言ってそれを実演していました。そして、その上で、「自分はこうやっている」と言って自分の術を披露していました。

これが本当の師弟関係だと思います。

1、先生はあくまでも「自分の正しいと思うもの」をしっかりと生徒に教える。しかし、それは決して絶対的真理ではないことを自覚している。

2、生徒は先生についている間はあくまでも先生のやり方を学ぶために習っているのだから、正しいか否かに関係なく、先生のやり方を学ぶ。もちろん質問はしてもいいのだが、最後の決定権はあくまでも先生にある。それは先生が正しいからではなく、先生が先生だからである。

3、そして、一通り先生のものを学んだのちには、礼を言って先生の許を去り、独立する。そして、自分のものを作る。

しかし、これが可能になるためには、本当は先生が経済的にも自分の術で生きていける独立した人でなければならないのではないでしょうか。又、生徒の方も可能性としては自分の実力で経済的にも生きていける可能性を持っていなければならないと思います。

今の大学教授と学生の間にこれを求めるのはやはり間違いなのだろうと思います。教授は実際には「プロ」ではなく「ノンプロ」でしかないと思います。実力で給与が変わらないからです。

学生もサラリーマンになることを目指していて、独立する可能性は極めて小さいと思います。

しかし、あくまでも本当の師弟関係の原型はここにあるのだということは確認しておきたいと思います。


    投 書・大学についての感想(K・S)

 いつも楽しく拝読させていただいております。

 『茂木都立大学学長の言と行』『都立大学問題のその後』等大学問題についての鋭いご指摘には刮目(かつもく)に値するものと考えております。

 さて先生のご指摘の大学問題について2つの大きな問題点が焦点になるのではないかと思います。大学の堕落と大学教員の堕落という組織とその構成員の問題をご指摘になさっているのではないかと拝察申し上げます。この問題を別の角度から考えさせていただきたく存じます。

 大学問題が取り上げられる都度、大学の発祥地である、ボローニャのことが思い浮かべられます。中世来の法律は、19世紀の近代法典が成立するまで、6世紀のロ一マ法大全(ユスチニアヌス法典)を基にしていたと思われます。

しかしこのローマ法大全に含まれる法条文は、いろいろと矛盾を含んでおり、適用どころかその全体の理解もできない状態に特に中世に陥ったようです。そこでこのローマ法大全の体系的学習をしようと自発的に学生がボローニャに集まり、遠くドイツからもアルプスを越えて来る学生もいたそうです。

このような学習者・研究者のうち、秀でた者等が出てきて、その者に給金を払い教員として雇うということが出てきたようです。この給金を払うために学生が組合を作ったのボローニャ大学の始まりと言われております。

給金を出すのは学生でしたが、彼らとて、生産者ではないので決して裕福ではなかったようです。それこそ法学の修得が死活問題であったので、学生にとって有益でないと思われる教員は即刻解雇されたようです。いわば学生と教員の間に緊張関係があり、これが将来の大学の大いなる基礎を提供したものであると考えます。大学の自治も学生側が握っていたと思われます。

この緊張関係が解け、大学が堕落するきっかけは、大学が学生に依存せず、パトロンを得たことにあるのではないかと愚考しております。特にドイツの大学が、王や諸侯によって設立されました。

そこでは優秀な学者を招くために、教員の身分保障や学内統治を認めました。大学の自治は、学生の処分のための牢獄を持つまでにもいたりましたが、大学の自治は教員に移っていったと思われます。

自治の担い手である大学教員が、緊張感を持ちながら自らを律している限り、この大学制度は立派に機能すると思います。そして実際に大学人が自分の研究でさまざまに活躍していたことは周知の事実であります。

このドイツの制度が日本に導入されたようです。しかし昨今、大学教員は「永久就職」「身分保障」の制度的保障のお陰で特に国公立大学で先生がご指摘の通り堕落が始まりました。これはパトロンが抽象的な国民・住民であって、具体的な国民・住民に対する責任感が欠如していることもこの堕落を助長いたしました。

その結果、利己的で名誉欲の固まりとなっていきました。論文を書かなくても、講義を適当に欠講しても、なんらお咎めはありませんから、バイトに精を出す大学教員が登場するのも不思議ではありません。

そのくせ、大学外の人には「先生」と呼ばれ、また呼ばれなければ、呼ぶことを要求し、さらに審議会等に名を連ねたがり、勲章も求めたがります。このような大学教員が増えると、自分の利益を確保するために、「仲間」を集めだします(地方では、某政党員が殆ど教員を占める大学が多数あります)。

大学自治が堕落すると、堕落教員の自治となり、このような中で、「学生のために努力しよう」などという教員がいると、それは自分たちの既得権益を失うことを主張する者として、その教員は排除されるのが現状です。

都立大学を含む、国公立大学は国民・住民の血税で運営されているのに、そのパトロンである国民・住民に対してどれだけの還元をしているのでしようか。石原知事の問題提起を真剣に受け止めることができない大学は、先生の仰るとおり「民間に売却するべき」です。

この期に及んでもまだ「問答無用の形で出された新構想は、人文学部の廃止を前提としているとされ、大学の自治を完全に無視する暴挙」と叫ぶ「極楽とんぼ」は絶滅されるべきです。人文学部が不要とされている根拠・原因を突き止め、その上で再生可能か否かを外圧がある前に、自らが検肘し、改革案を呈示し、改革を遂行するのが、自治の一つの現れであると考えます。

したがってこの発言は自治能力の欠如を自ら告白していることに他なりません。だからこそ今日にいたったことに思い至らぬ大学教員を即刻解雇して、もっと国民・住民のためになる教員を雇い、その上で国民・住民のための大学ヘと変えていかねばなりません。

無能・無益な大学教員、生活扶助制度としての国公立大学は即刻廃止または民間に売却されるべきです。独立行政法人として血税を使い、無能無益の教員の余命を長らえさせるべきではありません。大学教員の雇用の確保よりも無駄な血税に一銭も投じさせないことの方が、重要であると考えます。

 追伸

  LECは東京リーガルマインドという資格試験予備校です。


        お返事(牧野 紀之)

投書をありがとうございます。

ヨーロッパでの大学の根本的な性格の変遷など、勉強させていただきました。

かつて1998年04月から06月まで、東大の西洋史の樺山紘一さんがNHKの人間大学の1つとして「都市と大学の世界史」という題で12回の講義をされましたが、その中でもふれられていなかった点が、ご投書の中にはあると思います。

(2003年12月28日発行)



教育の広場、第 213号、世界にたった一つの花

2005年09月18日 | 教育関係
第 213号、世界にたった一つの花    

 SMAPとかいうグループの歌う「世界にたった一つの花」とか
いう題名の歌が、3年連続して「最も儲けた歌」になったとい
う報道がありました。もうかなり前の事です。

 これについて一言しておきたいと思っていました。ようやく
書くことになりました。

 この歌が儲けの大きい歌の第1位になった理由は、学校関係
で使われた(売れた)ということのようです。そういう解説が
ありました。そこで、私は思い出しました。金子みすずの詩の
「みんな違ってみんないい」とかいう言葉です。これは教科書
に載っているらしく、学校で、多分今でも、大いに流行ってい
るはずです。

 言葉の意味ないし狙いは同じだと思います。金子みすずは昔
の人で、当時、イジメがどれくらい流行っていたか知りません
が、まあいつの時代にも特に学校にはイジメはあったのでしょ
う。あるいは自分の経験を下敷きにしてそう言ったのかもしれ
ません。なにしろかなり不幸な方だったようですから。

 今、学校でこういう言葉が意識的に流行させられるのは、も
ちろん、イジメの原因の1つとして、「皆と違う」という理由
があると考えられているからだと思います。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。結果から考えると、こ
のような言葉を学校や教師が意識的に流行らせたとしても、イ
ジメは減っていないと考えられます。ということは、こういう
言葉ではイジメ対策としては無力、ないしほとんど無力だと推
定されます。

 なぜでしょうか。原理的に、「みんな違ってみんないい」で
は済まない場合があるからです。そして、そういう場合にどう
したらいいのか、その基準を提示していないからです。

 先日、総選挙がありました。どの政党も「みんな違って」い
ました。これを「みんな違ってみんないい」と言っても何も出
てきません。どの政党も「世界でたった一つの花」かもしれま
せん。だとしても、だからどうだと言うのでしょうか。投票行
動の指針になりません。

 つまり、民主主義が本当に問題になるのは、1つの選択肢を
選ばなければならず、選ばれた1つの選択肢が全体を代表して
行動して好い、という前提がある場合に、意見の違いがあるか
らです。その時どうしたらいいのか、これが問題なのです。

 問題をこのように立てないで、「みんな違ってみんないい」
とか「世界でたった一つの花」とか言ってみても、民主的人間
関係には何も資する所はないでしょう。問題をはぐらかしてか
えって人を欺くだけだと思います。

 しかし、詩人やタレントグループの人達が悪いのではないと
思います。このように民主主義の高度な問題の理論的解明は彼
らの仕事ではありません。それは政治家や理論家や教師自身(
特に校長)の仕事です。つまりこういう人達の理論的貧困に原
因があるのだと思います。

 それを自覚しないで、こういう歌や詩を口にして何かイジメ
対策をしたかのように思い込んでいる内は、学校は少しも前進
しないでしょう。

 ここまで書いてきて、これだけでは少し不親切だなと思いま
した。なぜなら、実際に、「全体との違い」を理由にしたイジ
メもあると推定されるからです。

 しかし、イジメが減っていないらしいということは、この種
のイジメもこういう詩の一節を唱えたり、歌を歌ったりして解
決できるものではないということを示しています。

 校長を中心として教師たちがまとまっていて、教師集団が全
体として前向きの姿勢で課題に取り組んでいることだと思いま
す。又、議論が活発に行われ、議論のルールが繰り返し反省さ
れていることだと思います。

 生徒は教師の姿を映す鏡だと思います。

 何ヵ月か前、山口県の光高校の生徒がイジメに対する恨みか
ら、教室に爆弾を投げ込むという事件がありました。この高校
のHPを見てみますと、内容のないものでした。校長の生の声
も載っていませんでした。

 これがあの事件の本当の背景だと思います。

 (2005年09月17日発行)