ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

少人数学級

2009年08月24日 | サ行
 日本の小学校の1学級あたりの児童数は28.2人。経済協力開発機構(OECD)加盟国では下から2番目の低水準だ。

 中学校も下から2番目の33.2人で、OECD平均の23.8とは約10人の開きがある。

 文部科学省の幹部も「日本は学級規模で言えば後進国」と認める。

  (朝日、2009年08月24日)

  小話・少人数学級とは25人以下のクラスのことを言う。

 昨年(2001年)の4月に高校標準法が改正されて40人未満の学級編成ができるようになったそうです。その結果「少人数学級」が実際に作られる例が出てきて、それが新聞記事になっています。歓迎するべき事だと思います。

 しかし、1つだけ気になる事があります。それらの記事を読んでいますと、そこで「少人数学級」と言われているものの1クラスの人数は25人以上なのがほとんどなのです。

 (2002年)02月15日付け朝日新聞に載っていた例も「県立高校で少人数学級」とした上で、「25~36人」とありました。こういうのでも「少人数学級」と呼ばれる日本という国は本当に教育後進国だと思います。

 国際的には25人以下のクラスだけが「少人数学級」と呼ばれるということをしっかり確認しておきたいと思います。(メルマガ「教育の広場」2002年02月27日発行から)



ジャーナリストの怠慢

2008年05月26日 | サ行
 昨日(2008年05月24日)の朝日新聞の別冊に「躍進秋田と和田中の秘密」という小特集がありました。地域全体で子供たちとかかわることで好い教育効果を上げている所ということのようです。

 この事自体に文句を付けるつもりはありませんが、和田中学校とその民間人校長が取り上げられる度に思うことは、「なぜ和田中ばかりなのか」という疑問です。逆に言うならば、愛知県犬山市の教育はなぜ取り上げないのか、ということです。

 犬山市は和田中以前から改革を進め、「愛知県で子供を持つ親は犬山市に引っ越したいと思っている」と言われるほどの成果を上げている所です。それなのに、なぜかあまり報道されません。そのため、私の知りたいと思っている「学び合い」の方法というのがどういうものなのかも分かりません。

 まして犬山市は、昨年から再開された文部科学省の学力テストに参加しない唯一の自治体です。その信念は高い実績に裏打ちされているはずです。それを取り上げないというのは異常です。

 蔭山英男さんが校長をした時の広島県の小学校はたしか雑誌「プレジデント」が継続的に特集をしていました。

 教育は国民の関心の非常に高い問題です。何かあれば大々的に取り上げられておかしくないはずです。それなのに、犬山市の教育を系統的継続的に報道するジャーナリストはなぜ出てこないのでしょうか。NHKはなぜ特集番組を放映しないのでしょうか。私が知らないだけなのでしょうか。それなら教えて下さい。

 密かに推測する理由は、犬山市の教育が知られて支持されて、もしも広がったりすると、文部科学省の教育支配が崩れるのではないかという危惧の念からではないかということです。

 つまりジャーナリストも一見市民の立場に立っているかのように振る舞っていますが、本当はそうではなく、文部科学省の教育支配が崩れない範囲でああだこうだ言っているだけなのではないかと思うのです。この推測が間違いであれば幸いです。

 その犬山市の教育も新しい市長になってから、おかしな教育委員が次々と任命されて、いまや風前の灯火です。今のうちにその立派な功績を詳しく調査し、報道してほしいと思います。

静岡県知事選挙の意義

2008年05月17日 | サ行
 予定通りならば、来年(2009年)の07月に静岡県知事の選挙があるはずです。これは以下の理由によって、とても大切な選挙になると思います。

 第1に、石川現知事の夢であった静岡空港が来年の春に完成します。そのため、年齢も考え合わせますと、石川知事は、まず、次回は出馬しないだろうと思われます。

 それに、連合静岡の石川知事支持の理由がこの空港問題だったと推定されますから、この足かせがなくなり、自民系でない人を支持する可能性が出てきます。

 思うに、この空港問題こそがこれまで長い間静岡県政の停滞を招いた原因でした。これに反対する人は連合静岡が支持しないために、石川知事の当選が事実上いつも決まっていたからです。

 次回はこれが一応完成という形で争点でなくなりますから、県政に動きが出るだろうと予想されます。

 第2に、遅くとも2009年09月には総選挙があります。その前になることも考える必要があります。そして、それとの関連で、小沢民主党は「知事選挙で自民との相乗りはしない」と決めていることです。

 従って、連合静岡の支持も得られる人で、民主党的な人を選んでくると思います。県政における政権交代の可能性が大いにあるわけです。

 静岡県政は、表面だけだと思いますがともかく経済的に破綻していないために、また石川知事が刑事事件になるような下手なまねをしなかったために、一見平穏ですが、その実態には大問題が隠れていると思います。

 県民の間に不満も高まっていると思います。前回の知事選挙で対立候補の吉田さんがたしか70万票取って、石川知事への潜在的不満の強さを証明しました。

 昨年の春の統一地方選挙では静岡市長選挙で、小嶋市長は薄氷を踏む思いの勝利でした。旧静岡市では対立候補の海野徹さんの方が勝ってさえいたのです。

 そういう訳で、次の県知事選挙は大きな分岐点になると思います。ですから、いくつかの重要な問題について、次回から、私の考えている範囲で問題提起していこうと思います。


年頭所感

2008年01月06日 | サ行
教育の広場、第306号、年頭所感

 年頭所感とはおおげさですが、改革運動の今後について私見を述べたいと
思います。

 1、浜松市政は昨年末の「緊急提言」を受けてどう変わるか、間もなく発
表されるであろう予算案を待ちましょう。

 2、トップのやる気と見識とアイデアが極めて不十分な場合、言う事は言
うのですが、成果はあまり期待出来ないと思います。従って我々の努力は議
員で見込みのある人達に働きかけて行くのが正道になるのではないでしょう
か。

 市議では私の知っている限りでは3人の方(少なすぎます)がブログを出
していますが、田口章市議とその所属会派に期待したいと思います。

 昨年末、その田口市議のブログに「議会の活動の客観的で事務的な報告を
載せてくれないか」と頼みましたところ、反応がありました。これの理解者
が増えて、何人かで協力してやっていく体制が出来るとありがたいと思って
います。

 直前に名乗り出て、大した成果の挙げられなかった花まる組の失敗に鑑み
て、今から3年後の選挙を目指して努力するようになってほしいと思ってい
ます。

 3、静岡県政も昨年の選挙で平成21が躍進しました。その中に浜北区選出
の阿部卓也さんがいて、以前から少し関係を持っています。

 その阿部県議が12月に始めて一般質問に立ちました(その様子は県議会の
ホームページの動画で今でも見聞きすることができます。浜松市議会も早く
こうなってほしいものです)。その質問は7項目から成るものでしたが、私
はまず「地震対策」について取り上げました。

 即ち、「耐震補強の必要な家屋」が多数ありますが、その人達の約8割が
「費用が負担できない」という理由で、補強をしていないのです。それをど
うするかの問題です。

 阿部さんや県庁の方針は「助成」(費用の1部を公費で補助すると理解し
ます)のようです。そこで、私は「助成」では無理だと言いました。ほとん
どの老人夫婦は1円も出せない所まで(小泉改革で)追い込まれているから
です。

 それに対して、阿部さんは、1基25万円のシェルター(6畳くらいの広さ)
が開発されていて、それを配ることになったので、それでいいとの返事をく
れました。

 私は、シェルターで命が助かっても、家が倒壊したら、その後はどこで暮
らすのかと言いました。つまり、シェルターは解決策にはならないと思いま
す。やはり家屋そのものを震度7でも倒れないように補強することが正道だ
と思います。

 耐震補強の費用は最大でも 150万円と聞いていますので、その 150万円の
内、材料費はいくらでその他の費用(労賃など)はいくらか、と聞きました。
まだ返事がありません。

 こうして見込みのある議員との協力を強めていきたいと思っています。

 4、政権交代による国政の転換が今年の最大のテーマであることは間違い
ありません。ここでの問題は、私見によると、組織の拡大強化の重要性を認
識して、その具体策を打ち出せるかだと思います。

 報道もされていますが、民主党が小沢代表の元で躍進したのは、小泉改革
の結果が出てその改革とやらに対する幻想が消えたという外的条件もありま
すが、それを受け止める主体(民主党の組織強化)があったからだと思いま
す(共産党のかつての躍進は故宮本顕治氏の組織拡大の結果であり、創価学
会の今日も池田大作氏のそれによるところが大だと思います)。

 小沢代表のやり方は義理人情的・農村的ですが、ともかく自分のやり方で
やっています。政策論争に明け暮れている青二才とは根本的に違います。

 これからは若い議員たちが組織の拡大と強化の「自分のやり方」を作り上
げるか否かだと思います。私は何人かの人に、カウンター・ホームページを
作る事(役所などに情報公開を迫るだけでなく、調べた情報を体系的にまと
めてネット上に発表すること)、党としての会議を定期的に開き勉強する事
(個人後援会と同時に党活動を強化すること)、ブログで客観的な活動報告
をすること、の3点を提案していますが、今のところ、大した成果は上がっ
ていません。

 5、公正な社会を夢見て半世紀やってきて、どれだけの成果があったか疑
問ですが、残りも少なくなりました。しかし、生きている限り、仕事はもち
ろん続けつつ、社会的発言も忘れないようにしたいと思います。その意味で
インターネットが出来た事は言論で戦う人間にとってはとてもありがたいこ
とだと思います。

 或る人からの賀状に次の文がありました。

 「神奈川県庁の朝は、新聞の切り抜きで始まります。幹部職員は切り抜き
の斜め読みと、スタッフの作った想定問答で何とか1~2年乗り切ります。
これが「ノンプロ」の再生産の仕組みです(牧野さんのブログを拝読して)」。

 ささやかな反響ではあると思います。


市民の権利

2007年09月04日 | サ行
教育の広場、第300号、市民の権利

 経験から判断しますと、市役所など公的機関の持っている情報は
以下の3種類に分けて考えることが出来ると思います。

A・公的機関自身が広報誌などに進んで発表する情報。
B・こちらがメールなどで質問すれば答えてくれる情報。
C・質問しても法律などを根拠にして答えてくれない情報。

 Cは仕方ないとして、AとBについて考えます。

 Aは、「全体的真実を分からなくするために部分的事実を細切れ
に発表する」という特徴があると思います。

 私は大学の授業で「大学は学問の府と言われるが、その時の学問
とは何か」というテーマで毎年、話をします。その内容の1つは、
部分的事実ではなく全体的真実を追求するというものです。

 市役所の職員の皆さんも多くは大学を出ていると思いますが、こ
ういう事は習わないで卒業したのでしょうか。それとも、これを知
っていて、意識的に、あるいは上からの指示で、全体的真実が分か
らないような形で発表する技術を磨いているのでしょうか。

 Bは更に分けますと、メールで質問して答えてくれるものと、情
報公開請求をすれば公開してくれるものとになりますが、今はメー
ルで答えてくれるものだけを考えます。

 これについて言えることは、こういう情報は、多くの皆さんが思
っている以上に沢山あるということです。従って、これを質問して
聞き出して、全体的真実を追求することが「かなり」可能だという
ことです。

 もちろんそのためには、継続的に調べて、情報を蓄積していくこ
とが大切です。もちろん新聞記事等もスキャナーでPCの中に取り
込んだりする必要もありますし、時には担当部署に電話して細かい
点を詰めることも必要です。

 そのようにしてずっと続けてゆくと、質問の仕方がうまくなりま
すし、受け取った情報の読み方が深く鋭くなります。学問研究と同
じことです。

 思うに、インターネットは民主主義者にとってとても好い武器だ
と思います。なぜなら、民主主義というのは言論で戦うことですし
、インターネットはそのための調査と発表の道具としてものすごく
役立つからです。これをどのくらい使うかは、その人がどの程度民
主主義者であるかを判定する基準にすらなると思います。

 浜松市のメルマガ第 253号(2007年08月24日発行)に、市の職員
で~に出向(?)して、今ニューヨークの事務所で働いているとい
うAさんが報告文を書いていました。

 外国駐在の大使などは手当てだけで十分に生活できて、本来の給
与などは全部貯金できるから、大使をすると家が建つ、という話を
聞いています。Aさんはどんな手当てをどの程度もらっているのか
、聞いてみました。

        記(市からの回答)

(財)自治体国際化協会のAさん〔原文は実名〕の勤務に係る経費
は下記のとおりです。

 宿泊料(家賃月額) 30万1600円

 (注)家賃は、自治体国際化協会ニューヨーク事務所勤務の単身
   者の家賃実績平均を上限としています。

 日当(日額) 6200円
  〔土日の分は出ないのでしょうね。月20日として12万4000円〕

 (注)日当とは、通勤費、業務で現地を移動する場合の交通費、
   文書・事務連絡費等を賄うための旅費のことで、日額は、浜
   松市職員の旅費に関する条例第30条の規定に基づいています。

 なお職員派遣については、派遣団体である(財)自治体国際化協
会から海外事務所職員派遣助成金交付要領に基づき、550万円が浜
松市に交付される見込みです。

 2007年08月31日   浜松市総務部人事課(引用終わり)

 これでは、このほかに市職員としての給与や手当てなども出てい
るのか、分かりませんので、週明けにでも電話で聞いてみるつもり
です。

 尚、Aさんの実名はメルマガにも載っていますし、市からの回答
にも載っていましたが、ここでは必要ないのでAさんとしました。


品川女子学院の生徒心得

2007年08月17日 | サ行
 この春の朝日新聞に、ある女子校の生徒が水着姿の写真集を出し
たとかで退学処分になったという記事が載っていました。その記事
の中に「校則をホームページに発表している学校」として品川女子
学院の名前が上がっていました。

 それを読んだ感想をまとめます。

 1、全体として、「生徒の心得」だけあって、「教職員の心得」
がなく(発表されておらず)、両者の関係についての規律も発表さ
れていないと思います。これはおかしいでしょう。

 学校というのはサービス業を行う1つの事業体であり、サービス
を提供する側と受ける側との契約を明記しなければならないという
意識がないのでしょうか。

 2、この心得への異議申し立てと、その申し立てがあった場合の
処理の仕方が明記されていないのも根本的な欠点でしょう。

 人間は不完全なのです。教師もそうなのです。異議申し立てと是
正の方法を明記していない規則は、民主社会の規則と言えないと思
います。

 そのために、心得が強制になっていて、校是「自ら考え、自らを
表現し、自らを律する」の自律の精神と内容的に反する結果になっ
ています。

 意地悪い批評をすれば、「自律的に他律的な人間になれ」という
意味に取れます。まあ、日本はアメリカに対する「自主規制」の国
ですから、そういう国の学校に相応しいかもしれません。

 3、又、生徒心得としても、根本的な精神と登下校以下の細かな
事との2つしか述べられていません。確かに中高生にとっては服装
などの事ははっきりさせておくべき重要な事だとは思いますし、こ
れらは本当のお客さんである親の要望の強い事柄でもあるでしょう
が、授業のあり方と授業内容に関係し、従って教師と生徒の関係及
び生徒同士の関係に関する規律が定められ発表されていないのは大
欠点でしょう。

 つまり、校是の次にある事柄は、個人としての自己実現という目
標と他者と共同して生きていくという社会性とを併記していて適当
だと思いますが、特に後者が具体化されていないのです。

 他者(教職員や他の生徒)から不正を加えられたと思った時どう
したら好いのか、他者との共同における意見の違いにどう対処する
べきなのか、が書かれていません。

 このように言うと、イジメとかをすぐに連想する人も多いと思い
ますが、イジメだけでなく、学校のあり方や校長を含む教職員のあ
り方、教師の教えている授業内容等について疑問を持ったとき、ど
うしたら好いのか、それが書かれていないのです。

 内容的には、教師と生徒、生徒同士の行き違い、考えの違いは、
授業や学級のあり方(いわゆる授業アンケートなどの項目になるよ
うな事柄)と授業の内容そのものでの意見の違い(先生の説明や解
釈に賛成できないとか疑問があるとか)とに二分されます。この2
つの性質の違いによって、両者の解決方法も違ってきます。

 しかし、いずれにせよ、人間は不完全なものであり、間違えるの
です。中学生になり、自我に目覚めると、自分の考えを持つように
なりますし、この学校ではそれを校是として奨励さえしているので
す。

 しかるに、自分の考えを持つと、他の人々との意見の違いが必ず
生まれます。若い頃はとかく自分の考えを正しいと思い込みがちで
すが、自分が「あれは間違っている」と思った事が必ず間違ってい
るとは限りません。しかし、同時に、そういう意見の違いは「見解
の相違」ではすまされず、どれかに決めなければならない事も沢山
あるのです。そこで問題が起きるのです。

 それなのに、そういう場合の意見の違いの処理方法を決めていな
いのです。なぜでしょうか。

 根本的には、こういう場合の認識論的に正しい解決方法を知らな
い(どこの大学でも多分教えていない)からだと思います。そのた
めもあって、直接的にはそういう「混乱」を頭から避けようとして
いるのだと思います。

 教師がこの問題から逃げている限り本当の教育は出来ないと思い
ます。人間は議論の中で成長するのです。しかし、その議論はどん
な議論でもいいわけではありません。「認識論的に正しいルールに
則った議論」でなければならないのです。この正しいルールを提示
できない学校は本当の学校ではないと思います。

 4、「明るい心と知性を持ち、常にまっすぐに正しく生きる」と
か、「目標を立てたら、それを達成しようと願う心を強く持ち、飽
きることなく絶えず努力を続ける」といった、理想的な事をなぜ目
標にするのでしょうか。

 我が家の近くの浜松市立引佐北中は「求めて学ぶ心豊かな生徒」
を教育目標として、「やれば出来る、勇気ある挑戦」とかいう合言
葉を掲げています。

 学校ではどうしてこのような理想的な目標やスローガンを掲げる
のでしょうか。迷ったり、悩んだり、停滞したりすることはいけな
いのでしょうか。「全てを疑え」という哲学の大原則はどうして出
てこないのでしょうか。皆さん、哲学はお嫌いなのでしょうか。こ
れは単なる疑念として提出しておきます。

 問題は、このような目標を掲げている校長や教師自身はどうして
いるのか、です。

 品川女子学院のホームページには「校長日記」があります。これ
はとても頻繁に書かれていまして、熱意が感じられますが、本当の
「活動報告」ではないと思います。生徒を教育しようという善意に
基づいてその目的にとって適切な事を書いていると思います。

 しかし、これでは学校のあり方などについての疑問は出てこない
と思います。本当は客観的な活動報告こそが生徒の教育なのだと思
います。これをしている所はおそらく皆無でしょうが。

 品川女子学院では最近、制服を変更したようです。女子校にとっ
ての制服は大問題でしょう。校長は生徒に詳しく説明したようです
。しかし、変更しようと思ってから最終決定するまでの途中で生徒
の意見を聞き、議論をするということはなかったのでしょうか。

 引佐北中の校長は昨年から校長をしている人ですが、自分の事は
言わない人です。昨年はイチローを褒めちぎっていました。今年は
、水泳の北島選手とフィギアスケートの安藤美姫選手の話になりま
した。

 校長の言葉は多寡の違いはあれ、両方共載っていますが、他の教
師の言葉はほとんどありません。なぜでしょうか。とても不思議で
す。

 品川女子の方には「生徒日記」の項目がありますが、内容がお粗
末すぎます。学級通信や教科通信を載せたらどうでしょうか。そう
したら、そこにどんな議論があるか分かります。


教育の広場、第293号、授業アンケート論争で考える

2007年08月03日 | サ行
 2年も前の事を持ち出して恐縮ですが、2年前に朝日新聞の「私の視点」欄で行われた論争について、原理的な問題を考えてみたいと思います。

 それは「学生による授業評価」を巡る論争でした。

 まず、法政大学教授の川成洋(よう)さんが、「記名式で学生に責任を」という題(編集部が付けたのでしょう。以下同じ)で問題を提起しました(2005年04月26日)。

 内容は、題から想像できますように、学生による授業評価がますます盛んになっているが、匿名式のため教師への誹謗・中傷が多く、所期の目的に反している、というものです。

 その最後にこう書いてあります。「授業評価アンケートを続けるのであれば、大学当局には以下の改善を求めたい。(1) 記名制にすること、(2) アンケート内容と回答者の授業出席率や成績との関係を調べること、(3) 教員の人格を傷つけるコメントは厳しく注意し、場合によっては謝罪させること、(4) 教員のプライバシーを守るため、アンケートの取り扱いに特段の留意を払うこと、(5) アンケートを解雇の口実に使わないこと、(6) 教員に反論の機会を与えること」(引用終わり)。

 この投稿で問題にしたいことは、このような大学当局への要望を新聞に発表したということです。これは本来、教授会で話し合った上で大学当局に言うべきことだと思います。それをなぜ新聞に書いたのでしょうか。これが間違っていると思います。

 世の中には「間違っているのではないか」と思う事は沢山あります。それを直接相手に言うのがいつでも正しいとは限らないと思います。どういう場合にどう対処すべきか、これを学ぶことは大人として成長していくための必要条件だと思います。大学教授として相当の研究業績があり、教員のあり方についても多くの発言をしている川成さんがこのような事も知らないとは驚きました。

 新聞に載せるべきは、大学当局と話し合った結果の報告だと思います。

 これを読んで学生の山崎裕子さんが「大学教員の『質』向上に必要」と題する文章を発表しました(同06月21日)。

 それは川成さんがアメリカでの授業アンケートの歴史と現状を否定的に紹介したのに対して、アメリカの大学の経験者からの情報として、もう少し広い視野が必要だと紹介しています。しかし、ここでの最大の論点は記名式反対だと思います。

 山崎さんは次のように述べています。「現在、無記名式で行われている授業評価を記名式にすることの是非はどうだろう。成績をつける教員はもともと優位な力関係にあるわけだから、学生は正直に答えることができなくなるのではないか。米国では『匿名制による公平さ』を前提に無記名式であると聞く。記名式にして学生に『自粛』を求め、教員を手厚く守るという発想は、大学の教育を向上させようという本来の目的からそれるのではないか」(引用終わり)。

 「アンケートは無記名に決まってる。記名にしたら本音が書けない」という考え方はかなり常識化してさえいると思いますが、根本的に間違っていると思います。

 第1に、この考えは、マークシート方式などでの選択式で、数量操作をするアンケートと自由記入式アンケート(ないしそういう欄のあるもの)との区別を考えていない点で粗雑な考えだと思います。

 第2に、塾や予備校のように、自由記入式でも、経営主体が集めて、判断の資料とするアンケートと、多くの大学のように、大学は不介入で直接教授本人にそのまま渡すアンケートとの区別も考慮していない点でも粗雑だと思います。

 第3に、一層根本的には、そもそも記名式で本当の話し合いの出来ない教員・学生関係は本当の師弟関係ではなく、「根本的に間違った関係」である点を考慮せず、それを記名式だろうが無記名式だろうが、アンケートなどで改善出来ると思い込んでいるそういう人間観が余りにも浅薄だと思います。この点は大学側も同じです。

 確かに、授業アンケート「も」1つの手段として授業を改善した(している)大学や学校があることは知っています。しかし、そこでは学長を先頭にして大学全体で授業を良くしようとする意欲と計画があって、その1つの手段であるから、その目的に「少し」役立っているというだけなのです。

 ここ数年大評判の金沢工業大学やもっと前から授業改善に取り組んでいる東海大学など、みなそうです。

 第4に、これが根本ですが、授業を監視し、それの向上を図ることは学長(経営者)の仕事でり、義務なのです。教師は学長の指導に従う義務があります。学長は自分の大学でどういう授業が行われていて、どこに問題があるかを知って、それを改善するように持っていく義務があります。

 逆に言うならば、ほとんど全ての大学での授業アンケートは学長が自分の責任を個々の教員に転嫁するための手段なのだと思います。

 では、お客さんであり消費者である学生はどうしたら好いのでしょうか。

 大学が授業アンケートをしてくれるのを待っていないことです。主体的に行動することです。インターネットがあるのです。自分たちで、大学の真ホームページを作るべきだと思います。それを作らないのは情けないと思います。

 いま、多くの中学校などについては「裏」ホームページ(学校裏サイト)とやらがあって、いじめの手段に使われているそうです。断っておきますが、私の提案するのはそれとは違います。「真」ホームページです。

 そこには、全教員の研究業績を調べて掲載し、授業についても調べて評価して、それを掲載するといいと思います。もちろんいわゆる「教員」ではなくなって、経営にタッチしている(行政職になっている)学長以下の幹部についても、その職歴や活動実績、研究業績や経営方針等を調べて評価するべきだと思います。

 その場合、特に評価において大切な事は「ルールを明記する」ことです。例えば、

 (1) 批判的な意見については、載せる前に本人に知らせて、考えを聞く。

 (2) 本人が、非を認めて、是正するという返事なら、載せない(その後の追跡調査は学生の方でして、是正されていないなら、再度注意する)。

 (3) 反論すると言うなら、批判者に通知して、了解を得て、両方を載せる、

といったことです。

 根拠のない誹謗・中傷を投稿した学生には反省文を書かせる。そして、その後1年間、投稿を受け付けない、というルールも必要でしょう。

 議論になった場合の決着の付け方も決めて発表しておくといいと思います。論争は2往復でいったん止めるとか、感情的な言葉を使った文章は載せないとか。

 こういう経験を通じて「話し合って解決出来る領域は小さい」ということを知り、それはなぜかと考えるようになったら、大学教育の目的も半分は達せられたことになるでしょう。

 こう考えると分かるように、実に、これは本当は大学教育の重要な1部なのです。必修授業の1つにしてもいいくらいです。

 しかし、大学自身がこういう認識にまでたどり着くには時間がかかるでしょうから、学生が自分たちでやることです。現に、就職活動ではこれに似た事をして情報交換をしているのではないでしょうか。授業について、学長のリーダーシップについて、こういうホー
ムページをなぜ作らないのでしょうか。

 さて、山崎さんの発言を受けて、教員側から3つ目の発言がありました。それは防衛大学の准教授の木下哲生さんの「学生諸君に『誠実さ』求む」(同08月12日)というものです。これは「授業評価は、授業の改善に非常に有効」としながら、やはり匿名性に便乗した誹謗・中傷を取り上げています。これは繰り返しません。

 最後に、こう書いています。「大学の教員は論文や他大学での教育実績などの審査を受けて採用され、昇任する。その際には職場の長ら推薦者も必要となる。そのイスは決して安楽なものではないのである。大学の教員は、研究面・授業面共に、まじめに自らを高めることを目指している。それを志さない教員は論外である」(引用終わり)。

 これでは前提が違ってしまいます。この「論外」な教員が沢山いて、多くの授業がお粗末で学生も世間も困っているから、それを何とかしようとして、授業アンケートが始まったのです。この前提を否定するなら、何のために議論したのか分かりません。

 私の個人的な感じで言うならば、大学の教員の2割は精神異常者、6割は学力低下教員、15%が並の教員で、残りの5%がようやく優秀、つまり教授の名に値する教員です。

 しかし、それにしても、学生はともかくとして、教授や学長にこの授業アンケートの問題を正しく解決する力がないとは本当に情けないことです。企業について言うならば、本当に役に立つ顧客満足度調査をし、それをどんどん改善して行けないとしたら、そういう企業は衰退するでしょう。


『精神現象学』

2006年12月24日 | サ行
   ヘーゲル著、牧野紀之訳、未知谷刊、2001年09月初版発行
   四六判上製箱入り、1047頁、定価 10500円(税込み)

 ヘーゲル哲学の生誕を告げる書として名高いが、難解をもって知られる原書を、多くの注解を盛り込みつつ翻訳した。

 哲学史的背景については金子武蔵氏の訳業を踏まえつつ、哲学するための翻訳を目指している。

 鶏鳴双書で3分冊として出た前半をまとめ、後半を新たに訳して全部で1巻としています。

 理解の助けになる小論を4つ付録としています。

 付録1・知識としての弁証法と能力としての弁証法
 付録2・ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理
 付録3・恋人の会話(精神現象学の意味)
 付録4・金子武蔵氏と哲学

 序論の冒頭の部分を掲載します。


   序 言 (科学的認識について)

 〔第1段落・哲学書の序言について〕

 著者が企図した目的や出版するに至った動機や、同じテーマを扱ったこれまでの他の諸著作と自分の本はどういう関係にあると思っているかといったことを、序言の中で予め書いておくことが習慣になっているが、そういうような説明は哲学書の場合には余計に見える。いや、それどころか、不適切で目的に反しているようにすら見える(1) 。

 というのは(2) 、哲学について序言の中で何をどのように言ったらよいのかと考えてみると、まあ〔自分の哲学の〕傾向とか立場とか、あるいはその本の概括的な内容とか結論とかを記述的に〔個条書き的に〕報告するか、真理について〔その本の〕あちこちで(3)言われている主張や断定を〔これまた箇条書き的に〕まとめるといったことくらいであろうが、そういったやり方を哲学的な真理を叙述する方法と見なすことはできないからである。

 (1) へーゲルの scheinen はほとんど常に「~と見えるが実際はそうではない」という含みをもっている。山本信氏はここを「しかしこうした説明は、哲学上の著作においてはよけいであるばかりでなく、ことがらの性質上、不適当であり、害にさえなる」と訳している。つまりへーゲルの主張のように訳している。長谷川宏氏はその著『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)の冒頭で、この単語を「思える」と訳し、ヘーゲルが実際にそう思っていると解釈した上で、後の記述との「ヘーゲルの矛盾」について長々と論じている。いずれも誤訳であり誤解である。

 (2) denn と weil の違いは関口存男(つぎお)氏の研究にくわしい。金子氏も山本氏も「なぜなら」と訳しているが、関口氏によると、 weil が「なぜなら」で、 denn は「というのは」「即ち」「つまり」である。あるいは訳さなくて好い。

(3) 金子訳は「いわれもなくあれこれと語る一連の主張や断言」としているが、我々は文脈を読んでこう取った。


 また(1) 〔なぜそれは不適当で目的に反しさえするように見えるかと言うと〕哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍(2) をその本来的地盤(3) としているものだから、目的あるいは最終的結論の中で事柄そのものが表現され、しかもその全き本質において表現されているのであって、それに比すれば〔その結論への〕遂行〔過程〕は元々非本質的なものなのだという間違った外観が、哲学では他の諸科学における以上に発生しやすい〔ので、序言に本論の一般的結論を書くと、本論は要らないと考えられるかもしれないからである〕。

 これに反して〔他の諸科学では〕、例えば解剖学とは生体の諸部分をその死んだあり方で観察して得られた知識である、といったような一般的観念を得たからといって、〔そういう最終結論だけで〕事柄そのもの、つまり解剖学の内容を知ったわけではなく、その上に更に特殊〔細々とした知識〕を知ろうとしなければならないことは常識になっている〔ので、他の諸科学の本でなら、序言にその本の一般的結論を書いても目的に反することはないように見えるからである〕。

 (1) この auch がどういう意味なのか分かりにくかったが、我々は、これの前の文を「余計だと言ったこと」に対する説明と取り、ここ以下を角括弧内のように取った。

 (2) 「特殊を自己内に含む普遍」というへーゲル的考え方が早くも出てきたが、ここから、「だから結論=普遍だけ知ればよい」と持ってくるのはへーゲル的ではない。だからこれは「序言における説明は不適当という間違った主張の根拠」と「仮定」されている。ヘーゲルの真意は反対である。

 (3) 「本来的地盤」と訳した Elementについては山本信氏は次のような注を付けている。「『エレメント』は、ふつうには『元素』『要素』という意味であるが、ヘーゲルが使う場合には、たいてい、『事物が、それぞれの本性上、本来そこで存在し、そこで生活をいとなむ固有の環境』といった意味合いが主になっている。慣用句としても、ヨーロッパの多くの国語において、この語が、『本領が発揮できる場面』『得意の境地』という意味になる場合がある。『水を得た魚』というが、魚にとって水がエレメントである」。

 私はかつて「エレメントという単語には、もともと『地盤、本来の活動領域』という意味があり、それは日本語で『所を得る』とか『適材適所』という時の『所』に当たる」と書いた(『ヘーゲルの目的論』 119頁)。


 更に〔解剖学のような〕知識のそのような寄せ集めにすぎないようなもの(それは科学の名に値しないものなのだが)では、〔序言での〕目的やそういった一般的な事柄についての雑談と、〔本論で〕神経、筋肉、等々といった内容自身を扱う時の記述的で没概念的な(1) やり方とが違わないのが普通なのだが、これに反して哲学では、そういったやり方を〔序言で〕使うと、〔本論での哲学的認識なり叙述方法との〕食い違いが生まれ、そのやり方では真理を捉えることができないということが哲学自身〔本論〕によって示されてしまうことになるであろう〔だから、序論の中で、一般的結論を記述的にまとめることは、内容からいっても、方法=形式からいっても、哲学書の目的に反するように見えるのである〕。

 (1) 山本訳はここにへーゲルの「概念」についての説明を付しているが、ここに「概念」の説明を付けること自体適当でないし、付けられた説明の内容も拙い。ここではここの「記述的で没概念的」とはいわゆる「実証主義的」ということであることを知っておけばそれでよい。

関連項目

『精神現象学』のサポート



鈴木宗男議員逮捕

2006年11月18日 | サ行
 少し遅くなりましたが、鈴木宗男議員の逮捕について考えたことをまとめます。

 これについては(2002年)06月23日付け朝日新聞の「私の視点」欄が特集を組んでいます。

 朝日新聞はこの03月までは「論壇」というコラムを持っていましたが、04月から「私の視点」に換えました。それで変わったことは、第1に1つの意見の字数が1800字から1300字に減ったことです。

しかし、第2に、それによって載せる意見数を大幅に増やしました。そして、このような重要な問題については複数の意見をまとめて載せることも出来るようになりましたし、実際にしています。

 私はこの第2点を評価します。そしてこれを可能にしたのが第1点ですから、第1点も支持します。

 今回の鈴木宗男議員の逮捕についても4つの意見が載っています。

 第1は北海道大学の新川利光教授(政治学)の意見で、それは「保守政治のあしき面を凝縮」と題されています。内容は、鈴木氏の最大の政治的罪は外交の利権化だとしながら、それには触れないと断って、口利きの問題を論じています。

 それは北海道では特に目立つこと、鈴木氏のような本流に属さない議員にはそれ以外に手はなかっただろうということです。

 そして、その対策として、有権者の意識改革と官僚への政治的コントロールを提唱しています。

 第2は、評論家の早坂茂三氏(元田中角栄秘書官)の意見で、「政治の錬金術は終わった」と題されています。

 内容は3点です。加藤紘一氏や辻本清美氏では動かなかった検察当局が鈴木宗男氏の場合だけ動いたことに触れて、「日本は成熟した法治国家のはずである」と疑問を投げかけていますが、自分の意見は述べていません。

 次に鈴木氏の逮捕と東郷和彦元局長の失脚でロシア外交は担い手を失ったのではないか、と言っています(先日、ロシアの外務事務次官は「鈴木氏がいなくなっても困らない」旨の発言をしていましたが、外交官の発言をそのまま受け取る人は少ないでしょう)。

 最後に、政治とカネの不倫関係を論じて、人間の性が変わらない以上、不正をなくすことは難しいだろうと言っています。

 政治の世界の裏表を知り尽くした人らしい表現に満ちていて面白かったです。

 第3は衆議院議員の川田悦子氏(無所属)の意見で、それは「背中押す権力者の恍惚感」と題されています。

 議員になってみて、議員というのは再選されて議員でありつづけることを最大の目標にして活動するものだということを知り、自分はどう対処しているかを述べています。

 第4の意見はジャーナリストの魚住昭氏のもので、「腑に落ちない国策捜査」と題されています。

 私なりに整理しますと次のようになると思います。国策捜査の目的は、事件の真実を追求するより、国民の前に「生贄のヒツジ」を差し出して失政に対する怒りや不満をそらすことで、そのために予め狙った対象の摘発を優先させる、ということです。

 今回もまず、佐藤元主任分析官や地元秘書を逮捕したことがおかしかった。これらは逮捕に値する容疑ではない。北方支援事業での鈴木氏の罪を問おうとして、その証拠を集めようとしたのである。

しかしそれが無理だったので、今度は支援事業とは無縁な古い事件を使って「あっせん利得罪」容疑で逮捕した。

 最近の検察の捜査では、正義とずれていることが多い。その最大のものが、先日の前大阪高検公安部長・三井環氏の逮捕である。

 これは三井氏が検察庁の組織ぐるみの裏金作りを暴露しようとしているのに対して、口封じを狙ったものである。

 日本にはこのような検察の暴走に歯止めをかける機関も法律もないのが大問題である。以上、魚住氏の主張です。

 これらを読んでまず思うことは、同じ事件に接しても人によって考える事が随分違うということです。「群盲ゾウをなでる」の話を思い出します。

 しかし、「群盲ゾウを撫でる」の話は、小人は大人物の一面しか理解できず、それを全てと思ってしまうということの譬えだそうですが、ここでの4人の発言は、自分の意見は事件の一面であることを自覚した上で、自分のよく知っていることを述べているのだと思います。

 そしてこれらの意見はどれも、この事件を多面的に考えるのに役立っていると思います。

 しかし、同時に考えなければならないことは、どの意見も同等の価値を持っているとは限らないということです。同じ一面でも、対象の本質に係わるものもあれば、派生的な面にかかわるものもあると思います。ゾウを撫でても、ゾウの本質が鼻の長いことだとするならば、鼻を撫でた人はゾウの本質を経験したことになります。

 今回の4つの意見でも、どれもが同じ価値を持つとは言えないと思います。本質的と派生的と分けるのが正しくないとするならば、問題の重要性の軽重ということは言えると思います。

 私はやはり魚住氏の意見が一番重要な点を衝いていると思います。法治国家を支える最後の砦である検察庁の捜査が真実追求から逸れてきているというのですから、大問題です。まして、裏金作りをし、それを暴かれそうになると口封じをするというのは言語道断です。

 今回の鈴木氏逮捕では、多くの国民が、その逮捕理由がこれまで全然報じられていなかったやまりんとかいう会社と関係したあっせん利得罪だったことに、何か違和感を感じたと思います。

 新川氏は最大の罪は外交の利権化だとしながらそれを避けましたが、魚住氏はこの逮捕理由に対する国民の違和感の近くまで行っています。「多くの国民がこの逮捕理由に違和感を感じたのではあるまいか」と書き出したら、一層好い文章になったと思います。

 鈴木氏逮捕事件で私自身の撫でたのはどこか、それは回を改めて述べるつもりです。

 検察庁の裏金作りは仙台市民オンブズマンが追及しています。07月02日付け朝日新聞は、オンブズマンが三井元部長から聞き取ったメモを裁判所に提出したこと、三井氏の証人採用を求めていることを報じています。

 私は仙台市民オンブズマンの活動を注視し、応援したいと思います。(メルマガ「教育の広場」2002年07月15日発行)

     そ の 後 の 話

 第86号の「鈴木宗男議員逮捕」の中で、本当の問題は検察庁の裏金疑惑隠しであると書きました。

 その後、元大阪高検公安部長の三井環氏の初公判がありました。新聞でもNHKでも「渋々」「なるべく目立たないように」これを報じました。

 週刊朝日は最新号でこれを詳細に報じています。

 さて、もう一つ、これに関連した事が07月17日の朝日新聞に載りました。検察庁の公金不正流用疑惑を告発した元検察事務官の大田原昌嗣氏が、建造物侵入の疑いで逮捕された、というのです。

 この事件も三井氏の逮捕と同じように我々は注視し続ける必要があると思います。

 検察庁はどんな事があっても自分の公金流用問題、裏金作り問題を隠し通すつもりのようです。そのため、これを告発する内部者は何かの理由をつけて逮捕するつもりなのだと思います。(2002年08月04日)




教育、第 246号、浜松市長の条件(その2)

2006年10月22日 | サ行
 私は7月25日、「浜松市長の条件」と題する文章を発表しました。いくつかの反響がありました。

 このたび、それでは不十分だと思う点に気づきましたので、補足します。

 それは湖西市の三上市長が議会との関係がうまくいかないことが理由で(といっても、この理由は推測でしかないのですが)長期休養をしたことで次の新聞記事があったからです。

──約1カ月に及ぶ自宅休養から公務復帰したばかりの三上元(はじめ)湖西市長(61)がまた、体調不良を理由に約2週間の休養を宣言した。三上市長は「市長になり、生活の激変によるストレス」と言うだけで、症状や病名を明かさない。が、市長の休養期間は市議会の会期と重なる。議員らとの顔合わせを避けるかのようだ。「本当に病気なのか」。市民たちの間で憶測を呼んでいる。

──三上市長は2004年11月の市長選に経営コンサルタントから立候補。民間出身者の必要性を訴え、4選をめざした現職を破って初当選した。議員20人の大半は前市長派。三上市長派は見当たらない。

 しかし、二橋議長は「いくら対立した相手でも、代われば、普通なら新市長を応援したい。そうならないのは市長自身の問題」と指摘、溝は埋まりそうにない。

 三上市長は、(1) 退職金の返上、(2) 市民窓口をすぐやる課に、(3) 2期8年で退任、などを公約に掲げた。

 「児童手当の増額」は減額修正のうえ実現した。が、多くは市議会の抵抗で実現していない。

 「市を変えてくれるかと期待していたのに、長期間、2回も休養とは。重箱の隅つつきばかりする議会も議会だが、調整せずに屈する市長も市長。リーダーシップを発揮して欲しい」。内情に詳しい湖西市商工会の役員(49)は、市長の再起を期待しつつ、そう苦言を呈している。(10月19日、朝日新聞、長田寿夫)

 これを読んで気づいたことは、私は「浜松市長の条件」の中に「幹部職員の抵抗(面従腹背)を克服して政策を押し進める知恵と指導力」を挙げたのですが、「議会との関係を適切に処理して政策を実行する知恵と指導力」は言い忘れていたということです。

 実際、考えてみますと、これの処理を誤ったために失敗した首長も少なくないと思います。最近の例では田中康夫長野県知事の中途挫折の原因の1つがこれだと思います。

 現在の多くの自治体では首長と幹部職員と議会与党とがグルになって市政や県政を食い物にしていると思います。

 このような状況下で首長だけ選挙で代わったからと言って、市や県の政治を根本的に改めるのは難しいと思います。実務はほとんど幹部職員が握っていますし、議会の賛成がなければ条例は通らないからです。

 三上市長の場合は、議会に隠れてどこかと交渉したとか、議会のリコールの手順を調べたとかいったことがあったと伝えられています(同新聞)。これは拙劣な方法だったと思います。

 では、議会で野党が多数である時、改革派首長はどうするべきなのでしょうか。

 私は「正直は最良の政策」を実行するしかないと思います。問題はすべてきちんと調べて発表し、市議会と市民(県民)の意見を聞いて事を進めるということです。市民はその首長を勝たせたわけですから、市民の支持は得られやすいと思います。ともかく無理押しは避けるべきでしょう。

 もちろん首長が自派の議員を増やそうとするのは必要です。そのためには、自分を支持する人々が議会で多数派になるような手段を講じるべきだと思います。そういう準備なしに議会をリコールしてみても、同じ顔ぶれが出てきて、「市長の考えは否定された」となりかねません。

 田中知事の場合は、知事を支持する人達が政党みたいなものを作って選挙で何議席か占めたのではないでしょうか。それが過半数に足りないとすれば、力不足なのですから、力を大きくするという正攻法でやるべきだと思います。

 要するに、政治は国民の姿を映しているだけなのだと思います。ですから、首長から始めるにせよ、政治を変えるためには、首長だけ代えてお終いではなく、そこから、全てを変えるという考えでやっていかなければならないと思います。

 つまり、本当の首長は本当の意味での「教師」でなければならないのだと思います。

 浜松市長の選挙も近づいてきました。まだ、無為無策の現職に対立する候補者は出てきていないようです。そこで、それを選出するルールを提案します。

 第1に、市民派の候補者の「最低の条件」を議論を通して確認する。

 第2に、その上で、「皆に推されるなら出る」という人を募る。

 第3に、現在の行財政改革審議委員の方々にお願いして、「2」で出てきた人々について審査をしていただく。

 第4に、その審査の結果、総合点で1番になった人を自動的に統一候補者とする。

 第5に、この運動に参加した人は、この決定を無条件で受け入れ、選挙では全力で協力する「道義的責任」を負う。

 以上のようなルールで進めるといいと思います。

 以上、議論のための「たたき台」として再度提案します。