秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

緑内障に早く気づいて、失明しないために

2019-11-12 | 緑内障

この方眼図を、片目づつで中央の白丸に焦点合わせてごらんください。

もしちゃんと見えない部分があるとすれば、
その部分は視野部分欠損がすでに生じているということ。
緑内障の可能性あります。
精密検査をうけて正確な診断が出ます。

私の場合は中心部より斜め上で一部見えない部分があります。
普段の暮らしでは気づかなかった。
小さい活字で見えづらいのは疲れ目だと思ってた。
でも健康診断の眼底検査で去年から要検査と指摘されてました。

8/9に精密検査で緑内障の烙印押されてしまった。
そして今は眼圧を下げるための目薬で自分に合うのを探してる最中。

最初に処方されたのが、左端のラタノプロスト
これは目薬を点眼して10~15分経つと喘息の前期症状がでました。
副作用にちゃんと記載されてるのを発見し、
一週間我慢して、再受診。

変更してもらったのが、中央のルミガン
白目が充血して茶色くなりますとは聞いていた。
たしかに点眼して呼吸に障るという副作用はなかった。
しかし変色した白目は見た目が悪いので、だて眼鏡かけたり。
さらに悪いことに、眼球がぎゅ~っと縮こまった感じで痛い。
とても不快で、こんなん一生さし続けるなんて無理と思われました。
お先真っ暗でした。
あまりに不快なので、一日1回を、一日半に引き伸ばしてみたり微かに抵抗。

家で眼圧を測れないので、点眼如何で眼圧変わるのかどうか調べてもらいに眼科に足を運んだり。
一日ぐらい抜けて大した変化はなかった。

8/9に眼圧14ぐらいだったのが、2か月経過して、少し下がり11-12程度。
これならもともと眼圧高くて緑内障って違うんじゃないのとも思えた。

ネットで調べたら、眼圧高くない緑内障というのが増えてるとも書いてある。
ホンマに眼圧無理して下げるだけでいいのだろうか、
不快な目薬続ける意味わからんと思えてきた。

それで10月に入り、医師に相談して目薬変えてもらうことにした。
それで処方されたのが、右端のエイベリス
去年新発売なって定着してないからお取り寄せの新しい目薬です。

今のところ、白目の着色も許容範囲。
呼吸器系大丈夫だし、不快感は全然マシ。
ちょっと点眼したときに痒いかなという程度。
ひょっとして花粉症や埃などのアレルギーもあるから様子見中です。
でもこれなら続けれそう。

しかし、気になることあります。

アムスラーチャート検査、右で歪んで見えるという症状です。

これって、加齢黄斑変性
通院中の眼科では、それについてはちっとも触れられないし、
まったく治療もしていない。

だとしたら、どうする?

つづく





山茶始開の侯のできごと

2019-11-11 | 24節気72候

つばきはじめてひらく
24節気「立冬」初侯11/7-11の頃

山茶と書いてつばきとよませるも、
字のごとく山茶花を指す。

今朝のご近所さんの山茶花も
店の中庭の山茶花もすでに散り始めてる。



この山茶花傍に橙色の果実がいっぱい。



橙ダイダイかと思ったけど葉っぱが違うかな?



昨夕16:45 東空に月が上ってた。
13.3夜の月


昨日は即位パレードでしたね。
Live視聴してました。




TVならどアップでみれるけど、
現場で生でみたいと思ったら、
手荷物検査受けて早くから何時間も並んで待機。
お腹も減るしトイレも行きたくなる。
同時代を生きた体験したかった方々は大変だっただろうな。



このタイミングでキィちゃんは、
本能で女性に目覚めた模様。
(妊娠したわけではなくて発情期に入った感じ)
まだ生後半年過ぎた頃で、こんなシーズンに?
避妊手術が間に合わんかった。
オスの野良猫とかが屋内に入ってこないよう、
メルキィが外に出ないよう気をつけないと。



心配そうなメルちゃん。
アンタだってそのうちだよ〜



夕刻の美術館はしごしてきた

2019-11-09 | 日々是好日

早う行かんな、せっかくもらった招待券無駄になる。
会期終了まで1ヶ月ほど。
お連れと折り合いついたのが今日の土曜夕方。

あべのハルカス美術館は18時まで、
国際美術館は20時まで。

4:30にJR天王寺改札口で待ち合わせ。
まずハルカスへ。

こちらの美術展は一部エリアが撮影可能で
それらをSNSに投稿したら絵葉書くれるって。
その記事がひとつ前の記事でした。


ミュージアムショップで投稿画面を見せて一枚いただいて





急いで次の中之島へ向かう。

天王寺から大国町乗り換えで肥後橋へ


メトロの車両、こんなド派手なのに初めて出くわした。

肥後橋から歩く途中で


レトロな串揚げとおでんの店見つけた。
中之島界隈はオシャレなイタリアンとかいっぱい。
ランチどきなら入れるけど、
ディナーとなると自腹ではなかなか難しい価格帯です。



カリカリ手羽先もおでんも美味しかった。
心安いお値段でまた行きたい。

急いで食べて飲んで次へ。



国際美術館前のオブジェ、夜も迫力あります。



チケットのこのクリムトだけ撮影可能



今日はあさ8:45集合で、
スピーチコンテストがありました。



表彰最後まで見届けた。

今歩数確認したら、9,063歩も歩いてた。
疲れたはず( ´ ▽ ` )

まさに文化教養特化した一日だった。

今日は立冬、万両の実たわわ

2019-11-08 | 24節気72候

みごとに実がいっぱい。

過去にも載せた記憶しっかり残ってます。
2006/11/11


あれから13年、
毎年今の時期になると深い赤が秋も深まったことを実感させてくれます。

今年は何とリンクさせようかなぁ、としばし思案。


昨朝ですので立冬の前日ですが、
見上げた空いちめんにスウィングする雲



昨朝9時ごろ全天に渡り雲がスウィングしてました。
筋雲が切れてギザギザ曲がり珍しいなと不思議に思えて
Google earth:地球の風で気流とかを確認してみたら
日本列島上空の風向きは、色は薄いけれどギザギザ曲がってるように見えます。
ちょっと弱い風があちこち向いて吹いてたのでしょう。


昨日の夕方のニュースで知ったことに



あの名阪国道のオメガカーブも通らなくてよくなるのね。
新ルートできたらできたで、いいこともあれば悪いこともあるのは世の常。







ガトー・ド・ボア本店が西大寺に

2019-11-07 | おでかけ・近畿
長四角のチョコレートケーキにピスタッチオが絶妙のバランス。
奥の丸い形のケーキは「アンブロワジー」という名前。
こちらもチョコレートムースの中にピスタッチオのババロアが包まれています。
側面周りに花びらのような形の飾り、口に入れると溶けてしまうような繊細なチョコレートで驚いた。

西大寺拝観終えて、東門斜め向かいにあった小洒落た洋菓子店。
まるでパリのような外観でちょっと場違いは否めない。

写真撮り忘れたのでネットで拝借


GATEAU DES BOIS  A LA MAISON(ガトー・ド・ボワ 本店)
奈良市西大寺南町1-19-101 

西大寺の駐車場で、2時間内なら500円でいいよと言われたので。
疲れてたし、休憩に立ち寄りました。


アンブロワジーとは「神々の食べ物」という意味 らしい。

『クープ ドュ モンド パティスリー』で世界一を獲得したケーキ で、なんと賞を獲得してから20年以上たつにもかかわらず 、今なお全然古くないし激うま。
680円はちょっと高いけど、納得できる究極のガトぉ

フランスのリヨンで開かれ世界最高峰といわれるお菓子の世界大会『クープ ドュ モンド パティスリー』 
オーナーシェフの林雅彦氏は、 1991年に日本人初のグランプリを勝ち取った世界的なパティシエだそうです。

全く知らずに、西大寺から近いという立地と外観だけで引き寄せられて休憩に入ったけど、大当たり。
お近くなら、ちょっとしたご褒美に立ち寄りたいお店でした。





西大寺から消えた道鏡追ってたら、楊貴妃に辿り着いた

2019-11-06 | 古代史のミステリー
 昨日書き上げる寸前に、「吉備由利」でリンク貼ろうとしたら消えてしまった。
 西大寺を発願創建した称徳天皇の晩年に身近で仕え、臨終間際側にいた唯一の存在。 
気になりますでしょう。 
吉備真備の娘とも妹とも伝わるようです。
 ではその謎に至るまでお付き合いください。 


前記事の最後にアップした画像は

この歌碑は西大寺の鐘桜前にあり、
傍らに「道鏡を守る会」石碑があった。

この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり
(万葉集 巻19 4268 孝謙天皇)

道鏡とあるのはココだけで、他では見当たらない。
しおりにも一切ない。


西大寺の詳細は、創建当初の伽藍図の引用元☞ 古寺巡訪


西大寺から消えてしまった道鏡について調べてみました。

関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人」の
かいつまんで年代順に羅列してみます。


※以下、青字は管理人の補足
『続日本紀』に「俗姓は弓削連(ゆげのむらじ)。河内の人なり」
 本貫は河内国志紀郡弓削ゆえ、 弓削道鏡と呼ばれる
 下野薬師寺は、現在栃木県下野市=河内(かわち)郡南河内町

道鏡が平城京に上ったのは聖武天皇(701-756)のころ
道鏡は仏門に入り、東大寺初代別当の良弁(689-773)や
玄昉の師でもある義淵(?-728)に学んだ
 道鏡は如意輪法・宿曜秘法を修め看病禅師として名声を博 していた

天平宝字5年(761)
上皇となっていた孝謙上皇(718-770)が、
淳仁天皇(733-765)と行幸した保良宮(大津市が有力)で体調を崩した。
看病禅師として学識、呪験力で知られるようになった道鏡が呼ばれ治療にあたった。
元気になった孝謙が道鏡を寵幸するようになったため、
孝謙と二人の関係を咎める淳仁が対立するようになる。
 今夏8/31湖北の菅原集落を歩いた折に保良宮を知った

天平宝字6年(762)5月
孝謙は平城京に戻って出家した。
淳仁天皇が藤原仲麻呂(706-764)の言いなりになっているとして
「小事は今の帝が行い給へ。国家の大事賞罰二つの柄は朕行はむ」
と宣命を発し、表舞台への復権を宣言する。

天平宝字7年(763)9月
道鏡を内裏の仏事を取り仕切る少僧都に引き上げ、
仲麻呂によって長年中央政界から追放されていた吉備真備を造東大寺司長官に任命、
政治の中心となっていた仲麻呂から実権奪取をはかった。
 吉備真備は孝謙・称徳天皇=阿部内親王の時代より教育係だった

天平宝字8年(764)9月
仲麻呂は孝謙排斥のクーデターを起こした。
孝謙側は機先を制して淳仁天皇を捕らえ、逃げた仲麻呂を近江まで追討して誅殺した。
反乱を鎮圧すると、孝謙は道鏡を「大臣禅師」に引き立て、
淳仁天皇を廃し、自身は称徳天皇として重祚した。
天平神護2年(766)10月には道鏡を「法王」に任命し、
仏教を第一として日本の神々は仏教を守護する神とする神仏習合政治を進めた。

神護景雲3年(769)宇佐八幡神託事件
「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば天下太平ならむ」という神託が朝廷に伝わる。
弓削浄人、習宣阿曾麻呂より神託文が届く。
 神託を届けた弓削道浄人は道鏡の弟だった

称徳天皇は、宇佐八幡宮に確認のために和気清麻呂を派遣。
清麻呂が持ち帰った託宣は「天の日嗣は必ず皇緒に続く」
この報告に怒り、清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国に配流した。

神護景雲3年(769)10月30日
造営を進めてきた由義宮を「西京」とする詔と皇位継承について勅をだす
・勅その1:皇族以外の者が皇位を求めてはならない
・勅その2:次期皇位継承者は称徳天皇自身が決定する と言いながら決定せず

神護景雲4年(770)2月27日からは由義宮に1カ月余も滞在、
4月6日に二人は平城宮に戻った。

宝亀元年(770)8月4日、称徳天皇53歳で急死
 臨終最後の場に居たのは、吉備由利だけだった

称徳の後任に光仁天皇が決まると、
道鏡は下野薬師寺別当に左遷される
 下野薬師寺は東大寺戒壇院・筑前国観世音寺と並んで 三大戒壇院の一つ

1年8カ月後の宝亀3年(772)4月下野国で没し、
墓は薬師寺南方の「龍興寺」境内にある 道鏡塚(径38mの円墳 )だといわれる。

以上、ざっと道鏡の年譜をみてきて、
称徳天皇最後に吉備由利、これがたいそう気になりました。

晩年身近で仕えた吉備由利
昨日、だいたいこういった感じで書いてました。
吉備由利でリンク貼ろうとしたら記事が消えてしまったのでした。

過去ログで、よく読んでいただいている記事の一つに

ココで記したのですが、

吉備真備さんの御両親
父:下道圀勝、
母:楊貴氏または倭海直男足の娘・髪長支姫
祖母は道昭や持統天皇に続き火葬で荼毘に付された
708(和銅元)年に亡くなり火葬、立派な骨蔵器まで作って埋葬

さらにコメント欄で付記したことは、
吉備真備の母の墓で、蔵骨器と「楊貴氏墓誌」が出土したのは奈良県五條市。
墓誌の銘文により、吉備真備の母が楊貴氏(やぎし)という名であったと判明。
739(天平11)年に造られた墓だった。


そこからさらに調べて
奈良教育大学には「新薬師寺旧境内遺跡」や、
吉備塚」もあり、直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土、
太刀には人物像が象眼されていたそうです。
五條市の楊貴氏墓誌はたいそう気になりました。

吉備真備の母の記録「楊貴氏墓誌」がヒット、
楊貴氏墓誌の謎(楊貴氏墓誌は、なぜ作られたか?)を読んでると、
楊貴氏墓誌は、楊貴妃の戸籍を捏造するために作られたかもと書いてあります。

今回の西大寺の道鏡を追って、称徳天皇晩年の吉備由利でヒットしたのが同じサイトだった。


まだまだ続きますので、興味持たれた方はそちらのサイトでどうぞ
かなり前から不思議に思ってたことが繋がる快感。
妄想だとは言い切れない、隠された何かがありますね、きっと。

なぞは深まるばかり、
いや
明らかになりつつあるのかも・・・






変な日

2019-11-05 | 日々是好日

今朝スマホに届いた訓練用緊急地震速報、
突然音鳴ってビックリしたら、
すぐに東京の妹から電話入ってさらに驚いた。

午後から出かけるまでにブログ記事作成、
最後に吉備由利でリンク貼ったら、ブログ消えた。
西大寺のミステリー追っかけた渾身の?記事だったのに。
こまめに保存しながら書けばよかった。

明日にでも思い出しながら書き直しますが、またもアップできなかったら、書くなということなのかも。


今日は14:15までに会場入りしないといけなかった。

急いでたので帰りに撮影したのが


ずーっと先に見えるのは大阪城。
秋晴れに映えてます。

大阪府庁本館5階正庁の間より
窓から離れるほど大きく見える不思議なガラス窓です。

3年前にもこの部屋で同じく大阪城写しました。
2016/11/15
たまたま今年は当たり年のようで

またまた今年も当たり年のようで、
知事感謝状から表彰状にランクアップ。



資格マニアでもないし、表彰状コレクターでもないのですが、
せっかくくださるので無下に断るのも、ね。
給金伴わないボランテイアへのご褒美です。
このブログも一銭にもならないのによく続くなと呆れられてます。

備忘録でもあり、3年前にもらったというのがすぐわかる(^^)

家に帰ったら

最悪や〜

メルキィが猫トイレの砂をばら撒いてた。
画像奥の部屋の敷物の上に、猫砂の袋噛みちぎってあった。
あまりにひどい凄まじい砂だらけで画像載せれません。

お片付けに30分は要した。
ホンマに最低な猫ギャングやと毒づきながら。

でもよくよく思い出してみれば
ギズモはこんなイタズラはしなかったけど、縄張り示す為に家のあちこちでオシッコかけまくり。
玄関扉や壁だけでなく家具にも、それはそれで大変だった。

生き物飼うということは、いいことばかりじゃない。
一つ屋根の下で同居するということ、
人間の家族だっていろいろありますものね。
ヽ(´o`;

今日はなんて日だ⁉️

カレンダーみたら
世界津波の日
三隣亡
一粒万倍日
月齢8.3

メルキィは相変わらずでも、天王寺動物園では

2019-11-04 | ギズモ&もぐ&メルキー
カーテン大好きメルキィ


洗濯したカーテン付け替える邪魔する



夏によじ登りほどけたカーテン、
買い換えてもきっとまたダメにするだろと、
補修してても邪魔しにくる、
吊り下げたら案の定だった ʅ(◞‿◟)ʃ


しかし、
今朝のワイドショーでみました


昨日移動動物園で鶴見緑地でイベント待機中にいなくなったそうです。



鳴き方が笑い声のようでワライカワセミ、
数十万円と書いてたような。

★今日9:14 鶴見の会場近くマンションベランダで見つかったそうです(^O^☆♪




キュッキュちゃんはその後排水溝で見つかった。

コアラもロンドン行ったし、
天王寺から動物どんどんいなくなる
(´;Д;`)

★追記
キュッキュッちゃんもアキーゴちゃんも、
その後ちゃんと見つかった(^^)
ということは大阪まだ大丈夫やということかな




通仙流 煎茶と瓶花の展にお招きいただいて

2019-11-03 | 四季折々・色とりどり


今年のお茶は、麟鳳(りんほう)だそうです。
馥郁たる味わいを、今年も楽しませていただけました。


和尚さんのお話では、夏目漱石が流石に上手いこと書いてますなぁとのことで調べてみた。
草枕に玉露をいただくシーンありました。

濃く甘く 、湯加減に出た 、重い露を 、舌の先へ一しずくずつ落して味って見るのは閑人適意の韻事である 。普通の人は茶を飲むものと心得ているが 、あれは間違だ 。舌頭へぽたりと載せて 、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない 。ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである 。歯を用いるは卑しい 。水はあまりに軽い 。玉露に至っては濃かなる事 、淡水の境を脱して 、顎を疲らすほどの硬さを知らず 。結構な飲料である 。眠られぬと訴うるものあらば 、眠らぬも 、茶を用いよと勧めたい 。


お軸の説明も聞いたけど、
もう忘れた(*´-`)



いつもありがとうございます(^人^)




まぼろし、と呼ばれた大寺が「西大寺」

2019-11-02 | おでかけ・近畿

秋篠寺をでてまだ夕方までに時間があった。
どこ行く?
歴女のお連れも私も西大寺は行ったことなかった。
すぐ近くだし、そうしようとすぐに話はまとまった。

東大寺に匹敵する西大寺、
にもかかわらず関西で暮らしててもあまり存在感ない。
ほとんど知られていないように思います。
何の予習もせずに行ったので、東塔の跡を一枚も撮影しなかった。

画像検索で見た中で一番雰囲気あったのが、
やっぱり、JR東海「うましうるわし奈良」 西大寺
このサイトのトップページを頂戴したのが、
この記事のタイトルと最初の画像です。



秋篠寺から西大寺までナビが示した道は
細くて側溝あるし、くにゃくにゃ曲がり、昔からの歩く村道のようだった。
奈良時代から全然変わってないような感じ。




西大寺の詳しい歴史は→古寺巡訪「西大寺」
なるほど~と読みふけりました。


愛染堂の前に腰降ろして本堂を撮影、右手に東塔跡があった。

聖武天皇と光明皇后の一人娘 である阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)が発願された当初は、恵美押勝 への勝利を祈願して金銅の四天王像 から始まる。
本堂に祀られる釈迦如来像など後で、普通とは順番が違うそうだ。

聖武天皇の東大寺を上回る大伽藍を造立したい、
という夢を込めた西大寺の面影を残すのは五重塔基壇址だけだったなんて。

それを写真一枚も撮らなかったなんて、
知らなかったとはいえ、残念という思いと現実の西大寺の置かれた位置づけを物語る思いが重なります。
 


一枚だけ写真に残した歌碑
これを調べてみると、

続く


3年ぶりにマユバケオモト咲く

2019-11-02 | 四季折々・色とりどり

蕾に気づいたのが週はじめで、この画像は木曜日撮影。

花が終わらないうちに記録残しておきます。

過去の記録を遡ってみると

2009/10/30
マユバケオモトをふた株もらった
来年は咲くかなと書いてるけど記事ないから、多分咲かなかったんだろう。

2012/11/9
意味不明な記事にマユバケオモトの花画像載せてます。

4L→Look Listen Learn Leave
見て、聞いて、学んで、そして去っていくに変化してる、ってどういう意味だったのかな。

2013/10/27
明日ぐらい咲きそうな蕾二つの画像

2013/10/30

まだまだつぼみ固し ;^_^A

固いの漢字はこれで合ってるのかな?
固い 硬い 堅い 難い

2016/10/18

去年は咲かなかったけど、今年は蕾出てきたのを今朝発見、と書いてた。

蕾はすでに一つになってて、二株貰ったのが一株枯れた?


そして今年、3年ぶりに花一つ
今朝は
2016年の画像まで植木鉢は白、いつ今のに植え替えたんだろう?

どういう理由で咲いたり咲かなかったりするのかはわからない。
でもこんなに確率悪い開花だと、何かが足りてない?
世話といっても水しかあげてないので。


椿は異常に蕾付けてる。
毎年数個しか咲かないのに。
平成初めに種から植えた記憶も、どこかですり替わってる可能性はあります。
でも階段傍には植えてから動かしてないから20年は経ってる。



店の中庭に植わるサザンカ
朝日鶴は今年も綺麗です。
先週10/26撮影




秋篠寺の大元堂、国を護る大元帥明王

2019-11-01 | 古代史のミステリー
毎年6月6日には、大元堂が一般公開され、それはそれは長い列ができるそうです。

普段は写真パネルで拝顔できます。


JR東海の大和をかし話 其ノ21-22は秋篠寺


コピペできないので、後半をかいつまんで引用させてもらいます。

平安時代の初期に常暁(じょうぎょう)というお坊さんが唐に留学する前に秋篠寺に籠って修行をしていた。
あるとき常暁が仏さまに捧げる水を汲む閼伽井(あかい)を覗いたところ、水面に映った自分の姿に重なるようにして、怒りに満ちた仏の姿が浮かび上がった。驚いた常暁はその様子を紙に描き、それをもって唐へと旅立った。
そして唐の地で国を護るための密教の修法「大元帥法」を学んだとき、秋篠寺の閼伽井で見た仏が大元帥明王だと知る。
常暁はこの秘法を日本に持ち帰り宮中でも行われるようになった。
秋篠寺の閼伽井は「香水井(こうずいい)」と名づけられ、その水は修法に使われるだけでなく、明治4年まで 宮中に献上してきた。


ココに出現したと書いてあるようなので、家に帰って調べてて分かったのでした。



大元帥明王(サンスクリット語: Āṭavaka)
仏教の中でも特に密教における尊格である明王の一つ。
だいげんすいみょうおう、
と読みたいところですが、真言密教では帥を発音しないそうで、
たいげんみょうおう 

大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」、「森林鬼神」と漢訳され、直訳すると「林に住む者」「林の主」の意味。
このようなアータヴカは
インド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神
とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じました。
その悪を打ち砕く大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化、明王の総帥に。 
一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われます。
軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説も。

国内に彫刻として存在するのは秋篠寺だけ。
秋篠寺に残る大元帥明王像は、
火焔を背負うたくましい身体に蛇を巻き付けて、六本の腕に武器をもつ。
一面六臂の憤怒相で、髪は怒りによって天を衝くように逆立つ
まさに鬼神そのもの。
 
 

秋篠寺(奈良観光協会サイトより)
 奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。


しかし、
「苔むして静謐なお寺の優雅な伎芸天に会いに」
からは思いもつかない歴史がありました。


秋篠寺創建期、宮廷において権謀術策に満ちた暗澹たる権力闘争が繰り返され、時代は大きく変わろうとしていた。
秋篠寺は、まさにその渦中で権力者の様々な思いを背負って建立された寺院だった。 


光仁天皇は、称徳天皇崩御をうけて神護景雲4年(770)8月立太子。
称徳天皇の死は、従前より懸念されていた皇太子不在が現実の問題として顕在化したことを意味する。皇太子不在のままの天皇の崩御はたちまち政局の不安定化、強いては混乱に直結した。
そのために急遽、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備らが、立太子候補選定の協議で、永手は白壁王(光仁天皇)62歳を、吉備真備は天武天皇の孫である文室大市王(ふんやのおおいち)67歳を推挙して対立し膠着状態に。
対立の原因は、天武天皇以来守られてきた天武系の王を立太子させる否かの一点であった。永手の推す白壁王は天智天皇の第七子である施基親王の第六子で天武系ではなかったのに吉備真備は固執した。


上記の古寺巡訪のサイトでは、最後にこう結ばれています。
秋篠寺は時代が変わろうとする大きな節目に建立された寺院です。それだけに時代に翻弄された人々の様々な思いが境内の奥深くに沈殿しているように思います。 この苔むした境内に佇んでいると、今尚、それらが地中深くからそれぞれの思いを込めた眼で、訪れた者をじっと凝視しているような幻想にとらわれます。 秋篠寺。必ず訪れたい寺院の一つです。