昨日、堺市の仁徳天皇陵近くの御廟山古墳が一般公開されたニュースを見ました。
5世紀中ごろの直径40cmほどの大型の円筒埴輪列などが出土したようです。
「応神天皇を最初に埋葬した」「仁徳天皇のきさきの墓」などとされているようですが、実際はどなたが埋葬されておられるのか・・・
宮内庁も出し惜しみせず、この際いっきに、あちこちの古墳や陵墓を公開してすっきりさせてほしいもんです。
この前⑧吉備王国の記事を書いてから、崇神天皇について調べていましたが、
古代史初心者なもので、知らない単語や地名、固有名詞が見つかるごとに検索ワードが増えて、ドツボにはまっていました。
まだまだすっきり納得できていませんが、
少しでもわかったことだけでもとりあえず報告しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
第10代崇神天皇の在位年代は3世紀後半から4世紀初頭。
三輪の磯城端籬宮(しきのみずかきのみや)に皇居を定めて治世にあたったとされ
三輪王朝発祥の祖といわれています。
三輪山麓には、いくつも入り組んだ谷筋が延びており、
その谷筋ごとに点在していた諸部族を束ねて、祭祀の中心にいたのではないかという説もあり、漢風諡号にも「崇神」と付けられたとか。
和風諡号は、みまきいりびこいにえのすめらのみこと
またの名を、はつくにしらすすめらみこと
記紀では、崇神天皇だけでなく初代神武天皇の異称も同じく「はつくにしらすすめらみこと」
神話的記述の神武天皇に比べ、
崇神天皇紀には、人民の戸籍を作り課役を命じ、物は豊かで天下は平穏であったなど開国治世の記述が多く、天皇を誉め讃えて「初めて天下を治めた天皇」といわれているようです。
和風諡号は「ミマキイリヒコ」は
イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称で、
実名(諱)をそのまま記紀に記載したとする説もあり
古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせるそうです。
崇神天皇に様々な助言をしたという、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓」を邪馬台国畿内説は卑弥呼の墓とします。
崇神天皇以前、三輪山周辺の諸国連合が邪馬台国だとすると、
何時の時代にか、大陸・朝鮮半島からの渡来人達が稲作をはじめとする文明・文化を伝えたにしても
その記憶は伝承や記録として必ず残っているのが普通でしょう。
日本書紀は、卑弥呼の泰始二年の朝貢を神功皇后の事跡とするために、
魏志から、卑弥呼の死とその後の混乱、そして台与が女王となる記事を引用しないでいます。
引用しないということは改竄ではありませんが、明らかに意図を持って省略しています。
卑弥呼は247、もしくは248年に死去していますが、
この連続した2年間に日本で皆既日食が起こったことが、最近科学的に明らかとなっています。
もし邪馬台国が九州にあったのだとしたら、
邪馬台国終焉後の3世紀末(280~300年頃)九州全域が以前の小国分立状態となり、
北部九州勢力・南部九州勢力のどちらにも属さない日向地方の諸勢力と宇佐勢力が連合して4世紀初頭(300年)前後に東征の途についた。
以前邪馬台国・宇佐説を書きましたが、
でもそれなら記紀から抹殺する必要はあるのだろうか。
大和朝廷以前に中国に認められた倭の国があったということを伏せたかっただけなんだろうか。
大和を治めていたのが卑弥呼だとしたら、大和の潮流が変わったのだから消さざるをえませんね。
そして⑨国つ神の話で書いたように祟りを恐れて祀ったことも筋が通るかも。
やっぱり大和かな~
・・・・・・・・・・・・・・・・・
古事記も日本書紀も、中国の歴史書も読んだことないし、これからもたぶん無理でしょう。
このように天皇に繋がらない以前の歴史は抹殺されているそうです。
日本が人類の発祥地でないように、朝鮮半島だってどこかから流れてきた部族なんだから、隠す必要もないのにね。
ところで神話による高天原は、大和地方と非常に似ているそうです。
高天原の天香具山を地上に移したといわれる香具山があり、
高天原を大和地方であるとする説に繋がります。
しかし、皇孫ニニギノミコトの一行は九州の高千穂峰に天下り、
神武東征という日本国内における大民族移動を行いますが、
大和地方周辺には出雲族の勢力が強すぎたので、紀州半島の熊野から上陸した。
つまり西から来た武装集団が近畿勢と戦って勝利し、
何らかの勢力圏を近畿内に確立して、やがてそれが大和朝廷を成立させる源になった。
東遷を率いた可能性のある統率者の候補は、記紀上では3人
神武、崇神、応神と、いずれにも「神」の字が付いています。
では実際に東征したのは誰なんでしょう?
「はつくにしらすすめらみこと」と同じ名前を持つ神武と崇神は同一人物なんでしょうか?
5世紀中ごろの直径40cmほどの大型の円筒埴輪列などが出土したようです。
「応神天皇を最初に埋葬した」「仁徳天皇のきさきの墓」などとされているようですが、実際はどなたが埋葬されておられるのか・・・
宮内庁も出し惜しみせず、この際いっきに、あちこちの古墳や陵墓を公開してすっきりさせてほしいもんです。
この前⑧吉備王国の記事を書いてから、崇神天皇について調べていましたが、
古代史初心者なもので、知らない単語や地名、固有名詞が見つかるごとに検索ワードが増えて、ドツボにはまっていました。
まだまだすっきり納得できていませんが、
少しでもわかったことだけでもとりあえず報告しておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
第10代崇神天皇の在位年代は3世紀後半から4世紀初頭。
三輪の磯城端籬宮(しきのみずかきのみや)に皇居を定めて治世にあたったとされ
三輪王朝発祥の祖といわれています。
三輪山麓には、いくつも入り組んだ谷筋が延びており、
その谷筋ごとに点在していた諸部族を束ねて、祭祀の中心にいたのではないかという説もあり、漢風諡号にも「崇神」と付けられたとか。
和風諡号は、みまきいりびこいにえのすめらのみこと
またの名を、はつくにしらすすめらみこと
記紀では、崇神天皇だけでなく初代神武天皇の異称も同じく「はつくにしらすすめらみこと」
神話的記述の神武天皇に比べ、
崇神天皇紀には、人民の戸籍を作り課役を命じ、物は豊かで天下は平穏であったなど開国治世の記述が多く、天皇を誉め讃えて「初めて天下を治めた天皇」といわれているようです。
和風諡号は「ミマキイリヒコ」は
イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称で、
実名(諱)をそのまま記紀に記載したとする説もあり
古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせるそうです。
崇神天皇に様々な助言をしたという、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓」を邪馬台国畿内説は卑弥呼の墓とします。
崇神天皇以前、三輪山周辺の諸国連合が邪馬台国だとすると、
何時の時代にか、大陸・朝鮮半島からの渡来人達が稲作をはじめとする文明・文化を伝えたにしても
その記憶は伝承や記録として必ず残っているのが普通でしょう。
日本書紀は、卑弥呼の泰始二年の朝貢を神功皇后の事跡とするために、
魏志から、卑弥呼の死とその後の混乱、そして台与が女王となる記事を引用しないでいます。
引用しないということは改竄ではありませんが、明らかに意図を持って省略しています。
卑弥呼は247、もしくは248年に死去していますが、
この連続した2年間に日本で皆既日食が起こったことが、最近科学的に明らかとなっています。
もし邪馬台国が九州にあったのだとしたら、
邪馬台国終焉後の3世紀末(280~300年頃)九州全域が以前の小国分立状態となり、
北部九州勢力・南部九州勢力のどちらにも属さない日向地方の諸勢力と宇佐勢力が連合して4世紀初頭(300年)前後に東征の途についた。
以前邪馬台国・宇佐説を書きましたが、
でもそれなら記紀から抹殺する必要はあるのだろうか。
大和朝廷以前に中国に認められた倭の国があったということを伏せたかっただけなんだろうか。
大和を治めていたのが卑弥呼だとしたら、大和の潮流が変わったのだから消さざるをえませんね。
そして⑨国つ神の話で書いたように祟りを恐れて祀ったことも筋が通るかも。
やっぱり大和かな~
・・・・・・・・・・・・・・・・・
古事記も日本書紀も、中国の歴史書も読んだことないし、これからもたぶん無理でしょう。
このように天皇に繋がらない以前の歴史は抹殺されているそうです。
日本が人類の発祥地でないように、朝鮮半島だってどこかから流れてきた部族なんだから、隠す必要もないのにね。
ところで神話による高天原は、大和地方と非常に似ているそうです。
高天原の天香具山を地上に移したといわれる香具山があり、
高天原を大和地方であるとする説に繋がります。
しかし、皇孫ニニギノミコトの一行は九州の高千穂峰に天下り、
神武東征という日本国内における大民族移動を行いますが、
大和地方周辺には出雲族の勢力が強すぎたので、紀州半島の熊野から上陸した。
つまり西から来た武装集団が近畿勢と戦って勝利し、
何らかの勢力圏を近畿内に確立して、やがてそれが大和朝廷を成立させる源になった。
東遷を率いた可能性のある統率者の候補は、記紀上では3人
神武、崇神、応神と、いずれにも「神」の字が付いています。
では実際に東征したのは誰なんでしょう?
「はつくにしらすすめらみこと」と同じ名前を持つ神武と崇神は同一人物なんでしょうか?
古代日本の成り立ちは謎がいっぱいで、いろんな想像が出来ますね。まだまだ発掘されていない古墳がたくさんありますから、いつの日か邪馬台国や大和朝廷の真実が明らかになるかも知れません。
世界三大墳墓として、仁徳天皇陵、秦の始皇帝陵、ピラミッドが上げられますが、仁徳天皇陵が本当に仁徳天皇のお墓かどうか疑問があるようですし、ピラミッドはお墓ではないという説もありますね。秦の始皇帝陵は保存する技術が確立まで発掘しないのだとか。
数年前のことですが、仁徳天皇陵の周囲をぐるりと歩いたことがあります。本当に巨大な古墳ですね。飛行機からだと全体がよく見渡せるようなので、いちど空から眺めてみたいです。
ちなみに私はピラミッドにも秦の始皇帝陵にも行ったことがありますが、どれも強大な権力をもった王の存在を思い知らされました。
TMさん周りを歩かれたんですか・・・スゴイ!!
関空から飛行機乗ると、天気のいい日は御陵が見えますよ。
かきたてられるものがあるんでしょうね。
小説のテーマにされたり、エッセイで残されたり、
検索していると、いっぱい出てきました。
内田康夫著「箸墓伝説」は読んでないです。
ここを舞台に書かれたものだったのでしょうか。
どの小説家も下調べがよく出来てますよね。
「ヒムカイ」の国とはヒッタイト帝国である。初代国王はBC17世紀の「はつしる」。日本列島を征服した神武天皇や中央集権化を進めた崇神天皇と共通する名である。
書記の天孫降臨の1説にも騎馬戦車軍団の砂漠横断と思わる記載がある。
日本人のミトコンドリアの多様性についても異民族婚(天津神&国つ神)を重ねてきた神話と一致する。
英語をローマ字読みすると日本語に近くなるのは本来同じ民族であった痕跡である。なまえ、あるなし、かぶる、ふむ、て、しり、ほる、わた、など。
それでも、某米大学の教授はヒッタイトは日本人であると公言している。(人種的にはジア進攻により全く違う容貌に変化したが)
できましたら適当なハンドルネーム名乗ってくださるとありがたいです。
そのHNで架空の人格発生し、それが何度も使っておられるうちに、当方の記憶にも残り膨らんでいきますし。
さて、ヒッタイトの言語から見た見解情報、実に興味深いです。
この記事書いたころWikipediaには、謎の海の民に滅ぼされたと記されていたような。
改めて確認してませんが、きっと事情あって散りじりになり、インド洋に出たものはカンボジアのクメール人とかで一部残り、日本にも来たに違いないと思ってました。
過去ログの鉄の歴史とかで書いてます。
ダマスカスナイフと日本刀、たたくことによる鉄の鍛え方は一緒だったような。
いろんなアプローチで日本人の源流が明らかになること願ってます。
今の私がはまってるのは竈の神で、荒神さんに繋がり、それは鬼滅の刃の竈門炭治郎の清かの道だと教えてもらったこと。
このタイミングでコメント頂戴したことも含め、意味ありそうに思えます。