秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

墨坂の不思議な祟り?

2013-06-27 | 古代史のミステリー
めっちゃこわがりなのは、実像を知る人にはよく知られてます^^
昔からホラー映画や怪談話のTV番組みないし、怪奇もの小説もわかってたら絶対読みません。
よって以下の話はネット検索でひろってきたもので確認していません。


先だって伊勢ウォークで立寄った墨坂神社には波動水という看板が高々と掲げられてました。
その神水をペットボトルに頂戴しました。
歩きながら飲んでたら、なんか胃の形がわかるわぁ~というぐらい重さを感じました。
胃が痛いわけではないけれど、なんかこの水大丈夫かなと不安になったぐらいです。

そんな体験もありなんとなくひっかかるものがあったので、検索ワードをいろいろ変えて調べてみると…。

まず先に見たままを順番にレポートします。


近鉄線榛原駅からすぐ、宇陀川を渡ったところに墨坂神社は鎮座しています。

画像には写ってない左手前に一の鳥居が見えたけど、ウォーキングコース上、この鳥居は帰るときにくぐり撮影しました。
たぶん電車で来た人は、橋を渡り、階段上り2の鳥居くぐって境内に入る人がほとんどだと思います。





画像では左端に手水舎屋根が少し写っています。
「御神水 波動水 奇跡の水」の大きな看板も帰るときに気づきました。
このときは150名をこえる団体が参拝してるので、人の流れに逆らいにくい。
さらに左横に祓戸の神様の社がありましたが、ここもまた帰るときに気づいたのだった。
本来ならば祓戸にお参りして穢れを祓ってからの参拝なのにね。

階段上がり境内に入ると、赤い春日造りの拝殿越しに本殿があります。
本殿は、春日大社本殿のひとつを元治元年(1864)に移築したものです。



この墨坂は、奈良盆地へと通じる古代から交通の要衝で幾度となく記紀に登場します。
あちこちのサイトで記載されてますので、神社ふり~くより引用させてもらいます。

神武天皇即位四年春、鳥見山中に霊畤(マツリノニワ)を築かれ、
天皇みづから皇祖天神を祭祀され
「この地を上小野榛原(カミツオノハリハラ)下小野榛原(シモツオノハリハラ)という」とある。
その下小野榛原が即ち墨坂の地である。
現在は西峠地区にあるが、神武天皇の軍が大和菟田に入られた時
この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、
天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある。


(神武天皇の大和行軍図)

祟神紀の九年三月(380)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩まれていた。
ある夜、御夢に神人が現れて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって、墨坂の神を祀り、黒盾八枚、黒矛八竿をもって大阪の神を祀れ」と告げたので、
天皇はその教えに従って祀られたところたちどころに疫病は平癒し天下安泰になったと記されている。
この墨坂の神は当神社のご祭神で、大坂の神は香芝市逢坂の大坂山口神社のご祭神であるが、
いづれも古代大和における東西の重要な道路を守る神々である。


「社記」によると、この墨坂で神武天皇東征当時にはすでに祀られていた神々を
文安六年九月(1449)に現在の下萩原字天野に遷座されたものである。
旧社地には小祠を建て「上の森」と呼んだ。






墨坂神社の秋祭では、今の神社から元の社地へと「渡御行列」が行われています。
大神輿へと移された御分霊が11月2日の夜に神社から旧社地の御旅所に赴き、
そこで一晩を過ごしたのち、3日に御旅所から神社へと戻るというオワタリ祭りです。
『日本書紀』祟神天皇紀の故事に従って赤盾赤矛太刀等奉持した武者行列で遷座します。

 赤盾赤矛のレプリカ
祭りで使用されるのを画像検索でもらってきました。


疫病などの悪いものが奈良盆地へ入って来ないようにするため、
盆地東側の街道にあたる墨坂に墨坂の神、
盆地西側の街道に大坂神を祀ったという故事。

今春、四天王寺のすぐ近くに逢坂がありそこの安居神社に少彦名神が祀られてる記事を書きました。
そのコメントでいっきさんに墨坂の神と逢坂の神のことを教えてもらった。

しかし、なぜに赤と黒なんだろうと思ってたら、
宇陀市のサイトには次のように書かれてあった。
「東側は日の出、太陽が出てくる方向なので「赤色」、
西側は日没、太陽が沈む方向なので「黒色」としたとの考え方もあります」


 古代の奈良湖推定図


さて話は元に戻り、
本殿より団体参拝客は左に流れたので、そのままついていくと


竜王宮   祭神 罔象女神
(古くから池を御神体として祀られていたが、昭和56年2月社殿を新築祭祀)

どうやら2011年秋の台風で倒壊していたと、これもネット検索で知りました。





この池の右手に水道蛇口があり、そこからお水賜りました。



波動水で元気がでるかなぁ~なんて
ノーテンキに帰るときにくぐった一の鳥居


なんか気になった墨坂神社でした。


まず波動水というのがいかにも胡散臭いというか…
いろいろ調べていてようやく見つけたのは、「9人の氏子と神主」というお話。

ホラー作家として有名な加門七海さんの著書の中に「怪談徒然草」というのがあり、
作者が本当に体験した話を四夜に渡って語りそれを文章に書き起こしたものらしい。
その中の「9人の氏子と神主」というお話は、作者は固有名詞をあげていないけれど、
記紀の伝承などからして墨坂神社に該当するにちがいないと。

詳しくはS神社訪問記というブログでご覧下さい。

一部抜粋
神社を建て替えることになったときに神社の配置なども変えてしまったのだという。
氏子達が300万円もかけて牛のブロンズ像を造ってしまい、それを置くために本殿の横に祀られていた祓戸神を境外に移動させて、その祓戸神の祠があった場所に牛の像を置いたのだそうだ。
さらに神社の横には信仰もされている小川があったのだが、この水を境内をボーリングして小川の源から水を引いてきて、新しく作られた池に水を張り、さらに御神水として儲けようとしたのだそうだ。

これには神主と10人の氏子代表が係わったのだが、その10人の氏子代表のうちの9人までが病気や事故で災難にあい、神主も脳卒中で入院したり、奥さんが半身不随になったり、子供が交通事故になったり・・・そういう事が三ヶ月の間に次々と起きたのだという。
そして、氏子代表で唯一の無事だったのが、この老人だという話




いろいろ調べていて、
「墨」という字は水を意味し、元は水神に縁があり祀っていた可能性もある
というのもみました。

坂の神は、境の神。
恋しい人に逢う坂であると同時に、逢うことを妨げる神聖な場所でもあった。
あの峠を越えれば…

峠の語源はタムケ、坂の神に木綿四手を供え旅の安穏を祈った習慣が、
やがて枕言葉となり、逢坂山の別名ともなりました。


夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ 
         清少納言

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関 
          蝉丸


23 コメント

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Unknown (TM)
2013-06-29 20:27:29
>「墨」という字は水を意味し、元は水神に縁があり祀っていた可能性もある

なるほど。
私が住んでいるのは「墨田区」です。隅田川が近いし、近くにはいくつもの運河があります。亀戸水神(←亀戸天神ではない)もあります。まだ行ったことがないんですけど。
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TMさんへ (ulala)
2013-06-30 09:26:52
墨坂や墨田区、そして住吉大社近くの住之江は墨之江、ともに墨ですね。
他にも墨染とかいう地名もありますね。
どこで水に関係すると読んだのか探しましたが見つけられなかった。

すみだがわと入力すると隅田川と変換されますが、墨→隅になってるのですね。
亀戸水神の神様は、その川を守っておられるのでしょうか。

神武天皇大和入りの行軍図見つけましたので、ブログ記事最後にアップしておきます。
縄文海進から西暦4世紀ごろ地球的に寒冷化が進み海が後退しました。
同時に川の堆積物により、大阪平野の河内湖や大和の奈良湖もどんどん縮小したのでしょう。
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追記 (ulala)
2013-06-30 09:29:18
平城京を捨てることになった理由の一つに、
屎尿排泄物を川に流していたのがうまく機能しなくなったとか。
きっと先のコメントで書いた奈良湖がどんどん小さくなり大和川に流せなくなったのかも。
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奈良湖? (奈良住み)
2016-10-14 13:38:40
3年以上前のコメにコメするのも何ですが、2013-6-30のを読んで。
平城京は710~784年ですよね。
弥生時代の鍵・唐古遺跡が奈良盆地中央にありますが、奈良湖が干上がったので人が住めるようになり、出来た集落だと思います。600年続いています。
平城京の時代に奈良湖はとっくにないのでは。
藤原京も「排水がうまくいかない」都でした。16年しか機能しませんでした。
勘違いされていませんか。
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奈良住みさんへ (ulala)
2016-10-14 14:41:01
はじめまして、コメントありがとうございます。
遠い昔には琵琶湖が淀川ではなくて奈良湖に流れ込んでたという説も見たことあります。
時代とか正しく考証してないのですが、藤原京より前で間違いないと思います。
大阪平野がかつて河内湖であったというのも衝撃的でしたが、奈良盆地も古代は湖だったというのが、へぇ~驚いた、というコンセプトを象徴する図としてアップしました。
このブログで、この図を何度か使わせてもらうも最初が発見できなくて、引用元はどこだったか?

葛城古道あたりを記事にしたときの記録もよかったらご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/ed59e0a80035f574c5efd4834477b0c8
現代の海抜を見ても最初はこのあたりからひらけたのかなと思われました。

「古代の大和と河内に敷設された直線道路網の謎」も参考になりました。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/2013_11_20.htm
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上小野榛原(カミツオノハリハラ) (りひと)
2017-07-31 09:44:59
最高、上がついて小野が付くんですね。
ランキングでよく上がる記事ですけど何故か頭に入らずなのでキーワードだけにしがみついてみます。墨も坂もキーワードですね。

一昨日は隅田川花火は大事な時間大雨で延期も出来たのに強行したので40年の記念も残念でした。この辺りも雨止めの白馬いないんでしょうね。
そうその候補は亀戸水神でしょうね。隅田川神社はおそらく鳥居が違う方向向いてますし、牛嶋の元の辺りの三囲も逆側に鳥居ありますので水路なり川なりでお参りするか上陸するかそんな神社だったのでしょうね。

太陽を背に背負ったら黒は確かにそうですね、太陽が関わっているのは確かでしょう。水運には何かしらの基準が必要ですから、夜は月でなく北極星派ですけど。

あと奈良湖の件ですけど、唐古・鍵遺跡の近くは田原本町ですよね。あの辺りは古代に民族いたけどいなくなった時期があるようです。もしも旧石器から人がいたならばまだ陸地であり凄い遺跡がある可能性あるように素人では思いますね。そして縄文でお水がやってきて水没したら恐らく栄えている所を知っている民族もいますのでそこを第一に灌漑など土地改良をして田んぼにしたいと思うので弥生の遺跡が出来る事もありかとも。

唐古鍵の遺跡がすでにあった遺跡の上にあったならもっと掘ってみたらでないかなあ。なんせ外国でも泥の中は保存が効くようで何かがそのまま時代を遡って現れる事もあるのでは?お水が来る前にどんな生活していたか?気になりますね。
また地図で見ると右側の山からや南北の川からの堆積等でも発展しやすそうな場所には思います。

奈良湖の下の旧石器遺跡ないか調べてみます。
そしたらこちらの記事が頭に入ってくるのでしょうか?

大阪の阪なら奈良の般若寺の辺りみたいになだらかな阪でしょう。なだらかにするためにはお水の影響は必ずありますね、お水が通って坂になるんだと思います。3137
あと墨も文字を書く道具ですから土器に字が書いてあるのとかないのかなあ?たまたま出た遺跡がまた気になって関連してこないかくっ付けたくなりましたよ。3137
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りひとさんへ (ulala)
2017-08-01 14:09:09
ナニワイバラのコメント返しでのべたのですけど、茨木市には東奈良遺跡というのがあります。
奈良盆地の奈良と関係あるのでしょうか?

安威川は、亀岡と大阪府の境付近に発し大阪府北部を流れ淀川分流の神崎川に注ぎます。
茨木市東部の市街地を南下し、西河原で茨木川と合流する地点で向きを南東にかえ東海道本線・阪急電鉄京都線をくぐります。
古代とそれほど流れが変わってないとしたら、溝くい神社やイソラ神社の位置が気になります。
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太陽の塔あたり (りひと)
2017-08-06 18:22:13
素人判断ですけど、亀岡から阿武山のキワ辺りはかなり魅力的な地形ですね。そこから川を伝い山からの恩恵を受けているならば土地開発や農業にもいい効果あるいい地になりそうな。

で太陽の塔あたりは川の周りとは違い、低い山がいっぱいあるので大地ではないかもしれませんがそれなりに開発しやすい地ですし、人間も住めた可能性ありますね。

遺跡調べてみましたけど、万博の関係で見つかったそうですね。私も昨日茨城の万博の地におりましたのでなんか嬉しいですよ。

奈良との関係は、今後探してみますね。
名前は当時の発掘者の方々の影響が出るはずなのでなぜ奈良を入れたかは気になりますね。ならした地ではあるとは思いますけど。あと環濠集落で銅鐸とはいい路線に行っているようにも思いますね。橿原でも銅鐸の絵などの展示などをしていますし、また講演会でも銅鐸の研究はやってほしいと要望しているのも聞いた事あります。あんまり情報なさ過ぎですもんね。

かなくそとかさなぎとかなんか製鉄の破片だかにも不思議な言葉もありますけど銅鐸を作っていた工房があるのならある時代の中心地ですね。
はにはは、今城の北で銅鐸がその南の東奈良遺跡のあたりならばだんだん南に動いてくるかもしれませんね。銅鐸の時代はまだ武器使用の金属利用ではないはず、その後南にいくと製鉄になるのか?ただ単純に南にいかず奈良の山を通ったとしたらすでにネットワークがあった可能性も。南の山から和歌山の方が川から奈良へは入りやすいですね。奈良は南から発展していそうですよね、お水もあったみたいですから山際ですもん。

工房なり、集権的に作れた工房があったならば相当の権力と資金(当時はお金じゃなく原料材料)をすでに集めていた勢力がないとできませんよね。

おそらく石清水系なのだろうとは思いますね、高い所好きそうですので。みぞくいさんたちが楽しくやっていたならいいなあと。当時の職人さん達はいい待遇持てていたならいいボスだったでしょうね。その先は、おそらくお金の世界で大変だったろうと。はにわにしても祭器にしてもある時質が下がったみたいですからそういう理由もありそうですよね。お金と恐怖は、おそらく技術向上の最大の天的。それさえなければ独自に各分野凄い技術になっていたでしょうね。
出来る方には、いい待遇を。誰にでも出来る事には待遇を与える意味ないですからね。

使ったり消費したりする方は、作っている姿をみればその苦労にお金を自然に払えます。仲介がいて離れすぎちゃうと見えなくなってしまったのも後悔になりますからあくまでも仕事する姿を直にみたいですね。子供にもそういう製作している風景を見せる事が一番勉強になりそう。
大人にも必要になってきてますね、日本人なら無理な注文やお金でたたく事はしなくなるでしょうね。

銅鐸もなんのためなのか?工房が見つかったなら解明してあげると制作者も喜ぶでしょうね。
書いてあるメッセージは結構怖いらしいですけど。それが現実なら後世は受け入れます。今の技術でつくれないでしょうから惑わされずダイレクトにメッセージは受け取れるでしょうね。
当時はサービス料なんてなかったはず、利益もね。そういう意味ではなんか今の世は無駄が大きいような気がしますね。上乗せして買える方も少なくなってきてるので今後は効率も良い時代になるでしょう。ほそぼそ生活で満足出来たら、地球の食物量も少なくてもまわるはず、無駄な廃棄もね、無駄な営業時間のコストも。
その分、古代や古の知恵を調べて欲しいですよ。役立つ事いっぱいありそうに思います。2611、2656
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なんだかなあ (りひと)
2018-05-04 19:45:52
昔からこちらへ行った事もないのになんか妄想コメントしてますね。けどやっと接点出てきたみたいですよ。お水の大事な地なのはハンノキの榛の付く地で出てきましたね。薬師関係の伝説あると面白いですね。宇陀のたけのこ頂いてきたのでこの地域を調べてみたら、地名に榛付くんでびっくり。はいばらと読むんでまた炭焼き関係も気になってこの地の神社とお寺を覗いてみたら結構古いんでびっくり。で中心は水神さんっぽいですね。たまたまここの所行ったり来たりした場所のお店がまた紙のお店でそこまで出てきちゃってびっくりです。

こちらの神社もこのエリアなんですね。吉野にもまたお気に入りの國津神社辺りからも三輪からもでとても大事なエリアですね。
そしてこちらではオリハラと読むのも気になります。文祢麻呂さんのお墓からはガラスまで出てるようです。ちょっと墓誌まできちんと埋葬するって凄い一族住んでたエリアみたいですよ。

木材を炭焼きで墨って本当に作ってたら関東にも行ってそうに思うんですよね。硯と墨で土器にも産地書いたりしていた民族も国内にはいるはずですので。硯の石は東北が有名だったとか?墨はこちらだったなら奈良と東北も繋がりますけどね。

でも結局木も大事みたいに思いますね。
大阪から榛原まで50分ってびっくりです。大阪のが便利そうなので行ってみたいです。9029
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ランキングで。 (りひと)
2018-07-23 11:46:59
ちょい情報入れておきますね。
墨と隅で。
この前大分の玖珠町大字四日市の四日市遺跡というところからすみいりほうきょうが見つかったと聞いて炭?墨?までは理解。けど正解はなんと隅で隅入方鏡だそうです。で丸じゃない鏡ってのは発想がなかったんですけど珍しいらしいんですよ。でもう一ヶ所日本で出ているのが男体山の遺跡だとかそれだけでワクワクです。中国東北部とのお付き合いがあったのか?栃木と大分の共通点が隅みたいです。隅田川は川ではあたらしいんだっけ?そっちはおいておいて。鏡で有名な神社では、隅田八幡もかなり気になってるのもあります。
あと家紋でも隅が付く付かないのもありますので前々から気になります。風水では隅は削ったらまずいんでしたっけ?山形は結構お家作るのもシビアなのでそこでも隅というのも連動するか?

あとどんな色々な漢字を当てても普遍的なのは音です。なのでスミという音も大事ですね。住吉のスミもかなり気になってきましたよ。

この前うららさま大分行ってるし、私は気が進まないんですけど調べないととは思ってる場所。
そして四日市がまた父ががんになってすぐあげたお水の聖地の日田の近くなのも今発見。気になります。飛騨と日田もヒダで音も濁るかどうかは分かりませんけどオトでは関係ありそう。
四日市も4付くし、以前青森に四戸探しに行ってるし、大分に四日市があるのもかなり気になります。それも遺跡の名前ですから地形やその地の字などとも考えられそうにも思います。いよいよ愛知三重あたりに繋がりそうです。

あと遺跡の読み方なんですけど結構濁点を多いみたいに感じましたよ。私もテンテンが付く音のが興味ありますのでそこもヒントになりそうな予感です。テンテンないと騙されそうで。

まずは隅入方鏡を探ってみます。9世紀だと百足関係も気になりますし日光だと。
あと、音ではスミは二文字なので隅もそもそも音では2文字でそこに漢字を当てたなら候補は須美ですかね?神様の名前でもありそう。

単純にランキングで上がったタイミングでの私の情報なのですが、記事にどう絡んでくるのか?気になりますね。

まずはこの記事の地と隅田八幡と四日市と繋いでみます。男体山もかな?7214
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