各マスコミが広島県府中町立中3年の男子生徒の自殺に関する調査報告書を3月10日に報道し始めた。読み直して、女性担任教師の自殺した生徒に対する指導についての町立教育委員会や学校の調査に対する証言なのだろう、その言葉に対する疑問と、生徒一人ひとりの人間を見ない規則主義優先の学校組織であったことと、同時にそれに染まっていた担任の姿に改めて気づかされた。
今回は「産経ニュース」(2016.3.10 17:47)が伝えている調査報告書の要旨から見てみるが、例えば高校推薦の基準を毎年検討することにしていて、従来は非行歴がある場合は推薦の対象としないとする基準を3年生の1年間を対象としていたのを現在の平成27年度の3年生は1年時に問題行動を起こした生徒が多かったことから、1、2年時の非行歴も含むことに決めて3年間を対象とした規則に変えたことである。
この規則変更が去年及びそれ以前の高校進学者と今年度の高校進学者との間に不平等が出てくることになるケースの発生を考えもしなかったことと、万引きが成長途上での友達に自慢するための一過性の勲章行為であるケースが多いが、そのようなケースと常習的万引き行為との線引きがないままに全ての万引き行為を触法行為として推薦の対象から外したことは一過性である場合の成長を認めていないったことになって、学校教育者が生徒一人ひとりがどの程度成長しているか、どのような可能性を広げているのか、それぞれの人間を見ない、規則だけに焦点を置いた規則主義優先に陥っていたことの証明以外の何ものでもない。
学校教育者が生徒一人ひとりの人間――どういった人間かを見る姿勢を欠き、それ故にだろう、規則を通してしか見ることができなかった。人間を見ない教育というのは一体どんな教育なのだろう。学校教育の世界でありながら、そういった世界ではないという逆説を踏んでいることになる。
賢い人間は万引きといった触法行為からも学ぶ。賢くない人間だけが学年が進んでも触法行為を続ける社会的成長が停止した状態を示す。逆に悪賢さのみを成長させる。
例え自殺した少年の万引きの非行歴の記録が間違っていなかったとしても、生徒一人ひとりを見る教育を行っていたなら、それ以降の非行歴はなく、学校の成績は良かったと言うことだから、1年時に既に刑期満了と看做して推薦を出すことができたはずで、そうしていたなら何ら問題は生じなかったはずだが、2年経過後も万引きの刑で服役状態に置こうとしたために生徒をして自らの生命(いのち)を絶たしめることになった。
多分、推薦が取れなかったことよりも、無実の罪で服役状態に置かれることの遣り切れなさ、屈辱が彼を死へと誘(いざな)った最大の原因ではないだろうか。
上記記事から改めて担任女性教師の進路指導の個人面談が如何に生徒一人ひとりの人間を見ない内容となっているかを見てみる。
記事は、〈3年時の担任、H教諭は資料にA君が万引したと記載されていることを知って驚き、優秀な生徒で「1年時に何があったのだろう」と思ったという。〉と、調査報告書の内容を伝えている。
11月16~19日にかけての1回目の面談。
H教諭「万引がありますね」
A君「えっ」
H教諭「3年ではなく、1年の時だよ」
A君(間を置いて)「あっ、はい」
この遣り取りを以って、〈H教諭は万引したのだと認識した。〉となっている。
ここで疑問が一つ。他の記事によると、学年主任が万引きをしたという誤った資料に基づいて11月30日までにその事実を確認をするよう担任に指示を出したということである。
但し今年度から「推薦・専願基準」が変わったことをいつ伝えたのだろう。
伝えないままに資料に記録されていた1年生のときの万引きを問題にしたのだろうか。2年生、3年生と問題行動がなく、成績も良い生徒である人間を見ていたなら、「昨年度は3年生の1年間に触法行為がなければ推薦は出せたけど、残念だけど、今年からは1年生のときまで遡って3年間の触法行為で出す出さないの基準に変わったの」ぐらいは言ってから、「1年生のときに」と、それがいつのときか具体的に触れてから、「万引がありますね」と触法行為の種類を言い、さらに万引きをした品物、金額でいくらするかそいういったことを伝えて相手の記憶を鮮明にさせてこそ、万引きの事実が確認でき、尚且つ推薦が出せない事情を相手に納得させることができるはずだが、そういった人間を見てする手続きを一切踏まずにいきなり「万引がありますね」から入っている。どこからどう見ても、生徒の人間を見て接する親身な態度には見えない。
しかも推薦を出すことができないことを生徒に納得させる、そのための確認の面談だというのに生徒が間を置いて、「あっ、はい」と言っただけで万引を認識したとする安易さは教師と生徒が人間対人間の関係で向き合わなければならない、いわば生徒の人間を見なければならない学校教育者の態度だろうか。
11月26日から27日にかけて行った2回目の面談。
H教諭「進路のことだけど、万引があるので専願が難しいことが色濃くなった」
A君「万引のことは、家の人に言わないで。家の雰囲気が悪くなる」
記事。〈前回とこの答えでH教諭は万引の事実があったと確信した。〉
要するに担任は万引の事実に対する機械的な確認を担任教師としての指導や面談の内容とした。なぜ万引きをしたのか、出来心なのか、友達同士で万引きした品物を獲物に見立てて自慢し合い、勲章とする類いの万引きだったのか、生徒を一人の人間と見る態度で接していたわけではない。
3回目以後の面談も万引きの事実のみに立って生徒と接する担任の報告となっている。だから、1年生のときの誤った万引きの事実を、その過ちを剥がすこともできないままに引きずることになったのだろう。
「NHK NEWS WEB」記事が弁護士を通した両親の話を伝えている。
両親「(調査報告書は)そもそも誰に向けて作られたものなのか分からず納得がいかない。また、報告書に書かれた担任との面談の会話が本当に、このとおりだったのか、疑念を持っている。学校の言い分は正確ではないと思う。
息子の性格を考えると『万引きがありますね』などと決めつけられると、もめごとを起こしたくない性格から、明確に反論できないところがあると思っている。全くの想像にすぎないが、もしかしたら本当に万引きをした友だちの受験に影響が出ることを心配して、誰にも相談できず1人で悩んでいたのかもしれない」
担任が生徒を一人の人間と見る態度で接していたなら、いわば万引き事実の機械的な点検・確認で推薦を出すか出さないかを決める態度のみで接していなかったなら、生徒が勘違いして万引きをしたと思い込んでいたとしても、あるいは両親の言うように万引きをした友達を庇って万引きの罪を被るつもりでいたとしても、お互いが理解し合うことができ、誤った記述に行き着かない可能性は捨て切れない。
調査報告書には、〈A君は「どうせ言っても先生は聞いてくれない」という思いを保護者に話していた。〉と記されているそうだが、この思いこそが担任が生徒一人ひとりの人間を見ない、生徒との接し方をしていた何よりの証明であろう。
この思いは生徒が万引きをいくら否定しても、担任が資料の記述を根拠に生徒の万引きの事実を譲らなかったのではなかったかと疑うことも可能とする。
担任一人だけに罪があるわけではない。生徒一人ひとりの人間を見ずに推薦・専願基準を3年の1年間から1、2年まで含めて3年の間非行歴がある生徒は対象としないと規則優先で機械的に決めた学校のみならず、同じく生徒一人ひとりの人間を見ずに生徒と接していた担任は生徒の自殺に同罪と見做さなければならない。