国家権力による学校現場での「国旗」掲揚と国歌斉唱の強制は基本的人権への介入度のリトマス試験紙とせよ

2016-03-16 09:10:01 | 政治

 岐阜市にある岐阜大学の森脇久隆学長が3月15日定例記者会見の質疑で、今春の卒業式と入学式で国歌「君が代」を斉唱しない方針を改めて示したと同日付「asahi.com」が伝えている。   

 森脇久隆学長「3月の卒業式と4月の入学式は例年通りです」

 「例年通り」とは大学の愛唱歌「我等(われら)多望の春にして」の斉唱だということと、2月17日の定例会見でこの愛唱歌を既に歌う考えを示していたということの説明が入っているが、多分、記者が確認を取ったことへの答弁なのだろう。

 森脇学長のこの2月17日の発言に対する安倍晋三と同様の国家主義者文科相の馳浩の2月23日の閣議後会見の反応も伝えている。

 馳浩「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」

 卒業式や入学式で「君が代」を歌わないことは日本人として恥ずかしいことだし、特に国立大学に籍を置く教授や学生にとって恥ずかしいことだと批判している。

 多分、馳浩は国立大学関係者をより国家に近い存在と見ているのかもしれない。国家に近い存在がそんなことではダメじゃないかと。

 学長は馳浩の上記発言を聞かれて、「コメントを差し控えます」と答えたと書いている。

 要するに我関与せずの態度を取ったということなのだろう。本人はどんな思いでこの発言をしたのか窺いようがないが、結果的には国家に近い存在であることを拒否したとも解釈できる。

 国家主義の立場から自らを国家に近い存在だと認識していたなら、喜んで国歌斉唱もするし掲揚した国旗「日の丸」に喜び勇んで恭しさを全身に表現し、深々と頭を下げたに違いない。

 別の「asahi.com」記事によると、昨年2015年6月、これも安倍晋三と同様の国家主義者下村博文前文科相が全国立大学長に、「国旗・国歌の適切な取り扱い」を要請したことを紹介している。

 〈大学の教育内容については国の統一基準はなく、国旗・国歌についてのルールもない。「大学の自治」の原則があるためで、国は式典の方法などに介入できない。〉と記事は解説しているが、それでも大学の自主性に任せることができずに国家権力の側の人間が「適切な取り扱い」――国旗掲揚と国歌斉唱を求めたということなのだろう。

 そして上記馳浩の発言をより詳しく伝えている。

 馳浩「「私が学長なら君が代斉唱が望ましいと思う。(国立大には交付金として多額の税金が支払われていることに触れた上で)我が国社会の支援に感謝の気持ちを示す姿勢も儀式儀礼にはある。日本人として、特に国立大学として、こういうふうにおっしゃることはちょっと恥ずかしい」――

 「我が国社会の支援に感謝の気持ちを示す」ことは大学生が社会に出て社会に何らかの役に立つことで貢献できることで、大学にいる間はその思いさえあれば十分である。掲揚した国旗に頭を下げたり、国家を斉唱することが社会への支援に対する感謝の表明だと厳格に限定されているなら問題は生じないが、安倍晋三や馳浩、下村博文のような国家主義者たちは「日の丸」に対しても「君が代」に対しても国民の上に置いた国家をそこに見て、国家と共にある国家権力者としてその場に臨む意識構造が問題となる。

 いわばこのような意識構造の国家権力者たちにとっては一般国民に「君が代」斉唱や掲揚した「日の丸」への一礼を通して、それぞれが象徴している国民の上に置いた国家と一体性を持たせることで、国家と共にある彼らは国民をも下に置くことが可能となる。

 新興宗教の教主が信者たちをある何らかの偶像を崇拝させることに成功した場合、信者たちはその偶像に屈し、コントロールされた下の存在と化すが、教主はその偶像と共に存在することによって信者を下に置くことができるのと同じ構造であって、だからこそ国家と共にあろうとする国家権力者たちは「国旗」・「国歌」への強制を常なる衝動とすることになる。

 安倍晋三も2015年4月9日の参院予算委員会で国立大学の入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うことが望ましいとの認識を示している。

 このことは2015年4月10日の「ブログ」に書いた。 

 松沢成文次世代の党「殆どの国立大学で国歌斉唱を実施せず、国旗を掲揚しない大学も12から13ある」

 安倍晋三「学習指導要領がある中学、高校では実施されている。(国立大でも)教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきだ」

 この発言を掴まえて、次のように解説した。〈国旗を掲揚し、国歌を斉唱するということは、その瞬間だけのことではあっても、それを行う者にとってはそれらのことを通して国家と共にあることの表明の儀式となる。

 勿論、掲揚した国旗にそうしなければならないからと形式的に一礼し、形式的にただ口を動かして国歌を斉唱をする者も存在するが、国家と共にあることの表明の儀式とすることが国旗掲揚と国歌斉唱に求められる真の意味であろう。

 国家権力の側から言うと、国民に国家と共にあることの表明の儀式を繰返させることによって、その表明を意識に植えつけ、習慣的な意識とさせて、国民を国家と一体化させることを望む。

 このことは戦前の日本国家を見れば理解できる。

 と同時に戦前の日本国家は同じ日の丸の日本の国旗であっても、時代の思想や時の国家権力の政治思想によって日の丸が象徴する色合いは違ってくることを教えている。

 戦前の日の丸が軍国主義・植民地主義の象徴であったとしても、あるいは大東亜の盟主を象徴した日の丸であったとしても、戦後の日の丸は平和国家の歩みを象徴しているのだからと国旗掲揚の正当性を与え、併せて国歌斉唱の正当性を与えることはできる。

 だが、国旗というものがそのように時代時代の思想や国家権力の政治思想によって異なる象徴を映し出す性格を有するなら、戦後の日の丸が例え戦後日本の平和の歩みを象徴していたとしても、時の国家権力者が平和とは相容れない政治思想を有していたなら、日の丸自体がそのような政治思想を象徴するまでになっていなくても、国旗掲揚、あるいは国歌斉唱という国家と共にあることの表明の儀式はその国家権力者の政治思想が体現している国家とと共にあることの表明の儀式ともなり得る。

 例え形式的な国旗掲揚に対する一礼であり、単に口ずさむ形式的な国歌斉唱であったとしても、国民の殆どが慣習とした場合、国家とと共にあることの表明の儀式と解釈して、平和とは相容れない政治思想を有している国家権力者を喜ばせ、力を与えることになって、そこに権力の正当性を見い出させることになる。

 平和の時代であったとしても、あるいは日本が平和の歩みを進めていたとしても、時の国家権力者の政治思想次第では下手には国旗掲揚も国歌斉唱もできないということである。

 右翼の軍国主義者安倍晋三が国家権力を握っている日本で、その政治思想に正当性を与えるような国家と共にあることの表明の儀式である国旗掲揚と国歌斉唱を素直に行うことのできる国民がどれ程存在するというのだろうか。

 だが、安倍晋三は国旗掲揚も国歌斉唱も行わない大学にまで強制しようとしている。〉――

 時の政治権力者たちが真の基本的自由と民主主義を体現していて、国旗と国歌がそのような国家観を象徴しているなら、その国家観は決して国民を下に置くことを意味せず、対等な位置に立つことを意味するから、掲揚への一礼や斉唱を通したそのような国家と共にあることは取り立てて忌避感を感じさせはしないだろうが、国家主義を纏った政治権力に対しては忌避感を持ってこそ、基本的自由と民主主義の思想に適う。

 と言うことなら、国家主義を纏った国家権力による学校現場での国旗掲揚と国歌斉唱の強制の度合いは基本的人権や民主主義への介入度のリトマス試験紙となる。リトマス試験紙とすべきだろう。

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