麻生太郎の「いくら動機が正しくとも、何百万人も殺したヒトラーは、ダメだ」の舌足らずな認知機能の問題点

2017-08-31 10:17:14 | 政治

 総理兼財務相の麻生太郎(76歳)が2017年8月29日の派閥研修会での発言がマスコミを賑わしている。

 2017年8月30日付「NHK NEWS WEB」記事。

 麻生太郎「政治家になろうとした動機は、私は問わないが、結果が大事だ。いくら動機が正しくとも、何百万人も殺したヒトラーは、ダメだ。きちんとした結果を国民に残して初めて、名政治家だったと言われる」

 記事添付の動画から。

 麻生太郎「結果が大事なんです。いくら動機が正しくても、何百万人殺ちゃったヒトラーはやっぱりいくら動機が正しくても、タメなんですよ、それじゃあ。

 結果をきちっとした国民に、確たる結果を残す。初めてその人はどんな人であろうとも、あるいは名政治家だったと言われる」

 記事添付の動画では、「政治家になろうとした動機は、私は問わないが」が抜けている。実際に発言した「いくら動機が正しくても」という言葉自体が“動機を問わず”との趣旨を含んでいることと全体の趣意から、「政治家になろうとした動機は、私は問わない」という言葉をつけたのか、実際にその通りに発言したのかは分からない。

 いずれにしても、“動機は問わず・結果を問う”との発言趣旨となる。

 麻生太郎は「いくら動機が正しくても」と強調しているから、この場合の「いくら」という言葉は「どれ程に」、あるいは「相当程度に」という意味を取る。

 問題は二つある。一つ目は誰もが気づいていると思うが、何百万人という殺戮を結果としたヒトラーの政治家となった「動機」を相当程度に正しい例に挙げていることである。

 例えば、「彼がいくら正しくても、あれは遣り過ぎだよ」と言うときの「いくら」は「実際は正しくないが、例え正しくても」という仮定の意味で使っているのではなく、「相当程度に正しいことは正しいが」と正しいことを認めた上で、そのことを前提としても、結果に対して批判している文脈を取るはずである。

 ヒトラーが「いくら」正しい動機で政治家を志したとしても、結果との関係で初期の動機は無意味となる。結果の否定に対応した動機の否定の関連付けを行った発言をしなければならないのだが、単細胞の麻生太郎はそんな気の利いたことはできない。

 「ヒトラーはユダヤ人を否定民族の道具に使ってドイツ人の民族優越に走ったためにユダヤ人その他を何百万人も殺すことになったのだから、ヒトラーの政治家を志した動機がいくら正しかったとしても、その正しさを見失ったことになる。その程度の動機だったのだ」と。

 要するに麻生太郎の認知機能は舌足らずに出来上がっていて、物事を満足に判断できないから、失言となって現れることになる。

 二つ目の問題点は、「国民に、確たる結果を残す。初めてその人はどんな人であろうとも、あるいは名政治家だったと言われる」と言って、政治という結果さえ残せば、「どんな人であろうとも」と、その人の行為・人格は問わないとしている点である。

 政治は支持率との戦いである。安倍晋三の本質は国家の在り様を最優先し、国民の在り様を国家の在り様に従属させる国家主義者であるが、個人の権利・自由を無視して国家を優先させてばかりいたら、支持を失って政治の表舞台から去らなければならなくなるために個人の権利・自由に関してもそれなりに考える政治を行うが、あくまでも国家優先の範囲内の個人優先に過ぎない。

 だから、安倍政治は各種格差を生むことになる。

 要するに麻生太郎の「名政治家」とする評価基準からすると、個人よりも国家を優先させる安倍晋三とてそれなりの結果を残せば、「名政治家」の範疇に入るとしていることになる。

 また副総理兼財務省という立場にありながら、行為・人格に厳格さを求めないことが不祥事を起こしたり、問題発言をしたりする議員が自民党内で跡を絶たないことにも繋がっている原因ともなっているはずだ。

 麻生太郎は2013年7月29日の東京都内のホテルでの講演で、「憲法改正はナチスの手口を学ぶべきだ」といった趣旨の発言をして問題視された。

 この発言を巡って2013年8月1日エントリーの当「ブログ」で取り上げたが、この発言にも麻生太郎の舌足らずな認知機能を窺えることから、参考までに一部分再度取り上げてみることにする。 

 麻生太郎はこのブログでは取り上げなかったが、「ドイツのヒトラーは、ワイマール憲法という当時ヨーロッパで最も進んだ憲法(の下)で出てきた。 憲法が良くてもそういったことはあり得る」と発言している。

 〈ワイマール憲法はドイツが第1次世界大戦(1914年~1918年)に敗れて国内が混乱していた翌年の1919年8月11日に制定、第1条で国民主権を規定していて、近代憲法が自由権に絶対的価値を見出していたのに加えて社会権の保障を謳って現代憲法への転換がなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となったという。〉

 麻生は憲法がいくら優れていても、独裁者を生み出し得ると言ったことになる。

 〈ヒトラーはワイマール憲法を他処に1933年、議会多数派を利用して野党の反対を押し切り、立法府(立法を担当する機関。国会)が行政府(政府)に立法権を含む一定の権利を認める、5年間の時限法である全権委任法(授権法)を成立させ、ワイマール憲法を死文化させることになった。

 要するにヒトラー政権は国会が持つ立法権を政府が握って、政府一存で政府が望む法律を制定することができるようになり、ナチス以外の政党の解散を命じた。独裁権力の成立である。

 このような一連の出来事は憲法をいくら民主的な思想で成り立たせていても、議会の最大勢力の政治的恣意によって、憲法の民主的な精神は抹殺し得るということを教えている。

 麻生太郎の頭の中ではヒトラーはナチス憲法を手に入れるために「落ち着いた世論の上に成し遂げる」手口を用いたということが事実として記憶されている。

 あるいは「(国民が)騒がないで、納得して変」えていく手口を使ったということが事実として記憶されている。

 だが、手口はそうであっても、独裁権力を可能にするという目的があって、その目的に対応させた手口であることも見逃してはならない事実である。

 手口は目的としたものを周囲の状況に対応して手に入れるために決まってくる。手口が目的を伴うと言うこともできる。当然、目的に向けた手口ということになって、目的が違えば、手口もそれなりに違ってくる。

 いわば周囲の状況の中で手口と目的は切り離すことのできない関連性によって相互に結び付けられている。手口の中に既に目的が含まれていると言うこともできる。

 そうである以上、手口だけを学べばいいというものではない。頭の程度が知れているから、自分では気づいていないだろうが、手口を学びさえすれば、済むと思っている。

 ヒトラーがどのような目的を持ってその手口を用いたかを考えもせずに手口を学ぶべしと勧める頭の程度は如何ともし難い。

 だが、何よりもワイマール憲法という、その当時としては最先端の民主憲法下のヒトラーの独裁権力掌握が教えている、憲法をいくら民主的な思想・条文で成り立たせていても、議会の最大勢力の政治的恣意によって、憲法の民主的な精神は抹殺し得るという教訓、憲法とて絶対的ではないという示唆は常に学ぶべき知識としていなければならないはずだ。

 既に安倍憲法改正思想は前文で、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と、天皇を上に置いた国家を先に持ってきて、当然、国民を下に置くことになる“国民主権”を謳い、基本的人権の中に関しても、「公共の福祉に反しない限り」と、反するか反しないかは国家権力が決め得る、いわば国家権力の介入の余地を持たせた国家権力主体の基本的人権となっているのである。

 安倍晋三が独裁権力とまでいかなくても、静かな遣り方で「誰も気が付かな」い間に国家権力を次第次第に強めていき、一方の国民主権、基本的人権が弱められる方向に向かわない保証はない。

 あるいは麻生太郎が「ヒトラーの手口を学んだらどうだね」と言ったことが、手口が目的を伴う関係から、安倍政治の国家主義化の予言とならない保証もない。

 気をつけた方がいい。〉(以上)・・・・・・

 麻生太郎の脳ミソの奥底にはヒトラーなる歴史上の人物が深く沈殿し、こびりついているようだ。だが、間違った歴史認識、舌足らずな認知機能でヒトラーを持ち出して、さも真理を鋭くついているかのようにハッタリをかまされたのでは適わない。

 このような麻生太郎が派閥の親分でございますと鎮座している。麻生財閥のカネの力とハッタリの力でのし上がったのだろう。

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