――安倍晋三が、歴史家自体が歴史認識を異にするにも関わらず歴史認識は歴史家に任せるべきだと言っていることはマヤカシそのもので、外国や自国民と向き合っている国家権力者の立場にある以上、自身の歴史認識が問題にされるのであり、問題としなければならないはずだが、そのことに気づかない愚か者となっている――
安倍晋三は相変わらず歴史認識は歴史家に任せるべきだと、自己都合の欺瞞に満ちた詭弁を駆使している。6月1日(2013年)土曜日の日本テレビ「ウェークアップ」。司会の辛坊治郎が首相官邸を訪れて、安倍晋三に歴史認識、その他についてインタビューした。
辛坊治郎(橋本慰安婦発言について)「恐らく同じ思いをするところと違うところと両方おありだと思いますが――」
安倍晋三「勿論、あのー、橋下さんとは自民党、安倍内閣の立場は違いますが、歴史認識については、ファクトを含めてですね、歴史家に任せるべきだというのは第1次政権から実は私はずっと言ってきて、言ってきてるんですね。
あのー、これは神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間が、えー、その発言をすべきではない、もっと謙虚であるべきだと。
また、そういう議論をすることそのものが政治問題化・外交問題化するんですね。それはやはり避けるべきだというのが私の考えです」――
安倍晋三は同一の発言を国会答弁等で繰返している。
歴史認識に関わる発言は政治問題化・外交問題化するから避けるべきだとする政治上の危機管理は問題化する以前に問題化しないように努める危機管理であって、問題化した場合、折角の危機管理を有効活用できなかったことの証明となる。
有効活用できなかったとはその危機管理の無効化を意味する。役に立たなかった危機管理だったということになる。
果たして安倍晋三は自ら掲げた危機管理を有効活用できているのだろうか。現在も役に立っている危機管理となっているのだろうか。
既にその答は出ている。安倍晋三の歴史認識発言が中韓との間で外交問題化・政治問題化している。いわば役立てることができなかった危機管理として無効化させた。にも関わらず、問題化後にまで自ら無効化させた危機管理を持ち出している。
この合理的認識能力の欠如は――頭の程度は如何ともし難い。
2013年5月16日の当ブログ記事――《安倍晋三の歴史認識が日中・日韓関係に於ける外交関係構築の基本的要件を踏まえることができない理由 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に、日本の首相の歴史認識が日中・日韓関係に於ける外交関係構築の欠かすことのできない基本的要件となっていゆえに歴史家に任せた歴史認識ではなく、自身の歴史認識を明らかにする必要があると書いたが、今回は異なる視点から、「歴史認識は歴史家に任せるべきだ」と言っていることの正当性・合理性を検証してみたいと思う。
安倍晋三が歴史認識に関わる自身の発言は慎むべきだとしている理由は、実際には日本の戦前の戦争の侵略性を否定する歴史認識発言や、「A級戦犯は国内法的には犯罪人ではない」といった歴史認識発言を行なっているが、「神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間がその発言をすべきではない、もっと謙虚であるべきだと」としているところにある。
「神の如くですね、権力を持っている、あるいは政治の立場にいる人間」とは安倍晋三自身を指しているはずである。いわばそのような人間がその絶対性を利用して自らの歴史認識を強制すべきではない、「もっと謙虚であるべきだ」と言っている。
大体が自分の頭の程度を弁えもせずに自身を神に擬(なぞら)えること自体、傲岸不遜に当たることに気づかない。
4月26日(2013年)午前の衆院内閣委員会で赤嶺政賢共産党議員の歴史認識に関わる質問に対しても同じ答弁をしている。
安倍晋三「歴史というのは一般論として言うと、確定するのは難しく、長い年月をかけて専門家の手によって新たなファクトが掘り起こされていくこともあるのだから、専門家・歴史家に委ねるべきであって、私が政治家として神の如くに判断することはできない」――
この発言の前に侵略に関わる歴史認識に関しては歴史家に任せるべきだと答弁している。
安倍晋三「村山談話は曖昧な点がある、特に侵略という定義についてはこれは学会でも定まっていない。それは国と国との関係に於いて、どちら側から見るかということに於いて違う」
赤嶺議員「日本の過去の戦争はどちら側から見るかで評価が違うのか。中国や韓国から見ると侵略だが、日本から見ると、違うということなのか」
安倍晋三「いわゆる村山談話は戦後50年を期に出されたものであり、戦後60年にっ亘っては、当時の小泉内閣が談話を出している。我が国はかつて多くの人々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた。その認識に於いては安倍内閣としては歴代内閣共通の立場、同じ立場だ。その上に於いて、然るべきときに21世紀にふさわしい未来志向の談話を発表したいと考えており、そのタイミングと中身については考えて行きたいと先般、そのように答弁した。
いずれにせよ、韓国や中国を始めとする近隣諸国の国々は日本にとっても重要なパートナでもあり、これらの国々との関係教科を引き続き努力していくと共に地域の平和と反映に積極的に貢献をしていく所存だ。
歴史認識の問題については、基本的に私が先般述べたことは政治家がとやかく言うべきではなく、歴史家や専門家に委ねることが適当だろうと考えている。
私は歴史認識に関する問題が外交問題、政治問題化されることは勿論、望んでいない。歴史認識については政治の場に於いて議論することは結果として外交問題、政治問題に発展をしていくわけで、だからこそ歴史家・専門家に任せるべきだろうと判断している」――
侵略の定義は学会でも定まっていない、どちらの国から見るかでも定義が違ってくるということなら、歴史家・専門家に侵略の定義を任せたとしても、定めることはできないことになる。
勿論、侵略の定義だけではなく、他の歴史認識に関しても、歴史家・専門家の思想的立場や国の立場に応じて異なることになり、一つに纏めることは不可能ということになるし、実際にも不可能な状態にある。
このことは、インターネット上で調べて色分けしたのだが、田中正明や渡部昇一、林房雄といった歴史家、思想家が日本の戦争の侵略性を否定しているのに対して遠山茂樹や大江志乃夫、林健太郎等の歴史家が侵略性を肯定していることからも証明できる。
林健太郎に関しては「Wikipedia」に次のような記述がある。
〈保守派の論客であると評価される一方で、以下の様な意見を表明していた。
1930年代以降の日本の行為は、国際聯盟規約やパリ不戦条約、民族自決主義など当時既に確立していた国際法、国際倫理に反し、侵略と呼ぶほかはない。
大東亜戦争は日本の他国支配の維持・拡大のための戦争であり、侵略行為の過程で他国との武力衝突を引き起こしたのであり、これを自衛とは言わない。先に自ら殴っておいて、殴り返されたことを以って「自衛行為」とは言えないのと同様である。
アジア解放を掲げながら、日本は中国・韓国を解放しなかった。〉――
要するに「侵略という定義についてはこれは学会でも定まっていない。それは国と国との関係に於いて、どちら側から見るかということに於いて違う」と前半で言っていることは歴史家・専門家ばかりではなく、一般的にも様々に異なる意見が存在するのだから、正しいことになる。だが、これを論理的に正しいとすると、歴史認識は「歴史家・専門家に任せるべきだ」は前半の正しさに反して矛盾した論理となる。
異なる歴史認識を持つ歴史家・専門家に定義の統一を任せる矛盾である。
安倍晋三は矛盾した論理の国会答弁やその他の発言で自らの歴史認識を曖昧にするゴマ化しを働いてきたのである。「歴史認識は歴史家に任せるべきだ」と言っていることの正当性・合理性はどこにもない。
歴史認識を歴史家や専門家に任せることができない以上、一国の首相は自らの歴史認識によって外国や自国国民に対峙するしかない。
勿論、歴史認識ばかりではない。人権意識に関しても同じことを言うことができる。行動は自らの思想に拠って立つ。
安倍晋三が戦前の日本の侵略性を否定する歴史認識に立っている以上、アジアの国々ばかりか、アメリカに対しても首相の資格を失うことになる。