テレビ番組『ネプ&イモトの世界番付!』で取り上げた日本人のお辞儀の意味を考える

2013-06-16 10:46:06 | 政治

 6月17日(2013年)放送の日本テレビ『ネプ&イモトの世界番付!』で、日本人のマナーの良さを話題として取り上げ、その一つとして挨拶の形であるお辞儀を紹介していた。

 「女好きの料理研究科」として紹介されているイタリア人のベリッシモ。

 ベリッシモ「今イタリアの若者の間にお辞儀パフォーマンスが流行ってるんですね。イタリアには元々お辞儀文化はなくて、バカにしていた人たちもいたんですけども、今回この長友選手のパフォーマンス、このパフォーマンス、コマーシャルにもなってるんでねすね」

 サッカーのユニフォーム姿で両手を脇に当てて丁寧に頭を深く下げてお辞儀をする長友選手と同じく両手を脇に当てて、長友選手程深く下げてはいないが、向き合って頭を下げた同じユニフォームを着た同僚選手の写真と、サッカーをしている少年選手たちが輪になる形でお辞儀をし合い、それから肩を抱き合う動画が紹介される。「携帯電話会社のCM」のキャプション。

 ベリッシモ「若い人たちがフットサルしてゴールしたら、お辞儀したり、そんなものが今流行ってる」

 解説「ロシアでは小学生がお辞儀をするある映像が話題になっている」
 
 イリナ(ロシア人女性)「手を上げて道路を渡り終わった後、車に向かってお辞儀をする」

 黄色い帽子をかぶった5~6人の小学生が明らかに都会とは言えない風景に見える交差点の青信号の横断歩道を渡り終わった後、車道の赤信号で停車している左右の車に向かって全員が思い思いに二度ずつ頭を下げてお辞儀をする動画が流れる。

 イリナ「何て素晴らしいんだと、ロシア人は本当に衝撃を受けている」

 原田泰造「これを見つけたロシア人も凄いね」

 名倉潤「村尾さん、日本人のマナーが凄いというところ、あります?」

 村尾信尚日本テレビニュースキャスター「マナーがいいか悪いかって言うときには基準が違うんですよね。例えば僕達は足を組むことがマナーが悪いと思ってるんですが、それは外国人から見ればね、これはマナーがいいってこととか悪いとかってこととは関係ないと思うんですよ」

 パックン(アメリカ人)「(本人が)日本の大物と対談しているときに同じように普通に足を組んで(と、自分で足を組んで見せる)、まあ、アメリカでは丁寧な姿として話を聞いておりましたら、視聴者からクレームが来たんです。

 こいつは何様のつもりだと。大物に向かって、その態度とはって。

 アメリカではこれは(組んでいる足を手で示して)普通。目上、目下とかそういうのは関係なく、誰とでも、その座り方していい」

 解説「アメリカでは例えオバマ大統領が相手でも、足を組んで話すのがマナー。 これはお互いが平等であることを示すことであるためだとか」

 オバマ大統領が椅子に座って足を組んでいるのに対して外国の賓客なのだろう、相手も足を組んでいる写真を紹介する。

 あくまでも一般論として述べるが、確かにお辞儀が挨拶のマナーであることは言を俟たない。丁寧にお辞儀すればする程、そのマナーは評価され、謙虚さや真面目さ、誠実さなどの自己性格の表現となる。

 いわば自己の性格を如何によく見せるか、一般的にそれがお辞儀に与えている価値づけ行為であるはずだ。

 だが、この謙虚さや真面目さ、誠実さなどの自己の性格を如何に見せるかの価値づけ行為は上下関係にある両者間に於いて下に位置にする者が上に位置する者に対して専ら用いる表現手段であって、その逆ではない。

 このことはお辞儀の順序が常に下に位置する者が先に行うことが決まりとなっていることが何よりも証明する。上の者のお辞儀は下の者が先に行うお辞儀に対して応じる単なる反応であって、そこに親しみを込めることはあっても、自身の謙虚さや真面目さ、誠実さなどの性格を相手に如何に見せるかといった価値づけ行為の類いのものではない。

 下に位置する者にとって上に位置する者の地位が上になればなる程、相手に対する敬意、と言うよりも畏れ多さに応じてお辞儀で表現する評価を受けたいと欲する自己の性格をより強く訴えることになって、お辞儀は丁寧なものとなり、頭の下げ具合も深くなる。

 いわばお辞儀が上下関係にある両者間に於いて下に位置にする者が上に位置する者に対して行う、特に初対面に於いて自己を如何に見せるか、そういった価値づけ行為となっている以上、お辞儀の丁寧さの程度は地位の差を表すことになる。

 逆に下に位置する者が上に位置する者に対して粗略なお辞儀をすると、あいつは満足にお辞儀もできない、不謹慎だ、何様だと批判され、評価を下げることになる。

 当然、下の者はお辞儀一つで評価を下げないように相手の地位に応じて丁寧なお辞儀を心がけるようになる。

 江戸時代等の封建時代、お殿様に対して下の位置にいる家臣は額を畳につけんばかりにひれ伏すようにお辞儀をするが、上の位置の殿様はお辞儀はせず、軽く頷く程度であることがお辞儀が主として上下関係に於ける下の地位の者の表現であることを象徴的に物語っている。

 お辞儀が上下関係に於ける下の者の上の者に対する自己をよく見せる価値づけ行為となっているためにお辞儀がへりくだりの表現と化してしまうことが往々にして起こることになる。

 このようにお辞儀が下に位置する者から始める、上に位置にする者に対する自己性格の価値づけ行為となっているのは日本人が上の者が下の者を従わせ、下の者が上の者に従う権威主義を基本的に思考様式・行動様式としているからなのは言うまでもない。

 イタリアのチームに在籍している長友選手がゴールして観客席に向かって丁寧に頭を下げてお辞儀する得点したときのパフォーマンスは観客と長友選手が上下関係にあるわけではないから、一般的な上下関係に於けるお辞儀行為――下の者が自己の性格をよく見せるための上の者に対する自己性格表現から離れた行為であろう。そしてフットサルの少年達のお辞儀は元々お辞儀文化はイタリアには存在しないということだから、単に長友選手のお辞儀を真似ただけの行為であろう。

 「何て素晴らしいんだ」とロシア人たちに衝撃を与えた交差点での集団下校中らしい日本の小学生たちの車に対するお辞儀は、日本では権威主義の行動性を受けて大人と子どもとの間に暗黙的な社会的上下関係が存在するとしても、車を運転している者たちと直接的には上下関係にはないだろうし、すべての運転者と面識があるとは思えないから、小学生と運転者間の上下関係からのお辞儀と言えないだろう。

 だが、車を運転する者に対して、例え面識がなくても、自己性格の価値づけ行為とはなる。少なくとも日本から遠く離れたロシア人に対して「何て素晴らしいんだ」と自分たちの性格をよく見せ、高い評価を受けることができた。

 但しこのお辞儀が自発的な価値づけ行為なのかどうかである。

 自発的ではなく、教師が言ったことを機械的に忠実に守って行う教師と生徒との権威主義的上下関係が生み出した他発的なお辞儀であるとしたら、このお辞儀は車の運転者のみに見せるのではなく、学校の教師にも自己の性格をよくよく見せるための(=よりよく評価させるための)価値づけ行為ということができる。

 果たしてどちらなのだろうか。

 勿論、車が青信号で停まってくれて歩行者を青信号の横断歩道を無事に渡らせてくれたことに有難うを示す感謝の意味としてのお辞儀ということもある。

 但し感謝自体が自己性格の価値づけ行為となる。

 だが、信号のある交差点で青信号の横断歩道を渡るのは歩行者の当然の権利としてある。横断歩道の青信号に対して車道の赤信号に応じて停止ラインで停車するのは、あるいは車道の青陣号に応じて交差点に入り、右折・左折で青信号の横断歩道の少し手前で停車するのは車を運転する者の当然義務である。

 歩行者は当然の権利として青信号の横断歩道を渡るのであり、対して義務として停車した車の運転者に向かって歩行者が、例えそれが感謝の印であったとしても、どのようなお辞儀をする義務も負っていないはずだ。

 車の運転者にしても、信号のない横断報道ならまだしも、自身の義務としてある車道の赤信号に応じた停車に対して、あるいは青信号で交差点に入って青信号の横断歩道手前の自身の義務としてある停車に対して感謝のお辞儀をされる義務行為とは見ていないはずだ。

 歩行者が自身の権利に対する車の運転者の義務を感謝の対象とした場合、権利と義務の線引き――権利は権利として主張する、義務は義務として守るというきっちりとした線引きを本来の意味から遠ざけて曖昧にする危険性が生じないだろうか。

 子どもたちが大人になって車を運転するようになったとき、車道の赤信号に停車する自分たちの義務、御横断歩道手前で停車する当然の義務に対して青信号で横断歩道を渡る子どもたちの権利を当たり前の権利として認めず、自分たちの義務に感謝を示すことを求めたとしたら、滑稽であるばかりか、やはり権利と義務の線引きを曖昧にすることになるはずだ。

 勿論、横断歩道が青であっても、ときにはそれを無視して車が突っ込んできて人身事故を起こす場合もあるから、注意しなければならないが、赤信号の車道の停止ライン手前で停車している左右それぞれの車の運転手に向かってまで、反対車線の車は横断歩道を渡りきった場所から距離があるにも関わらず感謝のお辞儀をするのは子供ではあっても、自身の権利は権利として主張する、あるいは相手の義務は義務として求める権利・義務のあるべき姿の追求とはならず、当然、権利意識、義務意識を自身の側からも育てることにはならないことになる。

 ましてやそれが学校教師が指示した教えの忠実な再現なら、権威主義の上下関係を受けた他発性から発した自己性格の価値づけ行為となるばかりか、学校教師自体が子どもたちの権利意識・義務意識の育みを阻害する教育を行なっていることになる。

 日本人が権利意識、義務意識が共に弱いと言われるのはやはり人間関係を上下関係で律する権威主義の行動性が影響しているからだろう。

 上下関係にある両者間に於ける主として下に位置にする者から発する、自己の性格を如何によく見せるかの価値づけ行為とする日本人のお辞儀に対してパックンが地位の上下に関係しない、それを無視した平等な態度として足を組む態度を取り上げた。

 人間が地位の上下に関係せずに平等であるという人間関係に於ける対等性自体が権利意識・義務意識を含んでいる。相互の権利を相互に認めることによって、あるいは相互の義務を相互に守ることによって人間関係に於ける平等性は成り立つからだ。

 断っておくが、敬意を表して相手を敬う態度と上下関係で人間関係を現す態度とは異なる。前者は平等性・対等性を維持できるが、後者は明らかに平等性・対等性を放棄して可能となる人間関係である。

 日本人は地位や収入、家柄等に関係せずに人間は対等であるという意識を獲得しなければ、しっかりとした権利意識も義務意識もいつまで経っても獲得できないように思える。

 特に小学生の横断歩道を渡り切った後の停車している車の運転手に向けたお辞儀が教師が指示したお辞儀であるなら、その従属性自体が権利意識・義務意識とは無関係な場所での発揮となり、危険な教育と言う他はない。

 大体が機械仕掛けで動くロボットのように見えて、子供らしさを感じなかった。いや、黙々と固まって歩く集団登下校自体に子供らしさを感じない。

 テレビ番組の『ネプ&イモトの世界番付!』が日本人のマナーの良さの一つとして取り上げたお辞儀について思いつくままに書いてみた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする