安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(1)

2013-06-09 12:38:57 | 政治

 開戦には反対だった昭和天皇が軍部の稚拙でいい加減な戦争遂行能力を戦争中に目の当たりで学習し、天皇に伝えられた戦果、情報にまでゴマカシがあったことを戦後学んだからだろう、当然、戦争を仕掛け、負ける戦争を指揮した政府・軍部の関係者に不快感を持っていたはずで、それまで参拝していた靖国神社にA級戦犯を合祀することになって、「A級戦犯合祀が御意に召さず」とそれ以来参拝を中止した、その日本の戦争に対する昭和天皇の学習能力に反して安倍晋三は「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と擁護したばかりか、侵略戦争ではないと日本の戦争を正当化し、あまつさえ日本の首相は靖国参拝をすべきだとしている、その学習能力のなさを把えて、歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を参考に2007年5月10日からブログ記事――《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1~5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》をエントリーした。

 今回は再び『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』を参考に、上記ブログと重なる個所が多分に生じるが、大日本帝国憲法に権威づけられた天皇像と異なる現実の天皇像を抽出して、安倍晋三が信じて止まない「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」で、「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする天皇像が如何に虚ろな実像に過ぎないか、昭和天皇自身も感じていたに違いない天皇像を明らかにしたいと思う。

 先ず最初に大日本帝国憲法(明治憲法)に規定している天皇の地位・権力を見てみる。読みの都合上、濁点を入れた。

 第1章 天皇

 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ
 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第11條天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第13條天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス(以上)
 
 【統治権】    「国土・国民を治める権利」
 【総攬】     「掌握して治めること」
 【統帥権】    「軍隊を支配下に置き率いる権利」
 【統治権ヲ総攬ス】 「国土・国民を治める権利を掌握し統治すること」

 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の文言には天皇の絶対性に対する高らかな謳いがある。

 大日本帝国憲法は天皇を国家の元首に据え、その権力は国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、「神聖ニシテ侵スベカラズ」存在だと絶対権力者に位置づけていた。

 それらの絶対権力は政府・議会から独立した天皇個人に帰する権能とされ、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされる程に絶対性を確保していた。

 「国体の本義」は次のように謳っている。

 〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。〉――

 【現御神】【明神】(あきつみかみ)「現実に姿を現している神。天皇の尊称」(『大辞林』三省堂)
 【神裔】(しんえい)「神の子孫である天皇のこと」

 天皇は「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」るその伝統性と、「皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源」であるがゆえに、その絶対統治権を与えられているとしている。そしてこの点が外国の君主と異なるところだと。

 国家・国民の生成発展のすべてが大本の祖先と一体の天皇から発しているとする思想は安倍晋三が自著『美しい国へ』で言っている、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」の歴史認識にそっくり合致する。

 では、昭和天皇は大日本帝国憲法が規定している絶対的権力を実像としていたのだろうか。安倍晋三が言うように戦前の日本の歴史の縦糸としての役目を果たしていたのだろうか。

 「国体の本義」が描いているように現人神として日本国家・国民の「生成発展の本源」足り得ていたのだろうか。

 では再び歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を紐解いて、大日本帝国憲法その他が描く天皇の実像と異なる、その実像を虚像とする現実の天皇像が現れている個所を適宜取り上げてみる。漢字の読みと意味は『大辞林』に負う。ブログ用に少し書式を変える。解説は青文字とした。

 『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦1日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。

 小倉庫次侍従日記(昭和14年6月26日)「日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。

 平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す」

 半藤一利解説「『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている」

 『昭和天皇独白録』「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を勧めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」

 半藤一利解説「五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう」
  
 解説「上記解説を見る限り、昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、『何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問い質した』とすると、大日本帝国憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定にも関わらず、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語ることになり、どちらが実像だったのかが問題となる」

 小倉庫次侍従日記(昭和14年6月29日)「ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。(平沼)首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す」――

 【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)

 半藤一利解説「満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。『或限界以上には越えざる事』どころではなかった」
 
 解説「大本営が『或限界以上には越えざる事』とした不拡大方針に反して現地の関東軍が拡大方針であったということは大日本帝国憲法が規定している天皇の統帥権は有名無実化していたことになる。

 いや、それ以前に大日本帝国憲法が
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定している以上、昭和天皇の意向を受けた大本営の不拡大方針でなければならない。

 だが、大本営自体が天皇の統帥権の埒外で行動していたことが後に判明する。いわば大日本帝国憲法の天皇に関わる規定を蔑ろにしていた。

 大日本帝国の軍部を含めた政治権力層が、自分たちで創り出したのだから、実像としなければならない天皇の現人神としての存在性をも蔑ろにしたことになる。

 いわばその程度の扱いを受けていたことが実際の実像であり、大日本帝国憲法の規定も、現人神とする規定も、虚像を実体としていたことになる。

 このような扱いは
「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」る現人神の伝統性そのものの否定に当たり、天皇が歴史的に権力の二重性を伝統としていたことを考え併せると、昭和天皇のみに対する扱いではないことになる。

 天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を
『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。

 誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受けることはできない。

 このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、国民統治装置として機能していたものの、体制側の人間の装置とはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかった」


 小倉庫次侍従日記(昭和14年10月19日(木))「白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり」

 【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在」

 半藤一利解説「側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた」

 『西園寺公と政局』が記した天皇の発言(半藤一利解説による)「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)

 半藤一利解説「その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう」
 
 解説『天皇の態度は強烈』と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。

 本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを
『御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり』とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている」


 小倉庫次侍従日記(昭和15年1月29日(月))

「歌会始 御製
「西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに」

 半藤一利解説「第2次大戦のゆくえを憂う歌である」
  
 解説『世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに』。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。

 明らかに反戦歌である。調べてみたが、題名が
『迎年祈世』(年を迎え、世を祈る)となっている。

 だが、軍部・政府は日本をアジアの支配者の位置に置いた
「栄ゆかむ世をこそ』と祈っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している」 

 小倉庫次侍従日記(S15年2月3日(土))「夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。

 後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる」

 半藤一利解説「斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として『ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・』戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。

 当然、陸軍は『聖戦』を冒涜するといきり立ったのである。『なかなかうまいことをいう』と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
  
 解説「天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、物の見事に両者の立場の違いを証明している。

 斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には平和願望を押し通す力ばかりか、議会の斎藤除名を止める力もない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在・現人神であることをも証明している」

 
 小倉庫次侍従日記(昭和15年9月19日(木))「朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。

 議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(いんきょ「許すこと。許可」)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05

 ・・・・・・・

 会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)

 半藤一利解説「9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、『今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか』と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
 
 この日の御前会議ですべてが決したのである」
 
 解説「半藤氏が解説している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる『立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」(06.7.13.『朝日新聞』朝刊/『侍従長の回想』)とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示となる。

 もし昭和天皇の言っている通りの天皇像が実像だとすると、大日本帝国憲法その他で保障している絶対性は意味を失い、虚像と化す。

 現実にも日記で見てきたとおりに憲法その他で保障している天皇の実像が虚像であることからすると、天皇は憲法その他に反する自身の虚像性を実像と暴露することによって自身の存在性に整合性を与えたことになる。

 
「議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許せられず」は虚像を虚像としたくない精一杯の抵抗と見る他ない」

 小倉庫次侍従日記(昭和15年9月27日(金))「本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる」

 【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」
 【渙発】「詔勅を広く発布すること」

 『木戸日記』に記された9月24日の天皇の言葉(半藤氏解説)よる)「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」

 詔書の一節(半藤氏解説)よる)「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
   
 解説「自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」としていることは天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」「統治」との間に乖離が存在することを示している」

 小倉庫次侍従日記(昭和15年10月12日(土))「聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき」

 半藤一利解説「天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる」
 
 解説「確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない虚像であることを浮かび立たせているばかりか、安倍晋三が言っているのとは違って天皇が日本の歴史の縦糸とはなっていないことを炙り出している」

 小倉庫次侍従日記(昭和S16年1月9日(水))「常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり」

 半藤一利解説「5年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。例えば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある」

 『西園寺公と政局』「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」

 【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」

 半藤一利解説「大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが『中国一挙論』とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の『日本は支那を見くびりたり』はそのことを衝いている」

 解説「大日本帝国憲法や『国体の本義』が謳っている絶対性を担わせた天皇像に反して実質的には世俗権力に従属した天皇の無力だけが浮かび上がってくる。

 安倍晋三が言うように日本の歴史の中心者の姿はどこにもない。

 もし戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、
「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。

 いわば軍は終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで策を失い、力をなくして天皇に縋るしかなく、そのことが天皇が相対的に力を回復したから出せた“英断”といったところなのだろう。

 軍が力を残していたら、出せなかった“英断”というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなければならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の“英断”に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく」


 小倉庫次侍従日記(昭和16年5月8日(木))「〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄」

 半藤一利解説「この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった」

 松岡外相「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」

 半藤一利解説「天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に『外相をとりかえた方がいいのではないか』と洩らしたという」

 解説「松岡という男は戦術・戦略を語って、その勝算如何から日本の進路をどうすべきか天皇に進言すべきを、勝算という秤を用いずに『信義』を最重要価値として日本の運命を鼻息の荒さだけで秤にかける外交にもならないことを言っている。

 この程度の男が当時の日本の外交を担っていた。この点松岡の頭の程度は安倍晋三の頭の程度と双子の関係にあると言えるはずだ。

 また天皇に関して言うと、日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたことを示している」


 小倉庫次侍従日記(昭和16年6月22日(日))「松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)」

 半藤一利解説「独ソ戦
(昭和16年6月22日、ドイツがソ連に侵攻)をうけて松岡拝謁が終わったあと、木戸を呼んでいった言葉が『木戸日記』にある」

 『木戸日記』の記された昭和天皇の発言「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」

 半藤一利解説「松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである」

 解説「昭和天皇が「国力に省み果たして妥当なりや」とここまで客観的・合理的に情勢を把握、戦局拡大を懸念していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった無力な存在をここでも曝している」

 《安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(2)》に続く

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安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(2)

2013-06-09 12:28:01 | Weblog

 小倉庫次侍従日記「昭和16年7月2日(水)漸10・05-12・00御前会議(東1の間。独ソ開戦に伴う重要国策に付、決定ありたるものなり。政府発表)

 半藤一利解説「この7月2日の御前会議こそ、大日本帝国がルビコンを渡ったとき、とのちに明らかとなる。一方でドイツの快進撃に呼応して対ソ戦を準備しつつ、その一方で、対米英戦争を覚悟し南部仏印進駐を期待する。南北の強攻策である。決定された『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』の、『目的達成のため対米英戦を辞せず』の一行がまぶしく映ずる。
    
 解説「いよいよ戦争遂行政策は佳境に入ってきた。「目的達成のため対米英戦を辞せず」。ここには戦後証明されることになる「国力に省み果たして妥当なりや」『木戸日記』に記された天皇の懸念は一切反映されていない。

 このような日本の戦争を安倍晋三は擁護している」


小倉庫次侍従日記「昭和16年7月22日(火)杉山参謀総長(11・08-11・35)。内大臣思召(1・07-1・35)」

 半藤一利解説「この日、杉山総長に細かく問いつめたことが『杉山メモ』に書かれている。結論の〈総長所見〉の部分のみを引用」

 杉山参謀総長所見「本日の御下問によれば徹頭徹尾武力を使用せぬことに満ち満ちて居られるものと拝察せられる。依って、今後機会を捉へて此の御心持を解く様に申し上げ度き考えなり。南か北かそれは如何にやるか逐次決意を要する点等々を段々と御導き申しあげる必要ありと考ふ。本件は一切他言せざる様」

 半藤一利解説「これによっても、天皇が南進(南仏印進駐)にも北進(ソ連攻撃)にも意の進まなかったことがはっきりしている。しかし日本は、この6日後、南仏印への進駐を開始した」
   
 解説「上記『総長所見』が奇しくも天皇の置かれた存在性――その実像=虚像をものの見事に物語っている。「徹頭徹尾武力を使用せぬ」ようにとの天皇の意向を斟酌・検討するのではなく、自分たちの計画を絶対前提として、その計画に天皇の意向を馴染まさせていこうと画策する、天皇を従の立場に置いた天皇との関係性は大日本帝国や『国体の本義』が謳う天皇の存在性を明らかに無効としている。

 いわば天皇はついていく存在となっている。但し
「立憲国の天皇は憲法に制約される」を理由としているからではないのは明らかである。意に満たないことには口出しをしているのであって、それが有効な力を持ち得ない立場に立たされているに過ぎない。大人たちが子供の意見を先入観から取り上げないのを慣習としているのと似た構図を天皇を取り巻く人間たちが天皇に対して慣習としているかのようである」

  小倉庫次侍従日記(昭和16年7月29日(火))「本日、日本軍、仏印に平和進駐す」

 半藤一利解説「前日の28日に陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。『好機を捕捉し対南方問題を解決する』という国策決定にもとづく軍事行動である。アメリカは、ただちに在米日本資産の凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な経済制裁でこれに対応している」

 海軍軍務局長岡敬純少将(半藤氏解説による)「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」

 解説『無血進駐』とは言うものの、『大部隊』(=武力)を背景とした『無血進駐』である。『武力を使用せぬ』ようにとの天皇の『御心持を解く』とした7月22日から1週間経過した7月29日の決行である。この時点では『御心持を解』く努力をしたかどうかはっきりしないが、次に挙げる8月5日の日記の半藤氏解説によって天皇の置かれている状況のすべて分かる」

 小倉庫次侍従日記「昭和16年8月5日(火))木戸内大臣御召(10・25-11・20)。稔彦(なるひこ)御対顔。(11・25-12・20)。

 半藤一利解説「東久邇宮稔彦王との対面のさい、なかなかに際どいことが天皇の口から漏れでている。『東久邇宮日記』にある」

 『東久邇宮日記』に記された昭和天皇の言葉「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」

 解説『仕方なく許可した」は立憲君主の立場上「意に満ちても満たなくても裁可する」とした原則に反する意志決定であろう。

 と同時に
「どうもほんとうのことを自分にいわない」が天皇の存在性――実像がどこにあるかをすべて物語っている。天皇は自分が国策決定の蚊帳の外に置かれていることを自ら暴露したのである。

 大日本帝国憲法は天皇を日本国の中心に据えながら、その中心たる天皇への求心力は国民を補足して有効とはなっていたが、天皇の下にあって国家権力を動かす者たちには何ら中心とはなり得ていなかった。

 戦前の天皇制が憲法が描く政治的な天皇制とその政治性を剥いだ非政治的な天皇制と、二重の天皇制に象(かたど)られていたということだろう。政治的な天皇制は国民向けのもの、国民統治の装置としての役目を担い、非政治的な天皇制は実際に政治を動かしている者たちの政治性を天皇に纏わせることで、天皇の政治とし、それで以て国を動かし、国民を動かしてきた。

 そしてその二重性は律令の時代から日本の天皇制を覆って日本の歴史・伝統・文化としてきた。

 だが、安倍晋三は
「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と見当違いなことを言っている」

 小倉庫次侍従日記「昭和16年9月5日(金))「近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり」

 半藤一利解説「改めて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる」

 天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 

 杉山「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」

 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4カ年の長きに亘ってもまだ片づかんではないか」

 杉山「支那は奥地が広いものですから」

 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3カ月と申すのか」

 半藤一利解説「杉山総長はただ頭を垂れたままであったという」

 解説「ここまで追及できても、国策に反映することができない「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とする、あるいは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とする憲法の姿とは逆説状況の底に天皇は沈んでいる。

 天皇を神格化し、その神性によって国民を統一・統制すべく利用し、国民に天皇を無条件に信じ、無条件に従う対象とさせ、尚且つ政治を動かしている者たちの政治性を天皇に纏わせることで、天皇の政治とさせるについては都合上、御伺いは立てたり、意見を述べさせたりはするが、政治的役目はそこまでを限度ととしている国策への非反映といったところではないだろうか」


 小倉庫次侍従日記(S16年10月17日(金))「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下(4・45-4・47、侍従長侍立)。及川海相御召(4・56-4・57)内大臣(5・04-5・33)」

 半藤一利解説「東条大将に大命降下。『東久邇日記』にある」

 『東久邇日記』(半藤氏解説による)「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首相に推薦し、天皇がなぜ御採用になったのか、その理由がわからない」

 半藤一利解説「木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだね』と感想をもらした」
   
 解説「逆に『陸軍の開戦論者』を勢いづかせる危険をも孕む諸刃の剣となりかねないことは考えなかったのだろうか。策士、策に溺れたのではないのか。

 それにしても
「東条陸軍大臣御召。組閣大命降下」(4・45-4・47)とたった2分で済ませている。東条の決意、あるいは時局の見通しを聞くこともなく、形式的な「組閣大命降下」で終わったのだろう。「及川海相御召」にしても(4・56-4・57)のたったの1分」

 小倉庫次侍従日記(昭和16年11月5日(水))第7回御前会議(東一の間臨御、10・35-0・30、休憩、再開1・30-3・10)」

 半藤一利解説「この日の御前会議で、11月末までに日米交渉妥結せずとなった場合、大日本帝国は『自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意』という『帝国国策遂行要領』を決定する。武力発動の時期は12月初頭と決められた。

 7月、9月そして11月と、3回の御前会議を経て、〝辞せず〟が〝準備〟になり、そして遂に〝決意〟まで、日本は駆け上がってきた。いや、転げ落ちたてきたというべきか。ぬきさしならぬ道を、ただひとすじに、である」

 小倉庫次侍従日記「S16/12月1日(月)本日の御前会議は閣僚全部召され、陸海統帥部も合わせ開催せらる。対外関係重大案件、可決せらる」 
 
 半藤一利解説「開戦決定の御前会議の日である。

 『杉山メモ』に記されている天皇の言葉は、「此の様になることは已むを得ぬことだ。どうか陸海軍はよく協調してやれ」

 杉山総長の感想は「童顔いと麗しく拝し奉れり」である。

 解説「忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策』が無効となった」

 小倉庫次侍従日記(昭和16年12月8日(月))「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む。前12・00(正午)防空下令、夕刻警戒官制施かる」 

 小倉庫次侍従日記(昭和16年12月25日)「香港、本夕降伏を申出で、7・30停戦を命ぜらる。陸軍9・40上聞す。

 常侍官出御の際、平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど、仰せありたり」

 半藤一利解説「驚きの発言である。

 天皇は南洋の島々を平和回復後に『日本の領土となる』といっている。此時点では勝利を確信していたのか。
    
 解説「まだアメリカと本格的な戦闘状態に入っていない、石油禁輸・屑鉄禁輸・在米資産凍結、何よりも軍事力の格差がどう響くか分からない状況下で、緒戦の「大戦果を収む」だけでその気になったのか」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年1月9日(金))「本日午后4・00、首相拝謁の願出あれば、その機会に申上げをし然るべき旨伝ふ。首相拝謁の際、申上げたるものと察す」

 半藤一利解説「この日の東条拝謁時の、天皇の面白い発言が『東条内閣総理大臣機密記録』に残されている」

 『東条内閣総理大臣機密記録』に記された昭和天皇の言葉「米英等に於て作曲されたる名曲〈例えば蛍の光の如し〉をも、今後葬り去らんとするが如き新聞記事ありし処、如何処理しつつありや」

 東条英機(慌てて)「そんな小乗的なことはしません」
    
 半藤一利解説「1年後には『そんな小乗的なこと』をした」

 解説「東条英機は1年後に天皇の意向を無効とした。昭和天皇のこの無力は大日本帝国憲法も『国体の本義』も実像としていない。大日本帝国憲法や『国体の本義』などの外の世界で虚像とすることになる。

 現在アクセスできない状態になっているが、インタネット上に次のような記述がある。

 〈1943(昭和18)年1月13日には、内務省と情報局が『ダイアナ』や『私の青空』『オールド・ブラックジョー』『ブルー・ハワイ』など米英音楽1,000曲を敵性音楽としてリストアップし、演奏を禁止した。中でもジャズは「卑俗低調で、退廃的、扇情的、喧騒的」として徹底的に排斥された。代わって巷には、『加藤隼戦闘機』(空中戦の軍神といわれた加藤建夫少将を称えた歌)、『お使いは自転車に乗って』の流行歌が流れた。〉」


 小倉庫次侍従日記「昭和17年2月15日(日))「午后7・50、シンガポールにて敵軍無条件降伏す。5・50の参謀総長は同上の件上奏。ラヂオは10・10分、大本営発表を放送す」

 半藤一利解説「紀元節までに攻略する。それが作戦発動当初の予定であった。やや遅れてこの日に英軍降伏となったが、実は日本軍の弾薬は底をつきかけていた。ゆえに軍司令官山下奉文中将は戦闘継続を恐れていた。巷間伝わる敵将パーシバルに『イエスか、ノーか』と居丈高に迫ったという話は故意に、つまり戦意高揚のために作られたもの。山下自身はのちのちまでその話は嫌悪していたのである」

 解説「日本の戦争の実体がここに現れている。南太平洋に於いて戦果を次々とあげていた日本軍の戦勝は次第に暗転していく」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年4月18日(土))「帝都各所に初めて爆弾、焼夷爆投下せらる」

 半藤一利解説「後の侍従長、藤田尚徳の『侍従長の回想』に、この日のドゥリットル・B25爆撃機16機による、日本本土空襲に際しての宮中の狼狽ぶりが実写されている」

 『侍従長の回想』

 侍従「陛下、空襲です。お退りください」

 天皇「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣〔嶋田繁太郎〕がやってきて、空襲に来ても夕方だろうといっていた」

 侍従「いや、いま東京を空襲しているのでございます。おやはく・・・」
 
 半藤一利解説「侍従が誰かは不明。小倉侍従ではないようであるが」

 解説

『小倉庫次侍従日記』「昭和16年12月8日」「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む」から4カ月余経過したのみで初めての空からの侵入を安々と許して空爆させる。しかも目視可能な昼間に正々堂々の爆撃を受ける。長期戦化し、防御体制が次第に崩されてからの侵入を許すというなら話はわかるが、初めての飛来であるにも関わらず簡単に侵入を許す見事な防空体制。天皇の「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」が早くも怪しくなってきた、

 そして1カ月もかからないうちの昭和17年5月7日のコレヒドール島陥落。この陥落から1カ月後の昭和17年6月7日のミッドウェイ海戦敗北。半藤氏は小倉日記にはこの記載はないと解説している」


 半藤一利解説「この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた機動部隊の主力である空母4隻を喪失した。小倉日記にはその記載はなく、不機嫌な天皇の姿のみ見える」

 『木戸日記』6月8日天皇発言「今回の損害は誠に残念であるが。軍令部総長には之により指揮の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置いた」

 半藤一利解説「私が調べたところでは、軍令部は損害は空母2隻と天皇に嘘の報告をしていることが分かった。軍は国民を欺すと共に、大元帥陛下をも欺していたのである」
    
 解説「開戦から半年で戦果を捏造しなければならない。この捏造は軍部が必勝を確約して戦争に突入していったことの裏返しとしてあるゴマ化しであるはずである。あるいは杉山陸軍参謀総長の「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」が大言壮語であったことの裏返しとしある情報操作であったはずだ。

 だとしても、日本の国家・国民・国土を統治する、且つ軍隊を統帥し、
「神聖ニシテ侵スベカラズ」の絶対性を備えた現人神が捏造し、操作した情報を受け取るとは見事な逆説としか言い様がない。

 何度でも言うが、そのような天皇を安倍晋三は
「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」としている、その滑稽さも見事である」

 小倉庫次侍従日記「昭和17年6月9日(火))「御製御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり」
 
 半藤一利解説「ミッドウェイ海戦の戦果は初め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である」

 解説「最早何も言うことはない。これ以降も軍部に不利となる捏造情報が天皇にもたらされる。天皇は国民共に騙される存在となった。大日本帝国憲法や『国体の本義』に書いてある天皇像が実像ではなく虚像であることを露見させることとなった。天皇は薄々感じ、戦後、はっきりと知ることになったはずだ。

 昭和天皇が京都で語った戦争観を取り上げている昭和17年12月11日付の日記で終えることにする』


 小倉庫次侍従日記(昭和17年12月11日(金))「伊勢神宮御参拝の為め、京都へ行幸。本日は御参拝前なるを以て、拝謁その他、御行事は一切願わず。陸軍上聞(7・00尾形)常侍官候所出御(7・10-8・57)明朝朝御発に付、御格子を御早く願いたり。

 本夜、常侍官出御の節、左の如き思召、御洩らしありたり」

 天皇「(一)戦争は一旦始めれば、中々中途で押へえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦を始めるときは、余程慎重に考へなければならぬ。大山〔巌〕元帥は日露の役の際、自分の軍配の上げ方を見て呉れと言つたそうだが、卓見だと思う。今は大山が居ない。戦争はどこで止めるかが大事なことだ。

 (二)自分は支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである。且つ、自分が得て居る情報では、始めれば支那は容易なことではいかぬ。満州事変の時のようには行かぬ。外務省の情報でも、海軍の意見でもそうであった。然し参謀本部や陸軍大臣杉山〔元〕の意見は、支那は鎧袖一触ですぐ参ると云ふことであった。これは見込み違いであった。陸軍が一致して強硬意見であったので、もう何も云ふことはなかった。

 (三)閑院さん〔閑院宮載仁(ことひと)〕の参謀総長で今井〔清〕が次長であり、石原莞爾が作戦部長であつたが、石原はソヴィエト怖るるにたらずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変わった。

 (四)大東亜戦争の始まる前は心配であった。近衛のときには、何も準備出来ていないのに戦争に持って行きそうで心配した。東条になってから、十分準備が出来た。然し、12月8前に輸送船団が敵に発見されたと云ふことで、駄目かと思ったが良かった。

 (五)支那事変で、上海で引っかかった時は心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来ているのも、陸軍は知らなかった。引っかかったので、自分は兵力を増強することを云った。戦争はやる迄は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於て、戦は中々やめられぬことを知った。(この点は度々繰り返し仰せらる。誠に国家将来の為、有難き御確信を得られたものと奉答す。)

 (六)自分の花は欧州訪問の時(20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊)だったと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり、花であった。(と御述懐あり。今後に花のあるのものと考ふる旨、申上ぐ。)

 小倉庫次侍従日記「本夕かかる仰せありたるは、誠に御異例のことなり。確り他言すべからざることを、尾形武官、戸田侍従二人と誓ふ」

 【鎧袖一触】「(鎧の袖を一振りする程度で)簡単に敵を打ち負かすこと「

 半藤一利解説「戦勢が傾き出した時の天皇の心のうちがまことによく出ている。この京都の夜の天皇と侍従たちのとの語らいについて、侍従武官『尾形健一大佐日記』にわずかにある。

 『尾形健一大佐日記』「本夜は珍しく過去の歴史、満州事変後の政務、戦争等に関する御感想を御洩らしあり。戦争を始むるは易く終るは困難なり。御言葉の中に陸軍の戦争指導、戦争準備に関し重要相当機密の御感想を御漏らしあり」

 半藤一利解説「軍人だけあって、『此に詳細は記し得ず』と尾形大佐は筆を擱いた。今回その全容が初めて明らかになったわけである。それにしても、20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊が「自分の花であった」と振り返る姿は痛々しい。
    
 解説「天皇は(四)「東条になってから、十分(戦争の)準備が出来た」と言っているが、それがいくら万端遺漏ない準備であっても、軍事力や国力、工業力の格差を計算しない準備なら、その万端さ・遺漏のなさは簡単に相対化を受け、万端でも遺漏ないものでもなくなる。

 こういったことを抜きにした戦争観なのだから、蚊帳の外での繰言に過ぎない。統帥権者としての自覚がなかったということよりも、現実にも統帥権者でなかったことは痛い程に自覚していたはずで、そのような扱いは受けていないし、儀式や行事の場面ではあったろうが、現実政治の場面では自身も演じたことはない統帥権者であったのだから、蚊帳の外に置かれた存在として繰り言を言う他に方法はなっかったということであるはずだ」


 前記当ブログの最後に次のように書いた。(一部書き直し。)

 〈文藝春秋掲載の『小倉庫次侍従日記』は上記8月14日で終っている。半藤利一氏の解説も合わせた全体を通して窺うことができる事柄は大日本帝国憲法に位置づけられた確固とした天皇の権力・地位に反した軍部・政府に従属した天皇の姿である。その姿は一般国民と同様に情報操作の対象とされるまでに軽い扱いを受けていた。情報操作・情報捏造に於いても天皇を蚊帳の外に置き、軍部・政府が天皇を国民共々騙していた。

 天皇がその当時は気づかなかったとしても、大本営発表の戦果や国の重要政策を含めて天皇自身に上奏された情報の数々が上奏者に都合よく捏造・操作したものだったことを戦後も情報の届かない孤島に閉じ込められていたわけではなく、戦後に学ばなかったはずはない。自身の愚かさも学習したことだろう。「立憲国の天皇は憲法に制約される」として開戦責任を回避したのは敗戦の翌年のことで、まだ満足に学習しなかった可能性も考えられる。
 
 それから20年30年と年数の経過と共に多くを学んだはずである。あの戦争は何だったのか。どのような国策のもとに遂行されるに至ったのか。そこで自分は何をなしたか、なさなかったか。自分は何者だったのか、どのような存在だったのか。

 言葉を替えて言うなら、何が“真”で、何が“虚”であったかということだろう。そして殆どが虚に満ちていたことを学んだに違いない。天皇自身も“虚”の場所に置かれ、“虚”の存在とされていたが、A級戦犯となった者、その他が聖戦だとか東亜新秩序だとか、アジア解放だとか八紘一宇だとかの“虚”を演出した。戦争遂行政策そのものが“虚”で成り立っていた。

 国を無惨に破壊し、国民に多大な犠牲を強いたそのような“虚”の主たる演出者を靖国神社に合祀する。天皇の名で犠牲になった国民と天皇の名で国民に犠牲を強要した側のA級戦犯が区別なく、そう区別なく合祀された。それは新たな“虚”ではないか。

 「A級戦犯合祀が御意に召さず」は人間として天皇として多くの〝虚〟を学び、学ばされた結果の自然な感情の行く末でなければならない。

 もし「A級戦犯合祀が御意に召」して合祀された後の靖国神社をも参拝したとしたら、大日本帝国憲法が規定する天皇の地位と権力の“虚”、戦争中の天皇のありようの“虚”、天皇制の実体・日本の戦争の実態、その“虚”を何も学習しなかったことになる。

 昭和天皇が「A級戦犯合祀が御意に召さ」なかったということなら、A級戦犯合祀前の天皇の靖国差参拝は、国のため・天皇のためという〝虚〟の犠牲となった一般兵士を追悼する参拝ということになる。

 片やわが日本の美しい国家主義者・安倍晋三総理大は臣今以て戦後A旧戦犯容疑を受けて巣鴨プリズンに拘留され釈放された侵略戦争加担者である岸信介おじいちゃんの膝に美しい孫として抱かれ、自己正当化のために日本の戦争は自存自衛の戦争だった、アジア解放の戦争だったとする美しい日本ばかりを聞かされて御坊ちゃん育ちしたのか、“真”と“虚”を学ぶ合理的な客観的認識性を身につけるに至らなかったのだろう、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と彼らを“真”とする擁護を行い、それと同じ解釈で「侵略戦争の定義は定かでない。政府が歴史の裁判官になって単純に白黒つけるのは適切でない」と戦前の日本の戦争そのものを“真”とする一方向のみの欲求に立った擁護を行っている。

 「国のリーダーたるもの、国のために戦った人に追悼の念を捧げるのは当然。次の総理もその次の総理も靖国に参拝してほしい」とする、天皇の「A級戦犯合祀、御意に召さず」とは真っ向から反する戦争正当化からの靖国思想信奉者にふさわしい靖国参拝首相義務化衝動にしても、戦前の日本の戦争を“真”としたいのと同じ文脈にある欲求としてある。

 安倍晋三の「A級戦犯合祀が御意に召」した靖国参拝は「国のために戦った人」と戦死者全体を指しているものの、追悼の主たる対象は戦争遂行者の側に立ったA級戦犯、その他の戦争指導者ということになる。戦争肯定は一般兵士の肯定であるよりも、より優先的に戦争指導者の肯定へと向かうからである。

 何も学ぶことができなかった愚か者たち。

 まさに安倍晋三が言う「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする天皇像は虚像そのものでしかない。 

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