開戦には反対だった昭和天皇が軍部の稚拙でいい加減な戦争遂行能力を戦争中に目の当たりで学習し、天皇に伝えられた戦果、情報にまでゴマカシがあったことを戦後学んだからだろう、当然、戦争を仕掛け、負ける戦争を指揮した政府・軍部の関係者に不快感を持っていたはずで、それまで参拝していた靖国神社にA級戦犯を合祀することになって、「A級戦犯合祀が御意に召さず」とそれ以来参拝を中止した、その日本の戦争に対する昭和天皇の学習能力に反して安倍晋三は「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」と擁護したばかりか、侵略戦争ではないと日本の戦争を正当化し、あまつさえ日本の首相は靖国参拝をすべきだとしている、その学習能力のなさを把えて、歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を参考に2007年5月10日からブログ記事――《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1~5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》をエントリーした。
今回は再び『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』を参考に、上記ブログと重なる個所が多分に生じるが、大日本帝国憲法に権威づけられた天皇像と異なる現実の天皇像を抽出して、安倍晋三が信じて止まない「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」で、「日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする天皇像が如何に虚ろな実像に過ぎないか、昭和天皇自身も感じていたに違いない天皇像を明らかにしたいと思う。
先ず最初に大日本帝国憲法(明治憲法)に規定している天皇の地位・権力を見てみる。読みの都合上、濁点を入れた。
第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第11條天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第13條天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス(以上)
【統治権】 「国土・国民を治める権利」
【総攬】 「掌握して治めること」
【統帥権】 「軍隊を支配下に置き率いる権利」
【統治権ヲ総攬ス】 「国土・国民を治める権利を掌握し統治すること」
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の文言には天皇の絶対性に対する高らかな謳いがある。
大日本帝国憲法は天皇を国家の元首に据え、その権力は国民・国土を統治し、且つ軍隊を統帥し、「神聖ニシテ侵スベカラズ」存在だと絶対権力者に位置づけていた。
それらの絶対権力は政府・議会から独立した天皇個人に帰する権能とされ、天皇を批判すれば不敬罪に問われる神聖にして侵すべからざる現人神とされる程に絶対性を確保していた。
「国体の本義」は次のように謳っている。
〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。〉――
【現御神】【明神】(あきつみかみ)「現実に姿を現している神。天皇の尊称」(『大辞林』三省堂)
【神裔】(しんえい)「神の子孫である天皇のこと」
天皇は「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」るその伝統性と、「皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源」であるがゆえに、その絶対統治権を与えられているとしている。そしてこの点が外国の君主と異なるところだと。
国家・国民の生成発展のすべてが大本の祖先と一体の天皇から発しているとする思想は安倍晋三が自著『美しい国へ』で言っている、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」の歴史認識にそっくり合致する。
では、昭和天皇は大日本帝国憲法が規定している絶対的権力を実像としていたのだろうか。安倍晋三が言うように戦前の日本の歴史の縦糸としての役目を果たしていたのだろうか。
「国体の本義」が描いているように現人神として日本国家・国民の「生成発展の本源」足り得ていたのだろうか。
では再び歴史学者半藤一利氏解説の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)を紐解いて、大日本帝国憲法その他が描く天皇の実像と異なる、その実像を虚像とする現実の天皇像が現れている個所を適宜取り上げてみる。漢字の読みと意味は『大辞林』に負う。ブログ用に少し書式を変える。解説は青文字とした。
『日記』は昭和14年5月3日から始まり、敗戦1日前の昭和20年8月14日で終っている。開始の5月3日から4日後の5月7日の日記の半藤氏の〈注〉には「天皇このとき38歳。皇太子5歳」とある。
小倉庫次侍従日記(昭和14年6月26日)「日独伊軍事同盟は、伊は日本の回答にて満足せしも、独が承諾せざるらし。この問題も落着までは経過あるべし。
平沼首相、后2・00より約1時間拝謁上奏す。暫く拝謁なかりしを以て、内大臣あたりより思召を伝え、参内せるやに内聞す」
半藤一利解説「『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている」
『昭和天皇独白録』「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を勧めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」
半藤一利解説「五相会議で決定した日本の回答が独伊に送られた。その骨子は、独伊がソ連との戦争を起こした場合には、日本は参戦する。しかし、ソ連を含まない戦争が起こった場合には、参戦するかどうかはもちろん、武力援助を独伊にするかもふくめ言えないと、肝要の点をぼやかした苦心のものであった。ドイツは承知しなかった。天皇の耳には正確に達していなかったと見える。何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問いただしたのであろう」
解説「上記解説を見る限り、昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対であった。天皇の反対姿勢に関わらず、条約締結に向けた外交交渉が着々と進んでいる。それとも秩父宮は天皇の翻意に成功したのだろうか。だが、『何も報告してこない平沼首相を呼びつけて、問い質した』とすると、大日本帝国憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」との規定にも関わらず、蚊帳の外に置かれた天皇の状況を物語ることになり、どちらが実像だったのかが問題となる」
小倉庫次侍従日記(昭和14年6月29日)「ノモハン事件は或限界以上には越えざる事と決定したる模様にて、大きく展開することはなかるべし。(平沼)首相の拝謁上奏も御満足に思召されたる御様子に拝す」――
【ノモハン事件】「1939(昭和14)5月に起こった満州国とモンゴル人民共和国の国境地点における、日本軍とモンゴル・ソ連両軍との大規模な衝突事件。満・モ両国との国境争いの絶えなかったハルハ川と支流ホルスデン川の合流地点ノモハンで、5月11・12日ハルハ川をこえたモンゴル軍と満州国軍が衝突した。関東軍は事件直前の4月25日、国境紛争には断固とした方針で臨むとの満ソ国境紛争処理要綱を下命。現地に派遣された第23師団はモンゴル軍を駆逐してモンゴル軍の空軍基地の爆撃を行ったが、ソ連軍の優勢な機械化部隊の前に敗退し、8月20日のソ連軍反攻により敗北。独ソ不可侵条約による国際情勢の急転を受けて、9月15日、モロトフ外相と東郷茂徳(しげのり)駐ソ大使の間で停戦協定が成立した。(『日本史広辞典』山川出版社)
半藤一利解説「満蒙の国境線の侵犯をめぐって5月に生起した小さな紛争事件は、関東軍と極東ソ連軍が大兵力を出動させ、容易ならざる事態となりつつあった。6月下旬のこの時点では、東京の大本営は不拡大の方針だったが、関東軍はモンゴル領内にまで侵犯する攻勢作戦を樹てていた。『或限界以上には越えざる事』どころではなかった」
解説「大本営が『或限界以上には越えざる事』とした不拡大方針に反して現地の関東軍が拡大方針であったということは大日本帝国憲法が規定している天皇の統帥権は有名無実化していたことになる。
いや、それ以前に大日本帝国憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治」し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定している以上、昭和天皇の意向を受けた大本営の不拡大方針でなければならない。
だが、大本営自体が天皇の統帥権の埒外で行動していたことが後に判明する。いわば大日本帝国憲法の天皇に関わる規定を蔑ろにしていた。
大日本帝国の軍部を含めた政治権力層が、自分たちで創り出したのだから、実像としなければならない天皇の現人神としての存在性をも蔑ろにしたことになる。
いわばその程度の扱いを受けていたことが実際の実像であり、大日本帝国憲法の規定も、現人神とする規定も、虚像を実体としていたことになる。
このような扱いは「皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れ」る現人神の伝統性そのものの否定に当たり、天皇が歴史的に権力の二重性を伝統としていたことを考え併せると、昭和天皇のみに対する扱いではないことになる。
天皇は日本国統治者であり、国家元首であり、陸海軍の統帥者であり、神聖にして侵すべからざる存在である。当然、天皇の意志は絶対であり、その怒りは誰もが従わなければならない畏れ多いものであろう。旧憲法の保障されたそのような絶対的姿を示し得ない天皇の姿を『小倉庫次侍従日記』は図らずも暴露している。
誰もが従う姿とは、譬えて云えば「天皇のため・お国のために命を捧ぐ」と頭から信じて戦場に赴き、戦い、散った兵士の姿であり、あるいは敗戦を伝える天皇の玉音放送を、それが録音したものであっても、皇居広場やその他の場所で涙し頭を深く垂れて土下座して聞くか、あるいは直立不動の姿勢で涙しながら歯を食いしばって聞き、天皇の意思に従う形で敗戦を受け入れた国民の姿を言うのであって、そのような従順積極的な従属性は天皇を取り巻く国家機関員に於いては見受けることはできない。
このことを言い換えるなら、このような天皇に対する従順積極的な従属性は一般国民だけのものとなっていて、国民統治装置として機能していたものの、体制側の人間の装置とはなっていなかったということではないか。いわば憲法が見せている天皇の絶大な権限は国民のみにその有効性を発揮し、軍部を含めた政治権力層には見せているとおりの姿とはなっていなかった」
小倉庫次侍従日記(昭和14年10月19日(木))「白鳥〔敏夫〕公使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際、却って差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍(よ)つて、御広き御気持ちにて、御進講御聴取遊ばさるるようお願いすることとせり」
【駐箚】「ちゅうさつ・役人が他国に派遣されて滞在すること。駐在」
半藤一利解説「側近が、どうか広い気持ちで白鳥大使に会ってくださいと天皇に頼まざるを得なかったのはなぜか。三国同盟問題で、とくに自動的参戦問題について内閣が揉めているとき、ベルリンの大島大使ともども、駐イタリア大使白鳥敏夫は、何をぐずぐずしているのか、早く同盟を結べ、といわんばかりの意見具申の電報を外務省に打ち続けていた。これに天皇は怒りを覚えていた」
『西園寺公と政局』が記した天皇の発言(半藤一利解説による)「元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない」(『西園寺公と政局』)
半藤一利解説「その白鳥の話など聞きたくないとする天皇の態度は強烈というほかないであろう」
解説「『天皇の態度は強烈』と把える以前に、それぞれが天皇の意思を無視して好き勝手な態度を取っていることを問題としなければならない。裏返すと、「天皇の大権」が「大権」となっていなくて形式に過ぎないから、周囲は天皇の意に反することができる。この構図を前提とすると、「白鳥の話など聞きたくない」は「強烈」とするよりも、駄々をこねているということになりかねない。
本来なら統治者として厳重注意、召還命令、更迭命令、いずれかの指示を出して済ますべきを『御進講、御気分御進み遊ばされざる模様なり』とか、「甚だ面白くない」という態度となっていること自体が駄々と取られられかねない証明となっている」
小倉庫次侍従日記(昭和15年1月29日(月))
「歌会始 御製
「西ひかしむつみかわして栄ゆかむ世をこそいのれとしのはしめに」
半藤一利解説「第2次大戦のゆくえを憂う歌である」
解説「『世界中が睦み交わして栄えていく世となることを祈りたい、年の初めに』。そのような世になって欲しい。天皇の本心はそこにあった。
明らかに反戦歌である。調べてみたが、題名が『迎年祈世』(年を迎え、世を祈る)となっている。
だが、軍部・政府は日本をアジアの支配者の位置に置いた「栄ゆかむ世をこそ』と祈っていた。その違いがあったのだろう。両者の世界に向けた希望の違いを次の日付の日記が象徴的に証明している」
小倉庫次侍従日記(S15年2月3日(土))「夜、稲田〔周一〕内閣総務課長より、斎藤隆夫議員の質問演説の内容、及、之が措置に関し、政府は断固たる決意を以て望む決心を為し、事態、相当緊迫せる旨告げ来る。而して首相、または他の閣僚が左様の場合は参内上奏すべきなるも、時間の関係にて夫(そ)れを許さざるときは如何にすべきや相談あり。左様の場合は、書類により奏上なり、又は侍従長に予め出仕してもらひ侍従長より伝奏するなり。内閣の都合よき方途を講ずべき旨答ふ。
後、斎藤議員懲罰に附することに決定、事態は急転直下解決せる旨、通じ来る。内閣としては事変処理に付き、国論がわれていると言ふ事にては時局を担当し行けざる筋合なるを以て、断固たる決心を為したるものと認めらる」
半藤一利解説「斎藤議員の質問演説は今は憲政史上に輝く反戦演説として有名である。2月2日衆議院本会議で民政党の代表質問として『ただいたずらに聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べて・・・』戦争をつづけるとは何事か、と斎藤は思い切ったことを言った。
当然、陸軍は『聖戦』を冒涜するといきり立ったのである。『なかなかうまいことをいう』と米内首相も畑陸相も感服したというが、それは控室での話。結局、3月7日、斎藤議員の除名でケリがついた。
解説「天皇の反戦意志に反する陸軍の「聖戦」の振りかざしは見事な逆説関係にあって、物の見事に両者の立場の違いを証明している。
斎藤議員の演説は実質的には天皇の平和願望に添う。が、天皇には平和願望を押し通す力ばかりか、議会の斎藤除名を止める力もない。名目だけの統帥権・国家元首・国家統治者・神聖な存在・現人神であることをも証明している」
小倉庫次侍従日記(昭和15年9月19日(木))「朝内閣より、本日午后3時より御前会議を奏請すべき旨、内報あり。次いで本件に付ては既に去る16日、首相拝謁の際、大体申し上げあるを以て、侍従長より伝送願い度き旨、申出あり。侍従長11・30伝奏す。
議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許(いんきょ「許すこと。許可」)せられず。侍従長、御前を退下、内大臣と協議す。内大臣は首相と電話にて話し、松岡外相が御前会議前、拝謁を願い出ることとなり、后1・18御裁可ありたり。外相后1・50-2・40拝謁。后2・50-3・05内大臣、后3・07-6・05
・・・・・・・
会議後、議案は直ちに上奏、御裁可を得たり。(后6・10)
半藤一利解説「9月7日ヒトラーの特使スターマーの来日、1週間後の14日には大本営政府連絡会議、16日の臨時閣議で決定と、三国同盟の締結が承認されるまで、あれよあれよという早さである。16日の近衛首相上奏のとき、参戦義務によって国際紛争にまきこまれるのを憂慮した天皇は、『今しばらく独ソの関係を見極め上で締結しても、晩くはないではないか』と最後の反対意見を言ったが、それまでとなった。
この日の御前会議ですべてが決したのである」
解説「半藤氏が解説している、天皇が「最後の反対意見」を言ったこと自体が、昭和天皇が敗戦翌年の1946年2月に侍従長藤田尚徳に語ったとされる『立憲国の天皇は憲法に制約される。憲法上の責任者(内閣)が、ある方策を立てて裁可を求めてきた場合、意に満ちても満たなくても裁可する以外にない。自分の考えで却下すれば、憲法を破壊することになる」(06.7.13.『朝日新聞』朝刊/『侍従長の回想』)とする自己に課せられた役目に逆らう意思表示となる。
もし昭和天皇の言っている通りの天皇像が実像だとすると、大日本帝国憲法その他で保障している絶対性は意味を失い、虚像と化す。
現実にも日記で見てきたとおりに憲法その他で保障している天皇の実像が虚像であることからすると、天皇は憲法その他に反する自身の虚像性を実像と暴露することによって自身の存在性に整合性を与えたことになる。
「議案の内容に付、御疑点あり、直ちに允許せられず」は虚像を虚像としたくない精一杯の抵抗と見る他ない」
小倉庫次侍従日記(昭和15年9月27日(金))「本夜8・15、ベルリンに於いて、日独伊三国条約締結調印を了せり。直に発表、同時大詔渙発せらる」
【大詔】「天皇の詔勅。みことのり」
【渙発】「詔勅を広く発布すること」
『木戸日記』に記された9月24日の天皇の言葉(半藤氏解説)よる)「日英同盟のときは宮中では何も取行われなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう」
詔書の一節(半藤氏解説)よる)「帝国の意図を同じくする独伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」
解説「自身が現人神でありながら、「神様の御加護を祈」る無力の存在と化している。それは憲法の保障に反する天皇自身の無力と重なる。「帝国の意図を同じくする」としていることは天皇の「意図を同じくする」ものではないが、「朕の深くよろこぶ所なり」とする構図は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の規定に於いて、「大日本帝国」と「統治」との間に乖離が存在することを示している」
小倉庫次侍従日記(昭和15年10月12日(土))「聖上、長時間当直の常侍官へ出御あり。本年の米作状況、食糧問題、特に米のみに依存するは如何との仰せあり。又、支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり。それが今日、各方面に響いて来て居るなど仰せあり。武官〔侍従武官〕は陪席せざりし折なりき」
半藤一利解説「天皇は泥沼化した和平の見通しのつかね支那事変を悔い、陸軍の戦局の見通しの悪さに強く不満を持っていたことがわかる」
解説「確かにそのとおりだろうが、「事変の見透しは皆が誤れり」は「当直の常侍官」にではなく、軍首脳や政府首脳に直接伝えるべき政策事項であろう。それができない天皇の立場のもどかしさ・弱さを逆に窺うことができる。そのもどかしさ・弱さは同時に憲法が謳っている天皇の権限が現実には保障されていない虚像であることを浮かび立たせているばかりか、安倍晋三が言っているのとは違って天皇が日本の歴史の縦糸とはなっていないことを炙り出している」
小倉庫次侍従日記(昭和S16年1月9日(水))「常侍官向候所〔侍従詰所〕に出御。種々、米、石油、肥料などの御話あり。結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき旨、仰せありたり」
半藤一利解説「5年10月12日にも同様の発言があったが、天皇は日中戦争の拡大には終始反対であったとみてよい。例えば、13年7月4日口述の『西園寺公と政局』にはこんな記載がある」
『西園寺公と政局』「昨日陛下が陸軍大臣と参謀総長をお召しになった、『一体この戦争は一時も速くやめなくちゃあならんと思ふが、どうだ』といふ話を遊ばしたところ、大臣も総長も『蒋介石が倒れるまでやります』といふ異口同音の簡単な奉答があったので、陛下は少なからず御軫念になった」
【御軫念】「しんねん・天使が心を痛め、心配すること」
半藤一利解説「大戦へと拡大したのは、二・二六事件のあと天下を取った統制派軍人や幕僚たちが『中国一挙論』とも言うべき共通した戦術観を持っていたからである。天皇の『日本は支那を見くびりたり』はそのことを衝いている」
解説「大日本帝国憲法や『国体の本義』が謳っている絶対性を担わせた天皇像に反して実質的には世俗権力に従属した天皇の無力だけが浮かび上がってくる。
安倍晋三が言うように日本の歴史の中心者の姿はどこにもない。
もし戦争終結を決したのは天皇自身の英断だとするなら、「早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」とする考えも英断として示されて然るべきだったが、「御軫念」で終わった。
いわば軍は終戦時にその余力もなしに本土決戦を叫ぶばかりで策を失い、力をなくして天皇に縋るしかなく、そのことが天皇が相対的に力を回復したから出せた“英断”といったところなのだろう。
軍が力を残していたら、出せなかった“英断”というわけである。広島・長崎の次の原爆投下は東京の可能性をバカな軍人でも考えなければならなかっただろうから、いくら肉弾戦による本土決戦を計画しても、制空権を失って次の原爆投下を防ぐ手立てはなかった結果の“英断”に過ぎない。このことは『小倉庫次侍従日記』を読み進めていけば、おいおい分かっていく」
小倉庫次侍従日記(昭和16年5月8日(木))「〔松岡〕外相、后2・○○より拝謁。拝謁中に、駐米野村〔吉三郎〕大使より国際電話あり。夫に一時かかり、再拝謁した后4・○○迄」
半藤一利解説「この日の松岡外相の内奏は大そう天皇を憂慮させるののとなった」
松岡外相「ヨーロッパ戦争への米国の参戦の場合は、日本は当然独伊側に立ち、シンガポールを打たねばなりません。又、ヨーロッパ戦争が長期戦となれば独ソ衝突の危険があり、その場合は中立条約を棄ててドイツ側に立たねばなりません。そういう事態になれば日米国交調整もすべて画餅に帰します。いずれにせよ米国問題に専念するあまり、独伊に対して信義にもとるようなことがあってはいけません。そうなれば、私は骸骨を乞うほかありません(辞表を出すこと)」
半藤一利解説「天皇は松岡の発言にあきれ、のち木戸内大臣に『外相をとりかえた方がいいのではないか』と洩らしたという」
解説「松岡という男は戦術・戦略を語って、その勝算如何から日本の進路をどうすべきか天皇に進言すべきを、勝算という秤を用いずに『信義』を最重要価値として日本の運命を鼻息の荒さだけで秤にかける外交にもならないことを言っている。
この程度の男が当時の日本の外交を担っていた。この点松岡の頭の程度は安倍晋三の頭の程度と双子の関係にあると言えるはずだ。
また天皇に関して言うと、日本国の中心に位置しながら、それは形式的体裁に過ぎず、実質的には蚊帳の外に置かれていたことを示している」
小倉庫次侍従日記(昭和16年6月22日(日))「松岡外相(5・35-6・30)、内大臣思召(6・42-6・50)」
半藤一利解説「独ソ戦
『木戸日記』の記された昭和天皇の発言「松岡外相の対策には北方にも南方にも積極的に進出する結果となる次第にて、果たして政府、統帥部の意見一致すべきや否や。又、国力に省み果たして妥当なりや」
半藤一利解説「松岡の大言壮語に、天皇は憂いを隠せなかったのである」
解説「昭和天皇が「国力に省み果たして妥当なりや」とここまで客観的・合理的に情勢を把握、戦局拡大を懸念していたにも関わらず、松岡自身に伝えて再考を促すことも、政策に反映させることもできなかった無力な存在をここでも曝している」
《安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(2)》に続く