花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

秋深し、孤独な冬に備える日

2015-10-04 01:31:08 | Weblog

紅葉の美しい秋たけなわですが、
すぐそこに、冬が来ています。

北海道の冬は、孤独です。
来る日も来る日も雪かきです。

衣替えの毎日が忙しい。
寒さに弱い、40年目のゴムの鉢植えも、

対馬で登山した時,拾ってきた
原種と思われる
椿の実が発芽して

一重の花を咲かせました。

之も、
部屋の中にとりこまなければ枯れてしまう。

ヤッケもブーツも、
毛糸の帽子も出さねば。。。と。

伸びすぎた枝を剪定して、
雪囲いをしやすく準備する。

屋根も、水道も、
変な修理の
対処メンテナンスのやり方をした
ミサワホームのリスクが怖い。

漏れるんです!

この家はもともと
切れ目のない長尺トタンの屋根でした。
低い一回の屋根には
三角屋根が乗っておりました。
三角錐の雪止めを、
のりしろのようなトタンの襟が
維持していました。

20センチほどの長すぎる
ネジ溝のある釘で、
撃ちつけてあったというものです。

若かった私たちは、、

「変な形だねー、、、でも雪がどさーっと落ちるより
子育てには安全かも?、、、ね。」

無給医だった長い時代が終わり
その年からは23万円で勤務になった。
半年後には、少し昇給もした。
子供も2人。

当時は、今と違って「無給医」時代です。
博士号がいただける長い間、無給です。
3か月に一度のアルバイトで16万をいただけました。
その、わずかな月五万のお金で、
家賃1万7千円の、風呂なしアパートで、
子育てです。

しかし、東京界隈と違うのは、
北海道では、当時、
医師は、

銀行が相手にしてくれたという事です。

丸善などから、10万単位の医学書の
請求署が来ても、
未来のある医師に、
信用で融資してくれました。
しかし、、、、

大きな額になると話は別です。


銀行実績がなかった事もあり、
建売が、限度です。

ミサワの提携ローンで、
9パーセントの利息でした。
ボーナス払いは23万円が2回。

振り返ると、

3年前に、ローンが終わったとき、
さ!、、、これから、初めて
皆が集まれる、、、

サザエさんのような家にしょう!

やっと、
家庭というオアシスに向かって
夢がかなうと、嬉しかった。

戦争、そして、耐えがたきを耐えた、、、敗戦
日本総勢。。。
どなたもこなたも皆、「貧乏時代」

昭和10年代生まれの我らの時代。

夫も、「貧乏のぞん底」を
体験することを余儀なくされた時代である。

札幌オリンピックの前の時代。
17000円の風呂のない木賃アパート!

アパートは、
階下の大家さんの家族が
プロパンのコックを閉め忘れ
二階の、我らの家庭は
建材から出たタールで
煤まみれになり
トイレは吹っ飛んでいた。

もし。。。其処に居たら、、
死んでいた。

職場の同僚の
年取った親御さんのアパートだったため、
一切の、
弁償も、謝罪も、、夫は、、
何もしなくて良いですよ、、、と。
家事を出した当人は階下に住んでいるのに
謝りに来る気配がなかった、

自分のことで、、きっと
パニックになっていたのでしょうね。

被害者の事は、頭が回らなかったのでしょう。

私の母は、
ピアノの演奏者の現役という事もあり、
普段着よりも、
娘を「お人形」に例えた、
自分の好みを押し付けるタイプだった。

ステージドレスのような
社交的な衣装を。
たくさん創って持たしてくれていた。

日舞の時の舞台衣装とか、、、
戸越銀座まで、生地を探しに行ったり、
イギリスに居た甥っ子にレースの生地を頼んだり、

国立音楽大学時代から
著名な友人が多く、
二科展に入賞した画家の絵のモデルは母だったり
花のある人でした。

タンスも、浜松まで
ピアノ塗装を注文した白い色の桐ダンスを特注した。

理科系の大学卒の娘の意向など
まるで、、
意に介さない
女性らしさの押し付け趣味の母でした、。

タールをかぶったカーテン、
、、
こんなアパートに

三越の特注の、、、
家賃の三倍もするカーテンを
かけてゆくなんて、、、
母はプライドが高いので、お任せしました。

結婚が決まっても、
何も、準備をする気のない本人は
行動する気分ではなかった。

薬剤師として、30歳ぐらいまでは
自分を仕上げなければならないのに、
速すぎる結婚でした。

いっこうに行動を起こさない娘に代わり
札幌まで
ご老体の母がやってきて、

とりあえず、生活できるようにと、
「五番館」「三越」で

新婚所帯を初期設定していってくれました。

「あと、2年で東京に帰ってくるのですから、、、
こんなもので良いでしょうね!」

当時家賃の10倍以上する
「高雄」とかいったかしら、、?、
大きなTVも、備え付けて行った。

母はこの時点では、
もう一人息子が出来たような
大きな希望を、
持ち始めていました。

戦争に従軍した父は、命の境目を歩き
体には、そうとうな無理を与えたと言っていた。

敗戦!
疎開!
復興に向けて、滅私奉公の父は
疎開先では、多くの人の支えだった。
「戦争を知らない、、団塊の世代の末っ子に
未来の希望を託して、東京に戻り、開業しました、」


54歳で急逝した外科医の父の患者さんが
若先生はいい人だけど、大先生は頼りになった、、。
後を継いだ、兄も、母も、困っていた。

我が家は、内科医の兄と、
親類の医師と、
同級生の耳鼻科の医師とで
何とか、、、経営を続けていた。
父の友人が、手におえない患者さんの時は
兄を助けに来てくれていました。

「外科医の卵」が
名乗り出てくれた。

医師は、医師しか助けられない。
母は、私の夫になる候補の外科医の卵と面談し、

博士号を取得したら
東京に帰ってくれるという、
その外科医が気に入ってしまった。

お父さんが、、若くなって、
帰って来てくれるのよ!。。。と。
寂しそうだった
未亡人の横顔に朝日がさした。

家を、、、救えるかもしれない?
、、、と思った。

とりあえず、
子供の安全な住まいが必要だと思いました。

火災の後から。
一度も袖を通さないうちに
、真っ黒のごみ袋に30個近く
焼け残りを捨てたのでした。

小学校から大学まで
東京のど真ん中で過ごしたことが、
一夜の火事で、、、消えました。

北海道は、
「他人様の土地」でした。
、、、
カースト制のような順番があると仮定すれば、
新参の、嫁の身分としては、
文句を言える立場になかった。

東京出身の北大大学院生の主人も、
職場のコネを伝って、
地元の住人の懐から出発という用心深さでした。

社会のシステムがわかるまでは、
このまま、、泣き寝入りした方が、、、
よそ者お断りに出逢っても
気分的に落ち込むから、

一切、階下の大家さんのお子さんには
言葉もまじ合わす機会を作りませんでした。

年老いた親御さんが、
すまなさそうにやってきまして

「今月だけは、家賃、、いりませんから、、」

すぐに、
吹っ飛んだトイレの修復と

タールだらけになった
焼け残りの建材の撤去と、
リホームを始めてくださいましたと、、

東京の実家に帰っていた私に
新婚の夫は、さらりと言ってのけた。

医師の免許を取得したばかりで
医局では、医局で飼ってる犬のえさ係並の身分の夫は、
女房を守れるどころではない立場であった。

無給、、手術は「こーひき」だけさせてもらえる。
「はい!」以外は発言できない、、、おじさん!

大学院で博士号を取得すれば
無給医から脱出できて、身分は出来ると
家事の後の、きな臭い家屋にUーターンして

深夜まで「博士論文と格闘する」切実な
無給医脱出の戦いがし烈になりました。

何ぼ何でも、このきな臭さと、
馬糞風は、、壱日ここにいる家内にとっては
苦痛でした。

妊娠5か月に入ったとき
一度、留萌で流産しているので
東京の実家に、帰り、出産することにしました。
「夫の家に、事の成り行きを説明すると。」
「息子は。あなたに挙げたのですから、
全て、そちら様の意向どうりなさってください」と。

お体の悪い姑は、医者になった、ゴジラのような
怪獣は、手におえませんので、
開業している医科に育ったあなたにあげます。」と申された。

なんとなく、気持ちはわかりましたが、
私は、夫一人の持ち物ののように、
婚家では、手におえないモスラとして、
突き放された感がありました。

実家では、母が温かく迎えてくれましたが、
無給医の夫からは
生活費も、盆暮れの挨拶も、
遠距離電話もないままに
苗字だけが変わった娘として、
個室を用意してくれて、
母と、娘の、結婚前とはどこか違う同居でした。

長男が生まれてから、夫は、さすがにやってきました。
とんぼ返りをしてしまい、
真冬の2月が過ぎ、3月が過ぎ、
5月になって、100日のころ、
「夫の帰りますからと、」手鴨を書きました。
「返事はありません。」

札幌に帰る時間を知らせてあるから、
きっと迎えに来てくれていると思いました。

甘かった!

赤ちゃんを抱いて、
おむつをもって、
5回分のミルクとおくるみで
もこもこもこの、塊みたいになって、

千歳の空港で、
迎えに来ているはずの夫を探しました。

居るはずです!日航と全日空と、探し回りながら、
2時間後、、、、長男の初めての札幌入りなのに
、、、博士論文の実験から手を離せなかったという夫に

私は、、、開業医の家に外科医を迎えるのは、
忍耐しかないと思った物でした。

しかし、博士号が下りると
米国の循環器では評価の高いタフト大学に
留学の話が空便で送られてきた。

何年米国に居るかわからないが、
とりあえず、ほーっておける連投長屋の真ん中を
当時のお金で500万のローンを建てて、買い取り、
留守中のセキュリティに全力で準備して
出発に備えました。
母からは、留学なら、東京に帰るのが伸びるのは
やむを得ないけど、

生活費は、東京に帰ってきたときの月給の前払いよ!と言って
渡米中の私と赤ちゃんの食費を送ってくれました。

火事の時、日赤が配布してくれた毛布を、幼い息子にかけて、
前途多難な、生き残りの戦いが始まりました。

ところが、出発直前になって
帰ってくるはずの先輩が
もう壱年居座るからと、空便が来てしまい、
交代での留学は、延長書類に代わりました。

10坪の敷地に57平方メートルの長屋の真ん中の
我が家にうつり住みました。

留学延期のさなか、二男が生まれ、
夫は「無給医では、二人の息子は養えないから、
一般病院に出ると言い出しました。

医局参加にいくつかの病院があり
警察の指定の協力病院の一つに就職しました。

母は、東京に帰ってこないことを知ると、
養育費を送ってもらって、
東京の教育を孫に受けさせてはどうか?
北海道に居るとわかったら、
兄も、従兄弟の医師も、父の知人の医師も
「内科外科病院設立の会」を解散しました。

塞翁が馬、、、弟は、しょてっぱなから大学医局に残り、
千葉大学の』外科から、
当時の、理想のビジョンの実行に向かう新設間もない
築地の国立がんセンターから、
当時の時代の先導の師匠であった
市川平三郎先生からお声がかかり、
外科の医局を出て、
がんセンターに移ったのでした。

我が家の、個人病院が、私の夫の参加で実現していたら、
個人病院の、患者様に慕われる一人の地域に貢献する医師として

自分の特殊な能力に気が付くこともなく
また、心豊かな地域の開業を全うしていたと信じていますが、

がんセンターの市川平三郎先生殿出会いの結果、
弟は、秘めていた才能を存分に世界レベルで発揮できたことは

夫の、約束不履行が生んだ、塞翁が馬であったと思いました。

多くの著書は、
二男が、同じ放射線科に進むきっかけにもなった。

大学一年生の時、、
戦後の「団塊の世代の医師の中でも、、、おじさんが
がんセンターで開発したCTは、
単にきれいな画像を追うというのではなく

必要な病床にスポットを当てて
開発した画像という

医師の視点に、僕は、やっぱり「神の手」だと思う!
僕はおじさんは、「がんセンターの医師の姿」として
がんセンター史に残る人だと尊敬している。

学部に移行したころ、おじさんに
「顕微鏡CT」などの話をしてもらいながら
息子は、「雲の上の人だ!」とつぶやいていた。

しかし、ジャンルの違う政治家や、
開発後の恩恵にプラスして、
ビジョンに向かう弟たちと
これまた、自分の世代の時点しか見えない
デジタル時代の医師達は、

ヨーロッパの病院は発足の歴史を
しっかりと残しながら、500年の創立期を
今なお、現在に伝え、歴史をしっかりと残しながら、
現在につなげていることを、見学してくれば
世代の若い医師達にとって
世界の築地に建っているがんセンターの
創立期の歴史を、時代の都合ではがしてしまうのは、
何百年後に輝きが不滅に続く原石を近代コンクリーで
塗りこめてしまうような、歴史の光がもったいないような気がします。

医師薬史学会で、ヨーロッパの病院を
20か所ほど見学してきましたが、

明治のころ日本の医師達が留学した病院は
当時の研究現場まで保存され、
「学問は一朝一夕にしてならず」、、が
一目瞭然の、当時の時間を止めたままのコーナーが
具体的に保存されていたという、
「お金持ちのヨーロッパ」を
感じたものでした

話は横道にそれましたが、
どんな人も、初めの一歩があるのですから、
我に返って、我らの、戦いの一歩は
全力で、日々、頑張ることから始めました。


**************************

バルブ時代の焦りもあり
自分の責任で
安全に子育て出来る自宅が
必要と思った。

とにかく、買えるうちに、焦って買いました。
ミサワホームは
戦後、パネル工法という斬新なアイデアで、
戦後の停滞を跳ね返して、
かっこよく、時代の先取りをしていた会社であった。

たまたま、大学院で理工学部の学生らと
教職の授業を受けた後、
ESSという。英会話クラブの仲間たちと話していた。
日大の理工学部の卒業生は
大成建設や、ソニーや、ミサワに就職を目指していた。

それというのも。
ミサワは先輩が活躍している会社だったこともある。
電磁の授業の後、
先生や、電気科の学生と、
カナダに、
日本の理工系の進出を
計画している話に及んだ。

その時、
在来工法では戦後の社会は
日本の遅れをとりもどせないのではないか?

その時、工場でほとんど仕上がるという
組み立て式のミサワは、大工さんの腕は
突貫で、組み立てる技術にしぼれるのではないか?

彼らは、プレハブの即効性に興味をもって話した。

北海道に、来たとき、
30年ぐらい前の東京にやって来たごとく、
舗装道路が少なく、
アパートの前は
馬糞風に乗った土ぼこりが白く居間を覆い
毎日、拭き掃除するという
隙間の多い建物であった。

ミサワを選んだのは、
北海道という、
見知らぬ土地で
同級生に出逢った喜びであった。

かくして、ゲットした、
念願のマイホームではあったのだが、

その冬、台所、ふろ場、トイレ、、、

ぽたぽたと水が落ちてくるのでした。
そして、トイレのドアの上のタイルと
内部の壁のタイルの一部が。
テーブル大の大きさで!!!!!  (++

どさーと落ちてきました。

風呂場のタイルは、全面!
どさーと、、、落ちてきました。

タイルはつながっています。
大きな、紙のバッテンデ、
タイルはつながっています。
タイルの壁は
そのまま全壊しました。

ミサワのアフターさんは
こまめにやってきました。
本当に、素朴で、人のよさそうな
暖かなアフター係でした。

、、、が、、建築のプロではありませんでした。

屋根の三角錐を撤去して
屋根を、長尺のまま、元どうりにしてゆきました。
後からわかったことですが、
撤去後の釘のアナは
パテで詰めたと言っていました。

タイルもそのまま元どうりに
くっつけてゆきました。
メジも、白セメントでつなげてあります。

さすが、、、ミサワね!
無料で直してくれました。

       m(^^m

次の冬、
再び漏れてきました。

        (++!

ミサワに電話したら、
トタンを一度はがしたから、
「毛細管現象で吸い上げられて、氷になったものが、
暖気になると解けて、水滴が浸みて落ちるのですよ。」

と、、、説明してくれた。
理にはかなっているが、
それを解決するのが、、、
「プロの仕事」のはずでしょう?

「雪を下せば治ります。」
雪を下してくれました。

********************    (++!

ともかく、
雪下ろしが面倒なので、
利息の高い家を、
払いきれないのに
またまた「借金」を長期にすると、

ローンで
「上積みで借り増し」出来ましたので、

となりの、売れ残りの空き地は
タケノコ山だったころに、
ブームに乗って造成されたらしい。
やがては、
バリアフリーの住処をたてようね!
やがて来る余生は
日本のどこかに!と。
自宅で昇天を理想とする私たちは、

計画を前倒しにして、
「古くならない家」と思い込んで

「漏れない家」を建てようという事になり、

気泡コンクリートパネルの組み立て式の
壱週間で組み立てられる
大成の
コンクリート住宅を
建てました。
正月も、
目の前の
冬の工事である。
3か月後には下水が来るという地区になっているけど、
浄化槽を埋め込んだ。

ミサワのトイレが土管につながっていなかったのは
浄化槽を埋め込む業者が
手違いかなんかで、
埋め込まずに、土管を途中で埋めてしまったことが
その時、わかりました。

ミサワに話すと、
ちょん切れた土管は掘り起こさないで、
新たに、
下水が通過した段階で
庭先を掘り返し、土管セットを埋めて、
マンホールにつないでいってくれましたが、

我が家の庭は、土管だらけが埋まっているのです。

ま。。。しかたないか。。。(**

それでも、あちこち漏れが続き、
窓枠をパテで処理してくれたり、
アフターさんのレベルでは
誠意を尽くしてくれたのだと、思いますが、、、

私たちは、隣に、軽量気泡コンクリートパネルの
組み立て式家屋を建てました。


之で、漏れないし、
雪下ろしもいらないね!
喜んだのもつかの間でした。冬になると、、、
漏れるのです。

コンクリーの家も漏れるんです。
昭和55年の頃です。

翌年の夏に、
東京の本部から技師さんが来ました。
プロの技師で、著書も出している人でした。

家じゅうに薬品を塗って
屋根の上から、
水を土砂降りの雨のようにかけたのです。

薬品は赤くなり、
「どうしてくれるのよ!」と
怒りました。

大成も大手なので、
防水をやり直してくれました。
ところが、、、
ベランダに敷き詰めてあった
コンクリートの
踏石大のタイル状のパネルを

庭に下ろして、、ゴムシートを敷いて
その上に、
モルタルで仕上げて
おしまいになったのです。

担当者がデストラになり、
大成も、
コンクリート家屋の販売を
やめてしまったのでした。

我が家は、
ベランダだけモルタル仕上げで、
弐階の
8畳が4個分の大きな屋根の方は
ゴムシートのまま、
工事は終わりました。
中途で、会社は放棄してしまいました。

とりあえず、漏れは止まりました。

空から見ると、
ベランダはモルタル、
弐倍以上の広さがある弐階の屋根は
ゴムシート。

ツートンカラーの質感です。

それっきり、、なので、

自分でするしかありません。

ミサワも、大成も、
大工さんに頼んでも、
引き受けようとはしないのです。

不思議ですよね。
自分でやるしかありません。

当然、屋根だから、
下からは見えないとはいえ、
我が家には愛があります。

放ってはおけません。

3年ごとに、
平らな屋根なので、
煙突に、命綱を縛り付けて、
自分で、我が家を、屋根を、
愛することにしました。

シーラーとペンキを15万円ほど買いこんで、
毎日、畳3畳広さぐらいを目安に、
シーラーを2度塗りして、

乾いてから

銀粉のペンキを丁寧に、
厚塗りを2回繰り返すのです。

こうすれば、
ドクターヘリが飛んで来ても。

変なツートンの屋根には見えないでしょう!

3年ごとに、
夏は、屋根の上の「婆居降臨被着」。

ともかく、
漏れるのは止まっております。

    (^^

今でこそ、
札幌は、
どのメーカーさんも立派で、

理想的な家を建てて、
メンテナンスも
最高の時代と推察しますが。

私たちのころは、「負の建物」でした。

***************************  (++!

再びミサワに戻りますが。
雪を下しても、
やっぱり。。。。。。

水は止まりません。

「今度は140万だったと思いますが。。。」

有料でした。

、屋根をはがして、新しくトタンを張り替えて、
元に戻した長尺トタンを
きちんと、締めて、バンキンして、
雪止めを、点けるようにと、
頼みました。

開けてびっくり!
雪下ろしのせいではなく
以前に、取っ払ったあの!、
「三角錐の雪止め屋根の、
のりしろ様の襟に打ちつけてあった、、あの!!!
らせんの溝がある、長くて太いらせんの
釘が、穴を開けていた。

屋根の穴が開いたまま
長尺トタンを戻したので、
そこから水が落ちていたのでした。

私は、はしごで、よじ登り
今回新しく取り替える予定の下地になる
トタンを張る前の屋根を見せてもらいました。

大工さんは、
新しいトタンを張るし、
バンキン作業をマテにやるから
もう、漏れないというのです。

私は、大成の建物が漏れた時の
防水に使ったあまりの材料をもらっておいた。
余分に置いて行ったゴムシートを
ミサワの、穴あきの屋根に
敷いてくれるように頼みました。

水が漏れていたのが原因なのか?
貼り方がしろうとしあげなのか?、
ふろ場のタイルは、
ブドウがかったピンク色に張り替えました。

気持ちを明るく、したかった。

洗面からトイレにかけて、
クリーム色のベニヤには、裏側から
ミドリと、黄色のカビでぶよぶよになっています。

大工さんは、ベニヤをはがしたまま
カビが、乾くまで、
そのままにしておくと言いました。

私は、
油絵の時に使うナイフと、
左官のコテを買ってきました。

「毎日一畳大」のスペースのカビを、

マスクをかけて、
帽子をかぶり
こつこつと、
何時間もかけて、はがしてゆきました。

我が愛する家だからできることでしょう!

大工さんは
3か月後、やってきました。
「乾いたら、
上からベニヤを打ち付けて、
その上から
壁紙貼るから、
はがさんでもいいんだよ、
大変だったでしょうが、、、」と笑った。

人当たりは実直で
良い人ではあるのです。

    (@@)
     ~

私は、医療人のカリキュラムを受けている以上

カビには敏感です。

薬剤師のカリキュラムの中で
微生物学の授業の時、
色々な種類のカビがあるのを知っていた。

閉じ込めても、
それで終わりではないのが
カビである。

今回のように、
赤いのやら、
黄色いのやら、
ミドリのやらが、
キノコのように
厚塗りされた、
油絵の具のようになっているカビは
閉じ込める気にはならなかった。

閉じ込めるカビが危険と思うのは
私だけだから
無料奉仕ではあるが、

自宅への「愛」が、放置を許さなかった。

間もなく、私は肺炎になり、
入院した。

カビのせいではないかもしれませんが、

精神の疲労困憊で、
免疫が落ちていたのかもしれません。

ともかく。
風呂はピンクに、
洗面所は壁紙のスペースに模様替えとなった。

トイレのタイルの落ちたところは
同じ色のタイルで修理。

ひびが入ったタイルは
はがして張り替えてくれた。

それなりに、、、誠意はいつも見せてくれるが
いまいち、、、プロではしないことを
目先三寸の対処に走るような
印象を避けられませんでした。

でも。。。屋根ですから、之で、
140万は安かったかもしれません。

しかし、、、
デザインが、つぎはぎルックになり、
売れない家になりました。

てっぺんの処理も
南側の雪が、北側の屋根の
付け根の部分に、余分に落ちる修理は
当初の設計の
ベクトルのバランスを
著しく無視した簡易な方法をとったと思いました。

毎年、付け根の部分に、大量の雪がたまり、

家には日々が入ってきました。

このままでは、
雪のバランスが悪く、

パネルのベクトルでバランスをとり
安定しているミサワの基本行動を
無視した修理であると思いました。

家の中心に、
2メートルを超える雪がたまる計算になります。

長尺のトタンをそのまま新しいのに変えてくださいと
頼んだのに、、、、!!!!!

裾の方で切り離して継いだ継ぎ目は、
ストーブをたくと
氷塊になり、やがて暖気ですいてきた成ります。

一階屋根の
立ち上げり50センチぐらいで切り取って、
切り口が防水もしないまま
はぎ合わせて完了。

大工さんは、
ミサワに指示されたとおりしただけという。

その冬、水漏れが、再び始まる。
二階の屋根に積もった、
ソファー大の氷が、軒から落ちて
窓の下のコンクリーのたたきを
めちゃめちゃに割って
バウンドして、
ベランダ大の窓の
二枚の硝子戸をへし折って
部屋の中の机を
反対サイドの壁までづっ飛ばして
部屋の中に、
シロクマの乗れそうな氷塊が入ってきた。

二人の男の子は、必死で逃げたと
真っ青になっていた。

之は、雪害という事で、
ミサワが軸になって修理してくれましたので
私の持ち出しは60万円でした。、
屋根の上に、角度の急な、雪の落ちやすい屋根を
御帽子のように、
かぶせる施工で、急場の落雪を回避しました。

割れた二枚の硝子戸は
お隣近くの町内の大工さんが
応急処置で、ありあわせのガラスをはめて
木材を切って、窓枠を作ってくれた。
ひん曲がったアルミサッシは、
トンカチで、デリケートにたたいて、直してくれた。

左右違うガラスと、
違う木枠で、変なベランダガラスとなりましたが、
近所の大工さんの温かさに心が救われて、

今もそのままです。

いよいよ、バランスの悪い、
重量感の違う、つぎはぎルックの
ミサワホームになりました。

内部のデザインは、シンプルで
変な装飾もなく
病院勤めの我ら家族は
気に入っているシンプルさであるだけに!

外観の、ガサツな修理で、
しかも
それなりの、
追加費用と、いら立ちが
数年続く建物なのに、

何とか、
使えるようにしたいと思って
がんばり続けていた。

何と、、、、

トイレが、土管がマンホールにつながるには
何本か、土管が足りなくて、
庭の真ん中でちょんぎてていた。

使っているうちに隣に入り、
仲の良かったお隣さんは、
カンカンに怒って、
ブロックの塀を建ててほしいという。

ミサワと折半で、
敷地を自分の方に30センチ引いて、
ブロック塀を建てました。に引いて
頭も見えない高い塀を創った。
負担は110万円であった。

新たな測量の結果
30センチ引いたところが境界石が
入る位置だと言って、
境界石も入れなおしました。
    
     (--

くたくたに疲れて、マイホームの為に
毎年工事が続くので、気持ちが落ち込んで、

高いローンと、追加金と、
となりに、建てた、大成の
漏れないと思ったコンクリー住宅が
漏れるのとで

多少おかしくなっていたかもしれません。
ミサワのこの家では
唯一、気に入っていた
木目の部屋の
樹の年輪が
「走る馬の鬣に見え始めた。」

もう。こだわるのはやめよう。
水道も、
6人ぐらいの水道局の検査官が
何度も検査に来ているが、
元栓を開けると
使ってないのに、メーターが回ると、
毎月言われるので、

元栓は、何十年も閉めたままである。
十数年後
水道局がやってきて
メーターが回っているから
基本料を支払ってほしいとやって来た。
14万円ぐらいを一時に請求されて支払った後、

水道局の手で、元栓を閉めてもらい
その時以来、そのままに、
締めたままである。

分厚い領収書が渡された。

庭木の水は。
雨水桶を置いて、使っている。
子供たちの使っていたものを
そのまま置いたまま

主人の医学書の倉庫に使っているが、
暖房のストーブをつけると
スガ漏れるので、

何十年も
ストーブは新しいまま
骨董品になっている。







途中、建て替える気持ちで、
フルリホームしたいと
設計図を書いてもらったら、

幼いころ、
こどもが、転がり落ちたことのある
びっくりする急な階段も

緩やかに
場所を変えて、
理想の図面を
設計して、
説明してくれました。

水洗トイレなのに、
まっすぐな官が、、水なしのまま、
地面まで走っている変なトイレも

使えるトイレになっている。

「いくらですか?」
「1500万円です」

「エ!!。。。1500万円」


   (@@!  (‘‘)

だって、
この家は、土地付きで1400万の物でしょう。
追加工事が3年以上続き、
飛び石工事や雪害や、
となりのクレームで、追加金も何百万!
それに
9パーセントの提携ローン!!!

思い余って、
隣の空き地に自宅を追加。
満杯に借りたローン。

バブルにせかされ、
踊らされて、
焦って、追加のローン。

他人にも借りてもらえないし、

    (++

長い間、アトリエと表札を出して

書庫や、道具入れに使ってきた空き家に。
固定資産税は
かかり続けた。

経済観念のない主人は
マイホームに
夢など持てなくなったらしい。

再び、
安い給料の大学に、
男の人生は
「マイホームなどではない!」と

ドジばかりしている私たちを捨てて
我が道に戻ってしまった。

大学の、
今までとは違う給料では
ローンが払えない、、、

薬剤師をして家事と両方の生活に突入!。

自分の名前で、
今は無くなった拓銀から
何千万も、
借りれるだけ借りて
地下鉄駅前4分の
アパートを経営する事にした。

当時の拓銀の係りの銀行員は、
「こんなに良い場所に、よく見つけましたね!
この物件を抵当に入れて、
家賃を半分振り込んでくれると
融資しますよ!」

離婚なら、養育費もらって
実家に帰り、
実家から薬剤師という手もあるが、

主人は、家族を捨てたわけではない。

「マイホームの、
ままごとに飽きてしまっただけである。」

私が、、、男で、
ぎゃくの立場でも、、、

「マイホームなんて、、、
甘すぎる幼いままごとであると気が付くだろう!」

要するに、

*****(++)  
建築業者と銀行が主役なのですよね。
***  ++)

たまたま、、、
当たり外れの悪い、
本来の優秀なミサワではなく
ありえないミサワに縁がありました。

自分たちは
  \\\\\\\\「商品なのだよ!」\\\\\\ ,


主事が言い出したのは

修理の仕方が
「支離滅裂のデザイン」に
なってゆくからでした。

もう、、辞めた!
ほのぼの幸せなマイホームなんて。!

女房と子供の相手をしていたら、
世の中から取り残される!

あの日以来、

子供たちの入学式にも、
運動会にも、

私の母の葬式にも、
私の手術の退院の日にも、、、

現れず、
仕事一筋が、さらに徹底してゆきました。

主人は
「職場こそ家族以上に大切にしないと、
家族も守れない。」と、
のたまうのです。

世の中のシステムの片鱗が見えた。
関東で有料の企業も、
北海道という
地域が異なると、

職人さんも、
カースト制度にたとえるのなら
底辺の技術者が
担当し、
一部の精鋭の指導者は、
実行力を失うということでしょうか?

工場でほぼ出来上がるミサワとか、
大成とか、

防水技術という
アキレスけんを持っていたという事でしょうか?

宮大工さんの手がける住宅だってあるという
日本の誇る大工さんは、地域が違うと、
見習いが、手がけるということでしょうか?

この世の中に、
宝物の財産があるとしたら、
「医師として、医師をする時間こそ、
自分の主役の時であると思う。」

こうして、主婦という
「天下の商品」は
したたかなプロの間で、
「商品としての時代」を
自覚しないで、
悪あがきしながら、
世の中を知ってゆくのでした。

「医師になるのも大変だったし、
医師をするのも、もっと大変だ。」

「男人生は職場だから、職場が居場所だから。」

要するに、
私のような、
ドジなマイホームを
ドタバタする女房の「愛」は
無い方が集中できるという事なのでしょうね。

命相手の仕事だけに
何年も、小さな家庭が
ドタバタしていることに
愛想がつきたのでしょうか?
医療に携わる夫の結論なのでしょう。

ご近所では
さすが、、、お医者さんの家ね、
あちこち修理して
贅沢で来て、、うらやましいわ!

やぶにらみの視点には、
よけいくたびれてしまいます。


大阪の循環器センターに、
大学復帰の研修勉強に行ったきり、
何か月か帰ってきませんでした。

このあたりから、
勝手にがんばる
お互いを一切干渉しない
不思議な夫婦になりました。
私の実家を手伝いに
東京に帰ってくれる話もなくなりました。

家庭は捨てられたのかもしれませんでした。

家族の写真も、とらなくなりました。
孤独な、勝手に同居しながら
勝手に頑張る、
置き去りになった
マイホームで、
延々と、工事と、雪かきと
子育てと、
ローン返済の勤務が始まったのでした。

家に帰って来ても、
一緒に3食ともにテーブルに座ることもなく、
お互いが、
背中合わせに、マイペースで、ベストを尽くし
ローンと闘いながら、
進学の激戦時代に突入してゆきました。

夫の大学時代の収入では
この、人生の関ヶ原は敗北が避けられません。

転んでも、砂をつかんで立ち上がらねばなりません。
APの住人が変わるたび、
壁紙を、自分で張り替え、
次の入居者を募りました。

自宅の、メンテナンスに寄り添っているうちに
少々のことは、自分でするようになりました。

怪我のコウミョウです。

窮すれば通ずかもしれません。

夫は。心は家庭を出ていますが
真面目な性格は、
マイペースで、
「自分の部屋だけが大切」な人になりました。

家庭には一切関心を失いました。

やがて、講師をやめて
国立病院のしかるべき仕事に就き
大学よりは、
良い給料をいただけるようになりました。

しかし、単身赴任ですから。
函館と、札幌の二家族離れ離れの生活は。
進学まじかの息子たちの未来を考えると
ボートしていられません。

せめて、ミサワホームが、
トイレと水道と、
屋根とデザインが人並みであったなら

貸家にできたでしょうね。

貸しても、水が漏れると
毎日母屋に文句に来るし
怒って出ていく人には
貸す気が亡くなってしまいました。

大手の社宅に
一度借り上げてもらったのですが、
奥様が、屋根が漏れると言って
すぐに出てゆかれました。

それ以来、
何十年も「アトリエ」?物置ですが、

買い手も現れませんでした。

近所や知人からは、
「家を2軒持っていて、
さすがお医者様の家ね!」
「もったいないわね!」
  
 結局、
子供たちの進学の費用になったアパートも
役目を終えて、
ローンも終わったから、

これから
、孫と暮らせるサザエさんの家にして、
自宅を貸して、老後の年金にすれば、

5年しか薬剤師をしなかったから
7万ほどの年金にプラスして、
老後の資金になるはずと
思っていましたが、

世の中、鈍い私にもわかったのです。
内情は、
いろいろあって、
個人的な言い分は山ほどあっても。

不動産を
、外から見て、
「あそばしているような状態」は
天下が許さないという事です。

あそばしていたわけではないのですが、
白色申告で、たった4人分の店子さんだし、

事務書類は不要と勘違いして
領収書をとっておかなかったのです。

税務署が来ました。

さかのぼって請求されました。

調査すれば、
メンテナンスの結果は見える世界なので
すぐにわかってくれましたが、

悪意はなかったので、
修正して下さい。

税務は、現場証拠ではなく
領収書の世界ですと。
指導されました。

税理士さんにお礼を払って終了ですが、
金額が、さかのぼったため
大きいので、現金はありませんので、
保険を解約して払いました。

おかげさまで、
子供に迷惑がかからないように
「やすらぎ」の
葬式費用の積み立てに加入しました。

私が死んだら、
息子と孫だけいてくれればいいから、
17万円の、棺桶が、最後の住処となるでしょう。
もともと、神様に造られて、
束の間の、この世を旅していて、
姉妹と、息子とに逢えたのだから。
17万円の空飛ぶ棺桶があれば、
足りるでしょう。

誰が、、、受け取るのかもわかりませんが
次の代では
ドイツに負けない
技術者を育てる資金の一部に
使ってくれるとうれしいですね、

「アパートは、
店子さんが出るたびにリホームするのです。」
大体2LDKなので
100万でリホームは出来ません。

育児中の、
子だくさんのお手伝いになればと
APをかりられにくい、
お子さんのある方ばかり選んだので、

リホームは大変です。

ポプラ並木が折れた台風では、
固定の甘かった灯油タンクが倒れ、
消防自動車の出番前に、
やっと事態を収めたという
ヒヤリハットもありました。

二階と下がケンカしたり、
店子さんの駐車場に客の車が止まり。
「どいて!」と張り紙したから
ケンカになって、
大家さん来てください!

急ぐから、タクシー4000円!
人生勉強!
人間力向上修行!
割り切って、立ち会う。

そして、入居者の居ない時代になりました。
新しい手金のマンションに、時代は移り始めました。

一軒だけ、
親子家庭が、
幸せに入居しているので
固定資産税だけは何とかなっていました。

この間、毎日の雪下ろしと冷えで
子宮の手術を受けて入院。

女性って、、、
重いものをどかせる仕事を
長く続けると
子宮が落ちてきてしまうんですよね!
びっくりしました。

手術後は、コルセットを3枚して、
骨盤保護のタイツを履いて、
下腹部固定して、
雪下ろしをしています。

しかし、天下から見れば、
遊んでいる財産を
化粧して、遊んでいるように
見えたのでしょうね。

雪を下さないとミサワホームは軒が長いので
折れてくるんですよ、

ああああああああああああああああ

もう!!!!
自分の健康だけに絞り込みたい!

71歳は、体がつらい
全てを、終わらせる日の為に
誰によって、
何に使われるのかは知りませんが、

APを格安に売ってしまって
空に投げました。

払うべきところに、
全部、払いました。

なんだか、、、無くなった割には
哀しくありません。
無感動です。

神社の階段を
一段一段登ってゆくように、
何事の、、、おわしまするか  知らねども、、、
今日一日、
今一日、
目の前にあることに
ベストを尽くしただけの70年でした。

付き合ったわけでも
恋をしたわけでも
好きになったわけでもありません。

開業医が、突然過労死したら、
医療施設は閉鎖になります。
外科医だった父の
54歳という若すぎる死は
家族の運命を変えました。

3年以内に
私の実家に来て
内科医の兄
耳鼻科の従弟

やがては医師になる弟らと
新たなチームを立ち上げるからと

未亡人になってしまった母に約束した
外科医が居ました。

一人娘の私は
「医者と結婚せねばならない圧力を感じました。」

私自身は、薬剤師だから
新たな、皆の医療施設ができると、
母のそばに、居てあげれると
しかも、そこでは、仕事もできそうだと、

若き仲間の
「絵に描いた餅のような夢」の
新、病院発足プロジェクトに
赤紙特攻隊になるくらいの決心で
母と、兄に。押され、東京を後にしたのでした。

小学校、中学校、高校、大学と24歳までの
友人、知人には
しばしの別れで、
また会えると思っていた。

北海道出張のイメージだった。
家など、北海道に持つとは考えてもいなかった。

せっかく、薬剤師として
総合病院に勤めていたのに
結婚となると、、退職でした。

見知らぬ性格の
「外科医のもとに嫁いだのでした。」

初めての留萌の寿町の新婚生活の始まりでした。

山登りが好きな私は、
町と名のつく場所なら、
暮らせるはずと思っていた。

違った!!!
留萌の官舎はオール木材で
一枚ガラス、

マイナス20度の冬なのに、
水洗ではないトイレ。

たまたまのオイルショックで
官舎に灯油が補給されない。

スキーヤッケを着て、
毛布にくるまり、
雨降り画面の白黒テレビのアンテナを
針金を細工して
何処に付けるかうろちょろする冬の日

海の断崖に立つ官舎の塀が
舞い扇のように左右にしなり

虎落笛がヒューヒュー波を渡って
暴風となり、
ピーンと張りつめたガラスに
ヒビがめぐらされたように
氷紋が花となる。

家なし、カーなし、免許なし、
家財なし、、、
東京出身の、
故郷への帰郷願望の「外科医を迎えに」

結婚という、
心の家に、
夫として迎へて、
博士号を取得するまでの北海道暮らしという
夫の都合で、留萌にきました。

あのころの事を思うと、
新婚さんの
子育てに便利な2LDKのAPを
提供することで、

将来は、親戚、孫子、皆が集まる
サザエさんのような家を建てるのに、
30年後に必要な
敷地を確保することが、
先決でした。

38年後
地下鉄駅4分
JR駅15分
古くなったAPと、敷地がやっと手に入りました。

76歳、、、と71歳、、、の老人の手に

若き日の
、夢だった
「サザエさんの家」を建てる
敷地が手に入りました。

息子たちは40歳を超えています。
時は、、、待ってくれなかった。
主人の両親も
施設で亡くなり、

若き未亡人だった母とは、
何十年も逢わないうちに
80歳を過ぎて、
父のもとに煙になってあがって行った。

時間が、、、本当の敵だった。

いっこうに、東京に還る気配のない夫、
学童期を迎えた息子。

故郷の匂いのする建売を
とりあえず、
ローンで買いました。
それが、、
3年しか住まないで
ドタバタと、工事が続き、
修理、修理のミサワホームでした。




急な金銭が必要になり
APは売らねばならない日が来ました。

このたび、3か月御家賃は無料、
引っ越し代金10万
店子さんに払って、
引越していただきました。

我が家の事情は切迫していても、
経営者としての
最後のプロ根性で、
店子さんには
追い出された感で、
今までの付き合いにひびが入らないように!
最大の注意と、努力をしました。

女のお子様を育てていらしたので、
幸せな、移動が出来て、
新たな出発感が残るように、

アパートは無くなっても、
人の心をなくさないように、
出ていただきました。

美しい封筒に、
来し方のお礼状が届きました。

私が、残したものは、、、
なんだったのでしょうね?

土地だけの値段と
こわし代金400万差し引き
値下げして
急遽、
相場の半額以下で、
急いで手放しました。

76歳と71歳の私たちは、
頭の働くうちに、
ややこしいものは処分して、

還すべきところに返し、
払うべきところに払いましたら、

手元には、
何も残りませんでした。

不動産手数料は、感謝なので、
仲介さんに、
一番先にお支払いしました。

思えば、役目が終わったAPは
若い人の手で、
また、
新しい役目を果たす建物に建て替えられて
時代についてゆくのでしょうね。

一文無しになったというのに、
駅に近い一等地も、
使う能力のない老人になっていたことに
自分では気が付きませんでした。

老後、
長生きするには、
7万の年金では足りません。

健康こそ、年金です。
健康こそ、宝です。

それにつけても、
屋根の形を設計図と違う修理をしていった
ミサワホームの建築家の
建築士さんが本気で修理してくれたら、

毎年、
激務の雪下ろしをしなくて済むのですが。!!!
重たすぎる冬の雪かきが無ければ、
子宮だって、落下してこないのですが、、、。


同じタイプのミサワホームで
雪下ろしをしないお宅の屋根が

目の前で、軒が折れて、ぶら下がっているのを
目の当たりにすると
子宮はともかく、屋根にあがって
雪を下すのですよね。
お向かいは
小さな、お孫さんがいらっしゃるので、心配です。

我が家だって、3人も孫が遊びに来ます。

危ないですよね、、、、このままでは。

このサイトは、一人の家族と
4人の兄弟の為に
個人的に日記として、
話が解かってもらえるために、

書いていますので、
ほとんど公開していません。

ミサワホームさんが、
もしなんかのサーファーで、
もしも見ることがあっ多なら

現場を見て、
落っことそうな屋根だけは、
危険がないようなアドバイスの
工夫をされた方が
良いと、思います、

今と違って、
北海道の、発展途上の時代の

買ったゆえに
抱え込んでしまった
見えない負債の部分です。

ミサワホームの思い出日記です。
未来の若者家族を
商品化しないための
本社精鋭が、最大の力で

地方の技術者が
担当してくれない時は
大工さんごと、
本州から
連れていらっしゃることが

ミサワの魂の「ベクトル」
「合力」の
バランスを無視しない修理や
メンテナンスが出来る道と
感じたものです。

土地の人は
土地の発展の為にベストを尽くすように、

外からの文化の侵略同様に考えて、

谷間の「ミサワの客、ミサワのフアン」を

消耗の商品にしないで
「主役に抜擢してください。」
ローンで、金銭が払える段階で
「客」なのですから。

会社の愛を見せてください。
それが、誇りある日本の仁義?かもしれません。

貴重な、、、デタ―は
発展途上国に進出するとき役に立つはずです。

原住民は、技術をひきだすのは酋長しかできないという事です。
どうやって、酋長を動かすか。

それが問題だ、、、ハムレット。。。ハムレット  、、、(^^











最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。