花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

冬の仕度

2015-10-20 08:49:22 | Weblog

もう、、45年以上前のことになりますが、、、
そもそも私は、自然豊かな、南紀に生まれて、
世界遺産で知られる熊野の界隈で育ったのでした。

必ずやってくる台風
河原で遊んでいても、、、落雷の火柱を見た幼少の時代。

七か村一軒だけのなんでもできる、戦陣外科を体験した父。
肩から斜めに急所をはずして、穴が開き
雷の通過したやけどの村人が運ばれてきた。

発狂寸前の家族を前に
落ち着いた処置をして、命を救った父が、
私には「眩しい存在」であった。

私は、、、凄いお父さんを見た。

中学生から、幼稚園まで「縦関係で遊んでいた幸運児?」でした。

流れてきた丸太を皆で岸に引き寄せ
蔓で縛りいかだを作る。

乗る事を許してくれたので、
筏に這い上がれば、
深いところで、落っことされる。

もがいたもがいて、、、
泳げるようになった小学校入学前。

水を飲んで、犬かきなのか?背泳ぎなのか?わからない。
バタバタやっているうちに、疲れた頃、
力が抜けて、何もしなければ、鼻もおでこも、沈まないことを体験した。

それからは、兄たちに交じって、川渡りも、瀬渡りも、縁泳ぎも
渦からの抜け方も自分のやり方で体得した。
水泳の、基本を無視した、自己流の川泳ぎでした。
12月の、お兄ちゃんたちが敬遠する寒中水泳にも
焚火の温かい体験がしたくって、のこのこ仲間気取りで
潜っていた。

村のお兄ちゃんの友達が、箱メガネをくれた。
冬の川底は、結構いろんな生き物が生息していた。
南紀の冬は、北海道の春より暖かだった。

お兄ちゃんたちが、山の「そり道」を
木琴をたたくように跳んでわたる。

丸太と丸太の間が30センチ以上あって
私は、、、そこで置いてけぼり。
丸太にぶら下がっても、まだ、
背丈ほど下にある乾いた畑に、落っこちるように降りて、

とぼとぼと、落ちこぼれの一人ぼっちで、
竹藪を抜けて、岐路についた、
涙の悔しい一人ぼっちの体験。

冬はしもやけが出来ないように
マフラーと、手袋、

親たちが、冬の仕度をするのは

白菜の漬物。大根のすだれ。
我が家は、お正月の仕度が、騒々しいほど、
ドタバタと、村の、お手伝いのおばさんや、
親類や、遠縁の親戚が、忙しそうに働いていた。

母は、てきぱきと指示している。
初めは、人が思うように動いてくれなかったらしい。
父親(私の祖父)叔父さん(祖父の兄)の旅館で
板さんと一緒に仕事をして、調理師の免許を取得してから

周りのおばさんたちが、
「調理師さんだから、、奥さんは、、」
「指示されても、カチンと来なくなったのし」
スムースに、作業が行っていた。

「もろぶたいっぱいの食材」を、土間の台所に
高く積み上げ、
漬物も、入院患者さんの分も入れて
そこらじゅうがたるだらけになって
和気あいあいと仕事をしていた。

どんな人にも、プライドがある、
お金や権力で、人のほっぺたをたたくような人使いは
出来上がったものが、信用できないのよ。

心から、納得して、手伝ってくれる人使いはね、
使われる人のすべてを、自分で体験して、その
10倍の力を蓄えないと、人を動かすことはできないのよ。」

母は、明治生まれの女性とは思えない、
近代風な考えの女性の大将でした。

多くの女性たちは、戦争で夫君を失っていた。
それだけに、時として、嫉妬の矛先が
いたいけな、幼い娘に、
赤裸々に向けられることもあった。

「奥さんと私は、小学校の同級なのに、
奥さんは、得しておる!お父ちゃんが生きとったら、
使用人にならんでも、友達づきあい出来てるんやで!」

恨めしそうに、、、
「オンシャハ、生まれた時から、得ばっかりじゃ!」

きょとんとしている私の前で
急に、泣き出したりする人もいた。

戦争のもたらした、後遺症であったと
ふと、、、悪いのは戦争だと、思うのでした。

何よりも、嬉しかったのは
渋柿を剥く干し柿のすだれつくり。

甘くなるころは、落ち着かなかった。

婆ちゃんは、渋柿を焼酎に漬けていた。

そして、南紀ならではの!!!

アユのすだれ干す姿。

天井板のない、大きな丸太の交差する台所のかまど。
その周りに、アユのすだれが何枚もかけられて
正月を待つ。

冬の仕度は、、わくわくでした。

北海道では、大根を干したり
白菜を漬け込んだり、、

若い時は、近所のおばさんに教わって、
身欠きにしんを、米汁に付けて洗い。
大根の乱切り、ニンジンの千切り、きゃべつの乱切り

交差させながら漬け込み頑張った。
結局、しょっぱすぎたり市販の味に負けて、
正月は、お店で買って、少々となった。

東京を19歳で離れ、下宿していた夫も
人頼みの冬声で、冬の知識は「評論家の域を出ない。」

大学では、3か月ごとの移動。
地元の卒業生のように、
小学校から知り合いが同僚という
人間関係ではなかったが
医学部という性質上、
自治や、政治や、地方のしきたりには蚊帳の外に居て
本分に忠実に役目をこなせば
居場所はありました。

よそ者とは言っても
北大は、本州から、多くの学生を合格させていた。
主人は北大の大学院で博士号を取得している。

恐れ多くも、
陛下の御オペをされた「神の手の先生」の
手術を、わがことのように、
まんじりともしないで成功を祈っていました。

40年前、基礎的な実験で、犬を使って
バイパスの論文で博士号を取得したことも、
遠くから、大成功の喜びを
感じることが出来たのだと思います。

私は日大卒です。
今でこそ、陛下の玉体を治された、先生で
北海道にも、日大の知名度は広がって
同窓の私まで、
「日大の先生でしょう?陛下はお元気で何よりですね。」
、、、藤女子大を卒業された奥様が
私の住民権を認めてくださる発言に、
地方の、名門大学の「地方でのオキュペイション」は
ただならないものであると、

郷に入っては郷に従う知恵を学びました。

「よそ者」「おまけにアパート暮らし」

人間関係に、もしもカースト制のような
ピラミッドがあるとしたら、

底辺のグループに所属すると思うのです。

南紀から、故郷の東京に帰ったのが小学校6年生。

あの時は、すんなりと受け入れられて、
色々な県からの集合体の東京は

アメリカ並みの雑居人類が、それなりに共存出来た。

戦争前、東京都では先駆者だった
女学校の先生をしていた母のおかげで、
転校先の先生は、ことのほか、
母の勇気をほめてくださった。

いきなり学級委員に選ばれて、
思う存分、図書館活動もできた。

北海道では、、
言葉で「よそ者と分類」される。

奥さんの言葉、語尾が軽いね!?
何処からこしてきたん?

地元優先の強い絆が感じられる。

かなり長い間、要領の悪い生活に甘んじていた。

しかし、私は日大卒!

いたいた!北海道にも、日大卒は
ばっちりいました。

同期に近い人たちと、出逢うようになり
天街孤独の、育児戦争から解放されました。

冬の仕度も、うっかりすると落とし穴に落ちる
水道凍結や、凍結防御も教えてもらった。

玄関の鉢植えを、全滅させた初めての冬。

鉢植えは新聞にくるんで、鉢を二重にして部屋にとりこむ。
根元には、紅葉狩りした枯葉で覆う、

庭の木々は、竹をつかっれ雪囲いする。

窓は灯油を多く使わない為に
床から一メートルぐらい、
ベランダサイズのガラスを段ボールで
寒さのバリケードを作る。

今は、折り畳み式の「銀色スポンジついたてを使う。」
半分に横に切って、窓に沿ってスポンジ屏風をバリケードに使う。

ともかく、衣替えなどと、のんきだった本州の冬が
懐かしく、べそをかきながら、
冬の仕度に、ばっちり一か月以上、
上鵜労働が続いた。

自宅を持ってから、
本州では、人気の、しゃれた、シンプルな
ミサワを買った。

せめて家、、自宅ぐらいは
懐かしの、本州を感じて過ごしたいからね。

それほど、初めは、地元の季節の厳しさには
耐えがたいものがありました。

ミサワは結露が出るくらい、パネルが緻密で温かい。
しかし。豪雪地帯の北海道の雪の重みを知らない!!!!

冬を知らない屋根の長いデザインは、雪下ろしをしないと
屋根は、このようになりますが、之は目の前のお隣さんです。

借家なので、大家さんは、修復にも、補修にも応じないと
お隣さんは困っていました。

「出るに出られず、雪下ろしで上に登れば
オレごと落ちるだろうと、、

元どうりにするといっても、
俺のせいじゃないし、、
屋根がこんなになるなんて思っていたら
借りないよ!」

ことしの冬はどうなるのでしょうね。?

我が家でも、死ぬ思いの大きな氷塊が落ちて
下の部屋の二枚のガラスを破り
バウンドして、窓側に置いてあった勉強机を
反対サイドまで押しやって、椅子のおかげで
二人の息子の命は助かりました。

厳寒期なので、向日となりの大工さんが飛んで来てくれて
なおした後、天気回復してミサワが来た。

その時は、窓ガラスも、片方は波ガラス
片方は修理の普通のガラス。
桟は酒類の違う木材でなおし、
アルミの窓枠は。こつこつたたいて曲りを修復!

応急手当でしたが、雪害は屋根のみ認められました。

下の部屋の修理の30万は自前です。

若かったので、今もそのまま使っています。
お隣さんの大工さんのしてくれたことを
感謝があり、しいて強く言う気がなく覇気がない言い方で

之って、元のガラスにかえてもらえません?
見に来たミサワのアフターさんに言ったのですが、

お金のかかることは、手続きが大変だそうでした。
そういうわけで、今も、
氷塊の落ちた、窓の下のセメント部分が割れたまま

大成のコンクリーの30センチ四角のタイルを上に並べて
使ってます、、波打ってますけど、。

我が家は、こまめに雪下ろしをしていますが、
一夜で、気絶物の量の雪が降るときもある。

こまめに直さないでそのまま使うと
お隣さんの、今年の冬を超えるのは、

向こう三軒両となり、
皆、こそこそ心配していますが、、、

どうすることもできません。
どうしてあげることもできません。

落ち葉ぐらいはついでに片づけては挙げられますが。。。



本州からの、進出してくるホーム業者の皆さんに

冬対策、雪対策、換気対策、熱巡回で健康対策の
プロ的な設計で、進出してくださりますように。

平にお願いする者です。

、、、というのは。

家の維持は、設計と、施工に有りますが、
本州の進出業者さんの所には、

本州からの肝いりの大工さんを同行して、
雪対策の緻密な施工が必要だと痛感したのは
我が家のケースです。

雪対策の設計から外れた家を買うと、
後からの修理で、
もう一軒買うことが出来るぐらいかかります。

たなこさんはノイローゼになって本州に帰りました。

(++!

そして、、売れません。之は
同じミサワランドの、うちの二階から見えるお隣さんです。
入居されています。



之は、私の家の二階の屋根から見えた、
ミサワホームの、雪で耐えられなくなった軒と
トタンのバンキンが本州のやり方なので
すが漏れをして、
内側からも腐りが来て、
材木が弱くなったための
軒が落ちてぶら下がった写真です。
お知らせしたら、ミサワホームの建築士さんが飛んで来てくれて
一緒に撮った写真です。

この方は、去年豪雪で
私が屋根の雪をおろしきれない時
ヒビが入り始めたのを見て、
雪下ろしをしてくださいました。
スタッフは、本当に、、、いい方ばかりです。
お金があったら、もう一度
漏れないミサワを建てたいと思うほど、
理由はないのですが、、、
内部は、家庭を温かくする不思議な良い日本家屋です。

、、と、云うわけで、ミサワホームの会社にもありますが、

同時に私も「許可を得て撮影した」写真です。

全体を撮っても仕方ないので、
ミサワホーム共通の
軒のデザインが、
どのように雪害に弱いかが
判明するだけで良いと思いましたので、
必要以外の部分の
うつらない配慮をしました。

これからの、ミサワホームの参考になると思います。

現在、新しく建ち始めた近所のミサワの家は
箱型で、素晴らしいのですが、
日本の柔らかな感じのする、私の好きな屋根がありません。


ミサワの建築士さんが説明してくれました。
40年前の、施工と違って、
今はよくなっていますよ、。。とも。

しかし、私の時代は、工事に次ぐ工事で、
根本を気づいて治せるアフターサービスが居なくて、
何回も、
修復しながらも、
みしみしと、ヒビが入る
本州の設計は、雪国には適応しません。
浜のあれ狂う嵐の中に
白いスーツの、都会のダンディが、旅の軽装で立っているような
言わずにはいられない
解ってない、、、都会っ子の弱点があるのと似ています。

私の人生は、、、
人生の時間がリホームにかかりすぎます。

お金も何百万と、無駄な屋根修復になります。
疲労困憊して、大格闘の、冬支度ですが。

ことしも、屋根の雪下ろしかと思うと、
痛し痒しの、マイホームです。

売るにしても、更地にしてくださいという、、
買い手は、「こんなつぎはぎだらけの外観だと、
奈かは、そこそこ、建てた時のモダンがありますが、、
取っ払ってくださいという。

[++  (++   (‘‘  (**   どうする??

抱え込みになり、
水道も冬に耐えられる部分品でないため、

何処からともなく、ちょろちょろ漏れて、

原因がつかめません。

北海道の業者さんは、
水道管の暖房に、
冬は熱戦を播きつけているところもあるようです、

留萌に酋長の冬の三か月は、
一階水を出すごとに
地面地下深く、元栓をひねって落とし込むのですが。

ちょっとした外出には凍らない熱戦を巻いたり
セントラルヒーティングのレンガの暖房を利用して、
お湯をうまく使ったり

カナダや、ドイツの良いところを上手く応用していたり
家は、主婦の動線の延長と心得た
秀逸のデザインと機能を備えたものもあります。

地元の大工さんは、実に工夫していました。
地方の時代を担うミサワになってください。
本州生まれの、私の冬対策、!
参考になれば幸いです、

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