命
自分の意思では生まれることは出来ない、、、命、
自分の意思だけでは、、、
育つことはなかったかもしれない、、、命
父は医師だった。
自分が死んだ一日前、患者さんの手術をした
患者さんが多すぎて、、、過労死の54歳だった。
たぶん、、、自分が死んだのに気が付いていなくて
疲れて眠っていると思っている、、、ダロウ。
兄も弟も」
医師をすることに命をかけて生きている。
息子は大学の附属病院で
ドクターヘリが、秒単位を大切に
生と死の真ん中に居る患者さんを運んでくる。
意識は無い、、、患者さんの命は
医療スタッフの徹夜作業で甦る。
自分が起きていて、深夜の医療行動が
「生と死」の境目の命を
よみがえらせる、
医師としての医師をすることは
命の為。生きてもらうため!
生きてもらうため!。
患者さんの命は、自分のもの?
選挙の葉書なのか?葉書には、
「安楽死という大きな文字」
自分の命は自分で決めたい、、、と
生きてることが
自分の権利のような一行が目についた。
人間の命は、、、多くの周辺に支えられています。
医療界に育ち
多くの患者さんが、
家族の愛情とともに生きていることに接してきた。
飼っている犬や猫にとっても
支え合っている元気の源。
私自身、
薬剤師になってからも、
大学病院の当直の夜の調剤を
朝まで一人で担当してきた経験がある。
ㇿィケリンが投薬されていた処方箋が、
とうとう、、、来なかった夜、
全くの他人なのに、
その薬の請求がが来るのを朝まで待った。
小さな命、大きな命、、、
命に大小なんてないと思った。
弟はがんセンターに勤務していた。
死ぬと解っていたからこそ、
人生を凝縮して生きることに
成功した患者さん方の
生き様を、
「幸せながん患者」を主役に
弟自身が、
医師の目から見たことを
「本に書いている。」
葉書をくれた「安楽死」を考える政治家さんは
ぜひ、、、弟の「幸せながん患者」という本を
一度読んでほしいと、思うのですよね。
弟は、国立がんセンターに勤めていた時、
終末期のがんの患者さんの
痛みをとることで、
残された命を、思い残すことなく燃焼した人に
何人も出逢ったそうです。
柏にあるがんセンターが企画された時期に
終末期の患者さんの
「幸せに生きれる時間の確保の為に」
スタッフ一同、寝る暇もない議論を交わし
終末期の時間の考え方で
廊下を、画廊にすることや、
屋上に庭園を造ることなど、
さいごの一分まで
生きていることを、体感してもらいたいと
柏のがんセンターの病院の青写真とにらめっこしながら
生きること、、、
最後の一分まで幸せに過ごすことが出来ないだろうかと
カウンセラーの大切さや、心の在り方に
全霊をかけて、、、日夜頑張っていました。
建物自体に、
今まで日本にはなかった考えを
取り入れながら、
痛みを和らげて、
生涯を全うしてもらいたいと
スタッフ、コメディカル、カウンセラー、、、eTc.
医療に携わる者のみならず、
親族も、友人も、知人も
不治の病に寄り添っていました。
限られた時間を、悔いないように生きてほしい!
廻りの皆が
思っているのが、
心から直接伝わってくる真剣さでした。
がん患者さんの早期発見と、
痛みのない医療に真剣に取り組んでいた姿には
感動するほど
「医師をする」という事の大変さを垣間見た思いがしました。
簡単に、、、安楽死などと、ドラマのような気軽さで言ってほしくない。
葉書に、バカでっかい字で
安楽死という文字を印刷する気が理解できない。
「安楽死」、、、切腹とは違うと思います。
むろん、、、
「尊厳死」とも似て非なるものだという事を
感じてほしいと思いました。
一歩間違えば、自分を自分で殺すことになりませんか?
自分だから、、、殺していいというのも理解できません。
医師や医療関係者は生涯を「命」と闘う事に明け暮れています。
人間の命は、長かろうと、短かろうと、
裕ちゃんは、不治の病と闘って
本当に頑張られたと思います。
頑張った生き様を示してくれた人は
永遠に、人の心の中で生き続けるとおもいませんか?
人の心に「生き続けてゆく生きざまを、大いなる遺産に。」
諸葛孔明は死んでも人を走らせたと言うではありませんか?
「安楽死を選んだ人も、見送った人も
心に、、、やっぱり、、、やり残した何かをかんじませんか?」
「生きる」「生命」「命」を
もう少し、真剣に深く考えて、
手探りで、医療界で、
命の、生き続けるための手助けになるなら、
薬の分野であろうと、
医師の舞台裏の雑役婦であろうと
命を生かすことが出来るのなら、、、と
人が嫌がる日の目を見ないボジションでも、
エースの大谷君に負けない緊張と、頑張りで
医師たちは闘っているのを、
家内という立ち位置から
正月も連休も誕生日も記念日も
患者さんの命を最優先で生きている
医療人からは
安楽死は考えられないことだと、知ってください。
メビウスの表と裏で、感じながら、
一つの
「生きるための輪を走り続けました。」
命、、、この不思議な、、、無限大の数字の生命体が
人間の命として一つの個体の中にある。
人間の命は時間が支配しているように感じませんか?
多くの人々に支えられた時間であることを、
最後の一瞬まで共有しながら、
戦って死んでゆくのを
見送るという、
死んでゆくものは救えない。
医師も、無力を感じるときだったそうです。
多くの勉強をしてきて、
人間の意識とは関係なく、
人間の体内には
多くの命の営みをしているミクロの集落が無数にあって
各セクションは、生きようと、見事な活動を見せている。
薬学に進んだ私自身
人間の体内の免疫のメカニズムや
薬理的な、伝達物質や、
レセプターの勉強をしているとき、
人間が生きてる限り
生命科学のアクティヴな動きを学ぶにつけ、
自分の命は、人体を構成しているすべての要素が
この世の、都会や、国や、大陸や、海や、空や宇宙のように
自分の体内で、、、「生きているのだ!」と考えるようになりました。
アナログな時代から、デジタルな世界に移行しても、
「生命」に似せることは出来ても
ITでは限界があるはずです。
生命は、時間とともに生きています。
機械では作れない多くの不思議で出来ています。
醤油や味噌にもアミノ酸は含んでいます。
体内で作れないアミノ酸もいっぱいあります。
味噌や、醤油、納豆、果物、魚、、、いろいろなものから
体内では作れないアミノ酸を、
ほかの命からもらっています。
人間の命は、
自分だけのものだと考えるのは、、、
あまりにも、身勝手な考えだと思えます。
母の胎内で、
「命」の、、、もう一人の母である
「胎盤「が
小さな受精卵を人間に育てて行きながら、
母親に、ささやくのです。
主役は、、、あなたですよ!
愚かな母親は、
赤ちゃんは自分の子供だと思うかもしれません。
多くの母親は、母親だから、
子供の命を「天からの預かりモノ」として、
その役割を
授かった以上
ベストは尽くして育児に専念できます。
育児という任務に全身全霊をかけますと、、、
多くの母親は頑張ります。
意識の中では、ある母親は子供を私物と間違える。
ダーリンと、私の子供よ!
未来は野球選手に育てるのよ!
子は鎹よね、、、ウンヌン、、、、
命という不思議を、
預かりモノと考えるなら
子供は放たれた「矢」のように
未来に向かってすすんでゆく命でしょう!
父親も、母親も
我が子だからと言って
別の個体の人間を
自分の物と思ったとしたら
、、、傲慢だと、、、
私はは思っています。
人間という宇宙で、銀河系より多い命の星が
私の身体の中で命の営みをしている、、、「私の命」。
人間は、命の宇宙の集合体だと考えると
多くの命を育んでいる人間が
「命のあるうち」は、
ミクロ、,、、ナノ、、、数多の命の乗っかっている
私というバスの、私は
バスの運転手なのだから、
体調が悪いときは、病院という、
命のプロの居るところで
ハンドルを、止めるのが、謙虚な考えとは思いませんか?
我が身の全部を大切にすることだと思います。
人間という、不思議な生命体は
星の数ほど多くの生命体から出来ています。
生きているという事は、
一人ではないし、
自分だけの一個の命でもありませんよね!。
生命科学の世界の言っている
無限大の生命体の「命」で出来ている。」
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人間に負けない、いいえ、、、
人間より優れた能力のロボットを組み立て乍ら、、、
最後の部品をセットして、
エネルギーを流し、
「そのロボットが、、、お母さん!と、抱き着いてきても、、、」
多くのアプリで動いている限り、「心は生まれない。」
「痛みも、苦しみも、デジタルの世界にはあると思いますか?」
「安楽死」を考えることは、
私的には、、傲慢の極致に思えるのです。
お産は苦しかったけれど、
産道を出てくる赤ちゃんは
もっと苦しいのだから、
あの苦しみを、、、
死ぬとき、、、
もう一度体感するかもしれないという
恐怖はあります。
こんなに苦しいのなら、、、
死んだ方がまし、、、
「死の受容」が、出来たとしたら
苦しみの後押しがあったからかもしれません。
自分の内なる苦しみが
死の受容という、、、
最もむつかしいと思われる
人生の卒業式への心を
助けてくれるでしょうか?
死に急ぐことはありませんよね、、、
必ず、、、死ぬのだから、、、
先走って、独りよがりの安楽死は
廻りから支えていただいた命からも、
内なる、生命科学の「命」
ミクロな我が体内の命まで
奪ってしまう事になります。
野球を人生に例えるのなら
9回の裏の逆転を信じながら、
0点で負けたって、、、
試合は終わりまでやらせてやりたい、、、
我が体内の、生命科学の生き物たちよ。
私の体内の見えない命が、、、
疲れを寝ているうちに
回復させてくれている不思議!
私は、「見えない私の中の命」とともに
一緒に生死を共にします。
置き去りにはしない
命の全うを悲願として生きる。
選挙に際して、、、
「安楽死の葉書が来ることは、???」
生命は自分だけの物ではないし。
命を知り尽くした医師たちが、
最後の最後まで、戦ってくれて、
寄り添ってくれているのだから、
私は、
「安楽死は、考えないと、、、お答えしておきます。」
メカニックな考えが、
一個の独立したモノのように
政治的合理性で処理されるのは
「命」ではなくて
合理性を追求しているように
思っています。
自分の命は多くの生命体によって
生かされています。
人間だけが「命」と考えているのだとしたら、
この問題は、
簡単に考えてはいけないと思います
勉強が必要です。、
簡単に制度を設けてはいけないと思います。
森羅万象、さまざまに支え合って、
「人間の命が在る」と
思いませんか?
選挙の日には
「安楽死」については、
考えたことが無い、、、としか
答えようがありません。
医療人として、命に寄り添ってきた人生でしたから。
政治で生命を制度化しては
あまりにも、表面的な解釈であると
言わざるを得ないと
私個人は、、、怒りを感じながら、思っています。
切腹や、万歳岬の、意識の中の命と
安楽死の「命」とは
何が違うのか、、、
考えてみたいと思います。
命燃えて、、、燃えて、、、これ以上出来ないという
頑張りを示して
寄り添った医師の判断で尊厳死を選ぶことは
自分の命は自分の物だから安楽死を選ぶのとは違っています。、
専門家の究極の判断が方向を示してくれています。
人としての、社会人として生きてきた尊厳を守るために
複数の医師が
命を相手の専門家として
羅針盤になってくれるはずです。
この、、、はがきに記された文には
自分の命は自分の物だから、、、ウンヌン、、、とありました。
安楽死は、何かが、、、初めから、違っていませんか?
私の考えは、
医療人の家で育てられたという事もあり
環境が育ててくれた意識であり、
私が、いつの間にか、「命」を授かったとき、
「あずかった大切なものと、、、」
無意識の中で、思って生きてきた75年間です。