聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の弱さと神の恵み

2006-07-24 | 「聖書と人生」



●「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。‥‥‥私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7:24)。
 
 人間は、だれでも良心を持っていますから、「一人の人間として正義感をもって正しく生きて人生を終わりたい。」という願いが心の底のどこかに必ずあるはずです。しかし、理想と現実との間には大きなギャップがあり、心の中に少しの汚れも偽善もなく、清く正しく生きるなどということはとても難しいということに気づくのです。孔子は、「義を聞きてうつる能わざる(正しいことを聞いて自分を正しくできない)、不善を改むる能わぎる、これわが憂なり」と言い、王陽明(学者)は、「山中の賊は平らぐるに易く、心中の賊(罪や汚れ)は、平らげ難し。」と言ったことはみなさんもご存じだと思います。どんなに正しい立派な教えがあっても、人間にはそれを実践することができないというのです。

 理性では、人間はどうあるべきか、またどのような倫理観を持って生きるべきかということは分かっているのです。しかし、それを実行する力がない自らの弱さに気づくのです。人は、罪の力に対して無力であり、一人の人間が真面目に生きようとすればするほど、もうそれだけで容易ではないことに気づきます。冒頭の聖句は、パウロが回心してクリスチャンになってから告白していることばなのです。クリスチャンになると、それ以前に考えていたよりはるかに人間は罪深く汚れた罪人であることを意識するようになります。ある意味で、このパウロのことばはすべての人間の”心からの叫び”ではないかと思います。人間には善をしたい、正しいことをしたい、日々美しい心で生きたいという願いがあっても、それを行う力がないのです。

 パウロは、信仰をもってから、最初は「私は使徒たちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15:9)と言いました。また、さらに時間が過ぎた頃には、「すべての聖徒の中で一番小さな私・・・・。」(エペソ3:8)と言いました。また、その後、老境に入って殉教直前になってから、「‥『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15)と書いています。「私はその罪人のかしらです。」というのは、世界中のすべての人は罪人だけれども、私はその中で最も罪深い罪人です、ということであります。人間は、聖書の神に出会うとともに、自分が人生を長く経験すればするほど、益々自らが罪深い存在であることを自覚するようになるのです。

 どんな人に対しても、思いやりのある優しい自分でありたい。自分をいかに悪く言いふらすような人でも、心から赦してあげたい。嘘のない誠実な人生を歩みたい。どんなときも他人に対して暖かい広い心をもった謙遜な人でありたい。自分を嫌い、あるいは憎んでいる人でも、分け隔てなく接して、他人の失敗を寛容な心で受け入れてあげたい。国籍や人種、職業、貴賎貧富などに関係なく、一人の人格を持った人間としてすべての隣人を愛する者でありたい。不道徳な汚れた思いを持たず、自分の心をいつも清く保ちたい。どのような誘惑に対しても強い正義感で退け、倫理観を持つ人間でありたい。人間であれば、このような理想はだれでも持っているはずです。しかし、現実にはそれと反対のことをするのが人間の弱さではないでしょうか。

●「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることが出来るのです。」(ヘブル人への手紙2:18)。

●「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 」(ヘブル人への手紙4:15、16)。


 渇きや空腹や疲れを経験したことがなければ、そのような人たちのことを理解するころができません。また、貧しさを経験したことがなければ、貧乏人の気持ちが分かりません。また、鞭で打たれた経験がなければ、そのような人の痛みや苦しさが分かりません。でもキリストは、人間の弱さを経験したことのない全知全能の神のままでななく、ご自身も肉体を持ったこの世に下って来られ人間となってくださり、空腹や渇きを経験され、肉体的な疲れも人間としての苦しみや悲しみも経験され、悪魔(サタン)の誘惑に勝つのがどんなに困難であるかをも経験してくださったのです。だから、人間の弱さも苦悩も理解できる方なのです。
 
 また、イエス・キリストは、人間の弱さをご存じのお方であり、キリストは「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない。」(マタイ12:19,20)と書かれていますように、傷んだ葦、くすぶる灯心のような弱い人間に対して、常に優しく柔和に接してくださった方なのであります。人々から忌み嫌われ、隔離されて住んでいたらい病人がイエス様に救いを求めた時にも、やさしく手を触れ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われると、そのらい病人はすぐに治り、きよめられたのであります。幼い子どもにも、心身に障害を持った人にも、弱い病人にも、同じようにやさしく接してくださいました。

 人間は、精神的にも肉体的にも、種々の周囲の悪い環境や試練に対しても無力な存在なのです。また、その他いろいろな面において弱い者たちではないでしょうか。外面的に(肉体的にも、精神的にも)どんなに強そうに見える人間であっても、実際は弱い存在であります。「どんなに大きな困難に直面しても、それを乗り越え生き抜こうとする逞(たくま)しさと、針の先ほどのささいなことが原因で絶望的になってしまう脆(もろ)さとが一個の人間の中に同居しているのである。」という意味のことを言った人がいますが、これは真実に近いことばではないでしょうか。小さな試練(いや、本人にとっては大きなことかもしれません)で、簡単に死の道を選んでしまう人もいるのです。

 肉体的なことに関しても同様です。若くして頑健な体を持っている人は、自分は強い人間であると思うかもしれません。しかし、使徒パウロは、聖書の中で、人間の体を「土の器」(Ⅱコリント4:7)と表現しています。***** もちろん、実際に神が人を創造されたとき、「土地のちりで人を形造り、その鼻に息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)と記されています。***** 事実、そのときパウロには肉体のとげ(何かの病気か欠陥)があり、彼の体は迫害のために鞭打たれ、体中に傷痕がいくつもあったのです。そして、肉体的には、もう体はボロボロになっていたことでしょう。加齢と共に、益々彼はその肉体的な弱さを感じていました。しかし、そのようなパウロが次のように書いているのです。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

●「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント12:9,10)。

●「・・・・・私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:11~13)。
 

 パウロは、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。」と語って、自らの弱さを何度も語ったのですが、キリストを信じる者は天国に入れられるだけでなく、この地上でも、多くの試練や困難に打ち勝ち、誘惑にも勝利し、肉体的な弱さや病気の苦しみの中にあっても、希望をもって喜んで生きることができたのです。これは、すべて神の力とキリストの恵みによることであります。自分がどんなに弱く無力であると思っている人も、神に信頼する時に強くなることができるのです。いいえ、自分の弱さを自覚すればするほど、益々神に信頼することを学ぶことによって、強くされるのです。あなたも、首をうなだれ、下を向いて悲しそうな顔をして人生を生きる必要はないのです。もっと、力強く、前向きに生きる人生が備えられているのです。

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