聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人間の愛と神の愛

2006-07-06 | 「神の愛について」



  大正時代の著名な作家、有島武郎が語った「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ。」という有名なことばがありますが、意味深長で「真実の愛とは一体何か・・・・?」について考えさせられるのではないでしょうか。ここに人間の愛の本質と限界を覚えさせられるのです。

 人間関係を難しくしている問題のほとんどが愛の欠如によるものであり、愛と憎しみの葛藤が人間を不幸にしている一番大きな原因であると言っても過言ではありません。私たちはだれでも心の中に人に愛されたいという思いがありますから、自分を愛してくれる人がいると、そちらの方に惹きつけられて行きます。しかし、私たちの周りには真実な愛があるように見えてもないのが現実ではないでしょうか。例えば、男女間の愛はうわべは純粋なように見えても、非常に利己的で肉欲的であり、相手の犠牲を要求することが多いのであります。そして、人は、相手に愛を期待するときに、それに応えてくれないと孤独感を味わうのです。人間の愛は常に相手に何かを期待し、求める愛なのです。

 「最高のそしてもっとも深い愛とは母性愛である。」と言った人がいますが、確かに、母親のわが子に対する愛は献身的、犠牲的でこの世の中で一番美しいもののように見えます。しかし、その母親の愛でさえ、自分の子供にのみ注がれるもので、普遍的なものではありません。また、最近は、そのもっとも美しいはずの母親の愛でさえ疑わしくなって来ました。近頃の母親はその実の子をゴミのように捨てたり、殺したり、恐ろしいニュースが毎日のように報道されています。殺伐とした嘆かわしい時代と言わざるを得ません。すなわち、母親でさえも本当の愛を示すことが出来なくなって来ているのです。また、互いに愛し合って二人が再婚したけれども、自分の夫の子供を愛することが出来ないと悩んでおられる方もおられます。

 ギリシャ語で、愛を表すことばが四つあるのをご存じでしょうか。
①『エロス』‥‥男女間の性愛を表すことばで、このエロスということばは、新約聖書には一度も出て来ないのです。
②『ストルゲ』‥‥特に家族間の愛を示したものです。これは、父子、兄弟などの愛を表しているようです。しかし、ストルゲも新約聖書に一度も出てきません。
③『フィレオー』‥‥友情や夫婦間の愛情を表すことばで、新約聖書には4回ほど出てきます。
④『アガペー』‥‥新約聖書には120回ほど使われ、これが動詞になったものは130回も使われています。この愛は、神が人を愛する愛を表すときに使われていますが、自分に敵対する者をも愛する無条件の愛なのです。 

 聖書は神の愛を「アガペー」と言っています。アガペーとは自己犠牲的愛、自分を注ぎ出す愛です。相手に何も見返りを求めない一方的な愛、無条件な愛です。それに対して、人間の愛は自己中心的で、条件つきの愛です。「あの人は誠実な人だから愛する。」「金持ちだから愛する。」「自分に親切にしてくれるから愛する。」というように、条件付で他人を愛するのです。この人間の愛と対極にあるものが「神の愛」(アガペー)であります。何も見返りを求めない純粋な愛なのです。自己犠牲はそういう損得勘定と関係なしに、損得を超えて奉げる愛であります。イエス・キリストが人類の罪のために身代わりに十字架に架けられ、死んでくださったのは、自己犠牲の愛です。どんなに罪深い人の罪をも赦す十字架の愛こそ、神の愛であり、アガペーの愛です。

 この世の中に「完全な愛」などというものが存在しないのです。生まれながらの人間はこのような純粋なアガペーの愛を持っていません。私たちはだれもそのような愛を知りませんし、まただれもそのような愛を持ち合わせていないのです。ところが、聖書には「神は愛です。」(Ⅰヨハネの手紙4:16)と書かれてあります。そして、その愛は「完全な愛」(4:18)であるというのです。神の御子であられるイエス・キリストは、その神の完全な愛を表すためにこの世に来てくださったのです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じ、このお方を知る時に、完全な愛とはいかなるものかを知るのであります。愛の試金石は犠牲であります。十字架は愛のクライマックスです。キリストの十字架の下(もと)に来て、人は初めて「愛」の真の意味を知ることが出来るのです。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

●「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れには刑罰が伴なっているからです。‥‥私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙4:18,19)。

 
 現代は断絶の時代と言われていますが、人と人の間の信頼と愛が失われて行くのは本当に悲しいことであります。親と子、夫と妻、先生と生徒(学生)‥‥これらの最も親密であるべき人間関係にも亀裂が生じてきて、人々はお互いに信じることができず、傷つけ合って生きているのであります。そして、社会のいたるところに分裂や争いや憎しみが満ち、不信感が人々の間に広がっています。しかし、確信を持って言えることは神の真実の「愛」(アガペー)こそは、人生のあらゆる問題を解決する鍵(かぎ)であるということです。人と人を結び合わせるもの------それは神の愛です。お金や利害関係や組織による結合は一時的なものであり、必ず破綻が来ます。

 しかし、人と人とが本物の神の愛によって一つに結び合わされるとき、それは非常に強いものです。愛の絆ほど強いものはありません。「愛は死のように強く、‥‥大水もその愛を消すことはできません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌8:6,7)と聖書にあります。どんな困難に直面しても神の愛はそれを克服することができ、また忍耐する力も与えられます。そして、真実の愛は自分だけではなく、他人をも生かすのです。憎しみは人を滅びに至らせますが、愛は人を生かす力があります。愛は人を赦し、人を受け入れ、人を理解しようとします。断絶した人間関係を回復させるものは「神の愛」であり、人々の心に平和と安らぎを与えるものです。

 聖書は、この世の中は終末に向かうに従って、益々人々の愛が冷えることが予告されています。現在、多くの人々は愛の欠如のゆえに非常な心痛と疲れを覚えなら人生を送っているのではないでしょうか。愛のあるところに渇きはありません。この地上で、もし人が互いに愛し合うことができるならば、人間の心の渇きはどんなにか満たされることでしょう。また、その心の疲れはどれほど癒されるでしょうか。あなたも、この愛に生きる人生を送るために、是非、聖書をお読みになってください。そして、キリストの十字架に表された神の愛がいかに絶大なものであるかを知ってください。神の愛を受け入れるときに、あなたも神と人とを愛する人生を送ることができるようになるのです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

●「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。 

●「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。 」 (イザヤ書49:15)。 

●「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 」(ヨハネの手紙4:7~11)。


 愛の本質は与えることであると聖書は語っています。人間にとって不幸なことは、人から愛されなくなることよりも、人を真実に愛せなくなることです。多くの人は本当の愛なんてないのだ、そんなものは机上の空論に過ぎないのだと考えています。しかし、それで、納得し満足しているかというとそうではないのです。神はイエス・キリストによって、人間の世界に本当の愛を示してくださいました。神の御子であられたキリストは、33年間この地上で人間として生活されました。彼の生涯はご自身を無にして与え尽くすものであったのです。そして、十字架の上でその愛は完全に示されました。神はキリストの愛を今もあなたに与えようとしておられます。あなたがその愛を受け取るために差し出す手が信仰なのです。

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」


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