聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★宿屋には部屋はなかった・・・

2005-12-27 | 「キリストの偉大なる生涯」
 
         

●「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカの福音書2:1~7)。

  ここに、救い主が誕生された時のことが書かれています。イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤ人たちが首を長くしてその誕生を待っていたかというと必ずしもそうではなかったようです(一部の人を除いて)。反対に、当時の世の中の人たちは自分自身のことに忙し過ぎて、キリストがお生まれになるための部屋すら提供しようとはしませんでした。そのためにキリストは家畜小屋でお生まれになられたのであります。それだけでなく、もし神が御使いたちを送って羊飼いに知らせなかったならば、また、星を送って東方の博士たちを導かなかったとしたら、だれひとりキリストの誕生に気づかなかったかもしれないのです。

 そして、今の時代の人たちも全く同じであるということが言えます。世の中の人たちはみな多忙を極めていて、キリストが誕生された意味や目的について、関心を払う人はほんの僅かしかいないのです。だれもかれもみな、自分の生活のことで心がいっぱいで、イエス・キリストが私たちのための救い主として来てくださったのに全く無関心であります。仕事のために忙しい人、生活を楽しむために忙しい人、生活向上のため、子供の教育のため、慈善や社会奉仕のために忙しい人、何かの研究に忙しい人、また、お金を貯めるために忙しい人もいます。そして、誰も自分たちの心の中にキリストを迎えるための部屋を作ろうとしないのです。

 もちろん、多忙なことは必ずしも悪いことではありませんが、イエス・キリストに対して全く無関心になるほどにこの世の生活に没頭してしまっていることが問題なのであります。そして、宿屋以外の場所にもキリストを迎える場所がなかったのであります。王の宮殿にもキリストを迎える場所はありませんでした。ローマ皇帝にとって、ナザレから来た卑しい大工(ヨセフ)と彼の連れ合いであるお腹の大きなマリヤのために部屋を提供することは全く馬鹿げたことであったことでしょう。また、ユダヤの王ヘロデもキリストのために部屋の用意をするどころか、東方の博士たちにキリストの降誕を知らされると、幼子(イエス)を殺す陰謀をさえ現実に企んだのであります。また、この世の賢者たちや学者たちのうちにもイエス様を迎える部屋を用意する人はだれもありませんでした。

 しかし、権力者や地位のある人、知恵のあるや高貴な人はキリストが来られた時冷淡であったかもしれないが、私たちのような庶民は違うのではないかと思われる方もおられると思います。私たちは時々、庶民は裕福な人たちより情け深く、慈悲の心があると考えるかもしれません。ところが、実際は必ずしもそうではないのです。実際、上に記したみことばにあるように、「宿屋には彼らのいる場所がなかった・・・・」(7)のであります。キリストの時代の「宿屋」というのは、金持ちや高貴な人たちの宿泊する場所ではなかったのです。裕福な人たちは友人宅に迎えられます。宿屋は、他に行き場のない庶民のための宿泊施設であったのです。そして、イエス様のための場所がなかったのは、まさにその場所だったのです。

 多分、当時、宿屋は住民登録のためにそれぞれ自分の町に向かっていた旅人たちでごった返していたと思われます。そして、部屋は一つ残らずふさがっていました。そして、だれ一人として身ごもっていたマリヤとその夫ヨセフのために部屋を譲る人はありませんでした。長旅で疲れきっていた二人が泊まる部屋はなかったのです。------こうして、キリストは締め出されて、「家畜小屋」で生まれる運命となったのであります。彼らはみな庶民でありましたが、やはりみな自己中心であり、自分の生活のことしか考えない者たちであったのです。そして、救い主の誕生に無関心であったのです。そして、彼らも自分の心の中にキリストを迎え入れる部屋はありませんでした。

 そして、今日も同様に私たちのたましいのあらゆる部屋は、世の中のあらゆる様々な関心事でぎゅうぎゅう詰めになっているのではないでしょうか。持ち物、快楽、仕事、事業、お金、人々の賞賛や歓心を得ることなどであります。どうでしょうか。あなたは、キリストを汚い家畜小屋に追いやってしまっていないでしょうか。家畜小屋にお生まれになられ、飼葉桶に寝かせられた赤ん坊は、全人類の救い主として来られたお方であり、彼は、王の王、主の主であり、ほかならぬ栄光の神であり、全宇宙を創造された御方なのであります。家畜小屋はイエス様が誕生されるのに最もふさわしくないと思われる場所であります。しかし、神はそれをよしとされたのであります。世界中で最も偉大な御方であるイエス・キリストはこのようにご自身を低くされ、へりくだって来られたのであります。

●「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネの福音書1:10、11)。

●「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 」(ヨハネの黙示録3:20)。

●「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 」(ヨハネの福音書1:12、13)。


 イエス・キリストが来られた目的は、私たち罪人をその罪と罪のさばきから救ってくださるためであります。この御方は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが人の子(キリスト)には枕するところがありません。」(ルカの福音書9:58)と言われたほど貧しくなられました。そして、非常に多忙な日々を送られ、病人や罪に苦しみ悩む者に救いの手を差し伸べられ、ご自身の愛を余すところなく示され、最後にすべての人の罪を背負って十字架で死なれたのであります。今日、あなたは、このようなすばらしい救い主を信じ、心の真中に迎え入れるなら幸いであります。