聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「痛み」の意味を知る

2005-11-23 | 「人生の試練と逆境」
   
        

 私たちは、何かの病気や疾患や怪我などで痛みを覚えるときに、その辛さに「どうして早く痛みが治まらないのか‥‥」と思う時があります。また、「体に痛みがなければ、どんなに楽だろうか。痛みを感じることがなければいいのに‥‥」と思うこともあるでしょう。しかし、考えて見ますと人間にとって痛みはどうしても必要なものであることが分かります。「痛み」は、私たちの体の防御装置であり、生命を維持して行くために必要不可欠のものであると理解することができます。
   
 ある医者は「医療は痛みに始まり、痛みに終わる。」と言いましたが、これは含蓄のあることばではないでしょうか。なるほど、医者の仕事の中の多くは「痛みを見分けること」から始まると言っても過言ではないと思います。「頭が痛い。喉が痛い。胸が痛い。胃が痛い。お腹が痛い。腰が痛い。関節が痛い。目が痛い。耳が痛い。歯が痛い。足が痛い。背中が痛い。」など、いろいろな痛みを持って、人々は病院にやって来ます。病気の初期の段階においては、医者はその人の痛みの訴えを聞きながら、何が問題なのかを探って行くのです。痛みは、私たちの体の中に何かの異常があることを知らせてくれる警報装置の役目を果たしているのです。

 「先天性無痛覚症」という非常にまれな病気があることをある本で読んだことがあります。生まれつき「痛み」の感覚がない病気です。痛みがないために怪我をしても気がつかないのです。凍傷や火傷になっても痛みがないので、分からないことも多いのだそうです。傷はそのまま放置されるので、そこから菌が入って深刻な感染症を引き起こします。また、制御作用としての痛みがないために力を入れすぎて自分の骨を折ったり、筋肉や関節に傷をつけたりしてしまうのです。自分の歯を抜いたり、自分の眼球まで取り出してしまう子供たちの例もあるそうですから驚きです。性格的な特徴は、共通して短気で怒りっぽく、自己中心的、かつ冷淡であるという性質を持っているということだそうです。

 このように、痛みというのは、私たちの健康を維持する上で不可欠であるばかりでなく、人格形成においてもきわめて重要であることをこの疾患は物語っています。「痛み」を知らない者は他人の痛みも知ることができないので、思いやりが欠けた人間になるわけです。いつでも、苦しみは苦しく、痛みは痛いのです。しかし、人間は苦しむことによって人間らしくなり、痛みを経験して人間らしくなるのです。痛みはいつも人間を成長させるとは限りません。しかし、痛みを経験することなしに人間は成長しないということは確かなことではないでしょうか。人生のいろいろな挫折や悲哀、失敗を繰り返して他人の痛みが分かる人間に変えられて行くのです。 

 ある癌に罹った医者がいました。余命はあと二、三年と診断されたのです。そして、その医者は癌と診断されてから変わってしまったのです。彼は、悩める患者を医師が治療するのではなく、悩める患者と同じ悩みを持つ医者がともに痛みを担いつつ、治療する医者に変わって行ったそうです。常に患者の側に立って、患者の側から見る(診る)医者に変貌したのです。彼は、どうして医者でありながら、患者の側から物事を見ることが出来たのでしょうか。それは、明らかに彼自身が患者になり、その痛みを共有するようになったからであるということです。

●「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(イザヤ書63:9)。

 さて、下に記したイザヤ書のことばは、人類の救い主となられた神の御子が人の姿をとってこの地上に誕生される七百年以上も前に、預言者イザヤによって預言された旧約聖書のことばであります。ここで「彼」というのは、メシヤとして来られるイエス様のことを示しているのです。救い主イエス様は、私たちの病を知り、その痛みを担われた方であります。主イエス様は痛み苦しむ者の痛みをお知りになられ、共に苦しんでくださった方です。主イエス様は人々の涙も痛みも知っておられます。このような御方が私たち罪人のために身代わりに十字架にかかられて尊い血を流して死んでくださったのです。
  
●「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 」(イザヤ53:3~7)。

●「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』 」(マタイの福音書8:16、17)。


 キリストを信じて贖われ、罪から救われた者たちが行こうとしている天国では、もはや痛みや苦しみというものがないのです。どのような種類の痛みもありません。肉体的な痛みも心の精神的な痛みも、もはや永久に過去のものとなるのです。クリスチャンにとって、痛みと苦しみというのは、この地上にいる時だけのものです。しかし、キリストの救いを拒む者の行く所は、「永遠の苦しみ」が続くところです。「彼らは、永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(ヨハネの黙示録19:10)とあります。どうか、私たちの痛みを共に担い、最後には十字架で死んでくださったイエス様の愛を拒むことなく、信じて救われてくださいますように心からお祈りします。


●「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみ(痛み)もない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 (ヨハネの黙示録21:4)。