聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生という旅について

2005-07-24 | 「聖書と人生」

    私たちの人生は、よく旅に譬えられますが、旅にもいろいろな旅があります。観光旅行もあれば、仕事の出張での旅、急な用事が出来ての旅、家族の慰安旅行など、様々です。 また、気ままな一人旅もあれば、集団で行動する団体旅行もあります。

●「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。 」(詩篇119:19)。

●「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのす。 」(詩篇39:12)。


 ここで、この詩篇の記者は、自分のことを「旅人・寄留者」と言っていますが、「旅人・寄留者」というと、何となく寂しさとか、孤独感を感じさせる響きがありますが、確かに人生とはそのようなものではないでしょうか。しかし、ここに「あなたとともにいる旅人」とありますね。何よりも神がともにおられる人生の旅は幸いであります。人生は、確かに長い旅ですが、「人生」を旅にたとえて、いくつかのことを考えてみましょう。

【1】旅と地図。
 まだ、行ったことのない新しいところを旅する場合、どうしても必要なものは地図であり、また、道しるべであります。最近は車で知らない土地を旅行する時も、「カーナビ」という便利なものまで出来ました。私たちの人生の旅においても地図と道しるべが必要ですが、それが実は「聖書」なのであります。人生は毎日が新しい経験であり、どうしても人生の指標となり「道しるべ」が必要であります。聖書のみことばに頼る人生こそ、絶対に安全で確実な旅をすることができる幸いな人生であります。人生の暗い夜道も、みことばの光によって導かれる時、常に平安であるのです。

●「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 」(詩篇119:105)。

【2】旅と荷物。
 旅に慣れていない人は、あれこれと色々な物を持ち過ぎて、あとで後悔したりすることがありますね。旅をするとき、あまりに大きな荷物、多くの荷物を持ちますと、非常に疲れてしまうことがあります。特に長旅の場合は、荷物が多いと疲れてしまいます。「人生の旅」も同様ではないでしょうか。日光の東照宮にある徳川家康の遺訓に、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。」というのがあります。確かに私たちの人生は、様々な試練や困難に直面するのであります。このような多くの悩み、苦しみの重荷があり、様々な試練や困難に直面するのであります。このように多くの重荷を負いつつ、長い人生の道程(みちのり)の旅をしているのが現実の人間の姿ではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストは、私たちの人生の重荷を全部負ってくださる方であり、旅の疲れを癒してくださる方であります。重い荷物を持って歩いている時に、誰かがその荷物を持って助けてくれるときに、急に体が楽になってとても助かることがありますね。イエス様は、私たちの心配事や悩み、罪の重荷など、人生の様々の重荷を負ってくださる方なのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

【3】旅と道連れ。
 さて、旅が楽しいものになるかどうかは、どのような道連れと共に歩むかによって決まることが多いのではないでしょうか。旅の途中で気疲れするような気の合わない道連れと一緒になって、旅が全然楽しくなかったという経験をされた方もおられるかもしれませんね。また、とんでもない道ずれといっしょになって荷物もお金もみな奪われてしまったという話も何度か聞いたことがあります。結婚して夫婦になることも、人生の途中で出会って生涯ともにする道連れであります。しかし、私たちの人生の旅において、どうしても歓迎しかねる二つの道連れがあります。それは、「罪」と「死」という道連れです。

 ある方は自分の道連れとなっている「罪」に気づいているかもしれませんが、ある人はそのことに気づいていないかもしれません。しかし、人が気づいていてもいなくても「罪」とう同伴者がいることはいることは確実であります。同伴者というよりも、その人のうちに住み着いているというのが、本当だと思います。これは誰にとっても嫌な道連れですね。そして、もう一つの歓迎しかねる道連れは「死」といういやな同伴者なのです。

●「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」 (Ⅰサムエル記20:3)。

 このみことばは、イスラエルのダビデ王が語ったことばですが、彼だけではなく、すべての人について言えることであります。人間の「死」をテーマにした「化石」(井上靖著)という小説があります。この本の中に癌のために余命一年と宣告された主人公が登場するのですが、彼は、どこへ行っても何をしていても「死」という同伴者がいて、いつも語りかけ、囁きかけるので心が暗くなって行くのです。そのような時に、主人公は数日前、元気で別れた健康ではちきれんばかりの友人が突然、死んだという悲報を聞くのです。そして、彼は、「だれでも死がいっしょに歩いているが、それに気づいていないだけではないかと考えるのであります。ですから、人生ははかないものであり、いつ、この世を去るか誰も分からないのです。

 しかし、神の御子イエス・キリストは、この人間の「罪」と「死」という縄目から私たちを解放してくださるために、父なる神から遣わされ、十字架で死んでよみがえってくださった救い主なのです。

●「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されまし。 」(Ⅱテモテ1:10)。

●「‥‥これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 」(ヘブル人への手紙2:14、15)。


 ですから、キリストを信じる者にとっては、十字架で死んでよみがえられたイエス・キリストが新しい道連れとなってくださるのです。

●「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」(ルカの福音書24:13~15)

 復活なさったイエス・キリストは、その日の午後、疲れ果てて悲しみに沈みながらエマオという村へ向かっていた二人の弟子たちのところに現れました。そして、彼らといっしょに歩いてくださったのです。今日も、同様であります。キリストを信じる者は「罪」と「死」という道連れから解放されるばかりでなく、今度は、全く新しい道連れである主イエス・キリストが常に共に歩んでくださるのであります。これは何と幸福な人生ではありませんか。イエス様は、私がキリストを信じた21歳の時から今日まで、40年以上の間、常にいっしょに歩み、慰めと安心と希望をお与えくださったのです。

●「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。