聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★見ないで信じる者の幸い

2005-07-11 | 「信仰と救いについて」

●「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように。』と言われた。 それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』 トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』 」(ヨハネの福音書20:26~29)。 

  これは、イエス様の弟子の一人であった「懐疑論者トマス」に言われたことばです。人間にはだれでも疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともあるのです。動物は信じることもありませんが、また疑うこともないのです。人間は、時と場合によって疑うことも必要であります。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。怪しげな新興宗教を信じて、その人の一生が破滅的な大打撃を受けた例も決して少なくありません。また、人は、詐欺師に騙されて大変な損害を被る場合もあります。しかし、「信じる」ということは人間が生きて行くことにおいて基本的に大切なことなのです。

 トルストイの言葉に「信仰とは、人生の力である。」というのがあります。確かに人間は何かを信じなければ生きることができません。その証拠に、一人の人間が何も信じられなくなったとき、「死」を考えるようになります。私たちは、無意識のうちに本能的に実に多くのことを毎日信じて生きています。夜、床に入る時に、一夜が明けると、東の空から太陽が昇って明るい朝が来ることを信じて安心するのです。夜のまま暗闇が永遠に続くなどと考えたら、床に入るのも怖くなるでしょう。朝の来ない夜はないのです。車でトンネルに入るとき、必ず出口があると信じて走っています。出口のないトンネルを考えたら、ちょっと怖いですね。子供はお母さんの作ってくれたご飯とお味噌汁をおいしそうに食べています。お母さんを信じているからです。この味噌汁に毒が入っていないかな?などと考える子はいないでしょう。

 病気になった時に医者に行くのも、医者を信じるからです。医者と患者の間に信頼関係がなければ、医療行為は成立しなくなります。愛し合う二人の男女は互いに相手を信じて結婚に踏み切ります。夫婦というのは、血のつながりがないのに最も親密な関係になります。その土台はやはり信じ合うということです。家庭も夫婦や親子関係が信頼しあってこそ、成り立つのです。信じるということがなければ、家庭に平和や安らぎがあるでしょうか。小さな子供でさえ父親や母親を信じます。「信じる」という能力は、非常に不思議なものであり、人間だけが持っているものです。

●「信仰がなくては神に喜ばれることができません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなけれならないのです。」(ヘブル人への手紙11:6)。

 さて、神と人を結ぶものは「信仰」です。神と人を結ぶものは信仰以外には決してありません。これは基本的に大切なことであります。線の切れた電話は何度掛けても通じません(現在の携帯電話やコードレスは考えないでください。これは譬え話ですから‥‥)。また、電流の流れていない電灯は光や熱を出すことができないのです。また、電車も上の電線に触れてこそ、電力を受けて走るのです。それと同様に人間も力と生命の源である神に連なってこそ力と命を受けることができるのです。神との接触がなければどうして、神の力を知ることが出来るでしょうか。パウロは、自らの弱さを知っていた人ですが、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでも出来るのです。」(ピリピ人への手紙4:13)と言っています。

 では、何を信じてもいいのかというと、そうではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。聖書は、私たちが、信じると信じないとを問わず、真に事実である多くの事柄を記しています。神の存在。人間の罪。天国と地獄の存在。キリストが神の御子であること。キリストの復活の事実。キリストの再臨の事実。人が信じても信じなくてもその事実そのものは変わることはありません。しかし、それを信じるかどうかということは、私たちの将来(永遠の未来)を決定するほど、重要なことであります。では、一体、何をどのように信じるように聖書は教えているでしょうか。次の七項目に注目しましょう。

(1)神が天地万物を創造されたこと(宇宙も地球上の生物も人間もすべて)。
●(創世記1:1~31)
(2)すべての人は神の前に罪人であること。
●(ローマ人への手紙3:10)
(3)私たち罪人のために、死んでくださった救い主がおられること。
●(Ⅱペテロの手紙3:18)(Ⅰペテロの手紙2:24)
(4)キリストご自身が救い主であり、来るべき救い主であることを証明されるため
   に死からよみがえられたこと。
●(ローマ書1:4)(使徒17:30)
(5)神は私たちに救い主キリストを信じるように望んでおられること。
●(Ⅰヨハネの手紙3:23)
(6)キリストを救い主として信じることは私たちの救いを保証すること。
●(使徒の働き16:31)
(7)救われる他の方法はないということ。
●(使徒の働き4:12)(ヨハネの福音書14:6)。


 ある人は、次のように言われます。「キリストがで死なれたのは二千年前のことなのに、どうして私たちの罪の赦るしと関係があるのか?」と。二千年前の日本はまだ弥生時代でした。弥生時代にどんなに偉大な人物がいたとしても、現代の私たちには、全く無関係であります。確かにキリストが単に過去の偉人であるならば、実質的に無関係です。しかし、キリストは単なる偉人ではなく、神の御子であり、全人類の罪の赦しのために十字架で身代わりに死なれた御方なのです。キリストの死が、すべての人の犯した罪を赦す力を持っていることは次の二点で明らかです。

(1)神は全能のお方で、未来のすべてを見通しておられるということです。人間は未来のこと(5分後のことすら)は分からない者です。しかし、神はすべてのことをご存じであり、ですから、二千年後の私たちのこともすべてご存じであり、その上で、十字架に架かられたのです。

(2)イエス・キリストは、今も生きておられるということです。もし、キリストが十字架で死なれたままなら、今、彼に何の力もないことになりますが、キリストは復活せられて今も生きておられ、天において人々のために執り成しておられるのです。

●「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおで きになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。 」(ヘブル人への手紙7:24、25)。

 皆様が、是非一日も早く、この尊い救いをお受けになられますようにお祈りしています。冒頭の聖句にありますように、イエス様はトマスに対して、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。この頃から約2.000年の間、クリスチャンになった人たちは、みなキリストを肉眼で見ずに信じて来た人たちなのです。聖書は神のことばですから、そのまま信じる時に心からの平安と救いの確信を得ることができるのです。

●「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(ペテロの第一の手紙1:8,9)。
 
●「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 」(ヘブル人への手紙11:1)。