聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★現代人の心の病い

2005-07-04 | 「人生の幸せと平安」

 ある男の人が医者のところへ行って、「最近、何か気が滅入ってしまうことがあるんです!どこが悪いか診てもらいたいんですが‥‥。」というような話をして先生に診察をお願いしました。医者はくまなく彼を診察したあと、「どこにも悪いところは全く見つかりませんでしたよ。」と、その男に伝えました。「あなたは公園へ行って子供たちが遊ぶ姿に見惚れ、自分を忘れる必要がありますね。そうすればよくなると思いますよ。」ところが、「だめです。そんなことは何度もやってみましたが、役に立ちません。」と男は答えました。

 「そうですか。では、映画でも見に行って、スリルのあるわくわくするような場面でも見て、楽しんで来たらどうですか?」と医者は勧めました。「先生、それもだめです。映画も数年観ていますが、あんなものの中には、私は満足を見出すことができません。」と、その病人は言いました。そのとき、あることを思い出したように、医者の顔は急に輝きました。というのは、彼はその男の人に対する最後の治療法を思いついたからです。「あなたにとって良いと思われることを私は知っています。」と、その医者は言ったのです。

 「私は、昨日、町へ来ているサーカスの大行進を見ましたが、その中の一人の道化師がいましてね、いや、もう私は抱腹絶倒というか、死ぬほど笑いましたよ。私はあんな面白い滑稽な男は今までに見たことがありません!あなたもあのサーカスへ行って、あの道化師を見たらどうですか。あの男は、きっと、君のすべての悩みを忘れさせてくれると思いますよ!」 しかし、その男は首をうなだれるようにして答えるのでした・・・・・。「先生、あなたはお分かりにならないでしょうが、実は、私がその道化師なのです・・・・・・。」 それに対して、「・・・・・・・・・・・」その医者は驚き、何も答えることができなかったのです。

 みなさん、これこそ、現代の数多くの人たちの偽らぬ姿ではないでしょうか。彼らは、顔では笑っていますが、心の中では、ひそかに悩んでいるのです。街角や信号待ちをしながらメールを打っている女子高生や公園のベンチでひとり考え事をしているご老人の姿も孤独に見える時があります。デパートで家族そろって買い物をしている人たちを見ると、一見幸福そうにみえますが、やはりその人たちの中にも目には見えない心の悩みがあるかもしれません。
 
 また、急ぎ足で出勤して行く人々の背にも、私は何か孤独な人間の姿が見えて来るのですね。人を笑わせる仕事をしている人たちの心の中を覗くと、他人(ひと)には言えない悩みがあるでしょう。そして、その面白いテレビ番組を見て、声を出して笑っている人たちも、一時の寂しさを忘れさてくれるかもしれませんが、自分の部屋では孤独を噛み締めているのかもしれません。

 道に迷って泣いている子供を見たことがあるでしょうか?でも、その子供にお菓子をあげても、泣き止みませんね。お父さんか、お母さんの顔を見ると、ニコッとした笑顔が戻って来て、ホッとすることがありますね。それと同様に、人間は愛なる真の神様から離れては、国がどんなに経済的に繁栄し、物が豊かになっても人の心は神に帰るまで満足がないのです。

 人間は、対物ではなく、対人関係の中に生きており、「人間」は「人の間」すなわち人間関係がうまく行かないと幸福であるとは言えません。そして、神との正しい交わりがなければ、人とも関係もうまく行かないのです。また、同様に人間は霊的な存在として造られているので、真の神様との交わりなしに本当の幸福であるとは言えないのです。この世のお金や名声、快楽などは迷っている子供に与える”玩具”のようなものではないでしょうか。

●「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。 」(箴言14:12,13)。
 
 正しいように見える道であっても、究極的には、それは死と滅びに至る道であります。それは、人間が神から離れ、自己中心の罪の中を歩んでおり、その心が曲がっているからであります。自らの死のことを考えると、「笑い」は、人間の心を一瞬だけ忘れさせるだけであります。神に立ち帰るまで、本当の平安は得られません。どうか、神に立ち帰る勇気を持ってください。

 ルカの福音書15章のイエス様がなさった譬え話に、有名な「放蕩息子」の話がありますが、この息子は私たち神から離れた人間を示し、父親は神を示しています。この譬え話は、本当は「父親(神)の愛」の話なのです。息子が悔い改めて帰って来たとき、父親はどうしたでしょうか。ここに、神があなたの帰るのを待ち望んでおられる神の愛が余すところなく示されています。キリストの十字架で流された赤い血潮によって、すでに、罪人が神に帰る道は備えられています。それは、今から約2000年前の出来事です。
 
●「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカの福音書15:20)。

●「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ書55:7)。

●「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 」(ヨハネの福音書14:27)。