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聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神に「ゆだねる」とは?

2007-01-09 | 「信仰と救いについて」



 最近、ある方から「”神(またはキリスト)にゆだねる”とは、どういうことでしょうか?」というご質問をいただいたのですが、同じような内容のご質問を別な時にも何度か受けたことがあります。それで、今年最初のブログの記事にそのことについて少し書いてみたいと思いました。私はこの質問をいただいた時に、ある場面を想像して見たのです。お母さんの腕の中にスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている幼子(または赤ちゃん)の姿です。そして、そのお母さんは温かく優しい眼差しでわが子を見ています。みなさんもちょっと頭の中で、そのような場面を想像してみて下さい。そのようなことは想像しなくても、みなさんは何度もそのような場面をご覧になったことがあると思いますので、分かりやすいと思います。

 お母さんの懐(ふところ)の中にぐっすりと眠っている幼子は、とても幸せそうですね。そして、お母さんの顔も幸せそうに見えますね。いや、幸せそうに見えるだけでなく、実際に幸せなのです。お母さんにゆだねきったこの幼子は私たちに何か語っているように思われませんか?このことから、はっきり言えることは、その幼子は、お母さんの愛を信じきっています。ですから、安心してお母さんの腕の中に自分をゆだねて眠っていることが出来るのです。私たちが神様を信頼しきってゆだねることもこれと同じようなことではないかと思います。神様は肉眼では見えませんが、実在される御方であり、また人格をお持ちの御方です。そして、神様は私たち一人一人を個人的に愛しておられる優しい御方なのですね。

●「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)。
 このダビデの詩篇を読むと、私は彼が神様の愛を信じてゆだね、乳離れした子が母親の前にいるように、安心して神様の御前にいる姿を想像することができます。それは、何と平安で幸せな姿ではないでしょうか。神は愛であると同時に、真実な方でもあります。そして、また同時に全知全能の御方であります。あなたが、何かとても大切なものを誰かに託すとすれば、全く信用できない人にその大事なものを委ねることは決してなさらないでしょう。その人が信頼できる人であるかどうかをまず考えると思います。あなたの持っている何かではなく、あなたの人生、あなたの将来、いや、あなた自身をゆだねることを考えるならば、決していい加減なものにゆだねることはあり得ないと思います。

●「私たちは真実でなくても、彼(キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテへの手紙2:13)。

 イエス・キリストはこのように常に真実な御方であります。人を信頼しても、私たちは度々、裏切られることがあります。また、あることを約束しても守らない人もいます。人間は、自分も含めて誰でも弱さがあります。最初は約束を守るつもりでいても、結果的に守れなかったということもあります。また、最初は人を裏切るつもりなど全くなくても、結果的にその人を裏切ってしまい、大切な友人を失ってしまうということもあり得ます。それが人間の弱さであります。しかし、父なる神様もイエス・キリストも、本質的に真実な御方であり、そのようなご本質をお持ちの御方なのです。裏切ったり、約束を破ったりなさることは決してありません。

 もし、あなたがまだキリストを自分の救い主として受け入れ信じることを躊躇なさっておられるのならば、是非、あなたの罪のために身代わりに十字架に掛けられて死んでくださった御方(イエス・キリスト)を信じる決心をして、あなたの人生をいっさい神にゆだねてください。そうすれば、救いの確信と平安が与えられます。また、あなたの人生に重荷や思い煩いがあるのでしたら、それらをいっさい神様にゆだねて下さい。そうすれば、人知を超えた平安が神様からいただくことができるのです。もし、あなたに将来の人生設計や計画があるならば、それを主にゆだねてください。そうすれば、神様はあなたのために最善を成してくださるのです。

●「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)。

●「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロの手紙5:7)。

●「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

●「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)。

●「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」(詩篇31:5)。


 この詩篇31:5のみことばは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時の最後の祈りでありました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)。父なる神様と御子イエス様との間には、完全な信頼関係があり、そこには微塵も疑いの入る余地もなかったのであります。そこには全き平安があったのです。イエス・キリストは、あなたのために十字架で身代わりに死んで下さり、よみがえられた方であります。キリストの地上の生涯は、人々の嘲笑と罵倒、苦難と迫害、そして十字架の耐え難い苦痛と渇きがありました。しかし、いついかなる時も完全に父なる神にゆだねて切っておられたのであります。下に記したみことばのとおりであります。

●「キリストは罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せ(ゆだね)になりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。・・・・」(Ⅰペテロの手紙1:22~24)。

 「ゆだねる」ということは、また「自分を明け渡す」ということでもあります。自分の計画や意志や考えを捨て、神様に一切を明け渡すことです。中途半端な明け渡しは、返って疲れるだけになるだけかもしれません。例えば、疲れ果てているあなたの前に椅子があるとします。でも、その椅子に座れば、休むことができると頭では理解しても、実際に座らないと休息することができません。また、その椅子は自分の全体重を支えられるだろうかと心配して、その椅子に恐る恐るその椅子の前の半分を使って、中腰になって座ったとしても少しも休むことができません。その椅子に全身をゆだねきって、初めて真に休むことができるのです。

 それと同様に、どうか、あなたもあなたの救い主イエス・キリストに全幅の信頼をおいて、いっさいをゆだねてください。そうすれば確かな安らぎが来るのです。そして、信仰生活は、決して「自分の力で頑張る」ことではないのです。愛なる神と、イエス・キリストにすべてを明け渡し、ゆだねるのです。私は海上保安学校時代、18歳の時に初めて海で泳ぎを習ったのですが、自分の力で一生懸命泳ごうとしても益々沈んでしまうのです。そのとき、教官が「お前、そんなに力を入れなくてもいいから全身の力を抜いて見ろ!!」と言われ、そのとおりにやってみたら、確かに海水の上に仰向けになって寝るようにしたら、体が浮いたのです。その時の感動は今でもはっきり覚えています。神を信じることも同じことなのではないでしょうか。

◆Eメール: goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」

                 
 

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