大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

画壇5 続・漫画編

2011-05-10 00:40:28 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 手塚とトキワ荘の青年漫画家たち









 本編に登場する若き天才:手塚治虫 藤子不二雄 石森章太郎 赤塚不二夫 つのだじろう 横山光輝 松本あきら


 やがて連載の人気も安定し、手塚は当時を代表する人気マンガ家の一人となる。まだインターンが終了する前後のことだった! 
 しかし、子供たちの人気はまだしも、マンガはまだまだ社会的に認知されていなかった。悪書追放運動が盛り上がるたびに、人気マンガ家・手塚治虫は真っ先に槍玉に上げられることになる。家族からも、マンガをやめて医師になるように説得される。
 ファミコンが登場した当時も、目が悪くなるだの外で遊ばなくなるだので、世間は散々非難していた。インターネットも、犯罪を助長するだの何だので、激しい批判に晒されている。ケータイも同様。新しいメディアが保守層の反発を招くのは、いつの時代も同じ。彼らは、若い世代が自分たちに支配できない力を身に付けることを恐れているだけで、新しい時代を新しい気持ちで生きようとしない。
 手塚は、雑音に耳を貸さず、自分の仕事に打ち込んだ。25歳のときには関西、翌年には全国の画家の中で所得第1位となっている。その猛烈な仕事ぶりは、他のマンガ家の嫉妬を招いた。そこには、彼が関西出身のよそものだというムラ意識もあった。
「手塚は、がめつい奴だ」
 マンガ家の間には、そんな風評が流れた。いまだに、手塚以前の世代のマンガ家やアニメーターの間では、彼の評判は良くない。手塚治虫は新しい時代を築いたが、それと引き換えに昔からのマンガやアニメを凋落させた張本人でもある。だが、新たな時代を生み出す上で、これは避けられない道だろう。
 手塚がこれほど仕事をしたのは、何も贅沢をしたかったからではない。本人は四畳半のアパートで満足していた。実は、資金を貯めて、アニメスタジオを設立しようとしていたのだった。
 彼は子供のころ、よく戦意高揚のためのアニメ映画を見せられた。これは効果的で、青春時代の治虫少年は、あれほどひどい目に遭いながら、日本軍の正義を固く信じていた。手塚は、アニメーションが青少年に与える影響の強さを、身を以て痛感していた。
 だからこそ、アニメーションを通じて、青少年に平和の尊さを訴えたいと強く願っていた。事実、手塚治虫がマンガやアニメを通じて、終生多くの青少年に戦争の悲惨さを語り続けた影響と功績は、計り知れないほど大きい。

 しかし、手塚治虫が有名になり出したころから悪書追放運動は本格化し、彼は売り出し早々「青少年に悪影響を与えるマンガ屋」との烙印を押される。今考えれば、ブラックユーモアにもならない。6年も前に発表したマンガのキスシーンを批判されたり、太股を描いたという理由だけで、店頭に本を置いてもらえないことさえあった。
 大人たちは、子供の成績低下ばかりか、不良化までもマンガのせいにした。校庭にトラックいっぱいのマンガが積み上げられ、焼かれたこともあった。秦の始皇帝による焚書を思い出させる。このようなことが、戦後の民主主義の時代に現実にあったことを忘れてはならない。
 この運動を推進したのは、政治家、文化人、PTA、教育評論家、児童文学者など、要するに、良識を代表するあらゆる大人たちだった。彼らが率先して、表現の自由を破壊しようとしていたのだった。『赤胴鈴之助』などは、剣で斬り合う場面がふんだんに登場するのにもかかわらず、鈴之助が親孝行だからといって批判を免れたのだから、この運動がいかに欺瞞に満ちていたかが分かる。
 天台大師は、仏経の最大の敵は、外部ではなく、僭聖増上慢、すなわち形式だけの聖職者であると説いた。この2千年前の慧眼は、今日の形骸化した葬式仏教の現状を見る限り、的中しているといえるだろう。そしてこの方程式は、あらゆる分野に当てはまる。良識の最大の敵は、良識を語る良識無き人々であろう。

 社会からも、仲間のマンガ家からも嫌われ、愛する家族にさえ反対され、孤立する手塚治虫。だが、手塚はそんな批判と孤独をも闘魂に変え、マンガを宗教の域にまで高めた大作『火の鳥』や、『少女マンガ』というジャンルを確立した『リボンの騎士』などの代表作を発表していく。
 代表作『鉄腕アトム』にも、手塚の悲しみと達観が込められているように思われる。アトムは、ロボットであるために、人間社会の中でいじめられる。それでもアトムは、人間を憎むことなく、自らを傷付けながら、人間のために闘い続ける。
 手塚自身、読者のために寝る間も惜しんで働き続けながらも、常に偏見にさらされ、いじめられ続けた。手塚が自由に羽ばたけるのは、マンガの中だけしかなかった。そんな手塚の悲しみを、子供たちは本能的に知り、熱狂的に手塚を愛した。
 だが、マンガを描くことすら認められず、マンガ家を夢見ることさえも許されなかった青春時代を過ごした手塚が、いまさらこれしきのことに潰されるはずもない。悲惨な戦時体験でさえ、手塚は己の強さに変えてしまった。
 日本中を敵にまわして、一人信念を貫いた青年時代があったからこそ、手塚治虫は神様とまで呼ばれ、絶対の尊敬を得ているのだ。星の数ほどいるマンガ家の中で、手塚治虫ほど多くの逆境に襲われ、ハネ返してきた者が、他にいるだろうか? 決して才能だけではない。楽をして一流になった人間などいない。絶対にいない。
 この件は、手塚の大人に対する不信感を決定的なものにした。後に手塚は、
「大人が眉をひそめるほど良いマンガなんです」
 そう語っている。これを拡大解釈してはいけないが、いい意味で若さを捨てなかったからこそ、手塚は生涯ヒットを飛ばし続けたのだろう。手塚が信じたのは、読者の子供たちだけだった。

 そんな手塚の元には、志ある青年マンガ家たちが続々と集結してきた。手塚が暮らしたトキワ荘には、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろうといった面々が次々と入ってきた。また、松本あきら(後の松本零士)や横山光輝も、手塚の弟子にあたる。
 藤子不二雄は、手塚と同様17才で四コママンガ『天使の玉ちゃん』でプロデビュー。同年、2人は手塚の元を訪ねている。手塚はこの時点で、2人が自分を超える存在になることを予感し、2人が持参してきた原稿を終生保管していたという。
 石森章太郎は、高校2年から手塚のアシスタントを務めていた直弟子で、結婚式の仲人も手塚に頼むほどの仲だった。高校在学中に『二級天使』でデビューを果たしている。
 赤塚不二夫も、21歳で『嵐をこえて』を発表、プロデビューを果たしていた。27歳で代表作『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』を発表。
 つのだじろうは19才のときに『新桃太郎』でデビュー。話題作を連発し、25歳で第2回講談社漫画賞を受賞している。
 松本あきらは、石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれている。高校1年生のときに投稿した『蜜蜂の冒険』でデビュー。手塚のアシスタントも務めた経験がある。
 横山光輝は手塚の『メトロポリス』を読んで漫画を書き始め、20歳の時『音無しの剣』でデビュー。翌年には代表作『鉄人28号』を発表、『鉄腕アトム』と人気を二分した。手塚にとっては弟子というより、本気で競わねばならないライバルたった。

 青年たちは、手塚と共に、マンガの未来を守るため、ペンをとって悪書追放運動と闘った。戦後マンガの若き創造者たちも、そのルーツを探れば、手塚治虫に辿り着く。
 しかし、凶暴に吹き荒れた悪書追放運動の嵐も、なけなしの小遣いでマンガを買い求める子供たちの健気な心を握りつぶすことはできなかった。何の権力も財力も持たない、無名の子供たちが、結局は大人たちを打ち倒し、マンガの市民権を確立したのだった。
 子供たちの圧倒的な支持に推されるかたちで、手塚は29歳のとき、『びいこちゃん』『漫画生物学』で、小学館児童漫画賞を受賞する。手塚はようやく、社会から正当な評価を勝ち得たのだった。また、この年には、医学博士号を取るため、超多忙の合間をぬって奈良の研究室に通い始めている。
 しかも、手塚はさらに仕事を増やした。31歳のときには、当時の金額で1千万円近くの収入を得て、再び画家の長者番付全国1位になっている。手塚は節税しようとせず、むしろ進んで納税しようとした。高額納税者となることで、マンガ家の社会的地位を上げるのが狙いだった。
 手塚はこの収入を、アニメ製作会社『虫プロダクション』の設立に当てている。マンガに加えてアニメの仕事も加わり、手塚はますます多忙になったが、翌年には論文『異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究』で、医学博士を取得した。このような医学研究が、後の『ブラック・ジャック』に活かされている。
 マンガ家の医学博士誕生は、大きなニュースとなった。この研究も、マンガ家がいかに高度な知的職業なのかを、世間に示す狙いがあったのだろう。現代のマンガ家は、手塚が死に物狂いで残したこのような信用を食い潰すようないい加減な仕事を、現に慎まなければならない。
 翌年には、いよいよ初の国産テレビアニメ『鉄腕アトム』の製作を開始する。1週間で30分アニメを作るのはどう考えても不可能に思われたが、手塚は同じ絵を繰り返し使用する『バンクシステム』や、必要以上に画面を動かさないなどの工夫を考案し、不可能を可能にした。『アトム』は、平均30%以上の視聴率を挙げる超人気番組になった。

 『アトム』の評判は、海を越えたアメリカにも届いていた。アメリカでも、題名を『アストロボーイ』に変えて放送される。手塚は、渡米してディズニーを訪ね、『アストロボーイ』の感想を聞いてみたいと願った。渡米はまもなく、ニューヨークの世界博覧会に新聞社の特派員として向かうことで実現する。しかし残念ながら、ディズニーのアポは取れなかった。
 手塚は、精力的に会場を回り、スケッチを日本に送った。すると、あるところに人だかりができていた。その中心にいたのは、なんと、他ならぬウォルト・ディズニーその人だった! 
 ディズニーは、もはやアニメーターとしてだけでなく、世界の映画人の中でも別格の存在だった。数年前には、ロス郊外にディズニーランドをオープンし、アミューズメントの分野でも第一人者。全米を代表する実業家となっていた。手塚にとっては神のような存在であり、永遠の目標だった。
 手塚は、思い切ってディズニーに話しかけた。するとディズニーも、『アストロボーイ』を知っているという。それどころか、
「実は私も、あのようなアニメを作ってみたい」
 と、まだ30歳代の新人アニメーターである手塚に対して、最大級の賛辞を贈った。
 1分ほど立ち話をして、ディズニーは次の仕事のために去っていった。手塚は、いずれ時間を取ってゆっくり話し合いたいと願っていたが、それはついにかなわなかった。この巨人同士の出会いから2年後、ディズニーは65歳の若さで世を去ったのだった。ディズニーが受賞したオスカーは20にも及び、これはギネス記録となっている。

 手塚治虫は、その後も活躍を続けた。また、多忙の合間をぬって、積極的に新人の作品に目を通していた。批判するためではなく、学ぶためだった。この姿勢は生涯続いた。
 マンガは読者の入れ代わりが早い。今日の成功に満足してしまったら、明日には敗残者になる。それを熟知していたからこそ、第一人者にして、新人の気持ちを忘れなかった。ほとんどのマンガ家が数年で力尽きる中、手塚治虫が生涯ヒットを生み続けたのは、常に若い才能に敬意を払い続けたからであろう。

 手塚治虫の功績は、極めて多岐に渡っている。マンガに映画や小説の長所を取り入れて今日の『長編ストーリーマンガ』を確立しただけではない。『リボンの騎士』で『少女マンガ』というジャンルを開拓し、日本初のテレビアニメを実現したのも、若き日の手塚治虫だった。
 なぜ、日本のマンガ・アニメ文化や産業は、ここまで発展したのか? その問いには、手塚治虫という一人の若いクリエイターがいたからだ、としか答えようがない。彼もまた、青年の持つ無限の可能性を証明した一人だった。



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