大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

画壇4 漫画編

2011-05-10 00:41:10 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
写真 若き日の手塚治虫










 本編に登場する若き天才:横井福次郎 手塚治虫


 軍国主義の雰囲気が高まっていた昭和の初頭、大阪の芸術写真家である手塚粲に、男の子が生まれた。彼は、治と名付けられた。後の手塚治虫だった。治は、体が小さくて運動神経も鈍く、物心ついたころから、一人で絵を描くのが好きだった。
 父は、家に当時の人気マンガをひと通りそろえていたので、治は好きなだけそれらに親しむことができた。この幼少期の環境が、治の将来を決定づけることになる。
 治が5歳のとき、手塚家は宝塚に移り住んだ。隣には、当時の宝塚歌劇団の大スター天津乙女が住んでいて、よく宝塚の若い生徒が訪れていた。そして、治とよく遊んでくれた。母も、治をよく劇場へ連れていった。このころの体験が、後に『少女マンガ』の元祖『リボンの騎士』を生んだ。
 小学校に入学すると、ひどいくせ毛をからかわれて(このくせ毛が、アトムのヘアスタイルのヒントになった)、毎日のようにいじめられて泣いて家に帰っていたという。やり返したくても、体の小さな彼では、とてもかなわない。
 そこで治少年は、ノートに得意のマンガを描いて同級生に見せることで、徐々に自分の居場所を作っていった。当時のノートに、後に手塚マンガの常連となるヒョウタンツギが、すでに見受けられる。 治は絵だけでなく、話を創るのも得意だった。1年生の時から、自分で創った話をみんなに聞かせていた。作文を書いても、いつのまにか創作になっていることがよくあったという。
 2年生の正月に、治は初めてスクリーンでミッキーマウスと出会う。治は一目でミッキーに心を奪われた。父は、映写機とミッキーのフィルムを買ってくれた。治は、日曜のたびに、飽きることなく父が再生してくれるミッキーのアニメを観賞したという。治自身、1千頁もある法律の本にパラパラマンガを描いている。このときの感動が、後の日本発のテレビアニメへのチャレンジにつながっていく。
 小学校高学年の時の治は、勉強そっちのけで、昆虫採集に飛び回っていた。特に気に入っていたのはオサムシで、治は当時から、ペンネームを「手塚治虫」にしている。
 一方で、手作りの自然科学雑誌『世界万有科学体系』の発行にも没頭していた。卒業後、とある名門中学(旧制)を受験するが、面接試験でこの雑誌のことを詳しく聞かれて、これが合格のきっかけとなった。
 人生、やりたいときにやりたいことをやっておくものだ。見てくれる人は必ずいる。入学後も、友人たちと動物同好会を結成し、雑誌『動物の世界』を発行している。だが、治虫の試練はこれからだった。

 当時は第2次大戦が勃発し、大政翼賛会が結成された時期だった。治虫は美術部に入部したが、やがて絵の具が不足し、スケッチそのものも禁止されてしまった。だが治虫は、隙を見てはノートや黒板にマンガを描いていた。部活でさえ絵が描けないのに、マンガとは言語道断! 「犯行」を見つけられた治虫は、体育の時間のたびに完全武装で校庭を10周するという罰を与えられた。
 治虫は、どんなに叱られてもマンガをやめなかった。しかし意外にも、将来マンガ家になれるとは思っていなかった。その前に戦死すると思っていた。彼だけではなく、当時の青少年は皆そうだった。戦争は、若者に将来の夢を持つことさえ許さなかった。治虫にとってマンガは、現実の絶望を忘れさせてくれる、たったひとつの生き甲斐だった。
 手塚治虫の初期の代表作といえば『ロスト・ワールド』が挙げられるが、彼はなんとこの大作の執筆に中学2年から取りかかっている。後に絵こそ書き直しているが、ストーリーは発表されたものとほぼ同じ。『長編ストーリーマンガ』という、戦後日本最大の発明のひとつを、手塚治虫は中学時代に成し遂げていた。早い死を予想して、生きているうちに出来るだけのことをやっておこうという気持ちだったのかも知れない。
 ローティーン時代の手塚治虫の代表作といえば、マンガではないが、『原色昆虫図譜』を忘れるわけにはいかない。これは、彼自身が採集した5百種類以上の昆虫を実物大で写生した手作りのカラー図鑑で、細かな解説まで加えられていた。治虫はこの図鑑で、理想の色を出すために、自分の血で赤色を着けたという。こんなところにも、当時の青少年の悲壮な心境が浮き彫りにされている。
 これに続いて、雑誌『昆虫の世界』も発行している。この雑誌には、治虫のマンガも載せられていた。後に手塚マンガの常連となるヒゲオヤジは、ここで誕生している。マンガに活かすために、治虫は小説を読んだり書いたりした。

 旧制中学4年生(今なら高1)の夏休みの時、体育の苦手だった治虫は、国民体育訓練所に入れられて、毎日1日中軍事教連を科せられた。ここで治虫は両腕とも水虫になる。普通なら大したことではないのだが、厳しい訓練と栄養失調のために症状が進行し、腕を切断する寸前まで悪化する。水虫菌が筋組織の中まで入り込んで腕は弾力を失い、指で押すと反対側が出っ張るほどだった。
 もう二度とペンを握れないかも知れない。マンガがたったひとつの生き甲斐である少年にとって、これ以上の苦しみがあるだろうか。しかし、地道な治療と、マンガにかける執念によって、治虫の両腕は元通りに回復する。この経験が、治虫が医学部を志すきっかけとなった。
 闘病生活を終えると、治虫はそのまま学徒動員に借り出され、授業を受けられずに工場で働くことになる。もちろん、仕事の合間をぬってマンガは描き続けた。見つかったらただでは済まないから、知恵を絞った末、工員専用のトイレに張り出すことを思いついた。マンガを発表するだけでも、権力との闘いを覚悟しなければならない時代だった。
 あくる日、治虫が監視塔で空襲を見張っていると、警戒警報抜きで突然頭上にB29が現れ、焼夷弾を雨のようにバラまいた! この瞬間、治虫は死を覚悟したという。偶然にも、焼夷弾の束は監視塔には1つも命中せず、すぐ横をすり抜けていった。気が付いて頭を上げると、工場全体が炎に包まれている。
 治虫は、まだ生きていることを知ると、必死で淀川に向かって逃げ出した。やがてB29は去っていったが、大阪中が炎に飲み込まれ、空まで真赤に染まっている。地面には、真っ黒に焦げた死体が転がっていた。
 このとき治虫は、いつか見た焦熱地獄の絵がそのまま現実になったと思ったという。地獄はこの世にあると語る人がたまにいるが、戦争を体験した人にとって、それは誇張でもなんでもない実感だろう。
 例えば、同時期に行なわれていたスターリングラードでの闘いでは、市の人口の99%以上が命を失った。都市が丸ごと、生きたまま焼き尽くされたのである。人間が、獄卒ではなく同じ人間の手によって徹底的に殺戮され、絶滅に追いやられる。その悲惨さは、地獄をもはるかにしのぐ。それが戦争なのだ。
 治虫は、戦時下の特別措置によって4年で中学を卒業、大阪大学医学部に入学する。その年の夏、突如として戦争は終わった。そのとき、生まれて初めて、治虫は将来の夢を抱くことが許された。描きためていたマンガは、3千枚にもなっていた。

「僕は、生き延びたんだ! 
 ひょっとすると僕は、マンガ家になれるかも知れない!」(『手塚治虫物語』より)

 当時、男性の平均寿命は、わずか22歳。この前後に、ほとんどの青少年が死んでいった。恋人や夫を失った若い女性は、やむなく体を売った。それでも、戦争政策を推し進めた当の老人たち、死んでいった青少年の親たちは、平然と生き残った。
 ベトナム戦争でも、米軍の戦死者の平均寿命は19歳だった。彼らもまた志願したのではなく、親たちの手で強制的に戦場に送り出されている。いつの時代も、老害政治の犠牲にされるのは、青少年に他ならない。
 戦後半世紀を経た今、戦争を賛美する言論人が目立ち始めている。絶対にだまされてはいけない。やつらは、自分たちは安全な場所で金を儲け、我が子我が孫たちを危険な最前線に送り出そうとしている。こんな小汚いうじ虫どもを、絶対に許してはいけない! 
 そんなに戦争を起こしたければ、当然、まず自分が真っ先に戦場に行って死ぬべきだろう。さらに、自分の子や孫を最前線に送り出し、自らの家系が根絶やしになるまで殺し合いをさせる。人様の子供の命を借りるのは、それからだ! 
 仮に、正義の戦争があるとすれば、そこまで覚悟するのは当然。もちろん、そこまでして戦争するのは馬鹿げている。だからこそ、政治家は絶対に戦争を起こさないように、死に物狂いでありとあらゆる努力を尽くすべきであろう。
 極論と思われるかも知れない。しかし、もし自分の娘が出征するとしたら、いっそ身代わりになりたいと思うのが、人間の自然な感情だろう。それが国家というシステムに組み込まれると、何も感じなくなってしまう。本来はそっちのほうが狂っているのだ。若者に危険を押しつける文明に未来はない。

 やっと夢が持てるようになったといっても、治虫のマンガ家への道は容易ではなかった。新聞社に原稿を送るも、相手にされない。神様・手塚にさえ、そういう時代があった。やっとのことで地方の新聞社から依頼が来るが、内容は希望していた長編ではなく、4コママンガだった。それも、毎回数枚の原稿を持っていって1枚が採用されるという厳しさ。とはいえ、わずか17歳でのデビューだった。 このデビュー作『マアチャンの日記帳』は、関西で大変な人気を呼んだ。マアチャン人形が勝手に作られ、売られるくらいだった。人気マンガ家となった手塚青年は、さらに新聞での4コママンガ『珍念と京ちゃん』『AちゃんB子ちゃん探検記』の連載も開始している。
 また、手塚は頼まれて宝塚の機関誌にもマンガを描いている。その中の『百年后の宝塚見学』で、手塚は自動販売機やテレビの出現を予想している。
 翌年には、『新宝島』の作画で長編マンガ家としてのデビューを果たす。これはたちまち全国で40万部の売り上げを記録し、戦後ストーリーマンガの記念すべき第1号となった。このとき、わずか18歳。しかし作画のみの彼に印税は支払われず、一人前のマンガ家として認められたわけではなかった。
 だが、この作品が全国の少年たちに与えた衝撃は計り知れなかった。当時中学2年だった藤子不二雄は、『新宝島』との出会いによってマンガ家を志したのだという。まだ小学生だった石森章太郎や赤塚不二夫も同様だった。18歳の若き手塚の手によって、少年たちの心に、マンガ家の種が植えられたのだった。
 手塚の元には、関西中の出版社から長編マンガの注文が殺到した。3千枚もの原稿があった手塚は、これを改訂して次々と発表することができた。18歳のときだけでも、『キングコング』『火星博士』『怪盗黄金バット』を出版している。
 手塚以前のマンガでは、構図は舞台のように固定されていて、人物の全体が常に描かれていた。そこに手塚は、クローズアップやアングルの変化といった、映画の手法を取り入れた。またストーリーについても、ドラマ性を重視し、必ずしもハッピーエンドに終わらなくても構わないという立場をとった。実際、手塚マンガは、シナリオだけ取っても驚くほどクオリティが高い。まさしく、まだ10歳代の手塚が、今日見られる『マンガ』を完成させたのだった。

 しかし、手塚の名前は、まだまだ全国区ではなかった。翌年には『地底国の怪人』『ロストワールド』を発表し、上京して出版社に売り込むが、あえなく追い払われ続ける。アニメスタジオの求人にも募集するが、不採用。先輩マンガ家からは、もっとデッサンの練習をするように叱咤された。手塚治虫でさえ、デビューしたからといって、すぐ認められたわけではない。
 しかし、今まで絵を描くことさえ禁止されてきた手塚にとって、これしきの逆境はそよ風のようなものだった。腕を切断する危機、命の危機をも乗り越えてきた。悪意に満ちた運命に苦しめられてきた手塚が、リベンジを開始するのはまだまだこれからだった。
 戦時で美術教育を受けられなかった手塚の絵は、落書きの延長線上にあるもので、プロの画家としては上手いとはいえない。それは手塚自身も認めている。当時の手塚は、将来は医者になるつもりだった。マンガはあくまでも夢だった。本当にマンガ家になれるとは思っていなかった。
 そんなある日、大マンガ家である横井福次郎に、作品を批評してもらう機会があった。横井はまだ30歳代だったが、すでに大家として知られていた。大阪では一番の売れっ子だった手塚は、いささかながらも自信を持っていたが、横井の感想は「子供だまし」。手塚はトップのマンガ家と自分との差を思い知り、大いに発奮する。
 このままでは終わりたくない。手塚は医師の道を蹴って、マンガ家を目指す決心をする。今だってこんな進路変更をする人は少ないのに、マンガを発表する場そのものがなかった当時にこんな思い切った決断をした手塚は、よほどの度胸の持ち主だったのだろう。
 それからまもなく、横井福次郎は結核のため、37歳の若さでこの世を去る。戦前のマンガを支えてきた青年の情熱のバトンは、若き手塚の手に受け継がれたのだった。

 手塚は、学校に入れてくれた親の手前、中退はせず、医師免許は取得しておくことにした。授業や演劇サークル活動の合間をぬって、20歳のときに『メトロポリス』を、翌々年には『来るべき世界』を発表する。傑作と名高いSF3部作を、学生時代までに早くも完成させていたのだった。
 学生とマンガ家の二足のわらじには、戦時下に、厳しい訓練の合間をぬってマンガを書き続けてきた経験がプラスとなっていた。「校庭10周」の罰でさえ、ペンを握り続けるスタミナを養ってくれたと、手塚は振り返っている。逆境がプラスになるのも、マイナスになるのも、本人の一念次第であろう。
 またこの時期には、『ジャングル大帝』の構想に着手している。業界での評価は低かった手塚だが、子供たちの圧倒的な支持に推されるかたちで、21歳のとき、東京の小さな出版社から『ジャングル大帝』の連載を開始する。当時、連載マンガは4ページ程度が普通だったが、手塚には20ページ近くという破格のページ数が与えられた。
 この連載が、新人発掘に力を入れていた大手雑誌『漫画少年』の編集者に注目され、『アトム大使』が誕生することになる。後の『鉄腕アトム』だった。アトムは、手塚の学生時代から、すでに始まっていた。戦後のマンガ産業がここまで発展したのは、なによりも出版社が積極的に若い才能にチャンスを与えてきたからだろう。
 アトムの髪は、どこから見ても2カ所ではねている。これは、ミッキーの耳がやはりどんな角度でも2つそろって見えるという特徴を拝借したのだった。
「アトムはミッキーのおいのようなもの」
 手塚自身もそう語っている。手塚の絵そのものも、ディズニーの影響を強く受けている。なにしろ、『バンビ』を130回も見たくらいだから。
 だが、今ではとても信じられない話だが、『アトム大使』の連載は思うように人気が出なかった。何事も、一時の評価では分からない。書き下ろし単行本時代を知るファンからは、
「連載なんて手塚の堕落だ」
 なんて投書もあった。手塚は思い悩みながら仕事を続ける。手塚治虫ほどの天才と執念と努力の人でさえ、スランプを避けることはできなかったのだ。




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