大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

戦後世界1 ニューフロンティア編

2005-03-04 20:28:43 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
 本編に登場する若き革命児……キング牧師 プレスリー カストロ ゲバラ マルコムX ケネディ兄弟 イブ・サン・ローラン ビートルズ ブライアン・エプスタイン


 1940年、秋。世界は、戦火の中で激しく胎動していた。後に20世紀を熱狂させることになる、2人のイギリス人が、相次いでこの世に生を受けていた。

 すでに第2次大戦の始まっていた10月9日、ナチス・ドイツは、リバプールの街を空襲していた。そんな轟音と振動の中、オックスフォード通りの産院で、一人の赤ん坊が生まれた。赤ん坊は、ジョンと名付けられた。ジョン・レノンの誕生だった。
 ミドルネームは、イギリスのリーダー・チャーチルにちなんで、ウィンストンだった。出生の瞬間から、彼は戦争に直面せざるを得なかった。後に発信することになる平和のメッセージのルーツは、ここにまでさかのぼって求められるのかも知れない。

 それからわずか2カ月たらず後の11月27日、地球の裏側にあるアメリカ・サンフランシスコでも、イギリス人の赤ん坊が生まれていた。東洋系だった。香港の奥劇(喜劇)俳優の息子だった。2年に渡るアメリカ巡業の最中に、生を受けたのだった。
 両親は、息子に振藩(ジュンファン)という名前をつけるつもりだった。しかし、アメリカでの出生届には、英名が必要だった。医師が、「ブルース」という名前を提案した。ブルース・リーの誕生だった。
 奇しくも、辰年、辰の日、辰の刻の出生だった。生まれた時点で、すでに彼は、ドラゴンとして雄飛することを宿命付けられていたのだろうか。


 ジョンの父親は、船員だった。しかし、ジョンが生まれても、送金も連絡も寄越さなかった。母親のジュリアは、生後数ヶ月のジョンを、子どものいなかった兄のジョージ夫婦にあずけた。
 ジョージ夫婦は、ジョンを我が子のように可愛がった。別の家庭を持っていた母ジュリアも、時々会いに来てくれた。それでもジョンは、実の両親と暮らせないことが悲しかった。
 5歳のころ、父親がひょっこり帰ってきたが、またすぐに航海に出かけてしまった。
「自分は、両親に見捨てられた」
 そんな気持ちが、幼いジョンの心に刻みつけられた。
 ジョンは、大人を信じられない少年に育っていった。教師には反抗的で、同級生には喧嘩を吹っかける。周りの大人たちは、自分の子どもに、ジョンとは遊ばないように注意した。
 その一方で、『不思議の国のアリス』に没頭し、自分の文章と挿絵で雑誌を作ったりする、創造的な一面もあった。現実への不信感が、ジョン少年の目を、創作に向けさせたのかも知れない。

 ブルースは、生まれたばかりのころは、信じられないことに体が弱く、病気ばかりしていた。色白で、女の子と間違われることもあったという。1歳になるかならないかのころ、父親が出演した映画に、女の子の赤ん坊役で登場している。ブルース・リーのスクリーンデビューは、なんと女の子役だった! 視力も悪く、小さなころから眼鏡が手放せなかった。
 終戦後、リー一家は五歳のブルースを連れ、香港に戻った。俳優の息子であるブルース少年も、名門ラサール学院に通いながら、子役として映画に出演した。6歳から17歳までで、20本くらいに出演している。
 彼もやはり、気性の激しい少年で、毎日のように喧嘩を繰り返していた。父親から太極拳を習っているが、これは即座に喧嘩に役立つものではない。しかし、優れた健康法であるので、ブルースの虚弱な体質を改善し、後にアクション俳優として活躍するための、堅固な資質を築くことに役立った。


 2人が思春期を迎えた50年代。世界は、ようやく大戦の痛みから立ち直り、青年たちは新たな時代を築くべく、次々と立ち上がっていた。

 アメリカでは、26歳の若き牧師、マーティン・ルーサー・キング青年の指導で、人種差別撤廃運動が開始され、大きな波紋を巻き起こす。
 人種の壁を叩き壊せ! キングの叫びは、政治の次元にとどまらず、世の中を大きく揺さぶった。

 それからわずか1カ月後、やはりアメリカで、高校卒業後、トラックの運転手をしながら歌手を目指していた21歳のエルヴィス・プレスリー青年が、メジャーデビューレコードの『ハートブレイク・ホテル』をリリース。
 これは、白人音楽の「カントリー&ウエスタン」と、黒人音楽の「リズム&ブルース」が融合した、「ロック&ロール」のスタイルで録音されたレコードだった。
 それまでのポピュラーソングとは違い、メロディーよりリズムが強調され、シャウトまで入ってくる始末で、当時の大物白人アーティストたちは、黒人音楽を取り入れたこの曲を、こぞって雑音呼ばわりした。
 しかし、世間の反応は意外だった。たちまち全米、いや世界中のティーンエイジャーから、熱狂的な支持を獲得する。いつの時代にも、偏見の無い青少年たちは、素晴らしいものを素晴らしいと認める感性を持っている。それはまた、20世紀音楽の最大の革命、ロックの時代の幕開けを告げていた。

 そんなティーンたちの中に、15歳のジョン少年の姿もあった。ジョンはたちまち、ラジオから流れる、6歳年上のプレスリーの、激しい歌声に夢中になる。そして、自分もロックをやろうと決意する。
 近所に住んでいた母ジュリアは、ジョンにギターを買い与え、演奏の手解きをした。実は、ジュリアはバンジョーの名手だった。荒れていたジョンも、ようやく母と打ち解けられるようになってきた。反抗期の青少年とどう接するかは、親にとっては頭の痛いテーマだが、共通の趣味や話題を持つのが、ひとつの糸口になるのではないだろうか。

 翌年、ジョンは、中学の悪友を集め、ロックバンド「クオリーメン」を結成する。好評を博したが、そんなジョンの前に、彼より歌もギターも上手い少年が現われる。2歳年下のポール・マッカートニーだった。ジョンは、すぐにポールをバンドに入れ、共同で作曲し始めた。
 また、絵にも興味を持っていた彼は、美術学校に入学する。ここで、親友のスチュアート・サトクリフや、恋人になるシンシア・パウエルと出会っている。それに年を明けてすぐ、14歳のジョージ・ハリスンが、ギタリストとしてバンドに加わった。この時期には、ジョンにとって、多くの重要な出会いがあった。
 しかし、いいことばかりは続かなかった。やっと仲良くなれた母ジュリアが、泥酔運転の車にはねられ、突如としてこの世を去る。この一件以降、ジョンはますます荒れていった。

 一方、ブルース少年も、中学時代に人生を決定する道に出会っていた。
 相変わらず喧嘩に明け暮れていたブルースは、いっそうの強さを目指し、詠春拳を習い出す。実戦に使えるようになるまでに時間がかかる太極拳と違い、より直接的で実戦的な詠春拳は、彼の性に合っていた。およそ2年ほどの修業で、まだ中学生であるにもかかわらず、門下生の誰よりも上手くなる。爆発的な上達だった。

 ブルースは、ほかの格闘技の技術も貪欲に吸収しようとしていた。中学時代の終わりには、ボクシング部に入部する。詠春拳の技術しか知らないはずのブルースに、高等部の上級生でも歯が立たない。たちまち学院の代表選手に選ばれ、対校試合に出場する。
 相手は、3年連続香港高校チャンピオンの白人選手だった。ブルースにとっては初の試合だったが、詠春拳の技術だけでチャンピオンを圧倒し、1ラウンドであっさりKOしてしまった。
 ここでオリンピックを目指すか、プロ入りしていれば、ブルース・リーはボクサーとして名を残していたかも知れない。しかし、スポーツではなく実戦での強さにこだわったブルースは、ボクシング部を去り、相変わらず腕試しの喧嘩に明け暮れた。さらに、詠春拳以外のコンフーも貪欲に吸収した。
 ブルースは、ダンスも得意だった。香港チャチャチャ・コンテストで優勝したこともあった。そのリズム感の良さが、コンフーやボクシングにプラスに働いたのだろう。

 スポーツ万能、頭も切れ、映画にも出演しているハンサムボーイとあって、彼は非常に目立つ存在だった。それが悪かったのか、ブルースは高校に上がっても授業にあまり出席せず、不良仲間と付き合った。両親は、たびたび学校から呼び出しを受けた。
 そんなある日のこと、ブルースの関わった喧嘩が、大きな事件に発展してしまう。両親は、「このまま香港にいれば、息子はチンピラになるか、喧嘩で殺されてしまうだろう」からと、違う土地で立ち直ることを願って、ブルースをアメリカに送り出した。卒業を目前にした、18歳の冬だった。


 ブルース少年が、新大陸で新たな人生をスタートしたまさにそのころ、新大陸もまた、2人の若者の手によって、新たな時代を向かえていた。その2人とは、第3世界の若きリーダー、フィデル・カストロとチェ・ゲバラだった。

 当時、南北アメリカ大陸の中央に位置するキューバは、バティスタの独裁政権に支配されていた。それをバックアップしていたのは、大国アメリカだった。独裁者と大国の野合によって、キューバの民は虐げられていた。
 野球選手として知られていた26歳のカストロ青年は、125名の同志を率いて武装蜂起するが、失敗。だが、彼は諦めなかった。メキシコに脱出して、2つ年下のゲバラ青年と出会い、わずか12人の同志を率いてキューバに上陸、再びゲリラ戦を展開する。

 2年余りの交戦の末、ついに政府軍は瓦壊し、独裁者バティスタは亡命。革命軍が政権を掌握した。時に、カストロ32歳、ゲバラ31歳。

 わずか1ダースの若者たちが革命を実現させ、世界最強の大国アメリカにひと泡ふかせたニュースは、米ソ2大国の顔色をうかがっていた全世界に、大きな勇気を与えた。まさに、20世紀の奇跡だった。それはまた、白人を頂点とする帝国主義時代の終焉を象徴していた。

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 若者たちの手によるキューバ革命達成は、隣国アメリカの若者たちにも、少なからず衝撃を与えた。当時のアメリカ大統領は、19世紀生まれの、70歳になるアイゼンハウワー。隣国での、若き指導者の登場に、共感を覚える若者も少なくなかった。アメリカでも、世代交代を待望する気運が、静かに高まっていった。

 当時30歳代前半だったマルコムXが、ブラックムスリム指導者として台頭し、キングと対を為す公民権運動の過激派として話題になったのも、この当時だった。
 マルコムXは、決してテロによる黒人解放を訴えたのではない。当時、黒人は理不尽な暴力の犠牲となることが多かった。彼の父親は、狂信的な白人至上主義者によって惨殺されている。こうした暴力に対しては、実力行使による自衛もやむを得ないというのが、彼の考えだった。キングと宗教的なバックボーンは異なるものの、彼もまた、キングと目的を共にする同志だった。

 そんな時代に登場したのが、42歳の大統領候補、ジョン・F・ケネディだった。若者と呼んでは失礼な年齢だが、それでもアイゼンハウワーと比べれば息子ほども若い。29歳で下院議員に初当選し、若くして重責を担ってきた。選挙戦の総指揮を担った弟のロバートに至っては、34歳という若さだった。

 ケネディ兄弟が掲げたのは、減税や福祉といった、耳触りのいい公約ではなかった。ケネディは、「ニューフロンティア(新天地)政策」のスローガンを掲げ、国民ひとりひとりが立ち上がり、それぞれの立場で、共にアメリカを改革することを訴えた。
 20世紀における新天地とは、差別や貧困などの社会病理を解決した理想のアメリカであり、それは政府から与えられるものではなく、自らの手で開拓するものなのだと。

「私がアッピールするのは、あなた方の財布ではない。私が当選したら、あなた方にもっと犠牲を強いる。私がアッピールするのは、あなた方の開拓者としての誇りに対してだ」

 このケネディの言葉が、ニューフロンティア政策を象徴している。国民を誇り高き開拓者として扱い、駆け引き無しで本音でぶつかってくるケネディの言葉は、若い世代を中心に、国民の心を着実につかんでいった。

 そんな、時代の熱を肌に感じながら、リー青年のシアトルでの生活が始まった。毎朝4時に起きると、新聞を仕分けし、配達する。それが終わったら下宿先の中華料理屋に戻り、食器洗いと店の掃除。夕方から夜9時まではウエイター。日曜日はもっと忙しい。しかも、言葉はうまく通じない。異国での、厳しい生活を体験することで、彼のたるんだ精神は叩き直されていた。
 やがて、かのエジソンの名を冠する職業高校の2年に編入する。周りは3歳年下だが、授業は全て英語だから、日常会話程度のリーの英語力では、ついていくのがやっとだった。無論、朝晩のバイトも続けていた。
 5歳までアメリカで暮らしていたのが良かったのか、リーの英語力はめきめきと上達した。苦学の甲斐あって、歴史や社会、哲学の成績は5。ただし、数学や物理など、言葉のハンディが少なそうな理系の教科は意外にも苦手だった。というより、興味の持てないものはやらない性格だった。

 そしていよいよ、運命の大統領選が実施される。この日までにケネディも追い上げを見せ、番狂わせの希望を残したが、本命は、アイゼンハウワーのもとで現職副大統領を務めるニクソンだった。事前の予想では、「ニクソンの当選はほぼ確実」と報じられていた。
 しかし、いざ開票すると、ケネディが予想以上に健闘していた。もっとも、本命ニクソンが保守層の票を独占し、有利なことに違いはない。だが、当選にまでは至らない。

 決着が判明した時、時計はすでに午前3時を回っていた。
 わずか10万票差、パーセンテージにして0・1%差での、ケネディの奇跡の逆転勝利だった! 史上最年少のアメリカ大統領が誕生した瞬間だった。
 国民は、労無くして政府に今まで通りのアメリカを与えられるより、あえてケネディと共に汗を流し、新たなアメリカを開拓する道を選んだのだった。

 ゲリラ戦と選挙戦。社会主義とニューフロンティア。方法やイデオロギーに違いはあれども、アメリカにおいてもキューバ同様、若者たちの闘いによって、見事に世代交代が実現されたのだった。これが、20世紀が最もヒートした時代、若さと反抗の60年代の幕開けだった。


 リー青年に呼応するかのように、ジョン青年もまた、島を飛び出て東の大陸に渡った。インディーズでの活動を開始してから3年、ようやく認められて、ドイツのナイトクラブから招かれたのだった。バンド名を「ビートルズ」に改め、大陸でのツアーに出発する。19歳の夏だった。
 しかし、希望に燃える彼らを待っていたのは、100回を超えた徹夜での過酷なステージと、週給わずか20ポンドでの貧しい生活だった。しかも、ジョージ・ハリスンが18歳未満であることがばれ、国外退去処分を受けてしまう。若者たちのチャレンジは、わずか4ヶ月足らずで幕を閉じた。あのビートルズですら、下積みと挫折の時代を免れなかった。

 その後、しばらくメンバーはバラバラだったが、ロックへのこだわりは、再び彼らをひとつに結びつけた。翌年、故郷のリバプールで再スタートを切る。ドイツにも渡り、3カ月で100回近くという、前回を上回るハードスケジュールでステージを踏む。
 ビートルズのメンバーは、誰も正規の音楽教育を受けていない。楽譜は読めないし、書けない。楽器の演奏も、全て独学。そんな素人たちが選んだのは、失敗の許されない本番を1回でも多く体験し、その中で観客の望むサウンドを求める道だった。ドイツでの修業の日々は、ビートルズの才能を着実に開花させていった。

 レコード店を経営する26歳の青年実業家ブライアン・エプスタインが、ビートルズの『マイ・ボニー』を客から求められたのは、それからまもなくのことだった。ブライアン青年は、リバプールでのビートルズのライブを実際に聴き、彼らのマネジャーをかって出る。
 レコード店を経営するだけあって、ブライアンのアドバイスは的確だった。プレスリーのコピーのような、リーゼントに皮ジャンというスタイルをやめさせ、スーツにマッシュルームカットという、ビートルズのトレードマークを確立したのも彼だった。大人には反抗的なビートルズのメンバーも、兄のようなブライアンには従った。

 62年1月には、25歳のイブ・サン・ローランが初コレクションを大成功させ、彗星のようにファッション界に登場している。彼は、急逝したクリスチャン・ディオールのポストをわずか22歳で継承した、若き天才デザイナーだった。このコレクションによって、一躍、世界を代表するデザイナーとなる。

 その同じ年、ブライアンのマネージメントで、ついにビートルズのメジャーデビューが決定。バンドを結成してから、すでに6年。ジョンは、21歳になっていた。リンゴ・スターがメンバーに加わったのは、このときだった。
 当時、歌手は曲を専門家に依頼するのが常識だった。しかしビートルズは、専門家への依頼を断り、オリジナル曲の『ラブ・ミー・ドゥ』をリリース。これは全英チャート17位にとどまったが、彼らは、オリジナルへのこだわりを捨てなかった。

 そして、セカンドシングルの『プリーズ・プリーズ・ミー』で、見事ヒットチャート第1位に輝いた。ビートルズの名は、一躍全英に響き渡る。ビートルズ神話が始まった!


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