護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

第5部  恵山鎮編   その2

2007年08月23日 20時19分07秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
第5部  恵山鎮編   その2

 此所でも売られていく朝鮮人の娘さんを見たのです。学校帰りに友達と近道を通って帰宅途中、泣きながら連れていかれる朝鮮の娘さんを見かけました。連れていった女衒は朝鮮人でした。
 よく見ると露地からでて数人の家族が泣きながら送っているのです。
 朝鮮語の分かる友が、
 「あれは、人買いに売られたんだ」
と説明してくれました。
 小さい子供の中にはパンツも履いていない子供もいましたから、朝鮮民族は可也貧富の差が有るように感じた町でした。
 それは、小さな町ですから町の裏まで見聞できたからかもわかりません。

 面白かったのは、冬になり春近くなると氷柱が二メートル近くも長く成長するので、毎年落ちてきた氷柱で大けがする者がいました。

 此処ぐらい標高になると、春秋はほとんどない感じで、夏の終わりにはオンドルやペチカの燃料にするために、大人二人が抱えるほど、高さは50~60センチほどの丸太を割るのです。 
 面白いのは、この丸太を20個ほど地べたに並べ、荒縄で何重にも周囲を取り巻き固定して、その上に乗って斧(普通の斧でなく金太郎さんのまさかり状)でわるのです。朝鮮人の専門職の方が割るのですが斧が重いので、その太い丸太は一発で丸太は真っ二つ。荒縄で固定していますから割って細かくなっても崩れません。
 初めての冬の時はこの光景が面白く一日眺めていたものでした。

 これは、戦後弟から聞いた話です。
 当時は京城に出ていましたから分かりませんでしたが、ある時、父が朝鮮人の行員の一人が、「日本は長くは持たない」と言いっていたと憤慨していた。今考えると正解だと言っていました。
 考えると、師範学校でも朝鮮人の友が、同じような事をいっていたのをその時思い出しました。
 考えると、地下に潜ったスパイ組織が、敗戦が近くなるに従い活動しだしたのだなと敗戦になって弟の話を聞いて気が付くしまつです。

 私の国民学校(小学校)生活はこの恵山鎮が最後です。ここで今まで通った小学校の規模を書いておきます。

 元山は 一学年 3組 白組(男子)青組(男女共学)赤組(女子)30~40名
  元山には、もう一つ日本人学校があったと記憶しています。
 吉州は 一学年 一クラスのみ(男女共学)30人ほど 
 城津は 一学年 二クラス(男子クラスと女史クラス)

 この小学校の規模を見ていただくと、都市の大きさと日本人の入植者の規模の予測できるでしょう

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