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護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

戦前・戦中・戦後に体験談

2007年03月04日 09時08分54秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  民間船の戦没について

昔、下宿している宿に船員の方が居られ、民間の船舶が軍に徴用されるが、戦争のために作られていない一般の船舶は、攻撃されたら機関砲だけでも沈没するから、魚雷だったらひとたまりも無いと話されていました。

 その方も音信不通になりましたから、海の藻屑となったのかも判りません。

 終戦の時にはまともな船は少なかったのでしょう。私が引き上げの時に乗ったのは生き残りの駆逐艦でした。

 戦争は空しいです。自然や物を、おまけに人の心も破壊します。日本は九条のお陰で心の破壊は免れたと思っていましたら、二十年程前から心も破壊されて来ています。



  小野田 寛郎さんの話
     
今朝ある方が、太平洋戦争終結から二十九年目にしてフィリピンで発見された小野田 寛郎(おのだ ひろお)さんの書かれたWEBアドレスを送ってまいりました。

『私が見た従軍慰安婦の正体』
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/onoda_ianhunoshoutai.html

残念ですが、現在はこのサイトは削除されているようです。


 先に書いた体験記では、他人の話されたことは極力避けていましたので余り触れていなかったのですが、この全文を拝見すると、終戦直後に多くの復員軍人から聞いた話、当時、日本人の慰安婦(遊女)をされていた方からお聴きした話と、ほぼ、というか、全く同じでした。

 現在の戦争を知らない年代で、信じられないと言う方が居られると思いますが、私はこの内容はほぼ間違いないと思います。

 日本人の慰安婦(遊女)の方も、沢山のお札(軍票)を持っておられ、朝鮮や中国の女性も、帰国したら一生生きて行けると溜め込んでいたと話していましたが、これを読んで、ほぼ納得しました。



   事実の検証
                             
  従軍慰安婦ですが、級友や我々の年代の者と会ったり電話した時に、戦時中に従軍慰安婦という言葉は有ったかと質問をすると、 百パーセント無かったとの返事です。従軍慰安婦は戦後にできた造語でしょう。一方、戦地に遊郭のような施設が有ったかには、イエスです。そこで働いている女性は遊女でなく私と同じピーさんと言う者が多かった。

私は従軍慰安婦という言葉は使いませんが、遊郭的施設の有ったのは確実。またそこに働いていた女性が居たのも確実。戦後、戦地で遊女をしていた日本人の女性の話は、私が引揚げ直接聞いていましたから、無料奉仕ではなく花代を貰っていたのも確実だと思うのです。

 もし被害者の女性が居れば救済しなければなりません。せめて戦後五年以内でしたら確実な証拠や証言が得られるでしょう。今では当時の関係者が少なくなりました。国家もこのような物は大切に保存しているとは思えません。この問題は終戦直後に表に出るべき問題だったと思うのです。
 
 戦前・戦中・戦後を語るカテゴリの
  続・戦時体験者の証言  第一章~第三章
 に書いていますが、私は、親に売られていく娘さんしか目撃していないのです。


 人から聞いた話とか書いたものを参考にすると、真実が隠れてしまいます。私は、今従軍慰安婦といわれる朝鮮やその他の国の女性と一緒に働いていた日本女性も沢山いると思うのです。この方々が当時のことを話されると、真実も多少は見えて来るのですが、人間、嫌な思い出は話すのをためらいますから、これは百パーセント無理だと思います。
 難しい問題です。

 現在になって、改めて朝鮮時代を検証すると、太平洋戦争が始まってから、朝鮮半島では朝鮮人に対する扱いが違っていたと、当時、京城師範学校時代にふとそう感じたことがありました。
 特に戦時中に朝鮮人を弾圧すると暴動が起こることもあり得ると感じたことが有りますから、両親から聞いた昔の話のように、明治・大正・昭和の初期のように朝鮮民族を粗末と言うか弾圧していると、暴動は起こりうると思います。 

 平等に扱ったその一つの証拠は、お食料の配給を受けるのに、朝鮮人も日本人も同じ場所での順番待ちで差別はありませんでした。これは母と二人で順番待ちをしていましたから間違いありません。

 と言っても私の狭い視野の範囲ですから、朝鮮本土全体ではどうなのかは語れません。