アスリート 未来にむかって走る

「日常のすべてが被写体だ。必要なことは好奇心と想像力」をテーマに綴っていきます。

「しみじみ」しよう (^_^.)

2009年03月19日 | Weblog


★去年の花見の1シーン。


時々気になっている晴佐久昌英神父の著作から「しみじみする」を紹介しましょう。



しみじみする


ごく親しい仲間内で、「しみじみ教」という教えを布教している。教祖は、僕である。
教団も儀礼もないので宗教と言うものではないが、極めて素朴なたった一つの教義を持っている。
いわく「いつも、しみじみすべし」
というものだ。多分世界最短の教義であろう。


「しみじみする」という言い方は、日本語として正しい用法とは言えないかも知れないが、こうとしか言いようのない、深い味わいを秘めた言葉である。


しみじみ教徒は、朝目覚めて、新しい一日にしみじみする。
昼働きながら、あわただしいこの人生にしみじみする。
夜寝る前に、いろいろあった一日を振返ってしみじみする。
春夏秋冬老いも若きも、いいことがあってしみじみ、嫌なことがあってしみじみ、
生まれてくる新しいいのちにしみじみ、死にゆく親しい友にしみじみ、足元の雑草にしみじみ、果てしのない星空にしみじみ、要するにいつでもどこでもどんな場合でもしみじみする。

しみじみ教徒にとって、しみじみすることは、生きる意味と喜びを味わう最高級の方法なのである。

決して歓喜ではない。もちろん落胆でもない。物事やできごとの表面に惑わされず、その一番深いところにある何かを感じ取ろうとして、しみじみする。何かいいことがあったときに、パーッとはしゃぐのも悪ないが、えてして歓喜は覚めやすい。もっと深く長く、静かにしみじみするのがよろしい。何か嫌なことあったときに
がっかりするのは致し方ないが、できるならば「いやあ、こういうこともあるのか、人生だねえ」と、しみじみするのがよろしい。


従って、しみじみ教徒はストレスと無縁である。とことん嫌な奴に出会ったとしても
「いやあ、ここまで嫌な奴が世の中にはいるか。いやはや、それにしても見れば見るほど見事なまでに嫌な奴だ」
と、しみじみする。しみじみしているうちに、なんだか好きになってきたりする。
これでは争いごとが起きるはずもなく、従って、しみじみ教徒が増えれば、世の中は平和になる。


と信じて、大まじめに布教しているのだが、みんなニヤニヤして聞くだけで一向に教徒は増えない。確かにしみじみのよさは、しみじみと味わわなければ分からないからなあと、教祖はしみじみしている。



というものです。妙に納得して朝から「しみじみ」しています