図書館で「ドガに就て」という本を借りた。
ポール・ヴァレリィ著。吉田健一訳。
見るからに古そうな本。
昭和52年に出版された本だった。初版は昭和15年。
娘や息子にこのタイトル読めるかな?
「ドガについて」です。
いい年をした私ですら「あれこれなんて読むの?」と戸惑うことしばし。
でもなかなか興味深い本でした。
晩年のドガに実際にお会いになった方が書かれているのですから、
面白くないはずがない。
ドガの伝記、評伝というよりは、
画家について、絵画について、芸術についての短いエッセイ集。
その中に大変面白い一節があったので忘れないよう書き留めておきます。
「絵画史要略」
(前略)
変化のために変化させる悪魔は、(中略)
世紀から世紀へと、少なくとも百年に一度は、
彼の偉大な、自然への呼び掛けの歌を歌う。
自然への呼び掛けは必ず幾らかの効果をもたらす。
しかし悪魔は自分の廻りに少しばかり人が集まったと見ると早くも姿を消して、
今度は、集まった群衆の一人に姿を変えて、不平を言い始める。
彼は自然も一種の因襲にすぎないことを、
そこかしこと人の耳に囁いて廻る。
そして写実主義に対して印象主義を提唱し、
物体などというものは存在せず、
全ては網膜の作用として表現すべきだと言って歩く・・・・・。
そして絵画は光波のごとく震動し始める。
しかし、多大な努力の結果、
画家が光線の再現に成功するや否や、
悪魔は全てが光線によって征服されたことを嘆き、もはや、
画家の表現する色彩が半音階に並ぶ世界には、
幻影や、ちらちらする木の茂みや、きらめく水溜まりや、建物の影しかなく、
殊に、人間がほとんどいないのは惜しむべきだと言う。
そして、どこか非常に深く、あまり深いので、
そこにしまわれているものの中で最も古いものさえも、
斬新になって表現する場所から、
悪魔は球と、円錐と、円擣と、それから、
最後までとっておいた立方体とを取り出す。
かれはそれらの立体、すなわち小児幾何学者らの玩具によって
全てが築けることを示す。
画家の世界は多面体や円体によって表現出来るものになり、
いかなる胸でも、腿でも、頬でも、馬でも、牝牛でも、
それらの岩乗な単位によって組み立てられないものは、ないようになる。
(後略)
*************
そうかぁ、絵画の歴史は悪魔が作ってたのかあ(笑)
キュビズム台頭の描写が真に迫っていて、
100年後ではこういう文章は書けないよなぁと、
妙に感心してしまった。
しかし、
時代は変わって、絵画の流行(傾向?主義?手法?)が変遷していっても、
本質的に素晴らしい作品はそんなものは飛び越えて決して消えることはない。
そこだけは人間を信じたい。
最近ベラスケスに興味津々です。
画集を図書館で借りてきました。
それで、
「本物のベラスケスの絵が見たいよぉ」と呟くたびに、
娘に言われるんですけどね、
「お母さん、見たから!ナショナルギャラリーに何点かあるから!」
「少なくともこれと、これは見てるはず!」
・・・いやぁ、そういわれれば微かに記憶はあるんですけどね、とほほ。
(絵画についてとやかく言う資格なし?)
あれ、ドガは?
ポール・ヴァレリィ著。吉田健一訳。
見るからに古そうな本。
昭和52年に出版された本だった。初版は昭和15年。
娘や息子にこのタイトル読めるかな?
「ドガについて」です。
いい年をした私ですら「あれこれなんて読むの?」と戸惑うことしばし。
でもなかなか興味深い本でした。
晩年のドガに実際にお会いになった方が書かれているのですから、
面白くないはずがない。
ドガの伝記、評伝というよりは、
画家について、絵画について、芸術についての短いエッセイ集。
その中に大変面白い一節があったので忘れないよう書き留めておきます。
「絵画史要略」
(前略)
変化のために変化させる悪魔は、(中略)
世紀から世紀へと、少なくとも百年に一度は、
彼の偉大な、自然への呼び掛けの歌を歌う。
自然への呼び掛けは必ず幾らかの効果をもたらす。
しかし悪魔は自分の廻りに少しばかり人が集まったと見ると早くも姿を消して、
今度は、集まった群衆の一人に姿を変えて、不平を言い始める。
彼は自然も一種の因襲にすぎないことを、
そこかしこと人の耳に囁いて廻る。
そして写実主義に対して印象主義を提唱し、
物体などというものは存在せず、
全ては網膜の作用として表現すべきだと言って歩く・・・・・。
そして絵画は光波のごとく震動し始める。
しかし、多大な努力の結果、
画家が光線の再現に成功するや否や、
悪魔は全てが光線によって征服されたことを嘆き、もはや、
画家の表現する色彩が半音階に並ぶ世界には、
幻影や、ちらちらする木の茂みや、きらめく水溜まりや、建物の影しかなく、
殊に、人間がほとんどいないのは惜しむべきだと言う。
そして、どこか非常に深く、あまり深いので、
そこにしまわれているものの中で最も古いものさえも、
斬新になって表現する場所から、
悪魔は球と、円錐と、円擣と、それから、
最後までとっておいた立方体とを取り出す。
かれはそれらの立体、すなわち小児幾何学者らの玩具によって
全てが築けることを示す。
画家の世界は多面体や円体によって表現出来るものになり、
いかなる胸でも、腿でも、頬でも、馬でも、牝牛でも、
それらの岩乗な単位によって組み立てられないものは、ないようになる。
(後略)
*************
そうかぁ、絵画の歴史は悪魔が作ってたのかあ(笑)
キュビズム台頭の描写が真に迫っていて、
100年後ではこういう文章は書けないよなぁと、
妙に感心してしまった。
しかし、
時代は変わって、絵画の流行(傾向?主義?手法?)が変遷していっても、
本質的に素晴らしい作品はそんなものは飛び越えて決して消えることはない。
そこだけは人間を信じたい。
最近ベラスケスに興味津々です。
画集を図書館で借りてきました。
それで、
「本物のベラスケスの絵が見たいよぉ」と呟くたびに、
娘に言われるんですけどね、
「お母さん、見たから!ナショナルギャラリーに何点かあるから!」
「少なくともこれと、これは見てるはず!」
・・・いやぁ、そういわれれば微かに記憶はあるんですけどね、とほほ。
(絵画についてとやかく言う資格なし?)
あれ、ドガは?