アクターズスタジオにショーン・ペンが登場したときにこの映画のことに触れケヴィン・スペイシーとの短いシーンを見た。こういう映画は日本では公開してくれないんだよな~なんて思っていたら、実は公開されたらしく、DVDの発売が遅れたということらしい。全く知らなかった。ショーン・ペン(好き嫌いは別にして)、ケヴィン・スペイシー、メグ・ライアン、 ロビン・ライト・ペン、チャズ・パルミンテリ、ギャリー・シャンドリング、アンナ・パキンという豪華な出演陣。ハリウッドのキャスティング・ディレクターを主役した映画となれば見たくなるというもの。原作は芝居のためにかかれたものでショーン・ペンは舞台でも演じたらしい。原題の「HURLYBURLY」は「大騒ぎ・混乱」の意味。
感想は.....
上手い役者の演技合戦は確かに見応えアリ。あちこちで化学反応が起き火花が散っている。それは面白いのだが、この作品、一体何が描きたいのでしょう?空っぽな人間の苦悩でしょうか?男と女の違いでしょうか?人生は空しい、空虚なものだということなのでしょうか?ショーン・ペンを中心にした男4人は実に饒舌に上っ面な会話をかわし、クスリを吸い込み、勝手に嘆き、嫉妬し、説教をたれ、時には本質に迫りながらもそれすらもすらっとかわしていく。お互いがお互いをどう思いどう評価しているのかということに執拗にこだわり、勝手に傷つき、人を傷つけていることには気がつきもしない。大切なのは自分だけで何故これほど苦しいのかと吠え立てるだけ。特に印象深かったのは、この人達の女性観。ハリウッドという土地柄からか、少女を友人に捧げものとしてもってきたり、結婚が破綻しかかっているパレミンテリにいたっては「女は感情の生き物で何もわかってない」と気に入らなければ殴りつける。メグ・ライアン、、、、そうメグ・ライアン 誰とでもしちゃう娼婦の役ですよ。これには驚きました。ロビー・ライト・ペンはまともそうにみえて、そうでもないし....
ハリウッドってとこじゃ、女はこんな扱いしか受けられないの?といや~な気持ちになりました。でも、男がどーでもいいようなことをぐちゃぐちゃしゃべっているのに比べると、女は地に足がついているというか......これはこれでいいとこを突いているのかもしれない。だいたいが女の方がずっと率直で正直でやさしいしまともだ。こんなにも共感できない人ばかりに集まられても困るって。特に主役のショーン・ペンが演じた男。彼のねちっこい芝居も加わってか、言っていること全てが空虚で白々しく、「あんたの苦悩は全てあなたの空虚な生き方のたまものでしょうが!」と首根っこをつかまえて揺さぶってやりたくなった。でも映画を見おわってふと我に返ると、その空虚さはショーン・ペンの専売特許というわけでもなく、もしかしたら同じ時代を生きる私たちにもどこか似通ったところがあるのかもしれないと気づき慄然とした。言葉で人をやりこめたい願望や、自分が空っぽだから人に八つ当たりしたい願望や、孤独をおそれるあまりうわっぺらだけでも人とつきあいたい願望や、もしかしたら現代特有の何かを描き出したのがこの作品なのかもしれない。
それともうひとつ、字幕でみるのと、原語だけで見るのとは、この映画の場合微妙なズレがでるかも。ニュアンスのズレというか。こういう言葉が命のような作品には彼らの言っていることをダイレクトに理解できないことは作品を理解するためのハンディになるような気がした。それくらい台詞が書き込まれている。
感想は.....
上手い役者の演技合戦は確かに見応えアリ。あちこちで化学反応が起き火花が散っている。それは面白いのだが、この作品、一体何が描きたいのでしょう?空っぽな人間の苦悩でしょうか?男と女の違いでしょうか?人生は空しい、空虚なものだということなのでしょうか?ショーン・ペンを中心にした男4人は実に饒舌に上っ面な会話をかわし、クスリを吸い込み、勝手に嘆き、嫉妬し、説教をたれ、時には本質に迫りながらもそれすらもすらっとかわしていく。お互いがお互いをどう思いどう評価しているのかということに執拗にこだわり、勝手に傷つき、人を傷つけていることには気がつきもしない。大切なのは自分だけで何故これほど苦しいのかと吠え立てるだけ。特に印象深かったのは、この人達の女性観。ハリウッドという土地柄からか、少女を友人に捧げものとしてもってきたり、結婚が破綻しかかっているパレミンテリにいたっては「女は感情の生き物で何もわかってない」と気に入らなければ殴りつける。メグ・ライアン、、、、そうメグ・ライアン 誰とでもしちゃう娼婦の役ですよ。これには驚きました。ロビー・ライト・ペンはまともそうにみえて、そうでもないし....
ハリウッドってとこじゃ、女はこんな扱いしか受けられないの?といや~な気持ちになりました。でも、男がどーでもいいようなことをぐちゃぐちゃしゃべっているのに比べると、女は地に足がついているというか......これはこれでいいとこを突いているのかもしれない。だいたいが女の方がずっと率直で正直でやさしいしまともだ。こんなにも共感できない人ばかりに集まられても困るって。特に主役のショーン・ペンが演じた男。彼のねちっこい芝居も加わってか、言っていること全てが空虚で白々しく、「あんたの苦悩は全てあなたの空虚な生き方のたまものでしょうが!」と首根っこをつかまえて揺さぶってやりたくなった。でも映画を見おわってふと我に返ると、その空虚さはショーン・ペンの専売特許というわけでもなく、もしかしたら同じ時代を生きる私たちにもどこか似通ったところがあるのかもしれないと気づき慄然とした。言葉で人をやりこめたい願望や、自分が空っぽだから人に八つ当たりしたい願望や、孤独をおそれるあまりうわっぺらだけでも人とつきあいたい願望や、もしかしたら現代特有の何かを描き出したのがこの作品なのかもしれない。
それともうひとつ、字幕でみるのと、原語だけで見るのとは、この映画の場合微妙なズレがでるかも。ニュアンスのズレというか。こういう言葉が命のような作品には彼らの言っていることをダイレクトに理解できないことは作品を理解するためのハンディになるような気がした。それくらい台詞が書き込まれている。