大学教師がこういう赤裸々告白本を書いた勇気に拍手すべきなのか、奇を衒ったトンデモ本と酷評すべきなのか。もちろんわたしは前者の側なのだが、毀誉褒貶が激しくわかれそうな、あるいはまたまったく無視される可能性も高い本だ。
男のセクシャリティを一人称で語りその問題点をえぐるという試みは、自己を深く洞察するその刃がそのまま読者にも鋭く突きつけられることを意味する。「私はこうだ。あなたはどうなんだ?」という問いかけにたじろぐ読者も多いのではないか。著者の真面目な問いに真摯に対峙しようとすればするほど読者もまた痛みを感じてしまう。
ロリコンや制服フェチなどの現代の病理を分析し、性犯罪を抑止しようという森岡さんの試みは、「なぜ私は」少女に欲情し制服を偏愛するのかを自問自答することから始まる。そして、自分自身についてのケーススタディを一般化できないと断りつつ、かなりの割合でロリコン男に共通の心理が働いているのではないかと帰納する。
なぜ学校の制服に欲情するのか、なぜスチュワーデスやOLの制服ではないのか、と森岡さんは推理と分析を進める。そして、ロリコンや制服フェチの病巣がどこにあるのかを探っていく過程はスリリングでぐっと読ませるものがある。
本書の大部分を貫く「不感症男」としての自己否定感・悲壮感は、わたしの同情をそそってしまう。読んでいるうちにどんどん森岡さんがかわいそうになってくるのだ。森岡さんは自分自身を対象に分析を進めるため、読者は男一般への同情や驚異よりむしろ、森岡正博その人への興味や同情を強くしてしまう。
著者によれば、若い頃の性的劣等感や不快感が「自分のからだを愛せない男」をつくってしまい、その気持ちは「感じる女」への嫌悪感にまで結びついてしまうという。森岡さんが大学に入って最初に受けた性的アプローチはゲイの男性からだった。以降、しばしばゲイの男性から「狙われる存在」である自分に恐怖と嫌悪を感じ、自己改造を試みる。狙われる男から狙う男へ。マッチョな男への変身。こうしてできた「感じない男」。これがいま、レイプや少女買春などさまざまな歪みを社会の中にもたらしているという。
「感じない男」とは、「男の不感症」や「自己否定」を自分の中に隠し持っておりながら、そのこからできるだけ目をそらそうとし、あたかもそんなものは存在しないかのようにふるまっている男のこと(p158)
不感症とはつまり、「小便のような射精とそのあとの空虚な感じ」(p161)に陥る感覚のことだ。射精のあと、セックスの昂奮もあっという間に冷めて空しい気持ちに陥ってしまうこと。女性に比べてほとんどなんの快感も性交からは得ていない。排泄と同じくらいの気持ちよさしかない、という。
こういう本を読むとついつい世のすべての男性に訊いてみたくなる、「あなたは不感症ですか」と。自分を等閑視しない著者の態度がそうさせるのだろう、やはり男の読者は自分に引きつけて読むようだ。たとえば曽根朗さんも本書を読みながらご自分の性体験を振り返ってしまったという。
惜しむらくはこの本にユーモアが欠けていることだ。読みやすくて軽い本であるにもかかわらず、内容は決して軽くももちろん明るくもない。自身のセクシャリティを笑い飛ばせる余裕が森岡さんにあれば、と思う。もう不感症であることを悩まない、そんなことを気にしないというところまでやっとたどり着いたという著者にそこまで求めるのは酷なのだろうが、もし森岡さんが不感症を笑えるようになったら、わたしも遠くから密かに一緒に笑ってあげたい。そんな気持ちにさせる読後感のある本だ。
夫にも一読を薦めたところ、「よくこんな本を書いたなあ」と感心していたが、ときどき「あはは」と声を出して笑うので、不審に思った。わたしはこんなに著者が悩みながら書いた本を読んで笑う人がいるなんて不思議だったのだが、夫は冷めた目で見ているから笑えるみたい。
いずれにしても、この分野の分析はいま始まったばかり、という気がする。森岡さんの分析が正しいのかどうかは専門家がこれから批評してくれるだろうが、これを読む素人の女性であるわたしは、「不感症男」がかわいそうだと思う反面、そんなことで女を憎むなよ、とも思うし、もっといえば、「女だって不感症なんだよ、ほんとは」と教えてあげたい。
感じてるフリをしている女性はいくらでもいるだろうし、感じないでおこうと思えばいくらでも感じないでセックスするのは可能だし。そんなものは自己暗示なんだと思うけど……
それにしてもセックス。たかがセックス。もっと軽く考えられないのかなあ、すごく不思議だ。この本の内容はいま読書中のフーコー『性の歴史』第1巻をどうしても想起させる。性にまつわる言説は権力の本質に関係する。だからこそ、たかがセックスなのに、されどセックスなのだ。
引き続き考えてみたい。
男のセクシャリティを一人称で語りその問題点をえぐるという試みは、自己を深く洞察するその刃がそのまま読者にも鋭く突きつけられることを意味する。「私はこうだ。あなたはどうなんだ?」という問いかけにたじろぐ読者も多いのではないか。著者の真面目な問いに真摯に対峙しようとすればするほど読者もまた痛みを感じてしまう。
ロリコンや制服フェチなどの現代の病理を分析し、性犯罪を抑止しようという森岡さんの試みは、「なぜ私は」少女に欲情し制服を偏愛するのかを自問自答することから始まる。そして、自分自身についてのケーススタディを一般化できないと断りつつ、かなりの割合でロリコン男に共通の心理が働いているのではないかと帰納する。
なぜ学校の制服に欲情するのか、なぜスチュワーデスやOLの制服ではないのか、と森岡さんは推理と分析を進める。そして、ロリコンや制服フェチの病巣がどこにあるのかを探っていく過程はスリリングでぐっと読ませるものがある。
本書の大部分を貫く「不感症男」としての自己否定感・悲壮感は、わたしの同情をそそってしまう。読んでいるうちにどんどん森岡さんがかわいそうになってくるのだ。森岡さんは自分自身を対象に分析を進めるため、読者は男一般への同情や驚異よりむしろ、森岡正博その人への興味や同情を強くしてしまう。
著者によれば、若い頃の性的劣等感や不快感が「自分のからだを愛せない男」をつくってしまい、その気持ちは「感じる女」への嫌悪感にまで結びついてしまうという。森岡さんが大学に入って最初に受けた性的アプローチはゲイの男性からだった。以降、しばしばゲイの男性から「狙われる存在」である自分に恐怖と嫌悪を感じ、自己改造を試みる。狙われる男から狙う男へ。マッチョな男への変身。こうしてできた「感じない男」。これがいま、レイプや少女買春などさまざまな歪みを社会の中にもたらしているという。
「感じない男」とは、「男の不感症」や「自己否定」を自分の中に隠し持っておりながら、そのこからできるだけ目をそらそうとし、あたかもそんなものは存在しないかのようにふるまっている男のこと(p158)
不感症とはつまり、「小便のような射精とそのあとの空虚な感じ」(p161)に陥る感覚のことだ。射精のあと、セックスの昂奮もあっという間に冷めて空しい気持ちに陥ってしまうこと。女性に比べてほとんどなんの快感も性交からは得ていない。排泄と同じくらいの気持ちよさしかない、という。
こういう本を読むとついつい世のすべての男性に訊いてみたくなる、「あなたは不感症ですか」と。自分を等閑視しない著者の態度がそうさせるのだろう、やはり男の読者は自分に引きつけて読むようだ。たとえば曽根朗さんも本書を読みながらご自分の性体験を振り返ってしまったという。
惜しむらくはこの本にユーモアが欠けていることだ。読みやすくて軽い本であるにもかかわらず、内容は決して軽くももちろん明るくもない。自身のセクシャリティを笑い飛ばせる余裕が森岡さんにあれば、と思う。もう不感症であることを悩まない、そんなことを気にしないというところまでやっとたどり着いたという著者にそこまで求めるのは酷なのだろうが、もし森岡さんが不感症を笑えるようになったら、わたしも遠くから密かに一緒に笑ってあげたい。そんな気持ちにさせる読後感のある本だ。
夫にも一読を薦めたところ、「よくこんな本を書いたなあ」と感心していたが、ときどき「あはは」と声を出して笑うので、不審に思った。わたしはこんなに著者が悩みながら書いた本を読んで笑う人がいるなんて不思議だったのだが、夫は冷めた目で見ているから笑えるみたい。
いずれにしても、この分野の分析はいま始まったばかり、という気がする。森岡さんの分析が正しいのかどうかは専門家がこれから批評してくれるだろうが、これを読む素人の女性であるわたしは、「不感症男」がかわいそうだと思う反面、そんなことで女を憎むなよ、とも思うし、もっといえば、「女だって不感症なんだよ、ほんとは」と教えてあげたい。
感じてるフリをしている女性はいくらでもいるだろうし、感じないでおこうと思えばいくらでも感じないでセックスするのは可能だし。そんなものは自己暗示なんだと思うけど……
それにしてもセックス。たかがセックス。もっと軽く考えられないのかなあ、すごく不思議だ。この本の内容はいま読書中のフーコー『性の歴史』第1巻をどうしても想起させる。性にまつわる言説は権力の本質に関係する。だからこそ、たかがセックスなのに、されどセックスなのだ。
引き続き考えてみたい。