ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

大江健三郎の文体

2001年05月01日 | 読書
 私は大江健三郎の小説はほとんどすべて読んでいる。 特に初期のころの作品は評論も含めてすべて読了している。

 大江の作品では「万延元年のフットボール」が最も気に入っているが,「ピンチランナー調書」以降の作品は魅力に乏しいと感じていた。

 もともと学生からそのまま作家になった人物だから,小説には一般人の生活臭が感じられないし,そこがまた作家の内面の豊かさをおそらく本人の力量以上に引き出してきた力なのだと思う。 ところが「個人的な体験」以降はその傾向があまりにも甚だしく,極私的な世界にはまりこんでしまってそこから普遍化への道筋が拓かれていないと感じた(ただし、本作は深い感動を呼ぶ作品であった)。障害のある息子との対話を通してヒューマニズムの普遍性を獲得し,外界へと昇華させる小説手法なのかも知れないが,いまいちのめりこむようなおもしろさが感じられなかった。

 それは,文体にも表れている。大江の,あの英文直訳のような文体,およそ美文調とはほど遠い蛇のようなひねくれた文体は,斬新な魅力に溢れていた。だがその文体のもつ魅力が徐々に薄れてきたように感じたのは,その妙ちくりんな文体に私が馴れてしまったせいだと思っていたが,最新作「チェンジリング」を読んで腑に落ちた。

 彼は小説を書き始めた頃は翻訳本を盛んに読んでいたが、あるときから原書ばかり読むようになったらしい。そのころから、彼の作品からキラキラしたものがなくなり、「風変わりなほど新しい表現」や「なにか突拍子もないおかしさ」が消えたのだと。大江自身の作品を読んで、文体変化の理由が納得できた。やはり、「円熟」などではなく、私には陳腐化と映る変化である。