2001年05月11日
第124回芥川賞候補作。
京都の米屋を舞台に、祖父、父、息子3代の生き様が語られる。息子の一人称による、自殺した父への鎮魂歌という趣がある作品だ。
作家黒川創の来し方を彷彿させる物語である。
確かに、芥川賞受賞作に比べると冗長感を否めない。しかし、ここに語られる作家の内奥の豊かさは受賞2作品に比して、決して劣ってはいない。否、「聖水」よりは受賞に値すると感じたのだが。
実は黒川創の作品を読むのは初めてだ。本人を知っているだけに、先入観なしに読む自信がなく、これまで読まずにいたのだった(彼の思い出は近々書こう)。
彼の文は読点を多用し、ぶつぶつと区切れていて、大江健三郎の小説を読んだ後では少々読みづらい。テーマは限りなく大きく広い。彼は日本近現代史を総括しようとしているようだ。あまりにも書きたいことが多すぎて、未消化になっている。テーマをもっと絞れば引き締まった作品になっただろう。芥川賞も受賞できたかもしれない。
だが、彼が「もどろき」の中で小出しにしたテーマの数々はこれから大きく膨らんで、大河小説へと花開く期待を抱かせる。
デッド・メールという「不存在の実在」が投げかける波紋。私もいつも思うこと。世界中の悲哀と憤怒の総和のエネルギーが不存在といえるだろうか? 人が死ぬ瞬間に激しく包まれた、慚愧と恐怖と憎悪の念波がこの宇宙から霧散してしまうなんて、信じられるだろうか? 人がその一生に抱えた数限りない思いはどこへ? いったいどこへ? あの悲しみも、あの苦しみも、いったいどこへ? 「デッド・レター」というキーワードは、私の心の襞に触れた。
そしてやっぱり本作にもきら星の言葉の数々が。
「ふつう、人は愛についてなど考えない。…愛というものについて考えるのは、愛についての知識人であって、ふつうの人は愛そのものを、もしくは、愛そのものの破滅を生きている。」 etc…
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「もどろき」
(黒川創著 新潮社 2001年)
第124回芥川賞候補作。
京都の米屋を舞台に、祖父、父、息子3代の生き様が語られる。息子の一人称による、自殺した父への鎮魂歌という趣がある作品だ。
作家黒川創の来し方を彷彿させる物語である。
確かに、芥川賞受賞作に比べると冗長感を否めない。しかし、ここに語られる作家の内奥の豊かさは受賞2作品に比して、決して劣ってはいない。否、「聖水」よりは受賞に値すると感じたのだが。
実は黒川創の作品を読むのは初めてだ。本人を知っているだけに、先入観なしに読む自信がなく、これまで読まずにいたのだった(彼の思い出は近々書こう)。
彼の文は読点を多用し、ぶつぶつと区切れていて、大江健三郎の小説を読んだ後では少々読みづらい。テーマは限りなく大きく広い。彼は日本近現代史を総括しようとしているようだ。あまりにも書きたいことが多すぎて、未消化になっている。テーマをもっと絞れば引き締まった作品になっただろう。芥川賞も受賞できたかもしれない。
だが、彼が「もどろき」の中で小出しにしたテーマの数々はこれから大きく膨らんで、大河小説へと花開く期待を抱かせる。
デッド・メールという「不存在の実在」が投げかける波紋。私もいつも思うこと。世界中の悲哀と憤怒の総和のエネルギーが不存在といえるだろうか? 人が死ぬ瞬間に激しく包まれた、慚愧と恐怖と憎悪の念波がこの宇宙から霧散してしまうなんて、信じられるだろうか? 人がその一生に抱えた数限りない思いはどこへ? いったいどこへ? あの悲しみも、あの苦しみも、いったいどこへ? 「デッド・レター」というキーワードは、私の心の襞に触れた。
そしてやっぱり本作にもきら星の言葉の数々が。
「ふつう、人は愛についてなど考えない。…愛というものについて考えるのは、愛についての知識人であって、ふつうの人は愛そのものを、もしくは、愛そのものの破滅を生きている。」 etc…
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「もどろき」
(黒川創著 新潮社 2001年)