「死」について考えるといっても、わたしにはそれを宗教的・哲学的に深めることなど手に余る。別に深く静かに熟考したわけではない。
ただ、ランチを食べながら内田樹さんの仏教入門書『いきなりはじめる浄土真宗』を読んでいて、感応したのが「死はこわいか」というくだりだった、というに過ぎない。
本書は毎度おなじみ内田センセイと浄土真宗の住職釈徹宗さんとの往復書簡集だ。続編『はじめたばかりの浄土真宗』と同時発売になった。
その中で、内田さんは子どもの頃、異様に「死」が怖かったという経験を書いておられる。森岡正博さんも同じようなことを繰り返し書いておられるし、長じて哲学者になるような人はきっとそういう経験を経てきているのだろう。たぶん、それは哲学者の卵だけではない。わたしも子どもの頃、死ぬことが怖く怖くて、それこそ死にそうに恐ろしかったものだ。
小学4年生のとき、自由テーマの作文を宿題に課されたことがある。ほかの子どもたちが子どもらしい夢やちょっとした日常雑記ふうのことを無邪気に書いていたのに、わたしだけが「わたしは「死」について考えると夜も眠れません」と書いていたのだ。わたしはそのことをひどく恥じた。
その頃、わたしの悩みは不眠だった。ほんとうに死ぬのが怖くて夜も眠れなかったのだ。そのまま死んだらどうしよう、目が覚めなかったら……と思うと身体が凍りついたようになり、みぞおちの辺りが冷たくなったものだ。自分が「死」にとらわれていることが「子どもらしくない」と感じたわたしは、なぜ自分がほかの子どもと同じではないのかと忸怩たる思いでいっぱいだった。
自分がいなくなった後も世界は存在し続けるという怖さ、自分の存在が何もなくなるという無限の世界に落ちる怖さにさいなまれていたその頃から思えば、今はそれほど「死」が恐ろしくはない。むしろ、もし不死の力を与えられたりしたら、そのほうが怖いと思う。死なない人生なんていやだ。もちろん、今はまだ死にたくないけどね。
内田さんは、人間は歳とともに死ぬ練習をするという意味のことを書いておられる。だんだん死に対して免疫ができてきて、最後は「あ、もういいかな」って感じになれるみたいな。それはそのとおりだという気がする。それと、死が怖くなくなったのは、子どもが生まれたときだとも書いておられた。これもとてもよくわかる。
山寺のご住職(おしょうさん)はブログ「方丈」で「死が本当に怖がられる所以は、「だれもが必ず死ぬ」ことにあるのではなくて、「いつ死ぬかわからない」ことにあります」と書いておられる。まったくしかり。では、いつ死ぬかわかれば怖くないのだろうか?
わたしは、自分の死については受け入れられると思っている。いつ死ぬかさえちゃんとわかっていれば、それほど怖くはない。でもいきなり「明日の3時です」とか言われたら激しく動揺するけど。
それより、受け入れがたいのは愛する者の死だ。とりわけわが子の死。これだけはとうてい受け止めることはできそうにない。では、まったき遠い他者の死はどうでもいいのか? と問われれば、「そう」とも言えるし「違う」とも言える。どんなに遠い地の人々の死でも、それが戦争や犯罪による死なら、つらいことだと思うし、避けられる死だと思うからこそ、避けるだけの英知を働かせるべきだと考える。
以前、「ピピのシネマな日々」に「誰かの死について考えることができるなら、それはその人を愛しているということだ」という意味のことを書いた。わたしは最近よく身近な人々の「死」について考える。愛する人たちが死んでいく様子がリアルに想像できる。そのときに感じるであろうわたしの悲しみ・喪失感が現在のわたしに流れ込んできてわたしを泣かせる。未来の悲しみに涙するとき、わたしはその人を愛していると実感する。
自分の死よりも、愛する人々の死のほうが恐ろしい。そう感じられるぐらいに歳はとったようだ。
そして、愛する人との別れを覚悟しつつ生きていかねばならないというつらい日々を、わたしなら耐えられるだろうか。病とともにある我が子に向き合う親の心中やいかばかりか。
<書誌情報>
いきなりはじめる浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著. 本願寺出版社, 2005 (インターネット持仏堂 ; 1)
ただ、ランチを食べながら内田樹さんの仏教入門書『いきなりはじめる浄土真宗』を読んでいて、感応したのが「死はこわいか」というくだりだった、というに過ぎない。
本書は毎度おなじみ内田センセイと浄土真宗の住職釈徹宗さんとの往復書簡集だ。続編『はじめたばかりの浄土真宗』と同時発売になった。
その中で、内田さんは子どもの頃、異様に「死」が怖かったという経験を書いておられる。森岡正博さんも同じようなことを繰り返し書いておられるし、長じて哲学者になるような人はきっとそういう経験を経てきているのだろう。たぶん、それは哲学者の卵だけではない。わたしも子どもの頃、死ぬことが怖く怖くて、それこそ死にそうに恐ろしかったものだ。
小学4年生のとき、自由テーマの作文を宿題に課されたことがある。ほかの子どもたちが子どもらしい夢やちょっとした日常雑記ふうのことを無邪気に書いていたのに、わたしだけが「わたしは「死」について考えると夜も眠れません」と書いていたのだ。わたしはそのことをひどく恥じた。
その頃、わたしの悩みは不眠だった。ほんとうに死ぬのが怖くて夜も眠れなかったのだ。そのまま死んだらどうしよう、目が覚めなかったら……と思うと身体が凍りついたようになり、みぞおちの辺りが冷たくなったものだ。自分が「死」にとらわれていることが「子どもらしくない」と感じたわたしは、なぜ自分がほかの子どもと同じではないのかと忸怩たる思いでいっぱいだった。
自分がいなくなった後も世界は存在し続けるという怖さ、自分の存在が何もなくなるという無限の世界に落ちる怖さにさいなまれていたその頃から思えば、今はそれほど「死」が恐ろしくはない。むしろ、もし不死の力を与えられたりしたら、そのほうが怖いと思う。死なない人生なんていやだ。もちろん、今はまだ死にたくないけどね。
内田さんは、人間は歳とともに死ぬ練習をするという意味のことを書いておられる。だんだん死に対して免疫ができてきて、最後は「あ、もういいかな」って感じになれるみたいな。それはそのとおりだという気がする。それと、死が怖くなくなったのは、子どもが生まれたときだとも書いておられた。これもとてもよくわかる。
山寺のご住職(おしょうさん)はブログ「方丈」で「死が本当に怖がられる所以は、「だれもが必ず死ぬ」ことにあるのではなくて、「いつ死ぬかわからない」ことにあります」と書いておられる。まったくしかり。では、いつ死ぬかわかれば怖くないのだろうか?
わたしは、自分の死については受け入れられると思っている。いつ死ぬかさえちゃんとわかっていれば、それほど怖くはない。でもいきなり「明日の3時です」とか言われたら激しく動揺するけど。
それより、受け入れがたいのは愛する者の死だ。とりわけわが子の死。これだけはとうてい受け止めることはできそうにない。では、まったき遠い他者の死はどうでもいいのか? と問われれば、「そう」とも言えるし「違う」とも言える。どんなに遠い地の人々の死でも、それが戦争や犯罪による死なら、つらいことだと思うし、避けられる死だと思うからこそ、避けるだけの英知を働かせるべきだと考える。
以前、「ピピのシネマな日々」に「誰かの死について考えることができるなら、それはその人を愛しているということだ」という意味のことを書いた。わたしは最近よく身近な人々の「死」について考える。愛する人たちが死んでいく様子がリアルに想像できる。そのときに感じるであろうわたしの悲しみ・喪失感が現在のわたしに流れ込んできてわたしを泣かせる。未来の悲しみに涙するとき、わたしはその人を愛していると実感する。
自分の死よりも、愛する人々の死のほうが恐ろしい。そう感じられるぐらいに歳はとったようだ。
そして、愛する人との別れを覚悟しつつ生きていかねばならないというつらい日々を、わたしなら耐えられるだろうか。病とともにある我が子に向き合う親の心中やいかばかりか。
<書誌情報>
いきなりはじめる浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著. 本願寺出版社, 2005 (インターネット持仏堂 ; 1)