ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

フーコー入門書読み比べ(3)

2005年06月12日 | 読書
本書は「入門書」というようなヤワなものではないのだが、いちおう、フーコー入門書の一つに挙げておく。間違ってもこの本からまず読み始めようなどと思わないように。フーコーの本を何冊か読んだ後に手にとってくださりませ。

 本書は、1991年に東大で開かれた国際シンポジウムの記録だ。といっても、講演録ではなく、あらかじめ用意されていた原稿をもとに事後、手を入れて編まれたものなので、講演録というよりは「論文集」だ。

 このシンポジウムは英語とフランス語だけで行われたという。すごいね、日本でそんなシンポジウムをやっていったい何人集まるのか? 何人が理解したんだろう、しかもこんな難解な内容なのに。シロートは門前払いという感じのするシンポジウムだねぇ。

 というわけで、日本人の報告も全部フランス語でやっているもんだから、蓮実重彦の論文は原文がフランス語で、他の人が日本語訳しているのだ。読みにくさにおいては人後に落ちない蓮実の文章も日本語訳で読むと読みやすくなる。いいね、これ。蓮実先生、全部フランス語で書いたら?
 
 で、これは論文集なので、興味のあるところだけをつまみ食いしようと思って読み始めたのだが、どれもこれもおもしろいもんだから、半分以上読んでしまった。どころか、二、三回読み直したものもある。

 内容をいちいち紹介していると長くなるので目次を挙げておく。気になった部分だけメモまたは引用しているのでご参考までに。


◆言説の軌跡 渡辺 守章著

 日本においてフーコーはどのように読まれてきたか、フーコーの著作がどのように年を追って翻訳されてきたか、フーコー受容のクロニクル。

 フランスの「フーコー・センター」がミシェル・フーコーの全著作およびその関連書を集めているのだが、世界中で発行されたフーコーの著作の最大の出版国が日本だそうな。すごい。考えれば、もったいない話だ。日本語で出された著作は日本人しか読まない。60億人のうち、読めるのは1億2千万人だけなんて。
 で、名著の誉れ高い『言葉と物』は日本語で読むのはきわめて困難な書物だそうで、フランス語で読まないとわからないんだって。やっぱり!


◆日本の思想風土とM・フーコー 中村 雄二郎著

 フーコーの関心は時期を追って三つにわけられる。「知」→「権力」→「道徳」。あるいはそれを「真理」→「政治」→「倫理」と言い換えてもいい。

 フーコーがその生涯を通じてなによりもこだわり続けてきたのは、〈理性〉とくに〈近代理性〉の問題であった。ただし、その理性批判を彼は、カントや、『弁証法的理性批判』を書いたサルトルとはまったく違ったやり方で行った。フーコーは、理性には非理性あるいはlきょうきを対置することで、理性をその根底の言語あるいは言説(ディスクール)から問いなおし、理性の名による秩序づけや分割の持つ欺瞞性を明らかにしたのであった。(p34)

 彼は、言述の生産を統御し、選択し、組織化し、配分する手続きを問題にし、それを次の三つの〈排除〉から成るものとしている。
 まず第一に、もっとも身近な排除の原理は〈禁止〉であり、今日それがはっきりあらわれているのはセックスと政治についての言説である。次に、第二の排除の原理としては、〈分割〉、つまり正常人と狂人との分割がある。しかし、それら以上に重要な排除の原理は、第三の、〈真実と虚偽との対立〉によるものである。ここに問題になる真実と虚偽との対立というのは、歴史的に構成されたものであり、人間の文化に根深い〈真理への意志〉にもとづいている。これは、明らかに歴史的相対性を持った〈真なる言述〉を生み出すものであり、真理や真実の名による絶対化という欺瞞性を持ちながらも、なかなかそういうものとして見ぬかれにくい。(p38)


 日本の思想風土は、真や善よりも〈美〉が優越する。「美的なものはつまりは感覚的なものであり、感情的なものであるから、美的態度が優先し美意識が判断基準となっている精神風土では、……<中略>……人間は自己と自然とを区別したかたちで明確に自己認識することができな」い。「〈感情的自然主義〉のつよい日本の思想風土において、社会規範の現実かされた形態である〈制度〉を通しての自己認識、つまり自己自身の客体化を通しての自己認識が乏しいということである」。



◆フーコーと日本 柄谷 行人著

フーコーは日本についてほとんど何も書いていない。それは、フーコーにとって表象としての「日本」は好ましいものではなかったからだ。
 フーコーにとって好ましいのは「アメリカ」だった。もちろん、表象としてのアメリカである。実際にフーコーがアメリカに住んだら失望したに違いない。フーコーがアメリカを好んだ理由の一つは「同性愛」が許容されているからだ。
 
 もちろん、これは同性愛だけの問題ではない。フーコーは、実際に生の形態を変える可能性があるということに「自由」を見いだしたのである。彼は「自由」を形而上学的に捉えることを拒否した。「自由」は、現実を無化する内面性でもなければ、あらゆる抑圧からの解放でもない。その意味で、フーコーは「世俗的」であり、また「政治的」であった。(p47)

 フーコーが破ろうとしてきたのは、一言でいえば、中心としての権力という概念である。それは現実に存在することがありえないのに、つねにそれがあるかのように表象されている。この観念は、中心的な権力を奪取することに帰結し、事実集権的な権力を作り出す。さらに、権力が中心にあるという考えでは、現に局所的に生じている矛盾に対する闘争をそれ自体認めないで、中心的なものに従属させることになる。実際には、矛盾はいつも局所的な「出来事」なのだ。全体を透過しているような中心的権力はない。どんな全体主義国家でさえもそうだ。それは、たんに、不意打ちのように起こってくる局所的な諸矛盾や破綻に、何らかの統一的な「意図」を想定してそれを排除することになるだけである。(p50)


 フーコーは、こうした装置(知=権力)以外のところに、自己あるいは自由を見ようとしたのだということができる。
 観点を変えていえば、フーコーの指摘は、自由主義と民主主義の問題につながっている。たとえば、「表現の自由」は、しばしば誤解されているのだが、発言する自由よりも、沈黙する自由にかかわっている。民主主義は、カール・シュミットがいったように、成員の同質性を前提とするものであり、異質な者を排除する。全体主義は民主主義と対立するものではない。……牧人型権力においては、すべての者が告白=評現せねばならず、そのことによって自由な主体となる。その意味で、基本的に、民主主義は、牧人型権力に由来する。しかるに、自由主義は、いわば、告白しない自由、救済を拒む自由にかかわっている。それはけっしてキリスト教からは来ない。(p52)

 柄谷はいう。「権力は下から来る」
 われわれが警戒すべきなのは、支配し抑圧するよりも、個々人をめざす救済する権力、あるいは、それを求める「奴隷」の思想である、と。

 日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。

 ………

 日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられることに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。
(p56)

 ※本書のなかで、柄谷の論文がもっともおもしろく興味深かった。


◆事物の秩序について ヒューバート・L・ドレイファス著 大河内 昌訳


◆純粋と危険 ポール・ラビノウ著 大西 洋一訳


◆フーコー、ハイデガー、そして《古代》 バルバラ・カッサン著 本間 邦雄訳


◆歴史性の理論の「前史」 石田 英敬著


◆絶対的不毛を生きること 丹生谷 貴志著


◆フーコーとラカンにおける主体の概念 スラヴォイ・ジジェク著 浜名 恵美訳

 ジジェクは何を言っているのかさっぱりわからない。前半はブレヒトの教育劇「イエスマン」と「処置」をとりあげてラカン的解釈を披瀝するのだが、そこからフーコーのラカン批判へとつながる部分がよくわからない。
 ラカン、フーコー、カント、とつながるジジェクの論が、再読しないと理解不能。

 ま、要するにラカンとフーコーの主体の概念はそれほど違っていないと言いたいらしいのだが。わたしってやっぱりアホ(汗)

◆「無の眼差しと光輝く身体 小林 康夫著

◆フーコー ジュディット・ルヴェル著 根本 美作子訳


◆バタイユとフーコーにおける限界の観念についてのノート ブリュノ・カルサンティ著 酒井 健訳

 これはなかなかおもしろかった。来るべきバタイユ月間に再読の予定。


◆言葉とイマージュ ダニエル・ドゥフェール著 中野 知律訳

 これもおもしろかった。『言葉と物』を題材に語られているのだが、こういうのを読むとますます『言葉と物』を読みたくなる。

 ドゥフェールはここでバタイユに言及する。バタイユの『マネ論』をとりあげ、一見フーコーがバタイユに同意しているようにみえて、実はかなり異なっている、という結論に導く。
 バタイユは芸術の至高性、画家の絶対性を表明していたのに対して、フーコーは画家の「不在」を見た。

 描いているのは誰なのか? 絵画である。まさしく、マネの友人マラルメも、語っているのは誰か? という問いに、答えていたではないか――それは言葉である、と。(p232)


◆「啓蒙とはなにか」 クリストファー・ノリス著 荒木 正純訳 田尻 芳樹訳

 カントとフーコー。
 フーコーは紆余曲折を経て、カント的世界へと近い付いたのだろうか? フーコーはポストモダン的発想には反対していた。かつては彼も与していたかもしれない、その「イデオロギーの終焉」を嬉々として受容する態度とは一線を画した。

 これも再読のこと。


◆フーコーの政治学 ジェームズ・ミラー著 柴田 元幸訳


◆フーコーを超えて・フーコーのスタイル ハンス・ウルリッヒ・グムブレヒト著 大橋 洋一訳


◆古典主義時代のエピステーメーと『ポール=ロワヤル論理学』の記号論
塩川 徹也著

◆その先のヘーゲル 高田 康成著


◆「考古学」と「根源的歴史学」 ジョゼフ・フュルンケース著 酒井 健訳


◆フーコーと十九世紀 蓮実 重彦著 根本 美作子訳

 フーコーは「近代」という語を使うとき、大いにためらったことが読み取れる、というのが蓮実の読解だ。「古典主義」という言葉がいとも簡単に使われているのに対して、「近代」という言葉は自己規制的に使用されている。「近代」という言葉は、暫定的な形か否定的な形でしか使用されていないのだ。

 多くの「近代」の理論家には、彼らの思考の内部における無知の核を意識するだけの理解力が欠けている。この無知こそ彼らの知にとって不可欠な条件であったはずにもかかわらず。……「近代」という歴史的概念を無分別に使うことは、思考の存在自体をそのイマージュとすり替え、「近代化」された理性主義の形でその形而上学を永続させる危険を孕んでいるであろう。(p362-363)

 フーコーにとって、「ポスト・モダン」という問題は存在しない。「近代」の問題でさえ、すたれた、時代錯誤的な記号として否定されているのである。フーコー的考古学においては、現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の徴候もないのである。「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、それらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。(p364) 
 


<書誌情報>

 ミシェル・フーコーの世紀 / 蓮実重彦, 渡辺守章編. -- 筑摩書房, 1993

Posted by pipihime at 20:07 │Comments(5) │TrackBack(0)